第百十四話 砲声の府内
大友隼人について、文献がありませんでした。
今回の設定として、大友義鎮の実の弟、
大友義鑑の正室の子という設定にしております。
府内に、轟音が満ちていた。
太鼓ではない。
鬨でもない。
鐘でもない。
大筒である。
海の方から、腹の底を叩くような音が響く。
空気が遅れて震え、続いて府内館のどこかが崩れる音がした。
吉岡長増は、板敷の上で膝をついたまま、その音を聞いていた。
またか。
そう思った時には、もう天井から土埃が落ちていた。
庭にいた小者が悲鳴を上げる。
奥からも、押し殺したような女房衆の声が聞こえた。
廊下を走る足音が増える。
「騒ぐな!」
長増は声を張った。
その一喝で、近くの者たちは一度止まった。
だが、止まっただけだ。恐怖までは消えない。
長増にも分かっていた。
これは、声で抑えられる恐怖ではない。
府内館は、すでに館の形を失いつつあった。
外塀の一部は崩れている。
港に近い櫓は、朝のうちに砕かれた。
蔵の一つは火を噴き、兵が水をかけている。消えたと思えば、また別の場所から煙が上がる。
門はまだ立っている。
だが、横の壁は大きく抉られ、次に撃たれれば持つか分からない。
政を行うための場所。
人を集め、命を出し、家を保つための場所。
それが今、海から飛んできた未知の鉄と火によって、外から少しずつ砕かれている。
「港の様子は」
長増が問うた。
控えていた者が、青ざめた顔で答える。
「半ば、失われました」
「半ばか」
「はっ。桟橋は焼け落ち、蔵も潰されました。船は燃え、残ったものも沖へ逃げております」
「阿蘇の兵は」
「上がっております」
その答えに、広間の空気が重くなった。
「数は」
「およそ二千」
誰かが息を呑んだ。
二千。
府内を守る兵より多い。
いや、数だけなら、町中から掻き集めればまだ形は作れるかもしれぬ。
だが、問題は数ではない。
海から来た。
大友の本拠である府内へ。
義鎮の帰りを待つべき府内へ。
まるで、そこが初めから狙いであったかのように。
「南蛮船か」
長増が言う。
「はっ。見たこともない大船にございます。腹より火を吐き、港を撃っております」
「船からだけか」
「いえ」
報告する者の声が震えた。
「大筒を陸へ上げ、府内館を攻撃しております」
広間の者たちがざわめいた。
「そうか……」
「はっ。港の荷車、牛馬、人足を使い、順に運んでおります。小さき筒はすでに据えられ、館へ向けて撃っております。大きいものは、なお道板を敷いて運ばせている由」
長増は目を閉じた。
船から撃つだけではない。
港を取った後、筒を陸へ上げている。
府内館に届くところまで、運んでいる。
ならば、この砲撃は偶然でも脅しでもない。
手順だ。
港を砕く。
兵を上げる。
大筒を陸へ移す。
館を射程に入れる。
そして、壁を一枚ずつ崩す。
長増は、膝の上で拳を握った。
これまでの戦ではない。
門を閉じれば防げる戦ではない。
塀の内に籠もれば耐えられる戦ではない。
兵糧を数え、矢玉を積み、援軍を待つ戦ではない。
籠もっているのではない。
壁ごと砕かれるのを待っているだけだ。
◇
府内館の奥では、大友隼人が母の膝元に座っていた。
まだ若いが、何も分からぬわけではない。
砲声が鳴るたびに、隼人の肩は小さく跳ねた。
それでも、取り乱しはしなかった。
母がいるからである。
大友義鑑の正室。
大内義興の娘。
その血と名を背負う女は、背筋を伸ばして座っていた。
顔色は白い。
だが、取り乱してはいない。
隼人の肩に手を置き、砲声のたびに、その体が崩れぬよう支えている。
「また鳴りました」
隼人が小さく言った。
「そうですね」
母は静かに答えた。
「兄上は、戻られますか」
近くの女房衆が顔を伏せた。
母はすぐには答えなかった。
答えられなかったのではない。
答えを選んでいた。
「戻られると、信じましょう」
「信じれば、戻られますか」
母の指が、わずかに動いた。
若い問いであった。
だが、あまりに重い問いでもあった。
「信じるとは、戻られるのを待つことだけではありません」
母は言った。
「戻られた時、帰る場所を残しておくことです」
隼人は、その意味をすべて理解したわけではない。
だが、母の声が震えていないことだけは分かった。
だから、頷いた。
その時、廊下の向こうから足音がした。
吉岡長増である。
その後ろに、角隈石宗が続いていた。
石宗は僧形の男であった。
だが、ただの僧ではない。
大友家中の策を読み、戦を読み、人の心を読む男である。
その顔にも疲れはある。
しかし、目はまだ濁っていない。
長増は奥へ入り、深く頭を下げた。
「御前」
母は、隼人の肩に手を置いたまま長増を見た。
「外は」
「悪うございます」
長増は、包み隠さなかった。
「港は半ば失われました。阿蘇の兵、およそ二千が上陸。南蛮船より大筒を撃ち、さらに筒を陸へ上げ、府内館の射程へ移しております」
女房衆の間に、息を呑む気配が広がった。
母は目を伏せなかった。
「館は持ちますか」
長増は答えなかった。
その沈黙だけで十分だった。
石宗が静かに口を開いた。
「これまでの籠城とは違いまする」
母の視線が石宗へ向く。
「違うとは」
「籠城とは、壁の内に時を蓄えるものにございます」
石宗の声は低く、落ち着いていた。
「兵糧を蓄え、矢玉を蓄え、敵が攻め疲れるまで耐える。援軍を待ち、敵の気が緩むのを待つ。時を味方にするゆえ、籠城には意味がございます」
また砲声が鳴った。
今度は遠い。
だが、遠い音ほど不気味だった。
次の筒を据えているのだ。
石宗は、わずかに目を細めた。
「されど、今は時が敵です」
母は黙って聞いていた。
「時が経てば、筒は増えます。塀は減ります。火は広がります。町には噂が走り、兵の腹は折れましょう」
「噂」
母が言った。
長増が顔を歪める。
「町中に広がっております」
「何と」
長増は口を開きかけて止まった。
隼人がいる。
だが、母はその迷いを許さなかった。
「申せ」
長増は頭を下げた。
「大友義鎮様、岩尾にて討死。阿蘇勝利。降る者は助かる、と」
部屋の空気が凍った。
隼人の手が、母の袖を掴んだ。
「兄上が」
母は、すぐに隼人の手を包んだ。
「まだ、真とは限りません」
その声は静かだった。
だが、長増には分かった。
その静けさは、感情を奥へ押し込めている静けさだった。
「石宗」
母は問うた。
「そなたは、どう見る」
石宗は、ゆっくりと息を吐いた。
「真偽は、まだ分かりませぬ」
「ならば」
「されど」
石宗は続けた。
「真か偽かは、今この府内においては二の次にございます」
女房衆が顔を上げた。
「どういうことです」
「人は、目の前の形を信じます」
石宗は言った。
「港が燃えております。阿蘇の兵が上がっております。南蛮船が筒を撃っております。府内館が崩れております。そこへ、義鎮様討死の声が走る」
母は、じっと石宗を見る。
「たとえ偽りであっても、今は真として働く、ということか」
「御意」
石宗は頭を下げた。
「噂とは、事実である必要はございませぬ。人の足を止め、腹を折り、手から武具を落とさせれば、それで働きます」
長増は歯を噛んだ。
「此度の敵は宗運か」
石宗は答えない。
だが、否定もしなかった。
甲斐宗運。
阿蘇の忠臣。
戦場で刃を振るうより、人の心の隙間へ刃を入れる男である。
真ならよし。
偽でも、今の府内では真として働く。
おそらく、そう考えている。
だが、石宗の目には迷いがあった。
「宗運の手にございましょう」
石宗は言った。
「されど、宗運だけの手とも思えませぬ」
「どういう意味だ」
長増が問う。
「人の心を折るのは、宗運の策にございます。されど、港を取り、船を焼き、筒を陸へ上げ、兵を乱れなく進める。この手順は、これまでの九州の戦とは形が違いまする」
長増は黙った。
形が違う。
その言葉は、長増の胸に深く沈んだ。
強いのではない。
速いのでもない。
荒いのでもない。
何かが、根から違う。
「これは、ただの新しき筒ではございませぬ」
石宗は続けた。
「筒そのものは恐ろしい。されど、それだけならば人はまだ耐えまする。恐ろしいのは、筒を撃つ前から、すでにこちらの腹を折る手が打たれていることにございます」
「腹を折る手」
「港を奪う。船を焼く。逃げ道を塞ぐ。大筒を見せる。館を撃つ。そこへ、義鎮様討死の声を流す。そして、降る者は助かると触れる」
石宗は、ゆっくりと息を吐いた。
「塀を砕く筒と、人を砕く噂。どちらも同じ働きにございます」
部屋の者たちは黙った。
同じ働き。
その言葉は、あまりに冷たかった。
だが、ほかに言いようがなかった。
これは武勇の戦ではない。
槍を合わせ、名乗りを上げ、敵の首を取る戦ではない。
見えぬところで形を組まれ、気づいた時には、すでに負けの方へ押し流されている。
長増は、初めて理解した。
府内は、大筒に負けたのではない。
知らぬ戦に、負けつつあるのだ。
「阿蘇は、府内を焼き払う気でしょうか」
母が問う。
長増は顔を上げた。
「それは」
石宗が、長増より先に答えた。
「焼き払うつもりなら、とうに火を放っております」
「では」
「降らせるつもりにございましょう」
石宗は言った。
「府内を壊し、しかし壊し尽くさず。港を取り、しかし町を荒らし尽くさず。義鎮様討死を触れ回り、しかし逃げる者すべてを斬るわけではない」
「つまり」
「大友の心を折りに来ております」
隼人は、母の袖を握ったまま石宗を見ていた。
その言葉の意味を、全部は分からない。
だが、自分たちが危うい場所にいることだけは分かる。
長増は静かに口を開いた。
「御前。隼人様」
隼人が長増を見る。
「府内館は、もはや長くは持ちませぬ」
女房衆の何人かが顔を伏せた。
長増は続けた。
「打って出ることも難しい。港は敵の手にあり、町も乱れております。夜を待って出れば、かえって隼人様を危うくする」
「では、籠もるか」
母の声は厳しかった。
長増は首を横に振った。
「籠もれば、明日も撃たれます。明後日も撃たれます。門が砕け、塀が崩れ、奥へ火が入れば、隼人様を守れませぬ」
「義鎮が戻るまで、耐えることは」
その名を口にした瞬間、母の声がわずかに揺れた。
長増はその揺れを聞いた。
聞いたうえで、答えた。
「義鎮様が御無事であられるなら、帰る府内を残さねばなりませぬ」
母の目が細くなる。
「続けよ」
「もし、討死が真であるなら」
長増は深く頭を下げた。
「なおさら、大友の家を残さねばなりませぬ」
部屋は静まり返った。
隼人が母を見上げる。
「母上」
母は、隼人の肩に置いた手に力を込めた。
それから、長増に問うた。
「降れ、と申すか」
その声は冷たかった。
責める声ではない。確認する声である。
長増は、額を畳につけた。
「降るのではございませぬ」
「では、何だ」
「大友を残すために、頭を下げるのでございます」
母は長増を見下ろした。
「同じことではないか」
「同じに見えましょう」
長増は答えた。
「されど、今ここで意地を張れば、隼人様も、御前も、館中の者も、府内の町も、大友の名も、すべてを失います」
長増の声は、かすかに掠れていた。
「某の面目は捨てます。城代としての名も捨てます。義鎮様がお戻りになり、降ったことを責められるなら、某が腹を切ります」
「長増」
「されど」
長増は顔を上げた。
「兎にも角にも、大友が残っておらねばなりませぬ」
母は何も言わなかった。
石宗が、静かに目を伏せる。
大筒が、また鳴った。
近い。
部屋の障子が震えた。
奥の女房衆が小さく悲鳴を上げる。
隼人が母に身を寄せる。
母は隼人を抱き寄せた。
その姿を見て、長増は唇を噛んだ。
守るべきものは、目の前にある。
主君の名。
家の血。
府内の町。
そして、義鎮の後を継ぎ得る弟。
義鎮が生きていれば、その帰る場所。
義鎮が死んでいれば、その後を継ぐ者。
どちらであっても、失ってはならぬ。
「阿蘇は、何を求める」
母が問うた。
石宗が答える。
「武装解除。館の明け渡し。隼人様の身柄。大友家の従属か臣従。おそらくは、そのあたりにございましょう」
隼人の顔が強張った。
「身柄とは」
母が低く問う。
「人質、あるいは預かりにございます」
「渡せと言われれば」
長増が答えた。
「渡しませぬ」
母が長増を見た。
「渡さぬのか」
「隼人様の命を保証するならば、阿蘇の監視は受けます。されど、こちらから差し出す形にはいたしませぬ」
石宗が小さく頷いた。
「大友の家名を残すなら、それが肝要にございます。隼人様は降伏の品ではなく、大友の主として遇されねばなりませぬ」
「阿蘇がそれを呑むと」
「呑ませるために、使者を出します」
長増は言った。
「条件を出します。隼人様の御命。御前の御身。大友家名の存続。府内町への乱妨狼藉の禁止。館中の者の命。これらを認めるならば、武を解く」
「認めねば」
母が問うた。
長増は少しだけ間を置いた。
「その時は、撃たれるだけにございます」
あまりに正直な答えであった。
だが、その場の誰も責めなかった。
それが、今の府内館の現実だった。
◇
大友隼人は、母の袖を離した。
膝の上の衣を握る。
「吉岡」
若い声だった。
長増は、はっと頭を下げた。
「はっ」
「私は、どうすればよい」
母が隼人を見る。
その目には、母としての痛みがあった。
だが、止めなかった。
長増は、しばらく黙った。
相手は若い。
しかし、大友義鎮の弟であり、大友の血を継ぐ者である。
何も知らせずに守るだけでは、これから先を生きられない。
「隼人様」
「はい」
「今は、生きていただきとうございます」
隼人は瞬きをした。
「生きる」
「はい」
長増の声は重かった。
「武士は、死ぬことで守れるものもございます。されど、主となる御方は、生きて守らねばならぬものがございます」
「兄上は」
隼人の声が小さくなる。
「兄上は、生きておられる」
長増は答えに詰まった。
その時、母が言った。
「分かりません」
隼人が母を見る。
母は、隼人をまっすぐ見ていた。
「まだ、分かりません。だからこそ、あなたは生きねばなりません」
「なぜ」
「義鎮が戻った時、迎えるためです」
母の声は静かだった。
「もし戻られぬ時は」
隼人の唇が震えた。
母は、その言葉を代わりに言った。
「大友を継ぐためです」
隼人は何も言えなかった。
若い肩が震えている。
それでも泣かなかった。
長増は、その姿を見て頭を下げた。
「某が参ります」
「どこへ」
隼人が問う。
「阿蘇の陣へ」
「危ないのか」
「危うございます」
「ならば、なぜ行く」
長増は、わずかに笑った。
「危ういところへ行くのが、家臣の役目にございます」
隼人は長増を見た。
「帰ってくるか」
長増は、すぐには答えなかった。
軽く「帰ります」とは言えない。
だが、黙っていることもできない。
「帰るつもりで参ります」
隼人は小さく頷いた。
「ならば、行け」
その声は震えていた。
だが、命であった。
長増は深く平伏した。
「はっ」
◇
広間に戻ると、家臣たちは長増を待っていた。
砲声は、少し止んでいる。
だが、それは静けさではない。
次を撃つための間である。
その間に、外では人が動いている。
筒を据え直している。
火薬を運んでいる。
照準を合わせている。
見えずとも、長増には分かった。
阿蘇は待っているのではない。
次の一手を整えているのだ。
「決した」
長増が言うと、広間の者たちは姿勢を正した。
「隼人様、御前の御意を得た。阿蘇へ使者を出す」
若い者が顔を歪めた。
「本当に、降るのでございますか」
長増は、その者を見た。
「大友を残すために、頭を下げる」
「義鎮様がお戻りになれば」
「某が腹を切る」
若い者は黙った。
「だが、義鎮様がお戻りになった時、府内が焼け、隼人様が死に、家中が尽きておれば、誰が詫びる」
誰も答えなかった。
「我らは面目のために死ぬのではない。大友を残すために生きる」
長増は、一人ずつ顔を見た。
「館中に触れよ。阿蘇へ使者を出す。勝手に斬りかかることを禁ずる。武具は手放すな。ただし、命あるまで待て。奥は隼人様を守れ。町方には乱妨を禁じよ。火は消せ。負傷者を奥へ運べ」
「はっ」
「阿蘇が条件を呑むまで、門は開けぬ」
「はっ」
「だが、筒を撃たれて門が崩れれば、開けるも閉じるもない。急ぐ」
命が走った。
その時、また砲声が鳴った。
近い。
今までで最も近い。
広間の床が震えた。
誰かが倒れかける。
天井から土が落ちる。
外で声が上がった。
「門脇、さらに崩れました!」
「火が出ております!」
「水を! 早く!」
長増は立ち上がった。
もう、猶予はない。
「使者は」
家臣の一人が問うた。
「どなたを」
長増は外を見た。
港の方から煙が上がっている。
阿蘇の旗が、その煙の中に見え隠れしている。
府内の町は、まだ燃え尽きてはいない。
隼人も、御前も、まだ生きている。
ならば、今しかない。
誰かに行かせるのではない。
府内館を預かる者が、自ら行かねばならぬ。
阿蘇に対して。
家中に対して。
隼人に対して。
御前に対して。
そして、戻るかもしれぬ義鎮に対して。
この決断の責を負う者は、一人でよい。
吉岡長増は言った。
「使者は某が行く」




