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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第百十三話 鬼童と雷神

 戸次鑑連は、輿の上からその若者を見た。


 若い。


 あまりにも若い。


 煙の向こうから現れたその武者は、まだ顔に幼さを残していた。

 鎧を着ていなければ、戦場に迷い込んだ童にさえ見えたかもしれぬ。


 だが、その周囲にいる兵が違った。


 阿蘇の兵は、勝ちに酔っていなかった。

 叫ばない。

 笑わない。

 逃げ惑う大友の兵を前にしても、無駄に刃を振らない。


 槍は低く構えられている。

 弓は鑑連の輿ではなく、その周囲の兵へ向いている。

 鉄砲持ちは、撃つためではなく、撃てることを示すために膝をついている。


 逃げ道は、もうなかった。


 だが、詰めすぎてもいない。

 こちらが一斉に暴れれば、まず間違いなく何人かは斬れる。

 だが、その後は全て討たれる。

 そういう間合いであった。


 鑑連は、目を細めた。


 なるほど。


 これでは、大友は勝てぬ。


 兵の数ではない。

 勢いでもない。

 命の通り方が違う。


 この若者の周囲の兵は、己の怒りで動いていない。

 己の恐怖でも動いていない。

 誰を斬るか。

 誰を生かすか。

 どこまで詰めるか。

 どこで止まるか。


 それを、すでに腹に入れている。


 数えで十。


 そのような子供が、これをしたのか。


 義鎮を討ち。

 大友六千を崩し。

 それでなお、勝ちに酔わぬ兵を従えている。


 鑑連は、胸の奥に冷たいものが落ちるのを感じた。


 噂は、噂ではなかった。


 阿蘇の鬼童。


 阿蘇惟種。


     ◇


 惟種もまた、戸次鑑連を見ていた。


 輿に乗る男である。


 馬に乗れぬ。

 走れぬ。

 槍を持って突くこともできぬ。


 だが、その男を中心に、大友の兵はまだ軍であった。


 義鎮は討たれた。

 馬印は崩れた。

 本隊は遠ざかり、兵は削られ、逃げ道も失われた。


 それでも、この男の周りだけは崩れていない。


 兵の目に恐怖はある。

 疲れもある。

 諦めもある。


 だが、最後の一線で踏みとどまっている。


 この男がいるからだ。


 惟種は、胸の奥が熱くなるのを感じた。


 本物だ。


 これが戸次鑑連か。


 何度も聞いた名であった。

 敵に回せば厄介。

 味方にすれば、これほど頼もしい者はいない。

 大友の柱。

 負け戦を、負けのまま終わらせぬ男。


 それが今、目の前にいる。


 惟種の喉が、わずかに鳴りそうになった。


 会いたかった。


 そう思った。


 だが、その思いを顔には出さなかった。


 ここは戦場である。

 目の前の男は敵である。

 この男の一言で、まだ大友の兵は死ぬ気になれる。


 気を抜けば、こちらが食われる。


 惟種は、馬を一歩だけ進めた。


 阿蘇の兵が、音もなく合わせる。

 囲みが、わずかに締まった。


 戸次の兵が槍を上げる。


 鑑連は、片手を上げてそれを制した。


「動くな」


 声は低い。

 だが、よく通った。


 その一言で、大友の兵が止まる。


 惟種は、その様を見て、ますます目を離せなくなった。


 やはり、本物だ。


     ◇


「戸次鑑連殿とお見受けする」


 惟種が言った。


 声は若かった。


 その若さに、周囲の大友兵が一瞬だけ戸惑う。

 これが義鎮を討った男なのか。

 これが大友をここまで追い込んだ者なのか。


 だが、鑑連は戸惑わなかった。


「いかにも」


 輿の上で、鑑連は静かに答えた。


「大友家臣、戸次伯耆守鑑連」


 惟種は、わずかに頭を下げた。


「阿蘇惟種」


「存じております」


 鑑連の声には、皮肉も怒りもなかった。


「大友義鎮様を討った御方でござろう」


 その名が出た瞬間、大友の兵の顔が歪んだ。

 何人かが槍を握り直す。


 阿蘇の兵も、わずかに構えを変えた。


 惟種は、動かなかった。


「戦であった」


「承知しております」


 鑑連は答えた。


「戦であれば、討つも討たれるもございます」


 その言葉は、敗者のものではなかった。

 むしろ、勝者を裁くような響きさえあった。


 惟種は、静かに息を吸った。


「ならば、話が早い」


「左様ですな」


 鑑連は周囲を見た。


 輿を囲む兵は、わずかである。

 傷を負い、泥にまみれ、息を切らしている。

 それでも、まだ鑑連のために死ぬ覚悟をしている者たちであった。


 鑑連は、その者たちを見た。


 そして、惟種へ向き直る。


「もはや、これまででござろう」


 周囲の大友兵が息を呑んだ。


「戸次様」


 誰かが言いかける。


 鑑連は振り返らなかった。


「阿蘇惟種殿」


「何か」


「我が首を取られよ」


 空気が止まった。


 阿蘇の兵も、大友の兵も、動かなかった。


 鑑連は続けた。


「我が首一つで、この者らの命を買っていただきたい」


 大友兵の顔が崩れた。


「なりませぬ!」


「戸次様!」


「黙れ」


 鑑連の声が鋭く飛ぶ。


 兵たちは黙った。

 だが、その目には涙があった。


「この者らは、よう戦いました」


 鑑連は言った。


「主を失い、馬印を失い、本隊からも切れ、それでも最後まで列を捨てなんだ。ならば、これ以上死なせるには惜しい」


 それは、命乞いではなかった。


 鑑連は自分の命を惜しんでいない。

 ただ、配下の命を値踏みしている。

 自分の首と引き換えに買えるものなら、買おうとしている。


 惟種は、しばらく答えなかった。


 目の前に、戸次鑑連の首がある。


 これを取れば、大友はさらに揺らぐ。

 義鎮を討ち、戸次を討ったとなれば、阿蘇の名は九州に轟く。

 兵は沸くだろう。

 父も、島津も、諸将も、この首を価値あるものとして見るだろう。


 だが。


 惟種は、ゆっくりと首を横に振った。


「首はいらぬ」


 鑑連の眉が、わずかに動いた。


「いらぬ、と」


「戸次鑑連の首を飾っても、阿蘇は強くならぬ」


 惟種は、はっきりと言った。


「生きてほしい」


 大友の兵が、ざわめいた。

 阿蘇の兵もまた、驚きを隠せなかった。


 惟種は、それでも続けた。


「そして、できるならば、我に仕えてほしい」


 今度こそ、場が凍った。


 大友の兵の顔に怒りが走る。

 阿蘇の兵の中にも、息を呑む者がいた。


 敵の柱に、仕えよと言った。

 義鎮を討ったその口で。

 大友の血がまだ乾かぬこの場で。


 戸次鑑連は、輿の上から惟種を見た。


 子供の戯れではない。

 勝者の嘲りでもない。

 この若者は、本気で言っている。


 それが分かった。


 分かったからこそ、鑑連は静かに頭を下げた。


「ありがたき御言葉」


 惟種の目が、わずかに動いた。


「されど、それは叶いませぬ」


「なぜだ」


「我が主家は、大友家」


 鑑連は答えた。


「義鎮様は討たれました。されど、大友はまだ滅んでおりませぬ」


 惟種は黙って聞いていた。


「隼人様がおられる」


 その名を聞いた時、惟種の目が少しだけ細くなった。


 大友隼人。


 義鎮が討たれた後、大友の名を背負う者。

 まだ幼くとも、血は残っている。

 家は残っている。


「ゆえに、某は離れませぬ」


 鑑連の声は揺れなかった。


「主は死しても、家は残る。家が残るなら、臣はそこに仕える。それを違えれば、某は某でなくなります」


 惟種は、じっと鑑連を見た。


 欲しい。


 心の底からそう思った。


 この男がいれば、阿蘇はどれほど強くなるか。

 この男が味方であれば、どれほど多くを救えるか。

  島津と並んでも呑まれぬ。

 惟種の足りぬものを、すべて埋めてくれるかもしれぬ。


 だが、そういう男だからこそ、奪えない。


 惟種は、あえて問うた。


「ならば」


 周囲の空気が張りつめる。


「隼人も討てば、そなたは我に仕えるか」


 大友の兵が一斉に殺気立った。


「貴様!」


「童が!」


 槍が動きかける。


 阿蘇の兵も、即座に構えた。

 弓の弦が鳴る。

 鉄砲持ちが、火縄を寄せる。


 一触即発。


 だが、鑑連の声がそれを止めた。


「動くな」


 大友の兵は止まった。


 鑑連は、惟種から目を逸らさない。


「仕えませぬ」


 即答であった。


 惟種の表情は変わらない。


「隼人様が討たれれば、次を立てます。次が討たれれば、また次を探します。それでも大友の血が絶えたなら、大友の名を残す者を立てます」


 鑑連の声は低く、重かった。


「某は人に仕えておりますが、人だけに仕えているのではございませぬ。大友という家に仕えております」


 惟種は、何も言わない。


「それが某の忠でございます」


 風が吹いた。


 煙が横へ流れる。

 燃えた村の匂いが、薄く漂った。

 遠くで、まだ追撃の声が聞こえる。


 阿蘇惟豊と新納忠元は、今も大友本隊の遅れた尾を食っている。

 吉弘鑑理と臼杵鑑速は、日向道へ兵を逃がしている。

 戦は、まだ終わっていない。


 だが、この囲みの中だけは、時間が止まったようだった。


 惟種は、やがて小さく息を吐いた。


「だろうな」


 その声には、どこか晴れた響きがあった。


 鑑連は、わずかに眉を動かす。


「そう言うと思った」


 惟種は言った。


「それでも、聞いてみたかった」


「なぜです」


「欲しかったからだ」


 惟種は、まっすぐに答えた。


「戸次鑑連が欲しかった。首ではなく、人として欲しかった」


 大友兵の怒気が、わずかに薄れた。

 阿蘇の兵も、黙っていた。


「だが、今の答えで分かった」


 惟種は、どこか寂しげに笑った。


「そういう男だから欲しかった。そういう男だから、得られぬのだな」


 鑑連は、目を伏せなかった。


「御理解いただけたなら、幸いにございます」


「腹立たしいほど、理解した」


 惟種は言った。


 そして、顔を引き締めた。


 そこから先は、戦場の指揮官であった。


「武を解け」


 阿蘇の兵が一歩進む。


 大友兵がざわめいた。


 鑑連は、片手を上げた。


「武具を置け」


「戸次様!」


「置け」


 鑑連の声は静かだった。


「これ以上は、死ぬだけだ」


 大友の兵は動けなかった。


 槍を置く。

 それは、敗北を認めることだった。

 義鎮を失い、退き、置き去りにされ、最後に武を解く。


 受け入れがたいことであった。


 だが、鑑連は言った。


「生きよ」


 兵たちは、顔を上げた。


「儂の首で買おうとした命だ。無駄に捨てるな」


 その言葉で、一人が槍を置いた。


 続いて、もう一人。

 また一人。


 槍が泥に沈む。

 刀が鞘ごと置かれる。

 弓が地に伏せられる。


 大友の兵が、武を解いていく。


 阿蘇の兵は、それを黙って見ていた。

 嘲る者はいない。

 罵る者もいない。

 奪おうと手を伸ばす者もいない。


 惟種の命が届いている。


「拘束せよ」


 惟種が言った。


「ただし、縄をきつくするな。傷のある者には水を。倒れる者があれば担げ。抵抗せぬ者を斬った者は、我が斬る」


 阿蘇の兵が、低く応じた。


「はっ」


 その返答を聞き、鑑連はまた一つ理解した。


 この兵は、ただ精強なのではない。

 この若者の命が、末端まで通っている。


 だから強い。


 だから怖い。


 鑑連は、輿の上で静かに息を吐いた。


「阿蘇惟種殿」


「何か」


「我が首はいらぬと申された」


「言った」


「ならば、この者らは」


「殺さぬ」


 惟種は即座に答えた。


「降った者は殺さぬ。そう決めている」


「なぜです」


 鑑連は問うた。


「殺せば済む場面もござろう」


「殺せば、次は死ぬまで抗う」


 惟種は答えた。


「生かせば、次の者が降る。降れば兵を減らせる。兵を減らせば、こちらの兵が死なずに済む」


 冷たい答えであった。


 だが、残酷ではなかった。


「民を焼いた兵でもか」


 鑑連が問うた。


 惟種の目が、初めて鋭くなった。


 周囲の温度が変わる。


「抗うなら斬る」


 惟種は言った。


「降るなら生かす。後で裁く。だが、戦場の怒りで殺しはしない」


 鑑連は黙った。


「怒りで斬れば、兵が乱れる」


 惟種の声は低い。


「兵が乱れれば、こちらが死ぬ。こちらが死ねば、守れるものが減る」


 それは、子供の言葉ではなかった。


 鑑連は、目の前の若者を見た。


 若い。

 若すぎる。


 だが、この若者は、すでに戦を数で見ている。

 感情で斬るのではなく、目的で斬っている。


 恐ろしい。


 そう思った。


     ◇


 遠くから、伝令が駆けてきた。


 阿蘇の兵が道を開ける。

 伝令は惟種の前に膝をついた。


「御屋形、なお追撃中! 新納殿の兵、敵の後尾を裂いております! 大友本隊は日向道へ!」


「深く追うなと伝えよ」


 惟種はすぐに言った。


「戸次隊は押さえた。大友本隊は痩せたまま府内へ向かう。無理に首を取りに行くな。遅れた兵と荷だけを取れ」


「はっ!」


「降る者は殺すな。抵抗する者だけ討て」


「はっ!」


 伝令が走り去る。


 鑑連は、そのやり取りを聞いていた。


 やはり、そうだ。


 阿蘇は大友を全滅させる気ではない。

 帰す気でいる。

 ただし、少なくして帰す気でいる。


 何のために。


 府内へ帰る兵を減らす。

 大友本隊を痩せさせる。

 戸次鑑連を殺さず、捕らえる。


 全てが、府内に向かっている。


 鑑連の胸に、嫌な予感が広がった。


「阿蘇惟種殿」


「はい」


「そなたは、なぜ大友を帰す」


 惟種は、少しだけ首を傾げた。


「帰したいからです」


「なぜ」


「帰る場所があると思っているから、兵は逃げる」


 鑑連の目が細くなった。


 惟種は続けた。


「帰る場所がなければ、兵は死に物狂いになる。今ここで、六千すべてが死に物狂いになれば、阿蘇もただでは済まない」


「だから、逃がす」


「はい」


「少なくして」


「はい」


 鑑連の手が、輿の縁を握った。


「府内に、何をした」


 初めて、鑑連の声に怒りが混じった。


 惟種は、答えなかった。


 ただ、静かに鑑連を見ていた。


「府内に、何をしたと聞いておる」


 周囲の大友兵が顔を上げる。

 拘束されながらも、その目に不安が浮かぶ。


 惟種は、ようやく口を開いた。


「何かしたかどうかは、まだ分かりませぬ」


「戯れを」


「戯れではありませぬ」


 惟種の声は、淡々としていた。


「戦です」


 鑑連は、惟種を睨んだ。


「府内館までお送りしましょう」


 惟種は言った。


 その言葉に、大友兵がざわつく。


「武を解き、こちらの預かりとなっていただく。その上で、府内まで送る。戸次鑑連殿ほどの方を、山中で殺すつもりはありませぬ」


「情けか」


「いいえ」


 惟種は即答した。


「敬意です」


 鑑連は黙った。


「それと」


 惟種は、わずかに目を伏せる。


「あなたに見ていただきたい」


「何を」


「この戦の終わりを」


 風が止んだ。


 遠くの追撃の音だけが聞こえる。

 阿蘇の鬨。

 大友の悲鳴。

 馬の嘶き。

 武具の落ちる音。


 鑑連は、ゆっくりと問い返した。


「終わり、だと」


「はい」


 惟種は頷いた。


「義鎮様を討っただけでは、戦は終わりませぬ。大友の兵を削っただけでも終わりませぬ。府内まで行って、初めて終わる」


 鑑連の顔色が、わずかに変わった。


 それを見て、惟種は静かに言葉を継いだ。


「まあ」


 一拍。


「府内が無事ならですが」


 その一言は、矢よりも深く鑑連に刺さった。


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