第百十一話 千の刃
火は、なお村を舐めていた。
藁が燃える。
納屋が崩れる。
逃げる牛が、縄を引きずったまま畦を踏み越える。
女の声、子の声、兵の怒鳴り声が、煙の中で混ざっていた。
義鎮は、馬上からそれを見ていた。
見ているものは、火ではない。
谷の向こうである。
阿蘇の旗。
惟豊の旗。
動くか。
動かぬか。
それだけを見ていた。
「出て来い」
義鎮が低く言った。
「おぬしが民を守ると言うなら、出て来い」
旗本の者どもは、その背後で息を殺していた。
当主の馬印は、村際に立っている。
前へ出すぎている。
それは誰の目にも明らかであった。
だが、誰も強くは止められぬ。
止めれば、また怒りを買う。
退けと言えば、臆したと言われる。
何より、村へ火を入れたこの手は、たしかに効いていた。
谷の向こうが、わずかに騒がしい。
阿蘇の旗の下で、人が動いている。
義鎮の目に、かすかな光が宿った。
「動いたか」
その時であった。
背後より、馬の蹄が乱れて近づいた。
速い。
速すぎる。
止まる前から、乗り手の声が裂けていた。
「急報!」
旗本が振り返る。
伝令は、泥と汗にまみれていた。
馬は泡を吹き、鼻から荒い息を吐いている。
男は転げ落ちるように馬を降り、膝をついた。
「申し上げます!」
義鎮は眉を寄せた。
「何事だ」
「海手より阿蘇勢!」
義鎮の顔が止まった。
「海手?」
「はっ! 浜より駆け上がり、こちらへ向かっております!」
旗本のあいだに、ざわめきが走った。
海手。
谷ではない。
惟豊の旗のある方角でもない。
義鎮は、なお信じぬ顔で伝令を見下ろした。
「数は」
「およそ一千!」
その場に、奇妙な沈黙が落ちた。
一千。
少ない。
少なすぎる。
大友の兵は六千。
阿蘇は谷を固め、惟豊の旗を据え、島津の兵も抱えている。
そこへ、海より戻った兵が一千。
それだけで何が出来る。
そう思うより早く、伝令は次の言葉を吐いた。
「阿蘇惟種の旗、見えます!」
義鎮の目が、初めて鋭くなった。
「惟種だと!?」
「はっ!」
「惟種は海におるはずだ」
声は低かった。
だが、その低さの奥に、怒りと困惑が同時にあった。
「有馬と噛み合っておるはずであろう」
伝令は答えられなかった。
ただ、額を地につける。
「恐れながら、すでにこちらへ!」
その声を聞いたのは、義鎮だけではなかった。
◇
少し離れた渡河点近くで、戸次鑑連もまた同じ報せを受けていた。
吉弘鑑理は、太鼓と旗の動きを見ていた手を止めた。
臼杵鑑速は、別働の道へ兵を出しかけていたところで、顔を上げた。
「惟種が戻った?」
鑑理の声が、かすかに掠れた。
「あり得ぬ。……有馬が、そんなに早く崩れたのか」
鑑速が低く言う。
「早すぎる」
戸次鑑連は、しばらく黙っていた。
沈黙は短かった。
だが、その短い間に、鑑連の目は谷ではなく、地図の外を見ていた。
海。
浜。
そこから阿蘇へ戻る道。
兵が駆けられる道。
夜でも、迷わず、列を切らさず戻れる道。
「……道を、作っておったか」
鑑速が、はっと鑑連を見る。
「道?」
「海から戻る道だ」
鑑連の声は低い。
「船で戻すだけではない。浜からここまで、兵を走らせる道がある。休まず、迷わず、荷を捨て、ただ戦うために戻れる道が」
吉弘鑑理の顔色が変わった。
「相良を呑んだ後、後顧の憂いが無くなった段階で少しずつ……」
「おそらくな」
鑑連は答えた。
「よもや、そこまで」
臼杵鑑速が歯を噛んだ。
惟種は、海だけを見ていたのではない。
海で勝った後、どこへ兵を返すか。
返した兵を、どの道で走らせるか。
その道を、春より前から整えていた。
しかも、戻ってきたのは寄せ集めではない。
走れる兵である。
命を聞き、列を崩さず、疲れても足を止めぬ兵である。
常備の兵。
鑑連の背筋に、冷たいものが走った。
次の報せが来た。
「阿蘇勢、村際へ!」
「村際だと」
鑑理が思わず声を上げる。
「義鎮様の馬印の方角にございます!」
その瞬間、三人の顔が一斉に変わった。
少ない。
たしかに一千は少ない。
だが、その一千は、来てはならぬ場所へ来ていた。
渡りではない。
城でもない。
主たる備えの正面でもない。
村際。
義鎮の馬印が立つ場所である。
「しまった」
鑑速が呟いた。
戸次鑑連は、すでに馬へ向かっていた。
「旗本を戻せ!」
声が飛ぶ。
「吉弘殿、渡河点の圧は崩すな! 臼杵殿、別働を止めよ! 義鎮様の周りを固める!」
「間に合いますか」
鑑理が問うた。
鑑連は答えなかった。
答えれば、嘘になる。
◇
惟種の一千は、煙の下から現れた。
阿蘇の旗は、高く掲げていない。
見せるための旗ではなかった。
敵に早く見つけられるための旗ではない。
味方が迷わぬため、ただそれだけの旗であった。
兵は、泥に汚れていた。
海を渡り、浜を駆け、道を踏み、休む間もなくここまで来た兵である。
鎧の紐は汗を吸い、足は重い。
息も荒い。
だが、列は乱れていなかった。
槍が前へ出る。
弓が横へ開く。
鉄砲持ちが低く構える。
軽い楯が、その前へ滑る。
惟種は、馬上にあった。
若い旗。
若い顔。
だが、その目は海の上で晴純の船を折った時と同じく、妙に冷えていた。
村が燃えている。
その匂いが、風に乗って来る。
焼ける藁。
焼ける木。
焼ける暮らし。
兵の中に、低い唸りが広がった。
誰かが、歯を鳴らす音を立てた。
誰かが、焼けた家を見て槍を握り直した。
惟種は、それを止めなかった。
怒るなとは言わぬ。
だが、怒りで前へ出るな。
そう教えてきた兵である。
「見えるか」
惟種が言った。
横にいた者が答える。
「大友の馬印、見えます」
「義鎮か」
「おそらくは」
惟種は、煙の向こうを見た。
大友の当主が、村際にいる。
火を餌にして、惟豊を釣ろうとしている。
それは予想外であった。
大友軍の側面を突ければよいと思っていた。
だが、義鎮が出てきている。
怒りを抱えたまま、自ら馬印を晒している。
ならば、そこへ刃を戻せばよい。
惟種は、短く言った。
「正面から噛むな。側面を突け」
伝令が周りへ走る。
「火付けの兵を斬れ。逃げる民を追う兵を斬れ。馬印の足を止めろ」
声は広がる。
「義鎮を見つけても、散るな」
一拍。
「囲んで終わらせる」
兵の腹が、そこで一つに締まった。
次の瞬間、阿蘇の一千が動いた。
走るのではない。
崩れぬ速さで進む。
煙の陰を抜け、火の明かりを背にし、畦の低みを使って、大友の軽兵の横腹へ食いついた。
最初に崩れたのは、村へ散っていた兵である。
彼らは戦列ではなかった。
火をつける者。
牛馬を追う者。
民を追い立てる者。
蔵を割る者。
槍は持っている。
だが、槍を揃えていたわけではない。
そこへ阿蘇の槍が入った。
短い悲鳴。
倒れる音。
燃える藁を踏み散らす音。
「惟種だ!」
「惟種が来た!」
「海からだ!」
叫びが乱れた。
乱れた声は、火より早く広がる。
大友の軽兵が振り返る。
逃げる民を追っていた者が、自分の背後を見て足を止める。
牛馬を追っていた者が、逆に牛馬に押される。
火を持っていた者が、火のついた束を落とす。
惟種の兵は、そこを裂いた。
村を焼くために散った兵は、村を守るためにまとまった兵に勝てぬ。
義鎮の周りでも、さらに異変が大きくなりだした。
「どうなっておる!」
義鎮が怒鳴る。
旗本の一人が顔を真っ青にして叫んだ。
「阿蘇勢、横より!」
義鎮の目が、煙の向こうへ向く。
早い、余りにも早すぎる。
向かっている知らせを受けてから一瞬しか立っていない。
そこに、惟種の旗があった。
惟豊ではない。
谷の上に据えた旗ではない。
若い旗である。
「小倅が」
義鎮が呟いた。
声には怒りがあった。
だが、その奥に、ほんのわずかに驚きもあった。
「退きましょう!」
旗本の一人が叫んだ。
「一度、戸次様の備えまでお戻りを!」
義鎮は、その者を睨んだ。
「退く?」
「敵は横より来ております! 馬印を下げねば――」
「大友の当主が、阿蘇の小倅に背を見せるか」
その一言で、旗本の顔から血の気が引いた。
「当主!」
「槍を持て」
義鎮は言った。
「押し返す」
無謀であった。
だが、義鎮という男の今には、それ以外の答えがなかった。
父の血。
弟の血。
府内の血。
それらを抱えてここまで来た。
阿蘇を砕くために来た。
惟豊を引きずり出すために村を焼いた。
それが、惟豊ではなく、その子に噛まれる。
義鎮には、それが許せなかった。
「押せ!」
旗本が前へ出る。
阿蘇の一千もまた、止まらない。
両者が、村の外れでぶつかった。
燃える家の横で、槍が噛み合う。
逃げる民の足跡の上で、馬が嘶く。
焼けた麦の匂いの中へ、血の匂いが混ざる。
義鎮の旗本は弱くない。
大友の当主を守る兵である。
怯えはしても、容易く崩れる兵ではなかった。
だが、形が悪かった。
義鎮の兵は、村へ伸びていた。
火付けの兵は散っていた。
渡河点の大軍は遠い。
別働は動きかけている。
旗本だけが、急ぎ固まるほかなかった。
対して、惟種の一千は、初めからそこだけを見ていた。
大友六千を破るためではない。
大友の当主の馬印を折るために来た一千である。
「左を締めろ!」
惟種の声が飛ぶ。
「火の方へ押すな! 道へ押せ!」
阿蘇の兵が動く。
大友の旗本を火の中へ追い込むのではない。
逃げ道へ押す。
逃げ道へ押して、そこを塞ぐ。
「馬を狙え!」
矢が飛ぶ。
鉄砲が鳴る。
義鎮の周りで、馬が倒れた。
旗本の列が乱れる。
「当主をお守りせよ!」
「馬印を下げよ!当主を逃がせ!」
「下げるな!大友が下げてはならん!!」
命が割れた。
その割れた一瞬を、惟種は逃さなかった。
「今だ」
阿蘇の槍が、前へ出た。
煙の奥で、義鎮の怒号が一度だけ上がった。
それきり、聞こえなくなった。
◇
戸次鑑連が村際へ向かった時、すでに煙は濃かった。
道が悪い。
逃げる民がいる。
散った牛馬がいる。
火付けに出した兵が、逆に押し返されている。
鑑連は、輿の上で歯を噛んだ。
自分たちが出したものが、すべて邪魔になっている。
村を揺らすための火。
惟豊を動かすための民の流れ。
阿蘇を割るために散らした軽兵。
それらが今、義鎮のもとへ駆けつける道を塞いでいた。
「退け!」
鑑連の家臣が叫ぶ。
「道を開けよ!」
だが、乱れた兵と民は、そう簡単には割れぬ。
火がある。
煙がある。
悲鳴がある。
その奥で、槍の音がした。
近い。
だが、遠い。
吉弘鑑理の兵も動いている。
臼杵鑑速も別働を止め、戻そうとしている。
だが、すべてが半歩遅い。
「急げ!」
鑑連が怒鳴った。
その時、煙の奥から、ひときわ大きな声が上がった。
「大友義鎮!」
鑑連の手綱を握る手が、強くなった。
続く声が、戦場を裂いた。
「討ち取ったり!」
一瞬、音が消えたように思えた。
太鼓も。
火の音も。
馬の嘶きも。
人の叫びも。
すべてが、遠のいた。
戸次鑑連は、輿の上で動かなかった。
煙の向こうに、大友の馬印が揺れている。
いや、揺れているのではない。
傾いている。
旗本が崩れている。
阿蘇の兵がそこへ食いついている。
義鎮の姿は見えぬ。
ただ、声だけが何度も響く。
「大友義鎮、討ち取ったり!」
「大友義鎮、討ち取ったり!」
鑑連の奥歯が鳴った。
怒りはあった。
怒りしかなかった。
だが、その怒りの上から、戦場が見えた。
主は死んだ。
馬印は崩れた。
村際の兵は乱れた。
別働はまだ戻り切らぬ。
渡河点の圧は、もはや意味を失いつつある。
ここで怒りに任せて突っ込めば、残る大友まで食われる。
救えぬものを救おうとして、残りまで殺すわけにはいかぬ。
鑑連は、息を吐いた。
吐いた息は、煙より熱かった。
「退く」
近くの者が、聞き間違えたように顔を上げた。
「は」
「退くと言った」
「しかし、当主が――」
「だから退くのだ」
鑑連の声は低かった。
「当主を失い、ここでさらに兵を失えば、大友は終わる」
その言葉に、家臣は黙った。
鑑連はすぐに命を切った。
「吉弘殿へ伝えよ。渡河点の兵を崩さず下げる。太鼓を変えろ。退き太鼓だと悟らせるな。押す振りを残して下げる」
「はっ」
「臼杵殿へ。別働は戻すな。戻せば詰まる。外を回して退き口を守らせよ」
「はっ」
「旗本は義鎮様の御首を取り戻そうとするな。今は無理だ。無理をすれば、阿蘇の思うところだ」
言ってから、鑑連は一瞬だけ目を閉じた。
無理だ。
その言葉を、自分の口で言わねばならぬことが、これほど苦いとは思わなかった。
だが、言わねばならぬ。
戸次鑑連は、目を開けた。
「しんがりは、わしが務める」
周囲がざわめいた。
「なりませぬ!」
「黙れ」
鑑連は切った。
「ここで誰かが止めねば、退きは崩れる。崩れれば全滅だ」
「しかし――」
「義鎮様を救えなんだ」
その声は、初めてわずかに震えた。
「ならば、せめて大友を残す」
誰も、もう何も言えなかった。
◇
惟種は、馬上で大友の馬印が傾くのを見た。
討った。
その報せが周りから上がる。
兵の声が熱を帯びる。
村を焼かれた怒りが、一気に外へ噴き出そうとする。
だが、惟種はすぐに叫んだ。
「追え。ただし、深くは入るな!」
兵の動きが、一瞬止まる。
「義鎮は討った。だが、大友はまだ六千だ。戸次も吉弘も臼杵も生きている。崩れたところだけを叩け。形ある備えには噛みつくな」
その声で、兵の腹が戻った。
惟種は、煙の向こうを見た。
戸次鑑連がいる。
まだ見えぬ。
だが、いるはずであった。
あの男なら、怒りで全軍を投げ込むことはすまい。
退く。
退きながら噛む。
そして、最後尾に立つ。
ならば、戸次に食いついてはならぬ。
食うべきは、散った兵である。
火付けに出て戻れぬ兵。
命を失った旗本。
退き口へ殺到する軽兵。
別働として外へ出され、主を失って立ち尽くす兵。
そこを削る。
大友を倒すのではない。
府内へ戻る大友を、半ばより少なくして戻す。
惟種は、さらに命じた。
「この戦は、もはや追撃の場だ。刈れるところを刈れ。だが、戸次の刃には踏み込むな」
「はっ!」
「別働隊にも手は打ってある。府内へ逃げ込まれる前に、叩けるだけ叩くぞ」
声を落とし、近くの者だけに言う。
「府内館へは、すでに手を打ってある」
その言葉を聞いた者たちの目が変わった。
惟種は続けた。
「ここで六千を六千のまま帰してはならぬ」
一拍。
「半ばを割らせる」
兵の喉が鳴った。
「大友を府内に押し込める。だが、押し込める数は少ないほどよい。ここで削る。ここで折る」
「はっ!」
「父上へ伝えよ。義鎮討死。大友は退く。合流の上、追撃に移る。ただし戸次には深く噛むな、と」
「はっ!」
「島津殿へも。殿を叩くより、遅れた兵を裂け。戸次を本気にさせるな。戸次を止めるな。戸次には、生きて府内館へ逃げてもらう」
伝令が走る。
惟種は、煙の向こうを見た。
大友が退く。
その退き口の先には、府内がある。
だが、府内はもはや空の館ではない。
◇
大友の陣が、退きはじめた。
誰かが命じたからではない。
義鎮討死の声が、兵の腹から力を抜いていた。
押していたはずの者が、足を止める。
止まった者が、後ろを見る。
後ろを見た者が、さらに後ろへ下がる。
それが、火の中で波になった。
惟豊の本陣でも声が上がった。
「追いますか」
誰かが問う。
惟豊は、谷の向こうを見た。
そこにはまだ戸次鑑連がいる。
大友の退きは、ただの逃げではない。
噛めば、噛み返される退きである。
「惟種と合流する」
惟豊は言った。
「渡りを押せ。だが、谷を越えて食えるだけ食う。深くは追うな」
島津忠元が、低く笑った。
「戸次が残りますな」
「残るだろう」
惟豊が答える。
「あの男は、そういう男だ」
忠元は、槍を肩に置いた。
「ならば、殿ではなく、遅れた者を叩きましょう」
惟豊が、わずかに目を細めた。
「惟種ならそうするか」
「おそらくは、そう来ましょう。戸次を叩けば、退きが締まる。遅れた兵を叩けば、退きが痩せる」
「よい」
惟豊は頷いた。
「大友を府内へ帰す。だが、六千のままでは帰さぬ」
「承知」
島津の五百が動く。
阿蘇の兵もまた、谷の圧を少しずつ強める。
大友は退く。
崩さぬように退く大友。
食いすぎぬように追う阿蘇。
その間に、村の火だけがなお赤く揺れていた。
◇
戸次鑑連は、殿に立った。
輿に乗って、煙の向こうを見ている。
義鎮は死んだ。
その事実は、まだ胸の中で形にならぬ。
怒りもある。
悔いもある。
自分がもっと強く止めていればという思いもある。
だが、今はそれを抱く時ではない。
「下がれ!」
鑑連は命じた。
「列を崩すな!」
大友の兵が退く。
阿蘇が押す。
島津の五百が、横から鋭く噛んでくる。
だが、妙であった。
阿蘇も島津も、鑑連の正面へ深くは来ない。
槍を合わせれば下がる。
鉄砲を向ければ散る。
その代わり、少しでも遅れた兵へ食いついた。
火付けから戻る兵。
民を追って離れていた兵。
別働の端にいて命を聞き損ねた兵。
負傷して足の鈍った者。
そういう者から、消えていく。
鑑連は、それを見て歯を噛んだ。
「削りに来ておる」
近くの家臣が顔を上げた。
「は」
「勝ちに来ておるのではない。削りに来ておるのだ」
鑑連の声は低かった。
「府内まで戻る兵の数を、減らす気だ」
言ってから、鑑連自身もその言葉の重さを知った。
府内。
帰る場所。
立て直す場所。
義鎮亡き後、大友がなお大友であるための場所。
そこへ戻る兵を、阿蘇は削っている。
なぜそこまで急ぐ。
なぜ、ここで全滅を狙わぬ。
なぜ、戸次鑑連を討つことより、遅れた兵を刈ることを選ぶ。
鑑連の目が、海の方角へ一瞬動いた。
嫌な予感がした。
だが、今は確かめる術がない。
「下がれ!」
鑑連は再び怒鳴った。
「散るな! 小勢で逃げるな! 十で動け、二十で動け! 一人になれば食われるぞ!」
大友の兵が退く。
阿蘇が押す。
島津が裂く。
鑑連は、それを受けた。
槍を出させる。
鉄砲を返す。
退く兵の背を守る。
追ってくる阿蘇を、深くは入れさせぬ。
しんがりとは、勝つための場所ではない。
負けを、負けで終わらせぬための場所である。
鑑連は、それをよく知っていた。
遠くで、大友の士気を下げるため、また声が聞こえた。
「大友義鎮、討ち取ったり!」
兵の足が揺れる。
「聞くな!」
鑑連が怒鳴った。
「耳で死ぬな! 足で生きよ!」
その声に、兵がかろうじて列を戻す。
戸次鑑連は、振り返らなかった。
振り返れば、見てしまう。
倒れた馬印を。
失った主を。
自分が救えなかったものを。
だから、前だけを見た。
前には阿蘇がいる。
惟豊がいる。
惟種がいる。
そして今は、その向こうへ逃がさねばならぬ大友がいる。
「退け」
鑑連は、低く言った。
「退いて、生きろ」
その声は、誰に向けたものか分からなかった。
兵へか。
大友へか。
それとも、自分へか。
◇
この日、岩尾の谷で、大友義鎮は討たれた。
阿蘇の兵は三千五百。
大友の兵は六千。
数だけ見れば、大友はなお多かった。
だが、六千は六千のまま働けなかった。
谷に縫われた兵。
村へ散った兵。
別働に割かれた兵。
当主の馬印へ引き寄せられた兵。
そこへ、海より返った惟種の一千が刺さった。
一千。
あまりに少ない数であった。
戸次鑑連も、吉弘鑑理も、臼杵鑑速も、その少なさを見ていた。
なぜ一千だけなのか。
なぜ惟種は、全てをここへ戻さなかったのか。
なぜ、義鎮を討った後も、戸次鑑連を深く追わず、遅れた兵ばかりを刈ったのか。
大友の誰も、まだその答えを知らなかった。
ただ一つだけ、分かっていることがあった。
阿蘇は、ここだけを見ていない。
その不気味さを抱えたまま、戸次鑑連は兵を退かせた。
谷の向こうでは、村の煙がまだ空へ昇っている。
そして海の方角からは、まだ何の報せも届いていなかった。




