第百十話 餌を撒く者
義鎮は、谷の向こうの旗を睨んでいita。
阿蘇惟豊の旗である。
見えすぎるほど、よく見えた。
深い谷。細い渡り。
その向こうで、阿蘇の旗だけが、こちらを誘うように揺れている。
川は細い。
されど、兵が渡るとなれば話は別であった。
馬は足を取られ、人は列を乱し、楯も竹束も水を吸う。
ようやく渡り切ったところで、今度は坂だ。
その上に、阿蘇はいた。
待っている。
いや、待たせている。
そうとしか思えぬ旗の置き方であった。
戸次鑑連は、しばらく黙ってその旗を見ていた。
吉弘鑑理もまた、腕を組んだまま谷底を眺めている。
臼杵鑑速は、地形を記した紙の上へ指を置き、渡りの筋を何度かなぞった。
義鎮は、座の奥に座していた。
若き当主である。
されどその顔にあるのは、若さの輝きではない。
府内で流れた血の色が、まだ目の底に残っている。
「あそこに、惟豊がおる」
義鎮が低く言った。
誰もすぐには応じなかった。
「見えるではないか」
さらに言う。
「あれを砕けばよい」
戸次鑑連が、ようやく口を開いた。
「若殿」
義鎮の目が、鋭くそちらへ向く。
「若殿ではない」
静かな声であった。
だが、その静けさがかえって座を冷やした。
「当主だ」
若殿。
その呼び名が、義鎮の耳に刺さっていた。
まだ認めぬ、ということか。
父の影の下にいる小僧だと、そう言いたいのか。
鑑連は、短く頭を下げた。
「失礼仕りました」
義鎮は、それ以上は言わなかった。
ただ、目だけで続きを促した。
鑑連は谷底を指した。
「あそこへそのまま押し掛かれば、兵は水の中で割れます」
「六千おる」
「六千を、六千のまま働かせぬための地形にございます」
義鎮の眉が動いた。
吉弘鑑理が、そこへ言葉を継ぐ。
「惟豊は待っております」
「待つ?」
「はい。あそこで我らを受け止めるつもりではございませぬ。あそこで、我らを乱すつもりにございます」
鑑理は、紙の上の渡りを指した。
「川の中で足を乱させ、渡ったところで坂に詰まらせる。上より鉄砲、弓、石。さらに横から噛む兵もありましょう」
「島津か」
臼杵鑑速が言った。
「おそらくは」
島津の五百が阿蘇へ入っていることは、大友も掴んでいる。
その五百が、ただ城の中で飯を食っているとは思えなかった。
「ならば、なおさら早く攻めよ」
義鎮は言った。
「敵が備えきる前に、押し潰せばよい」
鑑連の顔は動かぬ。
だが、膝の上の指だけが、わずかに固くなった。
「攻めぬとは申しておりませぬ」
「ではなぜ止まる」
「攻めるために、まず敵を割ります」
その一言で、義鎮の目が細くなる。
「申せ」
鑑連は、ゆっくりと言葉を置いた。
「正面では、戸次と吉弘が渡る構えを見せます。太鼓、旗、楯、竹束。すべてを揃え、ここで渡るぞと阿蘇に思わせる」
鑑理が頷いた。
「阿蘇の目を、谷底へ縫い付けます」
「実際に渡るのか」
「渡れる形には致します」
鑑連が答えた。
「されど、最初から力任せには押しませぬ。押せば、阿蘇の思うところにございます」
臼杵鑑速が、次に別の筋を指した。
「別働は、拙者が率います」
主渡河点から少し離れた浅瀬。
谷筋の脇。
城へまっすぐ届く道ではない。
だが、阿蘇の横腹を脅かすには足りる位置であった。
「七百、あるいは千。こちらへ回ります」
「そこから城を抜けるのか」
「抜けぬ道でよいのです」
鑑速は、はっきりと言った。
義鎮の目が鋭くなる。
「どういうことだ」
「阿蘇に、そう見えればよい。惟豊の背、あるいは横を脅かせる。城との間に差し込める。そう見えれば、阿蘇は兵を割らざるを得ませぬ」
鑑理が続けた。
「こちらの狙いは、城を一息に落とすことではございませぬ」
「では何だ」
「惟豊に、選ばせることでございます」
その言葉に、座がわずかに沈む。
鑑連が言った。
「さらに、軽兵を村へ出します」
義鎮の目が、そこで動いた。
「村」
「はい」
「何をする」
鑑連は、一拍置いた。
「火を入れます」
誰かが、わずかに息を呑んだ。
「牛馬を散らし、田を荒らし、民を追い立てます」
吉弘鑑理が、声を低くして続けた。
「惟豊は、民を捨てられませぬ」
義鎮は黙る。
「阿蘇は、すでに村々を逃がし始めております。ならばそこを突く。民を守るか、渡河点を守るか。その二つを、惟豊に同時に抱えさせます」
臼杵鑑速が、指を紙の上で動かした。
「阿蘇が兵を割れば、正面か別働のどちらかを押し通します」
鑑連が言った。
「惟豊が自ら一当てに出れば、なおよし」
「なおよし、だと」
「はい」
鑑連は目を逸らさなかった。
「惟豊が動けば、阿蘇の旗も動きます。旗が動けば、兵の目も動く。その瞬間に、渡りを噛みます」
座の中に、理は通った。
強引ではない。
派手でもない。
だが、阿蘇の布陣を見たうえで、そこへ刃を差し込む策であった。
阿蘇は地を使う。
ならば大友は、人を使う。
谷。
渡り。
村。
民。
それらを一度に揺らし、惟豊の手を二つ三つに割る。
六千をただぶつけるのではなく、六千の圧をもって阿蘇に選択を迫る。
それが、三将の出した答えであった。
だが、義鎮の顔は晴れなかった。
「まわりくどい」
低く言った。
鑑理の眉が、わずかに動く。
「当主」
「まわりくどい、と申したのだ」
義鎮の声が、少しずつ熱を帯びる。
「あそこに惟豊がおる。旗も見える。兵も見える。ならば、なぜ攻めぬ」
「攻めるために――」
「聞いた」
義鎮が切った。
「敵を割る。村を荒らす。別働を回す。そう言ったな」
「はい」
「ならば、なぜ今すぐやらぬ」
鑑連は答えを選んだ。
「兵の置き替えが要ります。渡河の支度、別働の道、火を入れる村の見定め。軽く見れば、こちらが乱れます」
「乱れる?」
義鎮は、そこで短く笑った。
「乱れておるのは、どちらだ」
座が凍る。
「府内で血が流れた」
義鎮の声は、怒鳴り声ではなかった。
それが、かえって座を冷やした。
「父は死んだ。弟も死んだ。家中は割れた。入田は落ちた」
誰も息をしなかった。
「その間に、阿蘇は肥後を固めた。筑後へ手を伸ばした。肥前を抱えた。海まで持った」
義鎮は、谷の向こうを見た。
「待てば、敵は太る。見定めれば、敵は増える。整えれば、敵は笑う」
鑑速が、低く言った。
「当主。怒りで兵を出せば――」
「怒りではない」
義鎮は、静かに言った。
「これは、大友の返事だ」
外の太鼓の音が、一瞬遠く聞こえた。
「惟豊めが、あそこにおる」
義鎮の声が、座を裂いた。
「阿蘇の当主が、旗を見せておる。こちらを嘲るように、谷の向こうで待っておる。ならば攻めよ。押せ。砕け。首を取れ」
戸次鑑連は、なお頭を垂れなかった。
「それが、阿蘇の望む形にございます」
「黙れ」
「黙りませぬ」
その一言に、座の空気がさらに張った。
鑑連は、膝を進める。
「惟豊が見えておるからこそ、危ういのです。あの男は、見せるべき時にしか姿を見せませぬ。こちらが怒りに任せて谷へ入れば、そこで食われます」
「戸次鑑連が、谷を怖じるか」
義鎮が言った。
鑑連の顔が、ほんのわずかに強張る。
「怖じてはおりませぬ」
「ならば攻めよ」
「攻めます」
「今だ」
「今すぐ、力任せには攻めませぬ」
義鎮の目が、怒りで濁った。
吉弘鑑理が、間に入る。
「当主。どうかお聞き入れを」
「おぬしもか」
「は」
鑑理は、静かに頭を下げた。
「これは退く策ではございませぬ。勝つための策にございます。惟豊に二つを抱えさせる。民か、渡りか。そこを選ばせれば、必ず隙が生まれます」
臼杵鑑速もまた言った。
「別働が回れば、阿蘇は動きます。村に火が上がれば、さらに動きます。動いたところを、こちらが押す。それが最も損の少ない道にございます」
「損の少ない道」
義鎮は、低く繰り返した。
「おぬしらは、いつもそうだ」
三将は黙った。
「損を数える。道を数える。時を数える。義を数える」
義鎮の声が、かえって静かになる。
「だが、血は数えぬ」
その言葉に、鑑理の顔が痛むように動いた。
「府内で流れた血を、おぬしらはまだ数えておらぬ」
「そのようなことは――」
「ならば見せよ」
義鎮は言った。
「大友のために、阿蘇を砕くところを見せよ」
誰も応じられぬ。
義鎮は、座の外へ向かって声を上げた。
「馬を引け」
鑑連が顔を上げる。
「当主」
「馬を引け、と申した」
「どちらへ」
「村だ」
座の者たちの顔が、一斉に変わった。
義鎮は笑わなかった。
怒りも、笑いも、すでに同じところへ煮詰まっていた。
「民を追えば惟豊は動くのであろう」
「当主、それは軽兵に命じれば足ります」
鑑速が言った。
「御自ら出られる必要はございませぬ」
「ある」
義鎮は即座に答えた。
「わしが村を焼くのではない。わしの馬印を見せるのだ」
三将は黙った。
「惟豊に、見せねばならぬ。大友の当主が、ここまで来たとな」
「危ううございます」
「危ういから効くのであろう」
その一言に、三将は言葉を失った。
悪い。
あまりに悪い。
されど、効く。
戸次鑑連は、胸の奥でそれを認めざるを得なかった。
義鎮の馬印が村際に出る。
大友の当主が、自ら民を追い、田へ火を入れ、牛馬を散らす。
それを見れば、惟豊は動かざるを得ぬかもしれない。
「貴様らも、それならやる気が出よう」
義鎮の声が、冷たく落ちた。
「わしが民を追う。わしが田を荒らす。わしが牛馬を散らす。それを見れば、おぬしらも少しは戦う気になるであろう」
「当主」
吉弘鑑理が、深く頭を下げた。
「どうか、御身を軽くなさいますな」
「軽い?」
義鎮が、鑑理を見下ろす。
「軽く見ておるのは、おぬしらであろう」
「決して」
「大友の当主の怒りを、軽く見ておる」
誰も返せなかった。
外で、馬の嘶きがした。
旗本が動き始めている。
義鎮の命は、もう陣の外へ流れていた。
戸次鑑連は、すぐに顔を上げた。
「ならば、護りを厚く致します」
「要らぬ」
「要ります」
今度は、鑑連も引かなかった。
「当主が村際へ出られるなら、旗本だけでは足りませぬ。正面の備えは崩しませぬが、脇を固めます。吉弘殿は主渡河点に圧を残し、臼杵殿は別働へ。拙者は当主の進みに合わせ、正面を動かせる位置におります」
義鎮は、しばし鑑連を睨んだ。
「ようやく戦う気になったか」
「初めより、そのつもりにございます」
「ならばよい」
義鎮は、それだけ言って座を出た。
残された三将は、一瞬だけ沈黙した。
最初に息を吐いたのは、臼杵鑑速であった。
「……悪い形ですな」
吉弘鑑理が答える。
「悪い」
戸次鑑連は、外へ向いたまま言った。
「だが、効く」
二人がそちらを見る。
「当主の馬印が村へ出れば、惟豊は必ず見る」
「見ますな」
「阿蘇が動けば、渡りに隙が生まれる」
鑑速が、苦い顔で頷いた。
「その隙を取るしかございませぬか」
「それしかない」
鑑連は、短く言った。
「当主を止められぬなら、当主の動きを策に組み込む」
その言葉は、家臣としてあまりに苦い。
だが、戦場では苦いからといって捨てられるものではない。
鑑理が立ち上がった。
「主渡河点へ兵を寄せます」
「太鼓を鳴らせ。旗を増やせ。竹束を前へ出せ」
鑑連が命じる。
「今にも渡るぞと見せるのだ」
「承知」
鑑速も立つ。
「別働は、すぐに回します」
「急げ」
「承りました」
それぞれが動き出す。
外では、すでに陣が騒がしくなっていた。
太鼓が鳴る。
旗が増える。
楯が前へ出され、竹束が運ばれる。
谷底の主渡河点へ、大友の大軍が押し寄せるように見せかけていく。
それだけではない。
陣の脇から、臼杵の兵が静かに離れた。
七百か、千か。
数は多すぎぬ。
されど、阿蘇の横を脅かすには足る。
さらに軽兵が、村の方へ散っていく。
松明。
槍。
縄。
声。
牛馬を追う者。
蔵を割る者。
田へ踏み入る者。
逃げ遅れた民を追い立てる者。
戦とは、兵と兵だけがぶつかるものではない。
時には、泣く子の声や、逃げる牛の足音や、焼ける藁の匂いが、槍より深く人の腹を刺す。
義鎮は、馬上にあった。
旗本が周りを固める。
馬印が立つ。
大友の当主が、谷ではなく村へ向かう。
戸次鑑連は、その背を見た。
止められなかった。
ならば、使うしかない。
惟豊を動かす。
阿蘇を割る。
その一瞬に、渡りを押す。
それが、今この場で取り得る唯一の道であった。
*
村へ、火が上がった。
最初は、藁の端に噛みついた小さな赤であった。
それが納屋へ移り、戸板へ移り、乾いた束へ移る。
やがて、煙は太くなった。
牛が鳴いた。
縄を引く兵の手から逃れようと、首を振り、目を剥いた。
子を抱えた女が転んだ。
泥に膝を打ち、なお子だけは離さなかった。
背後で、家が燃えていた。
大友の軽兵が、声を張った。
「逃げろ!」
「阿蘇へ行け!」
「惟豊に守ってもらえ!」
その声は、ただの乱妨ではなかった。
殺すためではない。
聞かせるための声であった。
城へ。
谷へ。
阿蘇の旗の方へ。
義鎮は、その様を馬上から見ていた。
火の匂い。
土の匂い。
牛馬の汗の匂い。
人の恐れの匂い。
そのすべてが混ざる。
「見よ」
義鎮が言った。
「惟豊」
誰に向けた声でもない。
だが、その声には確かに相手があった。
「出て来い」
旗本の者が、わずかに顔を伏せた。
義鎮は続ける。
「おぬしが民を守ると言うなら、出て来い。田はまた作れる、人は戻らぬと言うなら、ここへ来い」
遠く、谷の向こうに阿蘇の旗が見える。
動くか。
動かぬか。
義鎮は、それだけを見ていた。
その後ろでは、戸次と吉弘の兵が主渡河点へ圧を掛けている。
太鼓が鳴る。
楯が並ぶ。
竹束が水際へ運ばれる。
さらに別の方角では、臼杵鑑速の兵が、浅瀬へ向けて動いていた。
大友の策は、動き始めていた。
民を守るか。
渡りを守るか。
どちらを取っても、どちらかが薄くなる。
そういう形であった。
そして義鎮自身は、その策の中で最も目立つ火となっていた。
悪い手ではない。
少なくとも、相手が並の将であれば。
当主の馬印が村際に出る。
民が追われる。
田が荒らされる。
牛馬が散る。
守る側は、見過ごしにくい。
怒れば出る。
出れば割れる。
割れれば、渡りは押せる。
義鎮は、そう信じた。
戸次も、吉弘も、臼杵も、その理を知っていた。
だからこそ、苦くとも止めきれなかった。
だが、その戦場には、義鎮の知らぬ旗があった。
海から返る兵。
勝ちに酔わず、追撃を捨て、味方を拾い、陸と海を分けて走らせた兵。
その先頭に、惟種の旗がある。
義鎮は、まだ知らない。
餌を撒いたのは、自分だと思っていた。
だが、餌はすでに、
己自身であった。




