父と宗運、水飴を前に若君を量る
一か月ほどが過ぎた。
**阿蘇**の館では、若君の病はすっかり過去のものになりつつあった。
**阿蘇 惟種**は日に日に顔色を戻し、庭を歩き、廊下を走り、高森を相手に木刀を振る真似まで始めている。
それだけなら、ただの快癒で済んだ。
だが、済まなかった。
門前では、妙なものが売れ始めていた。
とろりと甘く、子どもが目を輝かせ、病人にも飲ませやすく、女たちが土産に欲しがる。
水飴。
最初は若君の養生のためという名目で台所で作られたそれは、いまや門前で少量ずつ捌かれ、思った以上の反響を呼んでいた。
数で見れば、まだ大したことはない。
だが、門前の売り物としては十分に“匂い”があった。
売れる。
続く。
しかも、ただの一度の珍しさではなく、もう一度買いたいと求める者がいる。
その事実が、館の奥へじわじわと届いていた。
そして同じように、別の噂もまた届いていた。
若君は熱のあと、おかしくなられたのではないか。
狐でも憑いたのではないか。
火の山の神気にあてられたのではないか。
あるいは、何か別のものを持ち帰ったのではないか。
そうした囁きである。
無論、それを表立って口にする者はいない。
だが、誰もが胸の内で一度は考えていた。
館の奥、当主の座す一室で、**阿蘇 惟豊**は小さな器に入った水飴を見ていた。
昼の光が障子越しに柔らかく差し込み、その薄い飴色を静かに照らしている。
惟豊の向かいには、**甲斐 宗運**がいた。
月代を落とした法体の姿で、いつものように無駄なく膝をついている。
「これが、その水飴か」
惟豊が言う。
「はい」
宗運は短く答えた。
「門前で売れていると聞く」
「思ったより、にございます」
宗運の言葉は慎重だった。
だが、慎重であるということは、裏を返せば本当に手応えがあるということでもある。
惟豊は匙を取り、水飴を少しだけすくった。
光を含んで、とろりと糸を引く。
口へ運ぶ。
甘い。
濃く、柔らかく、砂糖のように鋭くはないが、たしかに人を惹く甘さだった。
惟豊はしばらく黙ってそれを舌で転がし、それから小さく息を吐いた。
「……甘いな」
「はい」
「子どもが欲しがるのも分かる」
「女どもも買っております。病人へ持ってゆく者もおります」
惟豊は、器を見下ろしたまま言った。
「実入りは」
「まだ門前の小売りにございますゆえ、大金とは申せませぬ」
「だが」
「続ければ、確かに金になります」
そこで惟豊は、ようやく宗運を見た。
宗運もまた、別の器の水飴を少しだけ口にしている。
甘味を楽しむというより、味を量っている顔だった。
「おぬしは、どう見た」
「売れます」
即答だった。
「量が揃えば、もっと」
「ほう」
「門前だけではなく、館の客への出し物にもなりましょう。薬にも使える。神前にも出せます」
惟豊は、ゆっくりとうなずいた。
悪くない。
いや、かなりいい。
ただの菓子ではない。
使い道がある。
しかも、“阿蘇で作れる”というのが大きい。
しばしの沈黙ののち、惟豊は言った。
「若君が考えた、か」
「左様にございます」
「本当に」
宗運は少しだけ目を伏せた。
「少なくとも、若君の口から出たものにございます」
その答え方に、惟豊はわずかに目を細める。
宗運は断じない。
それが宗運らしかった。
「田のこともそうだったな」
「はい」
「市のことも」
「はい」
「そして今度は水飴か」
「はい」
宗運は、そこで少しだけ間を置いた。
「しかも、理が通っております」
惟豊は鼻で小さく息を吐いた。
そこが一番厄介なのだ。
夢だ神意だ妖だといったものなら、まだ扱いようがある。
笑うか、祭るか、封じるかすればよい。
だが、若君の言葉は違う。
妙でありながら、理が通っている。
理が通っているくせに、あの年の子が知っているには通りすぎている。
それが、惟豊にも宗運にも、もっとも判断を難しくさせていた。
「家中で何か言う者はおるか」
惟豊が低く問う。
宗運は、正直に答えた。
「おります」
「狐憑き、か」
「はい」
「妖の類とも」
「はい」
「神気にあてられたとも」
「それも」
惟豊は、再び水飴を少し口にした。
甘い。
厄介な甘さだ、と惟豊は思った。
これがまずければ話は早い。
若君の奇妙な思いつきが、たまたま台所を騒がせただけで終わる。
だが、これは甘い。
しかも売れる。
「おぬしはどう見る、宗運」
惟豊の声は静かだった。
「狐か。妖か。神の気か。あるいは、ただ若君の才か」
宗運はすぐには答えなかった。
長く阿蘇家を支えてきた男にとって、こうした問いは軽く口にできるものではない。
阿蘇は火の山の家であり、大宮司の家であり、吉凶や神意と無縁ではいられぬ家だからだ。
やがて宗運は言った。
「分かりませぬ」
惟豊は眉ひとつ動かさず、続きを待った。
「分かりませぬが……少なくとも今のところ、若君の言葉は金を生み、田を動かし、市を変えようとしております」
「それが厄介なのだ」
「はい」
宗運は深くうなずいた。
「妖なら、切れば済みます。
神意なら、祀れば済みます。
ですが若君の言葉は、切るには惜しく、祀るには生々しすぎます」
惟豊は、その言葉に思わず口元をわずかに動かした。
笑ったわけではない。
だが、宗運もまた同じところへ辿り着いているのだと分かった。
「生々しい、か」
「はい。土の匂いがしすぎます」
惟豊は、そこでようやく正面から宗運を見た。
「よい言いようだ」
「恐れ入ります」
「夢を見るにしては、あれは田と市と飴の話をしすぎる」
「左様にございます」
「神に触れた者が、まず台所へ向かうものか」
その言葉に、宗運は少しだけ口元を動かした。
こちらも笑いではない。
苦い納得だ。
「されど、阿蘇の家に生まれた若君が、熱のあとに奇妙な知恵を見せれば、下の者どもが狐を疑うのも無理はございますまい」
「無理はない」
惟豊は器へ視線を落とした。
水飴は静かに光っていた。
火の山。
夢。
奇妙な知恵。
そして実利。
どれかひとつならまだ扱える。
だが、それが全部混ざると厄介だ。
惟豊は、胸の内で静かに認めていた。
惟種は変わった。
少なくとも、惟将を失う前の惟種とは別だ。
だが、その変化が阿蘇家にとって吉か凶かは、まだ決めきれない。
「若君の意向に沿うべきと思うか」
惟豊の問いに、宗運は少しだけ目を上げた。
それは今までの問いとは違う。
理や実利だけではなく、家として従うかどうかを問うている。
宗運は慎重に答えた。
「まだ、全面には」
「うむ」
「ですが、捨てるには惜しゅうございます」
「うむ」
「ゆえに、量るべきかと」
惟豊はうなずいた。
それでよい。
宗運が若君に心酔しておらぬのはむしろ安心だった。
だが、切り捨てようともしていない。
それもまた大きい。
「量る、か」
「はい」
「何を」
惟豊はそう問うたが、答えは自分でも半ば分かっていた。
宗運は言う。
「若君が、どこまで分かっておられるのか」
「理を、か」
「理を」
「それだけか」
宗運は、そこでほんのわずかに息を置いた。
「……そして、どこまで“若君”でおられるのか」
静けさが落ちた。
その一言は、今まで避けてきた核心だった。
惟豊は目を閉じた。
父として、その問いを聞くのは痛かった。
だが当主としては、聞かずに済ませるわけにはいかぬ。
「おぬしも、そこを思うか」
「はい」
「わしもだ」
惟豊は正直に言った。
「ただ利を生むだけなら、それでよいとも言える。
だが、惟種の身体に惟種でないものが入っておるのなら、話は別だ」
「はい」
「神意ならまだよい」
「はい」
「だが、妖であれば困る」
「はい」
惟豊は、そこまで言ってから少しだけ苦く笑った。
「だが、妖がこんな飴を作るかもしれぬと思うと、それもまた厄介だな」
宗運は何も言わなかった。
だが、その沈黙の中に、同意があった。
惟豊は器の飴を見た。
売れている。
人を喜ばせている。
金にもなっている。
それを一刀のもとに断てるほど、今の阿蘇家は贅沢ではない。
長い内紛を越えてようやく形を取り戻した家だ。
使えるものは使わねばならぬ。
だが同時に、何に従おうとしているのかは見極めねばならない。
「宗運」
「は」
「惟種を呼べ」
「今、この場へ」
「うむ」
惟豊はまっすぐに宗運を見た。
「飴のことから始めよう」
「は」
「田のことも、市のことも、いずれは問う。
だがまずは、あれが何を見ておるのかだ」
宗運は、深く頭を下げた。
「承知いたしました」
宗運が立ち上がる。
襖の前で一度だけ足を止めた。
「御屋形様」
「何だ」
「若君が、本当に変わっておられたとして」
「うむ」
「それでも阿蘇のために働くのであれば」
惟豊は、その先を聞く前に答えた。
「使う」
宗運は、わずかに目を細めた。
「左様にございますな」
「だが、阿蘇を喰うものであれば切る」
「はい」
宗運は一礼し、部屋を出ていった。
惟豊はひとり、器の中の水飴を見つめた。
甘い。
厄介なほどに。
阿蘇の若君は、熱のあとに奇妙な知恵を持ち始めた。
それが神の恵みか、妖の囁きか、ただの目覚めた才か――まだ分からぬ。
だが少なくとも、この甘味は人を動かした。
そして金を生み、門前に人を寄せた。
それだけで、問いただすだけの価値がある。
惟豊は、最後のひと匙を口に運んだ。
「……惟種」
その名を、小さく呼ぶ。
次にこの部屋へ入ってくる時、
あれは息子として来るのか。
若君として来るのか。
それとも、まだ名のない何かとして来るのか。
惟豊は静かに待った。




