第三十九話
「パール。また忍び込んだのか。ここは君の学部じゃないだろう」
グレイマロウ大学の医学部棟、埃っぽい標本室の隅でリーヴァイは溜息をついた。明かりも点けずに骨格標本を弄んでいたのは、やはりパールだった。
「……リーヴァイ・サロウ。またあなたね。いいじゃない、私たちもうすぐ卒業なのよ。これが最後の悪戯よ。学生時代の思い出作りってやつだわ」
「思い出作りなら文学部でやってくれ」
「ここの方が趣があるわ」
パールは骸骨の指を器用に動かしながら、悪びれもせず心底楽しそうに笑う。リーヴァイは言葉を続けようとして、やめた。この人間に正論を言っても、右から左に流れることは四年のうちに学んでいた。早く出ていってもらう方が言い合いをするより早かった。
「せっかくだから一つ聞いていいかしら。あなた、結婚するんでしょう。おめでたいことだわ」
「……誰が、結婚するって?」
ちゃんと聞こえていた。一言一句、はっきりと聞こえていたのに、気がついたら聞き返していた。リーヴァイにしては全くないことだった。
「あなたが、よ。リーヴァイ・サロウが医師の娘と結婚するって、大学中でそういう話になっているわ。自分のことなのに、あなたご存知ないの?」
「全く身に覚えがない。一体誰がそんな悪質な嘘を」
パールが骨格標本から手を離して目を丸くする。視線を天井に向けて、記憶を辿るような顔をした。
「もう誰から聞いたか分からないくらい、みんな言っていたわ。みんなが言っているから、てっきり本当のことだと」
「みんなが言っていても、僕が知らない話は僕の話じゃない」
「それはそうね」
パールは少し考えてから、でも悪びれずに付け加えた。
「じゃあ、コーデリアに伝えたのはまずかったかしら」
標本室から、音という音が消えた。骨格標本の影が床に長く伸びて、埃と薬品が混じった独特の匂いがする。廊下の向こうから、まだ遅くまで残っている学生たちの遠い話し声が聞こえた。それ以外は静かだった。
「……コーデリアに?」
「ええ。あなたの婚約の話を手紙に書いたの。そうしたら、コーデリア自身も近々結婚を考えていると言うから」
「待ってくれ。今なんて言った?」
「外交官と結婚すると返ってきたの。旅の果てに見つけた誰かと景色を分け合う人生も悪くないって。だからあなたの話と合わせて、二人同時におめでとう、と思っていたのだけれど──片方は嘘だったのね」
コーデリアが結婚する。その言葉を頭の中で何度か転がして、ようやく理解した。これもリーヴァイにしては全くないことだった。
二年の間に心が変わったのか。あるいはよっぽどの相手を見つけたのか。外交官、とパールは言った。旅先で知り合った人間だろう。景色を分け合う人生、とパールは言った。コーデリアらしい言い方だと思った。
でもコーデリアの言葉をパール越しに聞くのはおかしい。二年間、彼女と手紙のやり取りさえできないままに。
休暇にミスト・ヴァレーへ帰ったとき、ヴェスパー卿の屋敷を訪ねた。エレンが扉を開けて、申し訳なさそうに言った。コーデリアはシャーロット様と旅に出ています、と。いつ帰るかは分からないと。
コーデリアが逃げたのなら、逃げたいだけ逃げればいいと思っていた。逃げながら、いつか向き合える日が来るかもしれないと、そう思っていた。でもその間に、別の誰かが現れたということか。
「コーデリアは今、どこにいるんだ」
「ルチェナよ。あなた、知らないの? まあ、あんまり手紙を返さないから、ついに送ってもらえなくなったの?」
リーヴァイは黙り込んだ。返事が見つからなかったからではなく、考え込んでいるからだった。ルチェナはグレイマロウからずいぶん遠い異国の地だ。行けない距離ではないかもしれないが、今の状況では話にならない。
六年間の医学の課程の締めくくりとなる試験が数週間後に控えている。そこを乗り越えなければ、数年かけて積み上げてきた全てが水泡に帰す。
リーヴァイの頭は冷徹なまでの冷静さを取り戻していた。彼が最も嫌うのは、不確定な感情に支配されて計画を狂わせることだ。コーデリアの件は今すぐ解決できる問題ではない。今は目の前の問題から片付けよう。
「標本室から出ろ。他学部生は立ち入り禁止だ」
「え、もう?」
「もう、じゃない。最初から入るべきじゃなかった。廊下に出て、自分の棟に帰るんだ」
パールはしぶしぶ立ち上がってスカートを払う。リーヴァイの横を通り過ぎながら、また悪びれずに付け加えた。
「ねえリーヴァイ。根も葉もない噂と、本当のことは、ちゃんと自分で確かめた方がいいわ。どちらも」
「余計なことを言うんじゃない」
「言わずにいられないの。きっと文芸サークルの一員だからね。物語の結末を、誰かの伝聞で片付けるなんて野暮なことはできないのよ」
パールは廊下に出て、軽い足取りで歩いていく。暗がりの中でその後ろ姿が遠ざかって、リーヴァイは標本室の扉を閉めた。
まず一つ目の問題は片付いた。
廊下を歩きながら、頭の中を整理する。根も葉もない婚約の噂は、酒の席でひどく酔った医師に「婿に来てくれ」と言われて「光栄です」と返したことが発端かもしれないと思い当たった。あのとき適当に受け流したのは失敗だったが、卒業してしまえば自然と消える。そちらは放っておいていい。
問題はもう一つの方だ。コーデリアが結婚を考えている。それが本当のことなのか、パールを通じて聞いた話だけでは分からなかったが、おかしくはないと頭では思った。
それでも、本人の口から聞かなければ気が済まない。十年近くにわたるこの気持ちが実らないとしても、せめて最後に、向こうの言葉で終わりにしたかった。霧の谷の道を並んで歩いていた頃から、ずっとそこにあったものを、誰かから伝え聞いた噂話で終わらせたくはない。
「……手紙」
昔、コーデリアに言ったことがある。ミリエルの恋文を代筆した話をしていたときだった。自分の言葉で頭を抱えることにする、どうしても伝えなければならない相手ができたときはね、と。
あの頃はまだその相手が誰なのか、自分でもはっきりとしていなかった。でも今は分かっていた。ずっと前から分かっていた。
伝えたい相手は、最初からずっと同じ人間だった。
下宿に戻って、引き出しから便箋を取り出した。インク瓶の蓋を開けた。ペンを取って、彼は言葉通り頭を抱えた。
文章を書くことには慣れている。論文も報告書も淡々と書けた。でも今夜書かなければならないのは、そういう種類の言葉ではないのだ。
どこから書けばいいのか分からなかった。ごめんと書くべきなのか、それとも別のことから始めるべきなのか。謝るべきことが自分にあるのかも、正直なところよく分からなかった。ただ、コーデリアに伝えなければならないことはたくさんあった。
「……頼むから届いてくれ。これだけは、君に届かなきゃ困るんだ」
──コーデリアへ。
手紙を書くのが遅くなったことを許してほしい。
事実無根の噂が届いているだろうから、まず一つ訂正しておく。僕が結婚するという話があるらしいが、そんな予定はない。これからも多分ない。
少なくとも、相手が君でなければ。
卒業したらミスト・ヴァレーに戻る。検死局に入るには臨床経験が必要だから、近郊の病院でしばらく働くつもりだ。あの街は医者が少ないから役には立つだろう。
それからもう一つ。ずっと言えなかったことを書く。
僕はずっと君を愛している。言い合いをして、仲直りをして、隣を歩いてきた、ミスト・ヴァレーのコーデリアを。
墓場を散らかしていた十二歳の君に会った時から、今日まで一度もそれが変わったことがないし、これから先も変わらないと断言できる。
もし君がルチェナで何かを選択しようとしているのなら、それでも構わない。ただその前に一度だけ、君の口から本当のことを聞かせてほしい。
リーヴァイ・サロウ




