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コーデリア・レイス、霧の谷にて  作者: 櫻まど花


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第三十八話

 運河を渡る風は冷たさを潜め、甘い花の香りを運ぶようになった。ルチェナに春が訪れたのだ。

 この街に魅了されたシャーロットおばさまは、水路沿いの歴史ある邸宅を買い取り、そこを旅の終着地と定めると宣言した。


「これからはここで、運河を行き交う物語を眺めて暮らすわ。水の上の街に住むのがずっと夢だったの。今がその時だわ」


 シャーロットというのはそういう人だった。嵐のように決めて、嵐のように動くのだ。

 同じ頃、運河沿いのカフェでアレックスと向かい合っていたコーデリアは、彼から唐突な告白を受けた。


「ヴァルツに戻ることになりました。辞令が出て」


「いつ?」


「来月の初めには。それで、ご一緒していただけませんか」


 ついてきてほしい。その言葉の意味に、コーデリアはあの決定的な結末を重ねた。まさか、という言葉が頭をよぎり、沈黙が続くのを恐れながらも顔を上げられなかった。


「どんな形でも構わないんです。言葉で言い表せる関係にこだわりはしません。ただそばにいてほしいと、そういうことです。僕の旅は外交という名の下に各地へ出向く、少しばかり退屈で忙しないものですが。景色を読む旅に、あなたが隣にいてくれたら、と」


 見透かされていた。コーデリアはなんだか恥ずかしくなって、水路の方を向いた。


「嬉しいわ。少しだけ、考えさせてちょうだい」


 その夜、コーデリアは宿の窓辺に座って返事を考えていた。アレックスは景色を言葉で読む遊びを分かち合える人で、急かさない人で、いつも少し子どものような顔で笑う人だった。

 ついていけば旅は続いて、書くことも続いて、楽しいだろうと思うのに。ミスト・ヴァレーが恋しくて、でも恋しいという言葉だけでは、この引っかかりの正体が言い表せない。

 もっと正確に言うなら──帰らなければならないのだ。何かを置いてきたまま、遠くへ来てしまった。


 リーヴァイに謝りたい。


 その言葉がふいに胸の中に浮かんで、沈まなかった。

 あの春の湖の上で、コーデリアはすべてをリーヴァイのせいにして逃げ出した。彼がわたしたちの間にあったものを壊したのだと、手紙一枚書くことも、振り返ることもせずに遠くへ逃げた。でも旅を続けながら、景色を言葉にしながら、少しずつ本当のことが見えてきていた。


 リーヴァイが壊したのではなかった。コーデリアが、壊れることを恐れて逃げたのだった。幸せが終わったあとに残るのは喪失だけだと、両親の末路を自分の未来に重ねて、怖くなって逃げた。それがコーデリアのしたことだった。


 ミスト・ヴァレーを離れて、霧の外から見て初めて、あの霧の中に何があったかが分かったように、愛しいものは失いかけて初めてその形が見える。

 遠ざかるほどに輪郭がはっきりしていくものがある。それが街のことだけではなかったのだと、今夜ようやく認めることができた。


 リーヴァイが必要なのだ。そばにいると安心する。いないと世界が少し静かすぎる。パールの小説に出てくるような燃え上がる気持ちとは、違うかもしれない。

 でもそれは深いところに根を張り、気がついたらもうそこにあったものだった。それに気づくのに、こんなに遠くまで来なければならなかった。


「……リーヴァイ。会いたいわ、今すぐにでも。またあの日みたいに……まだ世界が今よりずっと小さくて、霧の谷の道だけで十分だったころみたいに」


 悲しむ資格があるのかも分からない。それでも涙は止まらなかった。弱い自分が嫌で、でも弱さを否定できるほど強くもない。

 泣き切ってから、コーデリアは顔を上げた。机の上には便箋がある。


 ごめんなさい、という言葉から始めようと決めた。あの春の湖の上のことを話して、自分がどれほど酷い逃げ方をしたかを正直に書こうと思った。旅の間に分かったことを、ミスト・ヴァレーを恋しいと思うたびに気づいたことを、全部書こうと思った。

 でも謝るだけでは足りない気がして、でも謝ること以上の何を書けばいいのかが分からなくて、何日もかけて書いては消した。言葉を生業にしているつもりだったのに、一番大切な手紙が書けないまま、夜はふけていった。


 何日目かの朝、パールから手紙が届いた。グレイマロウの近況、新しい小説のこと、教授が変な人でこまっているという話。

 読み進めて、さらりと書いてあった言葉に、コーデリアの世界は根底から揺さぶられた。


 ──そういえば、リーヴァイ・サロウが婚約したって? グレイマロウの高名な医師の令嬢と、という話を聞いたわ。あなたの方が詳しいかと思って。


「……そんな」


 きっともう、彼はミスト・ヴァレーには戻らないだろう。

 グレイマロウの医師の娘と結婚するなら、あの霧の街に帰る理由がなくなる。わたしにあんなことを言って、結局誰でもよかったのね、という言葉が浮かんで、次の瞬間、自分の酷さに気がついた。

 逃げたのはコーデリアの方だった。手紙一通送らずに二年も経ったのだから、気が変わるのは当然だった。それでも、悲しくてたまらなかった。


 その夜、パールへの返事を書いた。

 近況のこと、ルチェナのこと、アレックスのこと、シャーロットが別邸を構えると言い出したこと。書いているうちにペンが少し速くなって、気がついたら書いてしまっていた。


 ──わたしもね、最近は結婚というものを真剣に考えているの。旅の果てに見つけた、誰かと共に景色を分け合う人生も、決して悪くないと思って。


 自分の書いた字を、他人の書いた字のように読み返す。本当のことから目を逸らすために書いた言葉は、うまく本当のことに似た形をしていた。言葉を生業にしている人間が書く嘘というのはたちが悪いのだ。


 勢いで封筒に叩き込み、通りすがりの郵便馬車に駆け込んで投函する。

 けれど案の定、翌朝目が覚めた瞬間に後悔した。


「……やっちゃった」


 ベッドの上で天井を見つめる。考えすぎかもしれない。でもパールはあのパールだった。面白い話を黙って抱えていられる人ではなかった。新しい小説の題材にされる可能性すら否定できない。


 朝食の席で、シャーロットが明るい顔で言った。


「今日はどこへ行く?」


「……おばさま、手紙の取り消し方を知っているかしら」


「送ったあとで? それは無理ね」


「……そうよね。分かっているのに」


「で、何を書いたの」


 コーデリアはメランジェに似た温かい飲み物を両手で包んで、窓の外の水路を見た。船頭が栞を挟みながら通り過ぎていった。


「……外交官と、結婚を考えているって」


 シャーロットが、また悲鳴に近い声を上げた。

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