第四十話
ミスト・ヴァレーの駅に汽車が着いたとき、ホームには誰もいなかった。この日に帰ると伝えてあったが、時間は誰にも知らせなかったから、当然だった。両親に伝えれば駅まで出迎えに来ると分かっていたし、何かと面倒なことになる。
霧の匂いがした。グレイマロウの乾いた夏とは違う、湿って重たい、まとわりつくような空気だ。それでも肺の奥まで吸い込むと、帰ってきたのだと思った。
駅から家までの道を、荷物を持って歩いた。アカデミー時代に何度も通った道で、石畳の隙間から夏草が力強く伸び、古い建物の壁には雨の後のような濃い緑の蔦が絡みついていた。
変わっていないようで、少しずつ変わっている場所がある。新しくなった街頭と、昔のままの看板と、六年前と同じ角を曲がると同じ景色が広がった。
小高い丘に向かって続くこの坂道を、何度歩いたか分からない。雨の日も霧の深い朝も、彼女をヴェスパー卿の屋敷まで送っていった夜もこの坂を上った。
ヴェスパー卿への礼はすぐにでも済ませよう、とリーヴァイは考えていた。六年分の学費を、医師として働いて返すつもりだった。断られるだろうと分かっていたが、こちらも引くつもりはない。あの人と同じくらい頑固であることには、ずっと前から自信があった。
まず荷物を置かなければならない。家に帰ってから、と坂を上り続けて、墓地の入り口に辿り着いたときに足が止まった。
草が伸びて、古い墓石に苔が青々としている。大きな柳の木が風もないのに枝をゆっくりと揺らしていて、その長い枝が地面に向かって垂れ下がって墓石の一角を隠していた。
その柳の下に、人影がある。
座り込んでいた。柳の枝の向こうに、小さく見えた。霧に包まれた淡い景色の中で、その輪郭だけがはっきりしている。
振り返った姿を見て、やっぱり彼女には、ミスト・ヴァレーがよく似合うと思った。グレイマロウの雲の下よりも、ルチェナの運河の光よりも。まるで霧がこの人のために用意されているように、この人がこの霧のために生まれてきたように。
「帰ってきていたのか」
「ええ。少し前にね」
コーデリアは柳の枝をそっと手で払いながら立ち上がった。彼女のお気に入りのスカートには湿った草の跡がついていたが、気にも留めていなかった。
「故郷を書かなくてはならないから。離れていた間に、ここについて書きたいことが山ほど溜まってしまって。遠くへ行くほど、愛おしいものがここにあると分かるのよ」
墓地を覆う霧が、二人の周囲だけをひっそりと隠しているようだった。コーデリアがゆっくりと顔を上げて、リーヴァイは彼女の瞳の奥に、かつてこの谷で並んで本を読んだ少女の面影と、遠く離れていた間に刻まれた新しい景色とが溶け合っているのを見た。
「あなたの手紙も読んだわ。いつもあんな風に書いてくれたなら、きっと何度でも読み返してしまうのに」
「……ああいうのは僕には向いていない。君に気に入ってもらうの、昔から難しいんだよ」
リーヴァイは熱を帯びた耳を隠すように、墓標の並ぶ先へと視線を逸らした。冷静さを鎧として纏っていた彼も、今はただ年相応の青年らしい困惑を露わにしている。
「……それで、君の結論は?」
コーデリアは微笑んで、それから語り始めた。ミスト・ヴァレーにやってきた一人の少女の話を。
霧の谷で迷子になって、言葉を覚えて、影の病と向き合って、たくさんの人に出会って、遠い場所まで旅をして、それでも帰るべき場所はここだと知った少女の話を。霧の中で目を育てて、霧の外へ出て、霧がなければ一番大切なものが見えないと気づいた少女の話を。
「その物語にね、最後の章を書き足さなくてはいけないわ」
「どんな章なんだ」
リーヴァイはコーデリアが紡ぐ言葉のひとつひとつを、こぼさないように深く聞き入っていた。彼女がこんなにも長い時間をかけて辿り着いた話を、自分はここで受け取らなければならないと思いながら。
「少女は長い旅の果てに、ようやくいるべき場所を見つけるの。そしてそこで、ずっと昔から隣にいた人に、もう一度プロポーズされるのよ」
その言葉が霧に溶けていくのを、リーヴァイは黙って聞いていた。荷物を地面に置いたとき、離れていた六年の歳月が、ようやく重みを手放して降りていくように思えた。
「……そういう結末か。今度こそ断られないといいけどな」
「心配しないで。少女の答えは、もう決まっているもの」
コーデリアに迷いがないことは、瞳を見れば分かるはずだった。分かってくれるはずだと、そちらの方が近かった。
リーヴァイはしばらくの間、何かを切り出す言葉を探すように黙っていた。それからふと手を伸ばして、コーデリアのスカートについた草の跡をそっと払う。手持ち無沙汰な仕草がひどく正直だった。
六年間グレイマロウで積み上げてきた理知も、ここに帰ってきた途端にあっけなく剥がれ落ちてしまうらしい。コーデリアはそれを見て、この人はずっとこういう人だったと思った。不器用で、真剣で、誤魔化すことを知らない人だった。
「……コーデリア、ずっと君を大事に思ってきたよ」
リーヴァイは震える手で、コーデリアの肩を抱き寄せる。どれだけ冷静に見えても、大切なことの前では必ずこうなる人だ。そのことを、霧の谷を離れていた間も、どこかでずっと知っていた。
「君が帰る場所がここなら、僕もここにいる。一緒に毎日を過ごしたい。朝起きて君の顔を見て、夜は君の声を聞いて。君の家族になりたいんだ。僕と結婚してほしい」
コーデリアの目に熱が集まって、視界が滲む。こらえようとして、こらえられないのに、泣きたいのとは少し違う。長い旅の果てに、ようやく正しい場所へ戻ってきたということが、涙という形を借りて溢れてくるのだと思った。
「……わたしも。わたしもあなたと家族になりたい。大好きよ、リーヴァイ」
溢れ出す言葉とともに、コーデリアはリーヴァイの胸に飛び込んだ。霧に湿った布の感触と、その奥にある確かな温度と、鼓動が伝わってくる。
「傷つけてごめんなさい。ひどいことを言って、逃げてしまってごめんなさい」
コーデリアは彼の胸に顔を埋めたまま言った。彼女の肩が小さく震え、あふれた涙がリーヴァイのシャツを濡らしていく。
「でもようやく分かったの。あなたがいてこそ、ミスト・ヴァレーはわたしの故郷なんだって」
リーヴァイは何も言わないまま、ただ彼の腕がゆっくりとコーデリアの背中に回って引き寄せた。それがこの人の答えなのだ。言葉より先に、体が動く人だった。
「大好き。ずっと、ずっとよ」
言葉が途切れるのと同時に、リーヴァイは唇を押し当てた。長すぎた季節を求めるように、コーデリアが息をつこうとした瞬間にも、再び唇が触れ合う。
「……旅はどうだった?」
口付けの合間、彼は吐息混じりに尋ねた。コーデリアは彼の腕の中で、満足げに目を細める。
「たくさんの景色を見たわ。言葉にしきれないくらいよ。でも、全部書いてきたの」
「あとで読ませて」
息が混ざり合う中、今度はほんの一呼吸置く間もなく、二度、三度と重なる。途切れ途切れ、何度も何度も、言葉の隙間に溢れる感情をぶつけるように。
やがて息を切らして額を合わせ、二人は小さく笑った。コーデリアは抱き締められながら、旅の終わりのことを思い出していた。
「帰らなければならない場所があるの。ずっと前から、分かっていたのよ。旅がどれほど続いても、わたしにはあの霧の谷に帰るべき何かがある」
リーヴァイからの手紙が届くより前に、アレックスには別れを告げた。彼は残念そうな顔をしたけれど、最後にこう言ってくれた。
「省略記号というのは終わりではないんですよ。言い切れなかったのではなくて、続きがあるから点を三つ置く。省略記号の後には、必ず言葉が来るんです」
彼の言った通りだった。省略記号の街の後にはまだ物語があって、ここが最後の章なのだと思った。同時に、真っ白な頁をめくる新しい始まりでもあって、コーデリアは自分の人生という物語が、ここへ辿り着くためにあったのだと確信する。
「帰ったら書かなくてはならないわ。霧の谷の少女の物語の続きを。ずっと書けなかった最後の章が、今ならきっと書けるから」
「……なるほど。執筆という仕事は、将来を決めたばかりの婚約者との対話よりも優先されるべきだと判断されたわけだ」
「でも書かずにはいられないの。あなたのことを書きたいのよ。この霧の谷のことを、わたしたちのことを」
リーヴァイはそれきり何も言わなかったけれど、腕に力を込めてコーデリアをぎゅっと抱きしめ、額を彼女の髪に寄せた。文句の代わりがこれなのだ。コーデリアは手のひらで彼の背をなぞり、両腕を苦しいくらいに回して胸に顔をうずめた。
「それに、すぐに終わるわ。最後の一文は、もうずっと前から決まっているもの」
十二歳のあの日、ひとりぼっちでこの街にやってきた少女は、長い時間をかけて大切なものをすべてここで手に入れた。帰る場所を、名前を呼んでくれる家族を。そして、霧の谷の道をずっと隣で歩いてきた、愛する人を。
霧の中で言葉を覚えた。霧の中で傷ついた。霧の外へ出て、世界の果てまで歩いて、それでも霧の中にしか見えないものがあると知って帰ってきた。失いかけて初めて、その形が分かるものがある。少女はそのことを、長い旅の果てにようやく言葉にできるようになった。
ミスト・ヴァレーはいつもそうであったように、大切なものを霧の中に包んで待っていてくれた。
霧の谷の少女の物語に、最後の一文を書こう。
コーデリア・レイス、二十二歳の夏。──霧の谷にて。
了




