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コーデリア・レイス、霧の谷にて  作者: 櫻まど花


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第三十六話

 白い石造りの街並みが陽光に溶け出すような眩しさを残し、船は深い群青の海を切り裂いて進んでいく。秋の色彩を慈しんだ神話の街は遠ざかり、今は冬の始まりの風が波頭に銀色の鱗のような飛沫を散らしている。


 船のデッキで、コーデリアは膝の上に便箋を広げた。風が端をさらおうとするので、手のひらで押さえながら書く。


 ──パールへ。

 今、船の上にいるの。風が強くて、便箋を押さえていないと飛んでいってしまいそう。字が歪んでいたら、風のせいだと思って読んでちょうだい。


 怪奇文学と古い伝承を研究する人々が集まるサロンに行ったわ。とある古都でのこと。蝋燭の灯りの下で、誰もが恐ろしい話を楽しそうに語っていた。あの夜だけで手帳を一冊使い切ったけれど、封筒に入りきらないから、一番おぞましかった話だけを選んで書くね。

 ある研究者が言っていたの。古い伝承というのは、怖がらせるために生まれたのではないと。人間が説明できないものに、とりあえず名前をつけようとした、その痕跡なんだって。闇に名前をつければ、少しだけ怖くなくなるから。


 書きながら、コーデリアはヴァルツでの輝くような夏を思い出した。

 夏の終わりとともに訪れた別れの朝、アレックスはホテルまで見送りに来てくれた。汽車の時間まで、カフェでメランジェをもう一杯だけ飲んだ。


「また来てください。時代が変わっても、この街の文化だけは変わらない。ヴァルツは逃げないから」


「あなたも逃げないでいてね」


「僕は逃げませんよ。たまに隠れるだけで」


 美しい夏だった。彼と過ごした日々は一生忘れられない栞となるだろう。コーデリアは汽車の窓から、オペラ座の白い屋根がやがて光の中に溶けていくのを見つめた。


 次に訪れた山と湖の美しい田舎町のサロンでは、詩的な風景の表現にこだわりを持つ人ばかりが集まっていた。山の稜線をどう言葉にするかで二時間議論が続いたこともある。あの夜のことはセオドアに長い手紙で送った。あなたが好きそうな人たちがいたわ、と。

 各地の文学サロンは、どこも個性があって面白かった。言葉で生きている人間というのはどこの国にもいて、言葉の形は違っても、言葉を愛する理由はどこも似ていた。


 旅は一年の予定だった。でも秋を過ぎて、冬が来た。シャーロットおばさまはまだ飽きそうにない。今朝の朝食でも地図を広げて、まだ「次はもっと美しい場所へ行きましょう」と嬉しそうに言っていた。

 おばさまにとって、この旅は終わることのない永遠の読書だ。けれどコーデリアの中で、物語はもう一つの結末を求めていた。


 ミスト・ヴァレーでは今頃、霧の中に雪が混じっているだろう。エレンが暖炉に薪を足しているだろう。オーロラが一番温かい場所を見つけて丸くなっているだろう。


 波が船腹を打って、デッキが緩やかに揺れた。コーデリアは便箋を押さえながら、続きを書いた。


 ──各地を巡りながら、ずっと書き続けてきたわ。手帳は何冊になったか、もう数えるのをやめたの。

 ねえパール、正直に言うと、この頃ずっとミスト・ヴァレーが恋しいの。たくさんの美しい風景を描いてきたけれど、一番心惹かれるのはやっぱりあの霧の中なのよ。遠くへ来るほど、そのことがはっきりと分かってきた。

 シャーロットがおばさまが、あなたは霧に愛されているみたい、と言ってくれたことがある。そのときはまだよく分からなかったけれど、今は分かる気がするの。愛されている居場所には、帰りたくなるわ。


 ペンを止めて、コーデリアは海を見た。水平線がどこまでも続いている。もうすぐ、運河の都と呼ばれるルチェナという地に着く。仮面と音楽が夜ごと漂い、水の上に建つ街をコーデリアはまだ見たことがない。


 便箋に戻って、最後の一行を書いた。


 ──着いたらまた手紙を書くわ。帰ったら、全部話しましょう。


 船から降りたとき、足元は石畳ではなく桟橋だった。そこから街へ続く道は細く、両側に古い建物が迫っている。水に浸かり続けた古い建物が大きな水路を囲み、橋の上では一人の音楽家がマンドリンを爪弾いている。


 シャーロットおばさまは、この街に降り立った瞬間から名産である仮面に夢中になった。


「コーデリア、これを見て。あなたにはこの青い仮面が似合うわ。まるで深い海の色ね」


 おばさまは無邪気に笑い、自分自身には情熱的な真紅の仮面を選んだ。色鮮やかな孔雀の羽根や、贅を凝らした金の装飾が施されたものだ。

 運河の街へ来て数日が経ったある夜のこと。彼女は瞳を輝かせ、部屋の扉を勢いよく開けて飛び込んできた。

 

「コーデリア、大変よ。今夜、街で一番豪華な邸宅で仮面舞踏会が開かれるの!」


 夜のルチェナは仮面を被るように、昼間とはまるきり姿を変えた。豪華な邸宅が水面に映って、夢のように揺れて見える。

 邸宅の広間では仮面をつけた人々が踊っていた。誰が貴族で誰が詩人で誰が商人かなんて、今夜は分からない。


 コーデリアは結局、広間の端の窓辺に寄りかかってペンを走らせていた。今夜だけは書くより先に見ていようと決めたのに、気がついたら手帳が手の中にあった。書かずにいられない体になってしまったのかもしれない。それとも、書くことが見ることと同じになっているのかしら。


 水路に面した窓の外では対岸の邸宅の灯りが水面に映って、橋の影が水の中で細く伸びていた。広間の音楽が背後で続いていて、踊る人々の裾が翻るたびに蝋燭の炎が揺れた。


「運河の水は今夜、都の夢を映していますね」


 コーデリアは顔を上げる。仮面をつけた男性が立っていて、顔は分からないのに独特の響きを持つ声に聞き覚えがあった。よく知っている声だとは言えなかったけれど、忘れていない声だ。


「わたしなら、水は夢を映しているのではなくて、夢が溺れているのだと書くかもしれないわ」


「なるほど。ではこの街の人間は、夢の上で暮らしているのではなく、溺れた夢の上を歩いているわけだ」


「ええ。でも夢は沈んでも、消えるわけではないでしょう。水の底で形を変えて、また別の物語になるわ」


 仮面の男はその言葉を聞いてふっと肩を震わせた。忍び笑いか、それとも感嘆か。彼は窓辺のテーブルに指先を置き、運河を流れる水面を覗き込む。


「あなたの言葉は相変わらず、僕が追いかけていたあの夏の栞の続きを読んでいるようだ」


 彼はゆっくりと顔に当てていた銀の細工の仮面を外し、柔らかな眼差しを露わにした。月光が彼の顔立ちに影を落とし、あの少年のような笑みが宿る。


「アレックス!」


「お久しぶりです。夏以来ですね」


「ルチェナにいたの? それに、どうしてわたしだと……」


「外交官というのはいたるところにいるものです。舞踏会の最中に手帳を開く人は、世界中を探してもあなたしかいませんが」


 自分だけが別の時間の流れに身を置いているような、そんな浮遊感が恥ずかしくて、コーデリアはドレスの裾をぎゅっと握った


「どうしても書いてしまうのよ。社交の場なのにね」


「いいと思いますよ。羨ましいくらいだ。でも僕には真似できない。踊らずに手帳を開いていたら、外交上の問題になりかねないから」


 それは残念なことだわ、とコーデリアは思った。景色を読む遊びを、この人と続けていたかった。


「でも今夜は非番なので、手帳を開いている人の隣に立つくらいは許されるでしょう」


 広間の音楽が続いていた。仮面をつけた人々が踊っていた。誰が誰か分からない夜の中で、窓辺だけが少し静かだった。


「あなたなら、ルチェナをどう読む? ヴァルツは読むべき行間が多すぎると言っていたでしょう。この街は?」


「省略記号だと思います。言い切らない街なんです。水路の先に何があるか、橋を渡ってみないと分からない」


「やっぱり、この遊びはアレックスが一番上手ね」


「あなたに認めてもらえると、外交交渉に勝った気分になりますよ」


 アレックスは笑った。笑うと、やはり子どものような顔になった。


「ヴァルツを出たあと、旅はどこへ行きましたか」


 コーデリアはたくさんのことを話した。アレックスは手すりに肘をついて、黙って聞いていた。ときどき目を細めて、ときどき小さく笑った。


「ずいぶん色々な場所に行きましたね」


「シャーロットおばさまが旅好きなの。ぜんぜん飽きない人なのよ」


「嵐みたいな方ですか」


「よく分かったわね。一度も立ち止まることを知らないのよ」


「あなたがそういう顔をして話すから。困っているのか好きなのか、その両方なのか判然としない顔で」


 広間の音楽が変わった。緩やかな曲から、少し速いものへ。踊る人々の動きが変わって、仮面が光の中できらめいた。


「踊りませんか。ダンスも外交官の仕事のうちだ」


「だけど、さっき非番だと言っていたわ」


「踊るときだけ復帰するんです」


 今夜は書くより先に見ていようと決めた夜だった。結局書いてしまったけれど、残りの夜くらいは、ペンを置いてもいい気がした。

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