第三十五話
変わり者の青年は、アレクサンダー・フリートホーフと名乗った。ヴァルツで外交官を務めているのだという。
「どうぞアレックスと呼んでください。アレクサンダーは書類の上だけの名前なので」
景色を文章として読み解くというアレックスの遊びは、今夜だけはもはや独りよがりなものではなかった。コーデリアという稀有な共読者を得て、それは二人だけの秘密の言語になったのだ。
夜会の終わりが近づいた頃、アレックスがヴァルツを案内すると言ってくれた。
「ヴァルツは読むべき行間が多すぎる街です。よろしければ、案内させてください」
シャーロットおばさまにこの話をすると、彼女は悲鳴に近い声を上げて喜んだ。
「ヴァルツの外交官よ、この街を知り尽くしている人たちよ。コーデリア、あなた運がいいわ」
約束の朝になると、シャーロットはコーデリアをクローゼットへと引き立てた。ウィロウミアで買い揃えたドレスを何着も引っ張り出して、これはどう、いいえこちらの方が、と次々と当てていく。
厳しい審美眼によって選ばれたのは流行の仕立てのドレスで、つばの広い帽子には花飾りがついていた。鏡の前に立つと、ミスト・ヴァレーにいた頃のコーデリアとはずいぶん違う人が映っていた。
夜会で交わした約束通り、アレックスはホテルのロビーで待っていた。彼はコーデリアの装いを見ると、まるで美しい詩の一節を見つけたときのように「この街に良く似合う人だ」と言った。褒め言葉のようだったから、「そんなふうに言われると、長居したくなってしまうわ」と答えた。
彼がまず連れて行ってくれたのは、煤けた重厚な石壁に金文字の看板が掲げられた老舗のカフェだった。一歩足を踏み入れると豆の香ばしい匂いが触れて、高い天井の下にずらりと席が並んでいた。
「ヴァルツでは、急いで朝を食べるのは無作法なんです」
アレックスは年季の入った木製の椅子を優雅に引きながら言った。運ばれてきたのは、ふわふわと泡立てられたミルクがたっぷりと載ったメランジェと呼ばれるコーヒーと、宝石のように艶やかなケーキ。コーデリアは一口食べてから、思わずもう一口食べた。
「どうしましょう。もう一口でここが好きになってしまったわ」
「そうでしょう。この店は百年以上ここにあるんです。建物もレシピもずっと変えていません」
コーデリアはカップを持ったまま店の中を眺める。隣のテーブルでは老齢の男性が新聞を広げていた。その向こうでは、若い二人が身を乗り出して何か話し合っていた。入り口近くの席では、軍服の人間と黒い上着の人間が向かい合って座っていた。
「この街では政治家も音楽家も詩人も、みんな同じ店で朝を過ごすんですよ。議論は議会じゃなくてこういう店で始まる。法律より先に、コーヒーカップの上で物事が決まることがある」
店の隅を見ると、新聞が山積みになっていた。何紙もの朝刊が束になって、誰でも手に取れるように置かれていた。
「ここに座って耳を澄ませていれば、半日でこの国の噂は全部聞けますよ。昨日誰が恋に落ち、今日誰が失脚するか……」
「このこと、書いてもよろしい?」
「どうぞ。ここでは、何かを書いている人間は珍しくないから」
カフェを出て、二人はヴァルツの街を歩いた。馬車が通り過ぎるたびに蹄の音が響いて、コーデリアは歩きながら、目に入るものを手帳に書き留める。
花屋の店先に並んだ白い花のこと、古い建物の壁に刻まれた文字のこと、子どもが鳩を追いかけていること。ヴァルツにはどこを切り取っても絵になる何かがあった。
角を曲がったとき、どこかの窓からピアノの音が聞こえた。同じ旋律を繰り返し、少し詰まって、また戻って丁寧にやり直す。
「あら、誰かが練習しているのかしら」
「そうでしょうね。ヴァルツの家という家には鍵盤か弦が隠されていると思ったほうがいい。この街の人は言葉を覚えるのと同じくらい自然に、何かしら楽器を嗜むものなんです」
「アレックスも?」
「僕は弾けません。まったく」
あまりにあっけらかんと返ってきたので、コーデリアは目を丸くしてしまった。
「だから僕は弾けるふりをするんです。誰かが素晴らしい演奏をしていたら、あたかもその運指の難しさを理解しているような顔で深く頷く。外交官には欠かせない技術ですよ」
「まあ、嘘つきね」
「いいえ、社交術と呼んでください。習得に五年かかりました」
コーデリアは笑いながら、弾けるふりをするのに五年かかった外交官、と手帳に記す。アレックスは少年のような顔で笑うと、次に彼女を皇宮の庭園へと誘った。
中に入ると、整えられた生垣が続いて、噴水が陽光を受けてきらめいていた。花壇には夏の花が色とりどりに咲いていて、小径が庭の奥へと緩やかに伸びている。
「この庭は昔の皇帝陛下が、愛する妻のために作らせたんです。皇后陛下が散歩を好む人だったから、どこまでも歩けるように設計した。迷子になっても、また美しい場所に出るように」
コーデリアは生垣の向こうへ続く小径を眺めた。光が木漏れ日になって、石畳の上に揺れていた。
「今は?」
「今は近所の方々の散歩道です。老人が犬を連れて歩いて、子どもが走り回って、恋人たちが並んで歩く。皇后の愛した庭は、今は街の人々の日常になっています」
手入れの行き届いたバラの香りが、つばの広い帽子の下まで届く。木漏れ日が肩に落ちて、花の香りが風に乗ってきた。
「かつては一人の女性のためだけの聖域だった場所が、今は名もなき誰かの日常を彩る風景になっている。これも素敵な書き換えだと思いませんか?」
「……その言葉、書き留めてもいいかしら。とても素敵だから、忘れてしまうのがもったいないわ」
「喜んで。作家に言葉を拾われるなんて、なかなか光栄なことですね。お好きなだけ、ごゆっくりどうぞ」
「どうもありがとう。この庭の歴史はまるで、古い物語が新しい読者に見つけられるみたいね」
愛するものために作られた場所が時を経て、見知らぬ人々の日常になっていく。その移ろいの中に、何か美しいものがあると思った。愛は形を変えながら、でも確かにそこに残っている。かつての皇帝が最愛の妻に贈った、どこまでも歩けるように作られた庭を、コーデリアはゆっくりと歩いた。




