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コーデリア・レイス、霧の谷にて  作者: 櫻まど花


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第三十四話

 次に二人が辿り着いた土地は、芸術で名高い光と色彩の街だった。

 どこを切り取っても絵画のように美しく、街を歩く人々までが何らかの物語を抱えているような雰囲気を纏っている。美術館があちこちにあって、どこへ入っても一日では足りなかった。


 広場を歩いていたとき、一人の画家がイーゼルを立てているのを見つけた。キャンバスに向かって筆を動かしていて、何を描いているのかしらと眺めていたら、突然顔を上げてコーデリアを見た。


「そこで止まっていてくれますか。そのまま、そちらを向いて」


 コーデリアはとりあえず言われた通りにした。動いてはいけないのだろうと思って、なるべく自然に立ったまま、でも何もしないのも手持ち無沙汰だったから、手帳とペンを取り出した。画家がキャンバスに向かってコーデリアを描いている間、コーデリアはこのことを書き留めることにした。


 見知らぬ街の広場で、見知らぬ画家に描かれながら、自分がそのことを文章にしている。奇妙な話だと思いながら、でも手は止まらなかった。


 シャーロットおばさまはこの芸術の都をいたく気に入り、広場でのスケッチやサロンでの議論に没頭するあまり、雪が降り始めても離れようとしなかった。「もうずっとここに住んでしまいそう」と彼女が冗談めかして言ったときは、コーデリアは本気で心臓が止まるかと思った。

 けれどある朝、冷たい空気に背中を押されるように、「名残惜しいけれど、来月にはここを発ちましょう」と告げた。彼女の旅は、常に風の気まぐれに導かれているのだ。


 次に訪れたのは、険しい山々に囲まれ、空を突くような断崖の上に城がそびえ立つ地方だった。宿の主人に城のことを尋ねると、昔あの城に住んでいた貴族が、夜ごと村の若い娘を城へ連れ込んで血を吸った、という言い伝えがあると教えてくれた。

 村人は今でも日没後は城の方角を見ようともせず、夕闇が迫ると早々に戸締まりをしてしまう。村の家々は石造りで、窓が小さく、扉が厚かった。外の寒さを中に入れないための造りなのか、それとも別の何かを入れないための造りなのだろうか。


「本当に吸血鬼がいたんですか?」


「信じるかどうかより、用心するかどうかの問題ですよ」


 この不穏で蠱惑的な雰囲気に、コーデリアはパールの顔を思い浮かべた。市場へ向かい、血の色に似た深紅のリボンや、死の象徴とされる鳥を象った銀のブローチなど、いかにもパールが気に入りそうないわくつきの品々を買い込む。小包には、村人に聞いた噂話を綴った手紙を添えた。

 村はコーデリアにとって居心地の良い場所だったが、シャーロットが「毎日同じおぞましい悪夢を見るわ」と顔色を悪くしたため、わずか二週間でその地を去ることになった。どんな夢なのかと尋ねたら、城のことよ、とだけ言って、それ以上は教えてくれなかった。

 

 それからは道中のいくつかの都市に立ち寄りながら、季節が巡った。春の港町では、水平線の向こうから来る船を眺めながら、海の言葉を覚えた。初夏の小さな村では、一面の花畑の中に立って、花の名前を片っ端から手帳に書き留めた。


 今は輝くような夏、二人が滞在していたのは音楽の都と称される優雅な都市、ヴァルツだった。

 街は五線譜が舞っているかのように華やいで、ホテルの窓からは中心にそびえるオペラ座が見えた。夕暮れにはどこからともなく弦楽器の調べが流れてきて、コーデリアは窓辺でその音色を言葉にするのに没頭していた。


 突然扉が勢いよく開け放たれて、シャーロットが飛び込んでくる。彼女の後ろにいたのは、白髪を芸術的に逆立てた年配の音楽家だった。


「ご挨拶なさい。私の旧友で、ヴァルツの楽団で首席指揮者を務めるマエストロよ」


 その日の午後、コーデリアはヴァイオリンの練習に付き合わされた。彼女の音楽の才能はシャーロットの無茶ぶりによって、旅のたびに無理やり引き出され、磨かれていく。


 ヴァルツは今社交の季節で、シャーロットにとってこれほど都合の良い土地はなかった。夜ごと開かれる全てに顔を出すつもりらしく、コーデリアは毎晩着替えて、馬車に乗って、見知らぬ邸宅の煌びやかな広間へ連れていかれた。


 夜会では窓の近くが一番居心地が良い。庭に面した大きな窓は全て開け放たれていて、夏の夜の空気が薄いカーテンをゆらゆらと揺らしている。シャーロットはすでに旧知の誰かを見つけて、コーデリアは一人きりで人波の端の方に立っていた。

 遠くにオペラ座の灯りが見えて、コーデリアは手帳を取り出したい衝動をグラスを持ち直すことで抑える。夜会の最中に手帳を広げるのは、さすがにまだ一度も試みたことがなかった。


「景色を読んでいるんですか」


 振り返ると、仕立ての良い燕尾服を纏った青年がこちらを見つめていた。年の頃はコーデリアより少しだけ上に見えて、洗練された佇まいの人だった。


「景色を読む、なんて言い方をする方には、初めてお会いしましたわ」


「そうでしょうね。あまり理解されない、独りよがりな遊びですから」


 青年は手にしたグラスを静かに揺らした。氷が触れ合うかすかな音が、周囲のオーケストラの旋律に溶け込む。


「僕はこの街を歩くとき、街全体を一つの本として読むことにしているんです。景色というのは文章みたいなものだから」


 変な人、とコーデリアは内心でそう評した。この夜会には星の数ほどの社交辞令や、退屈な身の上話が溢れているけれど、「街を本として読む」なんて気障で突拍子もない台詞を、ここまで真面目な顔で口にする人は初めてだった。


「……景色を、文章に。それなら、あそこに立つオペラ座はどう読みますか?」


 コーデリアは少しだけ意地悪な好奇心を抱いて、テラスから見える夜の象徴を指し示した。


「あれは感嘆符ですよ。街を歩く誰の視線も立ち止まらされて、溜息と共にそこにある壮麗さに平伏してしまうでしょう? あれは街が、道ゆく人にここで感嘆せよと命令を下す、巨大な感嘆符なんです」


 やっぱり、すごく変な人。けれど、それは決して不快な変人ではなかった。むしろ、これまでずっと自分の内に閉じていた言葉の扉を開けられたような、不思議な眩しさを感じたのだ。


「……では、あの街角に並ぶ古い街灯は?」


「歩く速度を調整してくれるような、物語を途切れさせないための読点です。あそこを通るたびに、僕たちは自分の人生という文章を整理するんです」


「面白い方ね。では、わたしも試してみてもよろしい?」


「ぜひ」


 コーデリアは夜会の喧騒を背に夜のヴァルツを見渡した。街の中央を流れる川が建物の隙間から見える。月光を吸い込み、光の断片を散らしながら、絶え間なく流れていく黒いリボンのような水面。


「あの川は接続詞だと思うわ。昨日のこの街と今日のこの街を繋いで、昨日までの悲しみや喜びを、明日へ運んでいく。どれだけ長い物語であっても、あれがあるからわたしたちは読み進められるのよ」


 そう口にした瞬間、青年の表情がぱっと花開く。笑うと表情が幼くなる人だった。洗練された大人の仮面が剥がれ落ちた、純粋な少年のような表情にコーデリアは面食らった。


「それは、僕が今夜聞いた中で一番好きな言葉だ」


「そんな、大げさだわ」


「本当のことですよ。接続詞の川なんて、この街に何年いても思いつかなかった。あなたはどこでそういう目を育てたんですか」


 彼は心底嬉しそうに、何度も深く頷いた。


「……旅をしながら、かしら。あとは、霧の深い谷で育ったから」


「霧の深い谷」


 夜風に吹かれながら、彼は繰り返す。


「霧の中では、見えないものを想像するしかないでしょう。だから景色を見る目が、人より豊かになるのかもしれない」

 

 広間から、シャーロットおばさまの良く通る笑い声が聞こえた。誰かと陽気に話して込んでいるらしかった。話し込んでいるから、今夜は帰りが遅くなるだろう。


「まだあなたと話していたい。お嬢さん、もう少し、ここにいてもらえますか」

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