第三十三話
夏のレイクフォールは、窓を開け放つと湖を渡る風がカーテンを大きく膨らませ、瑞々しい草の匂いを部屋の隅々まで運んでくる。教師として過ごした日々の思い出が残るこの下宿の部屋も、今は旅に備える大きなトランクが二つ、主のように居座っていた。
「ねえ、この本たち全部持っていくつもり?」
「全部は無理だと分かっているのよ」
「ええ、そうでしょうね。旅って、何かを置き去りにすることで始まるものだもの」
パールが本棚から一冊を引き抜いて言う。コーデリアは何を持っていくべきで、何を置いていくべきか途方に暮れた。彼女のいう通り、旅に出るということは、持っていけないものを選ぶということでもあった。
「あなたがいないと寂しくなるわ。古い屋敷に一人だけ取り残された幽霊みたいな気分よ。ねえ、セオドア?」
「そうだね、僕も寂しいよ。でも一番困っているのは、コーデリアが旅の話を僕に聞いて、なんて子どもたちに言い残していったことだ。クロプシー先生に手紙を送るからって……」
セオドアの嘆きに、パールが愉快そうに肩を揺らした。
「おかげでこの数日、何人にも廊下で捕まって。レイス先生は今どこですか、もう北の果てに着きましたか、って質問攻めなんだ。まだ君はこの部屋にいるっていうのに」
「北の果てはまだ先になりそうよ」
「そう伝えておくよ、何度でも」
笑いが落ち着いたところで、パールが何かを思い出したように顔を上げる。椅子の背に掛かっていたショールをたたむ手を止めずに、さらりと言った。
「リーヴァイ・サロウも寂しくなるでしょうね。ずっと仲良しだったでしょう。見送りには来るの?」
コーデリアの手が一瞬止まって、止まったことに気づかれないようすぐに動かした。積み上げた原稿の束を揃えて、トランクの隅に丁寧に押し込む。何でもないことのように息を整える。
「来ないわ」
「どうして? グレイマロウからでも来られるでしょうに」
「元々、休暇のときくらいしか会っていなかったもの。今まで通り手紙も送るから、特別なことは何もないわ」
嘘だ。あれ以来手紙は一通も送っていないし、リーヴァイからも来なかった。春の湖の上に言葉を置いてきたまま夏が来て、それも終わろうとしている。
パールは少し間を置いた。その間の長さが、パールが何かを考えているということを意味していた。コーデリアはトランクに目を落としたまま、その間をやり過ごす。
「そう。あなたがそう言うなら、そうなんでしょうね」
リーヴァイがあの考えを諦めてくれさえすれば、元に戻れるのに、とコーデリアは思った。手紙のやり取りも、たまに顔を合わせることも、当たり前にあったものが全部戻ってくるのに。
でも諦めてくれたとして、本当に元に戻れるのだろうか。
そんな問いが浮かんで、慌てて押し込んだ。考えてはいけないことだった。
彼がわたしたちの間にあったものを壊したのだ。あの春の湖の上で、ずっとそのままでいられたはずのものを、言葉にしてしまったから、もう元の形には戻れなくなった。
リーヴァイのいない物語を、コーデリアはこれから生きていかなければならないのかもしれない。知らない街の匂いの中で、見たことのない空の色を言葉にしながら。
「これ、どうする?」
パールが一冊のノートを差し出した。リーヴァイにもらったノートだった。最初の空想を書き始めた、あの青い小花柄の。もうとっくに書き尽くしているけれど、捨てられずにずっと持っていた。
コーデリアは少し黙ってから、手を伸ばした。
「持っていくわ」
◆
シャーロットおばさまと最初に降り立ったのは、ウィロウミアという大きな街だった。大きな、という言葉では足りないかもしれない。ミスト・ヴァレーの何倍もある街で、どこを歩いても人の波が絶えなかった。馬車の音と人々の声と、どこかから漂ってくる花の香りが混ざり合って、コーデリアはただ圧倒されながら歩いた。
シャーロットはその賑やかさの中を泳ぐように進み、到着した翌日から、旅先で着るものを見繕うという名目で次々と店を巡った。ドレスを選んで、帽子を合わせて、靴を試して、また次の店へ。
コーデリアの分だけでもう十分すぎるほどの荷物になって「これ以上は持ち運べないわ」と伝えると、シャーロットは「心配しなくて大丈夫よ、旅慣れているから」と言って、自分の分をその倍買った。
文学サロンに連れていってもらったのは、ウィロウミアに着いて数日後のことだった。
シャーロットの旧友である貴婦人が主催していて、街の一角にある古い邸宅の応接間に、様々な人々が集まっていた。蝋燭の灯りの下で、誰もがグラスを手に持ちながら、言葉について、物語について、詩について、飽くことなく話し続けていた。
人気の探偵小説を書く女性作家がいた。柔らかい物腰の人だったけれど、話してみると目の奥は鋭くて、人間を観察することをやめたことが一度もないという気配がある。どんな細部から物語を着想するのかと尋ねると、何でもないところから、と笑って答えた。食卓に残ったグラスの跡からでも、と。
情熱的で少し危険な雰囲気の若い詩人もいた。革命家と呼ばれているらしく、その詩は既存の詩の形式を全て壊すことから始まると言った。壊すことが創ることだと、少し挑むような目で言った。
各地の伝説を集めている民俗学者とは一番長く話した。消えていく言葉のことを、その人は心配していた。文字に残されない伝説は、語り継ぐ人がいなくなれば消える。
消えてしまえば、その土地にそういうものがあったことすら誰も知らなくなる。コーデリアはその話を聞きながら、ミスト・ヴァレーのことを思った。あの霧の中に、まだ誰も言葉にしていないものが、きっとたくさんある。
ウィロウミアにはひと月ほど滞在した。行くところが多くて、毎日が新しいものに満ちている。
ある朝、シャーロットが朝食の途中で顔を上げた。
「今日、汽車に乗るわ」
「今日、ですか」
「ええ。出発しましょう」
コーデリアは残りのパンを急いで口に入れて、荷物をまとめた。シャーロットと旅をするということはこういうことなのだと、この一ヶ月で学んでいた。




