第三十一話
ミスト・ヴァレーの春は霧が薄くなって、光が少しだけ届くようになる。それでも空の色は灰青いままで、牧草地の緑も、湖の水も、派手に主張することを忘れたような静けさの中にある。
コーデリアはレイクフォールの色彩に慣れた目でその色のなさを眺めて、でも嫌いじゃないと思った。これがわたしの育った街の春だと、今は少し誇らしい気持ちで見られる。
リーヴァイがオールを止めてからしばらく経つ。波もなく、風もほとんど吹かない昼下がり、小舟は湖の真ん中あたりで、揺りかごのようにのんびりと漂っている。
「やっぱりわたし、湖畔って大好きよ。ずっと見ていてもぜんぜん飽きないわ」
「そうか」
「出してくれてありがとう。最初は渋ったのに。でも、無理やり連れ出されて正解だったでしょう?」
「渋ったのは舟の大きさを知っていたからだ。……現に今、僕たちの足元は君のスカートで埋め尽くされていて、一歩でも動けば舟ごと転覆しそうだよ」
コーデリアの春のスカートはたっぷりとした布地で作られている。座ると広がって、舟の中をほとんど埋め尽くしていた。乗り込むときに手間取ったけれど、このスカートが好きだったから、着てきたことを後悔はしていなかった。
「……本当に、少しでも身じろぎをしたら終わりだからな」
「大丈夫。今日のわたしは大人しくしているわ。とってもね」
「今日の君はそう言うが、景色が綺麗だとか、あっちに鳥がいるとか、そういう理由で突然身を乗り出す前科があるんだよ」
「そんなことするつもりはないけれど……それなら、もしもの時のために祈っておいてちょうだい。わたしが突然ばかみたいに立ち上がったりしませんように、って」
リーヴァイは返事をしなかった。呆れているのか諦めているのか、その中間なのか、コーデリアにはもう分かった。どれも正解だった。
気ままに乗り込んできたオーロラは、スカートの上で丸くなって微睡んでいた。布地がちょうど良い具合にクッションになって、揺れる舟の上とは思えない安定感でそこに収まっている。目を細めて、ひげをかすかに動かして、この上なく気持ちよさそうだった。
「オーロラはいいわね。いちばん落ち着く場所をちゃんと知っているんだから」
「猫は正直だな」
「わたしも正直よ。とても気持ちがいいもの。ずっとこうしていられたらいいのにって思うくらい」
リーヴァイは湖の向こうを見た。岸の方に、枝だけになった木が何本か並んでいる。もう少し季節が進めば、葉が出るだろう。
コーデリアは水面に手を伸ばす。指先が冷たい。春とはいえ、ミスト・ヴァレーの湖はまだ冷えていた。
「グレイマロウで知ったことを、ずっと考えていたわ。わたしにも、パパとママがいたんだって。ちゃんとわたしのことを想ってくれていた人たちが。それだけのことなのに、なぜかまだ夢みたいで」
「夢じゃないよ。記録も写真も残っていただろう」
「分かっているわ。でもそう感じてしまうの」
水面に伸ばしていた指を引いて、コーデリアはオーロラの背中をそっと撫でる。オーロラが低く喉を鳴らした。
「だけどね、セオドアが言ってくれたの。君を育ててくれた人たちも君の家族だよ、って。本当にそうだと思ったの。おじ様も、エレンも……オーロラだって。わたし、ずっと孤児だと思っていたのに、気がついたらずいぶん賑やかな家族のそばにいたのね」
リーヴァイがオールを構えて、きしむ音を立てながら緩やかに漕ぎ出した。水面に波紋が広がり、舟がゆっくりと向きを変えた。岸の枯れ木が霧の中に溶けて、また現れる。
「その通りだな。血のつながりだけで決まるものじゃない。それに家族というのは、増やせるものだよ」
「増やせる、って?」
「ああ」
「どういう意味かしら」
リーヴァイはコーデリアを見た。余分なものが何もない、真っ直ぐな目だった。この人がこういう目をするとき、本当のことを言おうとしているのだと、コーデリアは長い付き合いの中で知っていた。
「僕も君の家族になれる」
水が舟腹を叩く音だけが聞こえている。コーデリアはリーヴァイの言葉を胸の中で転がした。家族になれる。その言葉の輪郭を確かめて、その意味の深さを測って、それでもまだよく分からなかった。
「……それじゃまるで、わたしと結婚したいみたいだわ」
「そうだよ。そう言っているんだ、コーデリア」
あまりにあっさりとした言葉に、コーデリアは咄嗟に目を逸らした。舟の縁を見た。水面を見た。霧の向こうの岸を見た。オーロラを見た。どこを見ても、たった二文字が追いかけてきた。
「君の家族になりたい。いつか僕と結婚してくれると約束してほしい」
その言葉の向こうに、長い間ずっと見ないようにしてきたものがある。フィグストリート十七番地の小さな家の二人の間に、どれほど幸福な時間があったとしても、その末に残ったのは、孤児院の薄暗い廊下に立つ小さな女の子だけ。それがコーデリアの知っている結婚というものの、最初から最後までの話だった。
それに。コーデリアは湖を見たまま、もう一つのことを考えた。
「ねえリーヴァイ。あなたはわたしのことを、パールの小説に出てくるような目で見たことがある? 夜を徹して相手のことだけを考えて、世界が終わっても構わないと思うような、そういう気持ちがあるかしら」
問いかけながら、答えを恐れていた。ないと言われれば傷ついて、あると言われれば信じられない。そういう問いだと自分でも分かっている。
「あなたは、わたしのことを気の毒だと思っているの。影のことも両親のことも、憐れんでいるからそばにいてあげたいということじゃないの」
今度は問いかけではなかった。すでに答えを知っているような、諦めた声だった。
「わたしの病のことまで学んでもらって、それだけでもう十分すぎるくらいよ。これ以上あなたの人生を、わたしのために使わせたくない。わたしたちは幼馴染よ、ずっとそうだった、これからもずっとそうであればいいのに」
「違うよ。僕の話を聞いてくれ」
リーヴァイの声はいつもの理知的な響きを完全に失い、少年の頃のようなひたむきな焦燥に震えていた。
「ずっと考えていたんだよ。いつからかは分からない。でもはっきりと分かったのは、ロザリーの結婚式のときだ。君がブーケを取って、子どもみたいに飛び跳ねていた。あのとき僕が思ったのは──」
「……やめて。お願いだから、それ以上何も言わないでよ」
「重荷だとか憐れみだとか、そういうものじゃない。君の病を学んでいるのは君が心配だからだ。君のそばにいたいと思うのも君だからだ」
その瞬間、湖の水面に視線が落ちた。影が水の上に映って揺れている。ゆらゆらと波に溶けて、また形を取り戻して。その影の中に、もう一つの輪郭が立ち上るのが見えた。
小さな子どもが誰かを待っている。涙を流しながらずっと待っている。孤児院の薄暗い廊下で、迎えが来るたびに自分の名前が呼ばれるかもしれないと思いながら。
「…………!」
気がついたとき、コーデリアはオーロラを両腕で抱き上げていた。深く眠りこんでいたオーロラは突然のことに丸い目をさらに丸くして、寝ぼけたまま何が起きたのかという顔でこちらを見上げた。
視界の端で、いつの間にか岸が近くなっていることに気がつく。もう水底に足が届く──それだけが、その瞬間コーデリアの頭の中にあった唯一のことだった。
そのまま立ち上がれば小舟がひどく揺れて、水面が大きくうねる。舟の縁を踏み越えようとした瞬間に足が滑って、リーヴァイの手が咄嗟に背中を支えた。
足が水に入った冷たさが、足首から膝へ、膝から腿へと一気に駆け上がってきた。スカートが瞬く間に水を吸い込んで、恐ろしいほどの重さで脚に絡みついてくる。
コーデリアはオーロラを抱いたまま片手でそれを持ち上げながら、じゃぶじゃぶと不格好な音を立てて歩いた。よろけながら、何度か膝をつきそうになりながら、それでも足を止めなかった。
「コーデリア──」
後ろでリーヴァイが何かを言っていた。その声は確かに聞こえていたけれど、コーデリアは聞こえないふりをした。岸に上がって湿った草を踏んだ瞬間、躓きそうになりながら駆け出す。霧がすぐそこまで迫っている灰色の春の景色の中を、息が上がっても止まらずに。数歩走れば、その霧の中に消えてしまえるのだから。




