第三十話
「……パパはエドワード・レイス、ママはマリアン・レイス。最終住所は、グレイマロウのフィグストリート十七番地……」
コーデリアは指先でその文字をなぞった。インクが褪せて、紙が少し黄ばんでいる。声に出したことのない名前が今初めて、紙の上にあった。リーヴァイが横からそっと覗き込んで、住所を手帳に書き留める。
グレイマロウの雪道を、二人で地図を確かめながら進んだ。古い住宅街で道が細く入り組んでいた。角を曲がって、番地を数えて、やがて一軒の家の前に立った。
窓に明かりがあって、煙突から煙が上がっている。当然のことだけれど、別の誰かが住んでいた。
「もう二十年近くも前のことだものね……」
コーデリアはしばらくその家を見つめた。ここにはもう、二人の生活の残り香も、彼らがコーデリアを慈しんだという記憶の欠片すら残っていない。けれどこの家にはかつてエドワードとマリアンという二人がいて、食べて、眠って、笑っていたのだ。
雪がしんしんと降り続けていた。「帰りましょう」と告げて踵を返しかけたとき、声がした。
「うちに何かご用?」
振り返ると、野菜の籠を抱えた女性が立っていた。買い物帰りらしく、頬が赤くなっている。彼女はコーデリアとリーヴァイを交互に見つめた。こんな雪の日に見知らぬ二人が自分の家の前に立っている。訝しむというより、純粋に不思議そうな顔だった。
「突然失礼します。以前こちらに住んでいたレイス夫妻について、少し伺いたいことがあって来ました。何かご存じのことがあれば、教えていただけませんか」
女性はリーヴァイの言葉をゆっくりと受け取って、しばらく考え込んだ。眉を寄せて記憶の奥を探るような顔をする。それから、残念そうに首を振った。
「ごめんなさい、私には分からないわ。もうずっと昔のことでしょう。私たち、もう十何年もここに住んでいるもの。その前のことは……」
「わたしの両親なんです」
コーデリアの言葉に女性が目を丸くした。籠を抱え直して、コーデリアをまじまじと見る。
「あら。じゃああれは……あの写真の赤ちゃんは、あなた?」
コーデリアとリーヴァイが、同時に顔を見合わせた。
「少し待っていて」
女性は急ぎ足で家の中へ入っていく。数分もしないうちに、ドアが再び音を立てて開いた。彼女は手に野菜ではなく、古びた一枚の紙を大事そうに抱えて戻って来た。
「引っ越してきたとき、棚の裏に落ちていたのを見つけて。……なんだか捨てるのも忍びなくて、ずっと持っていたのよ」
差し出されたのは、色褪せた小さな写真だった。赤ちゃんが一人、白い布に包まれて眠っている。
コーデリアはそれを受け取って、しばらく見つめた。この赤ちゃんが自分なのかどうかなんて分からない。赤ちゃんというのはみんな似ているし、二十年近く前の色褪せた写真では、なおさら分からなかった。
「君によく似てる」
コーデリアはもう一度、写真を見た。リーヴァイがそう言うなら、そうなのかもしれなかった。
「それね、裏にも何か書いてあるのよ」
女性が教えてくれた通り、写真を裏返すとそこには几帳面な字が褪せたインクで並んでいた。字は細く、でも一画一画が丁寧で、誰かが時間をかけて書いた字だと見ただけで分かった。
──マーニーへ。小さなコーラは元気だよ。よく眠って、よく笑って、時々びっくりするほど大きな声で泣く。鼻はどうやら僕に似たらしいけれど、この額は君にそっくりだ。愛するマリアン、君を思い出さない日はない。
よく眠って、よく笑って。時々びっくりするほど大きな声で泣く。
それがこの赤ちゃんだった。コーラだった。エドワードがマーニーと呼んだ、先に逝った妻へ向けて書いた言葉の中にいる、小さな命がコーデリアだった。
「本当の持ち主の元に帰れてよかった。いつか誰かが探してくるんじゃないかって、ずっと思っていたのよ」
この写真が時を越えてコーデリアの手に届いたのは、この人が捨てずにいてくれたからだ。コーデリアは心からの礼を伝え、雪の中で深く一礼した。
二人の墓石は街外れの小さな墓地の、訪ねる人のなさそうな区画にひっそりと並んでいた。石が汚れて、周りに枯れ草が積もっていた。誰も来ていないのだと一目で分かった。
でも墓掃除は慣れたもので、コーデリアとリーヴァイは黙って並んで、石を拭いて枯れ草を取り除いた。ミスト・ヴァレーの墓守の息子とその隣で育った少女が、グレイマロウの雪の中でそうしているのは不思議な巡り合わせだと思いながら、でも奇妙なことだとは思わなかった。
「パパ、ママ」
きれいになった墓石の前に花束を手向けて、呼んでみたかったその言葉を初めて口にした。
「あのね、リーヴァイ」
「うん」
「わたしの物語は、ミスト・ヴァレーに来てから始まったものだと思っていたの。それより前は何も書かれていなくて……でも違ったわ。ちゃんと最初のページがあったの」
エドワードとマリアンはここで長い時の間、誰も来ない冬を過ごしていた。でも今日だけは違う。小さなコーラが、大人になって帰ってきたのだ。
コーデリアの目から溢れた涙が頬を伝い、雪を溶かして消えていく。生まれて初めて流す涙の種類があるとしたら、これがそうだと思った。
「フィグストリート十七番地の家にエドワードとマリアンがいて、二人にそっくりな赤ちゃんを抱いていた。パパとママが、わたしを小さなコーラと呼んでくれていたページが、確かにあったのよ」




