第二十九話
「レイス先生、お疲れ様です。……いや、今はもう放課後だし、コーデリアでいいかな」
窓の外では、レイクフォールの木々が鮮やかな金や赤に染まり始めていた。新学期が始まって間もない秋の夕暮れ。セオドアは手元の原稿用紙をパラパラとめくりながら、コーデリアの向かいに腰を下ろした。
「子どもたちの作文、なかなか鋭かったね。家族についてみんなが何を大切にしているかが見えてくる。……それでさ、文芸サークルの一員として気にならない? もし自分がこのお題を振られたら、一体どんな風に書き出すんだろうって」
セオドアの言葉に、コーデリアは窓の外の燃えるような紅葉に視線を移した。風に揺れるカーテンの影が、彼女の横顔を淡く横切る。
「……わたしなら。そうね、考えずにはいられないわ。でも、わたしには少し難しいかもしれない。幼い頃に両親を亡くしているから……記憶じゃなくて、想像から書くことになるでしょうね」
一枚の紅葉が、風に吹かれて窓ガラスに貼り付いた。それからゆっくりと、また風に連れていかれた。
「あの子たちみたいに『肩車をしてもらうと世界の一番高いところにいる気がする』とか『いつも同じ歌を歌いながら料理をしていて、その歌を聴くとお腹が空いてくる』なんて、血の通った描写はできないわ。こういう声で笑ったかもしれない、こういうものが好きだったかもしれない──そういう、確かめようのない話を書くの」
セオドアの原稿用紙をめくる手は、いつの間にか止まっていた。しばらくしてから、彼は相変わらずのんびりと言った。
「確かめたら?」
「確かめる、って?」
「どこかに記録が残っているかもしれないよ。役所の古い名簿や、教会の典礼記録……それに写真とか、手紙とか、知っている人の話とか。想像で書く前に、探してみたことはある?」
コーデリアは握りしめていたペンの冷たい感触を確かめた。探したことはない。探そうとしたことも。両親の記憶がないということをずっと、動かしようのない事実として受け取ってきたから。想像で補うしかないと思い込んでいた。
「……なかったわ」
「そうか」
「だけど、怖い気もする。探して何もなかったらと思うの。それとも、知らない方が良かったと思うものが出てきたら」
閉じ込めていた好奇心と、得体の知れない不安が小さく火花を散らす。もしその記録を見つけたとして、想像していた方がずっと優しかったと思えるものが、そこにあるかもしれない。霧の中にあるものは美しく見えるけれど、光を当てれば姿を変えてしまう。
「コーデリア。僕たちが書く物語は想像力から生まれるけれど、時として事実は、どんな虚構よりも残酷で、そして美しい一節を僕たちに突きつけてくる。作家なら、その欠落した一行を探しに行く価値があると思わない?」
秋が深まり、レイクフォールの湖面が凍てつくような冬の気配を帯び始めた頃、コーデリアはようやく決心を固めた。数日の休暇を願い出るとセオドアは大いに協力してくれた。「行っておいでよ」と二つ返事で、授業の調整から書類の手続きまで先回りして。
けれどいざ一人で向かうとなると、心細さが足元から忍び寄ってくる。コーデリアは迷った末に、リーヴァイに手紙を書いた。
返事は本当に珍しいことにすぐに届いた。理由を問うことも感傷的な言葉を添えることもなく、ただ一言『いつ来るんだ』とだけ記されていた。
出発の日、グレイマロウの駅に降り立ったコーデリアは、ヴェスパー卿から送られてきたばかりの上等な冬支度に身を包んでいた。
「もう働いている大人なんだもの、お気遣いなく」と手紙に書いたにもかかわらず、ミスト・ヴァレーからは厚手のウールの外套に、柔らかなカシミアのマフラー、そして細やかな刺繍の入った手袋が届いた。コーデリアは苦笑しながらも、その過保護なまでの温かさに甘えることにした。
「雪だるまにでもなるつもりなのか」
「冷えるんだもの。これでもおじ様は、もっと毛皮を足そうとしていたのよ」
再会の挨拶もそこそこに、二人は鉛色の空の下へと踏み出した。吐く息が白く溶けて、空から落ちる雪と混ざり合う。
「まずはね、孤児院へ行こうと思うの。グレイマロウと言っても広いし、役所や教会もどの所管か分からないから。わたしが昔いた孤児院なら、記録も残っているかもしれないわ」
たどり着いたその場所は、記憶の中よりも小さく見えた。窓枠の塗装は剥げ、看板が雨風に晒されて文字が薄くなっている。どこかで子どもが泣いている声がした。
コーデリアにとっては、何もいい記憶がない場所だった。影のことでずっといじめられて、床に広がる黒い染みを笑われた。再び別の親戚に引き取られることが決まった日、振り返らなかった理由をコーデリアは今でも覚えていた。
重い扉を押し開けると、冷えた廊下から古い帳簿を抱えた一人の女性が振り返る。使い古された質素な服を纏い、髪を無造作に束ねた彼女を、コーデリアは最初、誰だか分からなかった。
「……あら」
かつての少女は、帳簿の角を指が白くなるほど強く握りしめた。その瞳には子供時代の嫉妬に、大人になってからの煤けた執着が塗り重ねられている。
「ずいぶん上手くやったみたいね、コーデリア」
彼女の視線がコーデリアの姿をゆっくりと滑った。上質な外套から、月光石のバレッタまで。それからリーヴァイを値踏みするように一瞥して、その顔に嘲笑が浮かぶ。
「それで、わざわざ何しにきたの? まさかとは思うけど……今度は自分の産んだ悪魔憑きでも捨てに来たの?」
泥を投げつけるような言葉に、リーヴァイの空気が一瞬で変わった。彼は手袋を外しながら、冷ややかな視線を彼女に突き刺す。
「医学を修める身として言っておくが」
「リーヴァイ」
「悪魔憑きなんて病名は存在しない。精神疾患にも神経疾患にも、そんな分類はない。無知から生まれた言葉でしかないんだ」
「いいの。いいのよ」
コーデリアはその腕に手を触れる。リーヴァイは口を閉じたが、視線はまだ女性の方へ向いていた。
「……どうして止めるんだ」
「わたしも孤児だったもの。……引き取り先が見つからない子もたくさんいたわ。だから意地悪になる気持ちも、少しは分かるのよ」
コーデリアはかつての痛みを思い出すのではなく、彼女の纏う出口のない悲しみの正体を悟った。彼女はずっとここにいたのだ。誰かの腕に抱き上げられ、名前を呼ばれ、帰る場所があると信じて眠った夜を知らないままに。
「記録を見せていただけるかしら」
コーデリアは努めて穏やかに、来客としての立場を保って告げる。職員が私情で記録の閲覧を拒むことはできないことを、コーデリアは分かっていた。
「わたしの両親のものよ。この孤児院に預けられたときの。残っているはずでしょう?」




