表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
コーデリア・レイス、霧の谷にて  作者: 櫻まど花


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

29/40

第二十九話

「レイス先生、お疲れ様です。……いや、今はもう放課後だし、コーデリアでいいかな」


 窓の外では、レイクフォールの木々が鮮やかな金や赤に染まり始めていた。新学期が始まって間もない秋の夕暮れ。セオドアは手元の原稿用紙をパラパラとめくりながら、コーデリアの向かいに腰を下ろした。


「子どもたちの作文、なかなか鋭かったね。家族についてみんなが何を大切にしているかが見えてくる。……それでさ、文芸サークルの一員として気にならない? もし自分がこのお題を振られたら、一体どんな風に書き出すんだろうって」


 セオドアの言葉に、コーデリアは窓の外の燃えるような紅葉に視線を移した。風に揺れるカーテンの影が、彼女の横顔を淡く横切る。


「……わたしなら。そうね、考えずにはいられないわ。でも、わたしには少し難しいかもしれない。幼い頃に両親を亡くしているから……記憶じゃなくて、想像から書くことになるでしょうね」


 一枚の紅葉が、風に吹かれて窓ガラスに貼り付いた。それからゆっくりと、また風に連れていかれた。


「あの子たちみたいに『肩車をしてもらうと世界の一番高いところにいる気がする』とか『いつも同じ歌を歌いながら料理をしていて、その歌を聴くとお腹が空いてくる』なんて、血の通った描写はできないわ。こういう声で笑ったかもしれない、こういうものが好きだったかもしれない──そういう、確かめようのない話を書くの」


 セオドアの原稿用紙をめくる手は、いつの間にか止まっていた。しばらくしてから、彼は相変わらずのんびりと言った。


「確かめたら?」


「確かめる、って?」


「どこかに記録が残っているかもしれないよ。役所の古い名簿や、教会の典礼記録……それに写真とか、手紙とか、知っている人の話とか。想像で書く前に、探してみたことはある?」


 コーデリアは握りしめていたペンの冷たい感触を確かめた。探したことはない。探そうとしたことも。両親の記憶がないということをずっと、動かしようのない事実として受け取ってきたから。想像で補うしかないと思い込んでいた。


「……なかったわ」


「そうか」


「だけど、怖い気もする。探して何もなかったらと思うの。それとも、知らない方が良かったと思うものが出てきたら」


 閉じ込めていた好奇心と、得体の知れない不安が小さく火花を散らす。もしその記録を見つけたとして、想像していた方がずっと優しかったと思えるものが、そこにあるかもしれない。霧の中にあるものは美しく見えるけれど、光を当てれば姿を変えてしまう。


「コーデリア。僕たちが書く物語は想像力から生まれるけれど、時として事実は、どんな虚構よりも残酷で、そして美しい一節を僕たちに突きつけてくる。作家なら、その欠落した一行を探しに行く価値があると思わない?」


 秋が深まり、レイクフォールの湖面が凍てつくような冬の気配を帯び始めた頃、コーデリアはようやく決心を固めた。数日の休暇を願い出るとセオドアは大いに協力してくれた。「行っておいでよ」と二つ返事で、授業の調整から書類の手続きまで先回りして。


 けれどいざ一人で向かうとなると、心細さが足元から忍び寄ってくる。コーデリアは迷った末に、リーヴァイに手紙を書いた。

 返事は本当に珍しいことにすぐに届いた。理由を問うことも感傷的な言葉を添えることもなく、ただ一言『いつ来るんだ』とだけ記されていた。


 出発の日、グレイマロウの駅に降り立ったコーデリアは、ヴェスパー卿から送られてきたばかりの上等な冬支度に身を包んでいた。

「もう働いている大人なんだもの、お気遣いなく」と手紙に書いたにもかかわらず、ミスト・ヴァレーからは厚手のウールの外套に、柔らかなカシミアのマフラー、そして細やかな刺繍の入った手袋が届いた。コーデリアは苦笑しながらも、その過保護なまでの温かさに甘えることにした。


「雪だるまにでもなるつもりなのか」


「冷えるんだもの。これでもおじ様は、もっと毛皮を足そうとしていたのよ」


 再会の挨拶もそこそこに、二人は鉛色の空の下へと踏み出した。吐く息が白く溶けて、空から落ちる雪と混ざり合う。


「まずはね、孤児院へ行こうと思うの。グレイマロウと言っても広いし、役所や教会もどの所管か分からないから。わたしが昔いた孤児院なら、記録も残っているかもしれないわ」


 たどり着いたその場所は、記憶の中よりも小さく見えた。窓枠の塗装は剥げ、看板が雨風に晒されて文字が薄くなっている。どこかで子どもが泣いている声がした。

 コーデリアにとっては、何もいい記憶がない場所だった。影のことでずっといじめられて、床に広がる黒い染みを笑われた。再び別の親戚に引き取られることが決まった日、振り返らなかった理由をコーデリアは今でも覚えていた。


 重い扉を押し開けると、冷えた廊下から古い帳簿を抱えた一人の女性が振り返る。使い古された質素な服を纏い、髪を無造作に束ねた彼女を、コーデリアは最初、誰だか分からなかった。


「……あら」


 かつての少女は、帳簿の角を指が白くなるほど強く握りしめた。その瞳には子供時代の嫉妬に、大人になってからの煤けた執着が塗り重ねられている。


「ずいぶん上手くやったみたいね、コーデリア」


 彼女の視線がコーデリアの姿をゆっくりと滑った。上質な外套から、月光石のバレッタまで。それからリーヴァイを値踏みするように一瞥して、その顔に嘲笑が浮かぶ。


「それで、わざわざ何しにきたの? まさかとは思うけど……今度は自分の産んだ悪魔憑きでも捨てに来たの?」


 泥を投げつけるような言葉に、リーヴァイの空気が一瞬で変わった。彼は手袋を外しながら、冷ややかな視線を彼女に突き刺す。


「医学を修める身として言っておくが」


「リーヴァイ」


「悪魔憑きなんて病名は存在しない。精神疾患にも神経疾患にも、そんな分類はない。無知から生まれた言葉でしかないんだ」


「いいの。いいのよ」


 コーデリアはその腕に手を触れる。リーヴァイは口を閉じたが、視線はまだ女性の方へ向いていた。


「……どうして止めるんだ」


「わたしも孤児だったもの。……引き取り先が見つからない子もたくさんいたわ。だから意地悪になる気持ちも、少しは分かるのよ」


 コーデリアはかつての痛みを思い出すのではなく、彼女の纏う出口のない悲しみの正体を悟った。彼女はずっとここにいたのだ。誰かの腕に抱き上げられ、名前を呼ばれ、帰る場所があると信じて眠った夜を知らないままに。


「記録を見せていただけるかしら」


 コーデリアは努めて穏やかに、来客としての立場を保って告げる。職員が私情で記録の閲覧を拒むことはできないことを、コーデリアは分かっていた。


「わたしの両親のものよ。この孤児院に預けられたときの。残っているはずでしょう?」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ