第二十八話
グレイマロウへはレイクフォールから汽車を二つ乗り継いで三時間だった。パールに誘われたのは春の終わりのことで、「大学の図書館を見てほしいわ。あなた絶対に気に入ると思うの」とただそれだけの理由だったけれど、コーデリアは迷わず承諾した。
駅を出て空を見上げると、灰色の雲が低く垂れ込めている。
「曇っているわ」
「いつもこうなの。グレイマロウの空はいつも曇りよ。晴れているところを見たことがないくらい」
「わたし、生まれた街なのに、あまり覚えていないのよ。小さい頃に離れたから。でも、空だけは覚えているわ。こういう色だった」
パールの案内で足を踏み入れた大学の図書館は、吹き抜けの天井まで本棚が続いて、螺旋階段が何層にも重なっていた。本の背表紙が壁一面を埋めていて、どこを見ても終わりがない。
「すごいのね。リーヴァイが迷子になったって手紙に書いていたけれど、これは迷子になってしまうわ」
「今でも時々迷い混んでいる人を見かけるわ。教授でもね」
二人で螺旋階段を上がって、窓際の席に腰を下ろす。曇り空の下にグレイマロウの街が広がっていた。
「文学部はどう?」
「面白いわ。ここの人はみんな少し……どころじゃないくらい変わっているの。授業中に突然詩を朗読し始める先生がいて、試験が詩の即興だったり。先週は『悲しみを色で表せ』という課題が出たわ」
「パールは何色にしたの?」
「錆びた橙。昔は赤かったのに、時間が経って変色した色だから」
窓の向こう、古びた石造りの文学部棟には蔦が這い、そばのベンチでは学生が二人、身を乗り出して何かを論じ合っていた。片方がしきりに手を振りながら力説していて、もう片方は腕を組んで空を見ている。
少し離れたところでは、一人の学生が独り言を呟きながら中庭を歩き回っていた。立ち止まっては呟き、また歩き、また立ち止まる。
「あの子はいつも詩を作っているのよ、歩きながら。文学部では普通のことだわ」
コーデリアは楽しくなってきた。文芸サークルのみんなと過ごした時間が、もっと濃くもっと自由になったような場所だった。ここでパールが毎日を送っているのかと思うと、少し羨ましかった。
「ねえ、医学部の棟も見てみる? 興味ない?」
パールがふと敷地の奥に影を落とす煉瓦造りの棟を指差した。湿った空気とは裏腹に、彼女の瞳は好奇心で輝いている。
「興味はあるわ。でもそんなことしていいの?」
「誰も気にしないわよ。みんな自分の研究や人体模型に夢中なんだもの。私、あの不気味な雰囲気にひらめきを求めて時々忍び込むんだけど、怒られたことないわ」
「ひらめきを求めて……?」
「ホルマリンの匂いとか標本の瓶とか、創作意欲が湧くのよ」
医学部の棟へ足を踏み入れると、確かに雰囲気が違った。詩の朗読や熱弁は消え、代わりに漂うのは、薬品の冷たい匂いと時折響く硬質な靴音だけ。
「マッドドクターの卵たちだわ……」
廊下の先に白衣の学生が数人立ち話をしているのを見て、パールが小声でなかなか失礼な表現をしながら、その脇をさりげなく通り抜けようとした。
コーデリアはあまりに大胆な物言いに苦笑しつつ、なるべく気配を消してその後ろを歩いていく。けれどすれ違いざま、議論の中心にいた一人の学生が、コーデリアの姿を認めた瞬間に明らかに動きを止めた。
「なあ、君」
ぱたりと手元の資料を閉じた彼に呼び止められ、振り返ったコーデリアは二度見した。ここにいること自体はなんらおかしくない。むしろ他のどこよりも、ここにいる可能性は高いはずだった。でも本当に会うとは思っていなかったのだ。
リーヴァイも目を見開いていて、この人がそんな顔をするのを、コーデリアは久しぶりに見た気がした。
周りにいた白衣の学生たちが「知り合いか?」と議論そっちのけでこちらを見ている。するとリーヴァイは途端に表情から全ての感情を消し去り、いつもの冷徹な仮面を被り直した。
「……なんでもない。ちょっとした知り合いだ」
コーデリアはその露骨な突き放し方に、思わずカチンとくるものがあった。ミスト・ヴァレーで過ごした日々を、そんな言葉で片付けられてたまるものか。
「ちょっとした知り合いなんかじゃないわ!」
廊下にいた学生たちの視線が一斉に二人に集中する。その瞬間、リーヴァイの顔がかつて見たこともないほど複雑に歪んだ。話しかけなければよかったと、隠す気がないのか隠せないのか、あからさまにそういう顔だった。
「とっても仲良しの幼馴染って言いなさいよ」
コーデリアはリーヴァイの白衣の袖を掴んだ。リーヴァイは掴まれたまま、助けを求めるように限界まで眉間を寄せる。助けは来なかった。隣でパールはティーパーティーにでもいるような優雅な仕草で、騒然とする医学生たちの輪に会釈を送る。
「はじめまして、パールと申します。文学部の一年です」
場の空気がわずかに和らいだ。文学部の学生か、と医学生たちが頷きかけたところへ、パールが続ける。
「あの、もしよろしければ……恋人の亡骸を三日ほど部屋に置いておいた場合の変化を教えてくださらない? とてもロマンティックな場面なの」
医学生たちの顔が、一人また一人と引き攣っていく。リーヴァイだけが「ああ」という顔をした。パールのことを一度見ているから耐性があるのだ。
「小説のためよ、もちろん」パールが付け加える。「もちろん、の一言で解決する問題じゃないかな」と、医学生の一人が呟いた。




