第二十六話
「これ、すごく便利なのよ。セオドアが教えてくれたの。レイクフォールの下宿から学校まで、もう歩く必要はないわ。これがあれば風を切って走れるんだから」
ヴェスパー邸の門前に停められた真新しい自転車。それはコーデリアが小説の賞金で手に入れた、彼女の新しい足だった。
帰省したリーヴァイはそれを慎重かつ冷静な目で眺めていた。彼にとっての懸念は自転車そのものではなく、その上に跨る彼女の身体が持つ、あまりに脆弱な設計についてだった。
「勧められたからって、君に適しているとは限らないよ。重心が高いし、濡れた路面は滑りやすい。転倒すれば骨折の危険性もある」
「三週間も練習したから大丈夫よ。もう転んでいないもの」
「もう、ってことは転んでいたんだな」
「最初だけよ。最初はみんな転ぶでしょう。あなた、なんだか口うるさくなってしまったわ」
コーデリアの瞳に夏の光が宿る。大人びた表情の中に昔のままの無邪気さが混ざり合い、彼女がいま人生という物語の最も美しい章を歩んでいることが伝わってくる。
「それからね、セオドアと同じ学校で教えることになったの。偶然なんだけど、でも偶然にしては出来すぎているでしょう。奇跡みたいなことだから、つまり運命だと思っているの」
「運命はともかく。坂道の多い街だと聞いたが、雨の日も乗るつもりなのか」
「リーヴァイ、子ども扱いしないでよ」
コーデリアは言葉を遮って、ペダルに足をかけた。
「わたし、ミスト・ヴァレーを出るの。もうすぐこの館を離れて、レイクフォールで働き始めるわ。……寂しくないと言ったら嘘になるし、きっとここが恋しくなる。オーロラと離れるのが一番つらいのよ」
彼女は門の向こうで日向ぼっこをしている愛猫に視線をやった。最初は連れて行くつもりだったけれど、ヴェスパー卿がその大きな手でオーロラを抱き寄せ、心底悲しそうな顔をしたのを見て思いとどまった。オーロラにとっても、広い庭があって、日当たりの良い窓辺があるこの場所でのんびりと暮らす方がずっと幸せなはずだ。
「でも、見て。こんなに上手に乗れるようになったのよ。これさえあれば、どこへでも行ける気がするわ」
コーデリアはそう言って、弾むようにペダルを漕ぎ出した。頬を撫でる風は涼やかで、ミスト・ヴァレーの重たい湿り気さえも忘れさせてくれる。振り返るとリーヴァイが、危なっかしいものを見るような、それでいてどこか眩しそうな顔で立ち尽くしていた。
レイクフォールへ発つ数日前、ヴェスパー卿に書斎へ呼ばれた。卿はいつものように革張りの椅子に腰を下ろして、手を組んでいる。エレンの気配はなく、コーデリアがソファに腰を下ろすと、卿はしばらく黙ってから口を開いた。
「話しておきたいことがある」
「……はい」
「不安にさせるかもしれない。だが君はもう大人だ。本当のことを知って、これからのことを自分で決めなさい」
コーデリアは背筋を伸ばして、卿の顔を見た。
「私の妻のことだ」
ヴェスパー卿に妻がいたとは、聞いたことがなかった。館に肖像画もなく、形見らしいものも見たことがない。ただ、書斎の奥の棚に古い写真が一枚あって、コーデリアは一度だけ、それが誰なのか聞きそびれたことがあった。
「彼女も君と同じ病を持っていた。若い頃から付き合い方を探して、それなりに折り合いをつけて生きていた。だが……彼女は心が不安定だった。良い日と悪い日の波が激しくて、悪い日が続くと、自分の闇に引きずり込まれてしまうことがあった」
静かな語り口に、コーデリアは何も言えなかった。
「最後にはその闇に呑み込まれるようにして、逝ってしまったよ」
卿はそれだけ言って、また黙る。書斎の外で、秋の風が木の葉を揺らす音がした。
「……おじ様」
「君に言わなかったのは、不安にさせたくなかったからだ。同じ病を持つ者が最後にどうなったか……そんなことを知れば、君が怯えると思った。だが君はもう十八だ。これから一人で生きていく。ならば知っておく方がいい」
コーデリアは膝の上で手を組んだ。今のコーデリアの影は、あの頃のように暴れない。物語を綴ることが役に立っていて、自分の闇に呑み込まれるという感覚が、今のコーデリアには想像しにくかった。
「彼女と君は違う。同じ病でも、人は違う。彼女には彼女の闇があって、君には君の光がある。それは君自身が、この六年で証明してきたことだ」
「……おじ様はそれでも、わたしをここへ連れてきてくれたのね」
「そうだ」
「怖くなかったの? 同じ病の子を、また」
ヴェスパー卿はコーデリアの手に、自分の節くれだった手をそっと重ねた。
「怖かったよ」
同じ病、同じ闇。かつて愛された女性が辿った悲しい最期。想像しにくいからといって、ないとも言いきれない未来。
けれどコーデリアには、物語を綴るためのペンがある。セオドアたちが教えてくれた空想の翼がある。そしてこの館で育まれた、揺るぎない愛の記憶があるのだ。
◆
トランクひとつと自転車と、オーロラに別れを告げてきたコーデリアは、駅のプラットホームでエレンと別れを惜しんでいた。ヴェスパー卿は今日に限ってどうしても外せない用があるとのことで、姿を見せなかった。見送りというものが、あの人には向いていないのかもしれなかった。
「旦那様から、あなたに預かっているものがあります」
朝から目の赤いエレンは、鞄の中から小さなベルベットの箱を取り出した。受け取って蓋を開けると、そこには繊細な銀の蔦細工が施され、中央に大粒の月光石を抱いたバレッタがきらめている。
「……これは?」
「奥様のものです。レベッカ様のものを、あなたに持っていてほしいと。旦那様がそうおっしゃいました」
エレンが震える声で言った。涙をこらえているのに、こらえきれなくなっている声だった。
「あなたは、少しレベッカ様に似ていますよ。あの方もよく、窓辺で何かを書いていらっしゃいました」
「……エレンは、奥様のことを知っているの?」
「ええ。レベッカ様がミスト・ヴァレーへいらしたのも、今のあなたと同じ年のことでした。ウィロウミアの屋敷から、私もお供してきたのです」
エレンが奥様と共にやってきた人だということを、コーデリアは初めて知った。ずっとそばにいた人が、ずっとそばにいてくれた理由も。
コーデリアはバレッタを手に取って、まとめた髪にそっと留めた。銀の蔦が髪に馴染んで、月光石が霧の光を吸い込んで光る。
「似合いますよ、コーデリア。レベッカ様によく似合っていたのと、同じように」
エレンは涙をぬぐいながら、それでも笑っていた。
「行ってきます、エレン。おじ様に、ありがとうと伝えてくれる?」
霧の中から汽車が姿を現し、コーデリアはトランクを持って客車のステップに足をかけた。
ガタン、と鈍い衝撃とともに車輪が回り出す。窓の外では、ミスト・ヴァレーの景色がゆっくりと流れていった。
灰色の羊たちが霧の中に浮かんでいる牧草地。夏になると赤紫の実をつける、ミリエルの家のプラムの果樹園。小舟が二、三艘、水面に揺れている湖畔。何度も渡った朽ちかけの桟橋が、霧の向こうにちらりと見えた。
やがて汽車は、小高い丘の麓を通り過ぎる。丘の上の歪な墓標の並ぶ墓場には、愛情深い紳士が最愛の妻の命日に手向けた花々が、生涯揺るがぬ心がこの世にあることを伝えていた。




