第二十四話
冬の霧が明けても、コーデリアの頭の中は鳴り響く水底の鐘の音で満たされていた。
夜中に目が覚めて、暗闇の中で文章の続きを考えることがあった。水底の町の住人たちはどんな声をしているのか。水の中で声は届くのか。届くとしたらどんな音になるのか。そういうことが気になりだすと、もう眠れなくなってしまった。
彼女が書き綴る物語は、失われた町ではなく湖に沈んだままの日常である。教会の鐘楼には水草が絡みつき、住人たちは優雅に揺れるヒレのように裾をなびかせて家から家へと泳いでいく。道には銀色の魚の群れが通り過ぎ、人々は水底の森で迷子になりながらもその青さを愛している。
翌日、コーデリアはサークルの部室にへとへとになって現れた。パールが顔を見るなり、興味深そうにまじまじと観察を始める。
「どうしたの、目の下が……まるで夜に住んでいる人の顔よ。ちゃんと太陽を浴びてる?」
「水底の光の書き方が分からなくて眠れなかったの」
「まあ、それは大変。水底の光なんて、きっと溺死体しかちゃんと見たことがないものね」
「そうなの。光は水の中では揺れて、届きそうで届かないんだけれど、その光の中で住人たちが暮らしているの。あの光に名前をつけたいのに、どうしても一語で言い表せなくて」
パールはしばらく宙を見上げた。椅子の背にもたれて、天井を見て、それからパッと何かを見つけた目をした。
「それなら名前をつけなくてもいいんじゃないかしら。正体が分からないから綺麗なんだもの。空から落ちてくる光はきっと、触れられない憧れそのものよ」
「……そうよ。それだわ!」
住人たちは生まれたときからその光の中にいて、でも一度もその光に触れたことがない。触れようとすれば揺れて逃げていく。届くようで届かない。それでも光の方を向いて生きている。
「湖の下の住人たちは、光を神様として信仰しているということにするわ。姿も声も分からないし、触れることもできない。でもいつもそこにいて揺れている。住人たちは朝になると光の方を向いて、それだけを祈りとしているの」
「いいわ、コーデリア。その静けさが、逆に窒息しそうな恐怖を呼ぶのよ。触れないものを拝むなんて、人間らしくて素敵」
パールは目を輝かせ、その描写に「水草は夜ごとゆらゆら揺れて、迷い込んだ魚を捕まえる」という不気味な空想を付け加えた。
セオドアは水面に映る光を詩的な言葉で飾る。「空ではなく水に抱かれ、光さえも遠い憧れのように揺らぐ。そこは一度訪れたら二度と呼吸を思い出せない、深淵の箱庭だね」と、彼は溜息をつくように語った。
二人の言葉はまるで魔法のようにコーデリアの物語を染め上げていく。しかし物語を完璧にするために、彼女はもう一人、理性的で冷酷な批評家を必要としていた。
「ハーヴィー、また少しだけいいかしら」
「……またその水底の鐘楼か。もう五回目だぞ、コーデリア」
そう言いながらもハーヴィーは眼鏡をクイッと押し上げて、原稿の余白にびっしりと赤字を入れてくれる。
「ここは音の伝わり方が違う。水中で鐘を鳴らしたら、その振動は耳よりも先に体に直接響くはずだ」
「ありがとう、ハーヴィー。流石にしつこいって怒られるかと思ったわ」
「しつこいのは否定しない。だが、君の描く水底の箱庭が完成する瞬間を見届けないまま放り出すのは、僕の美学に反するんだ」
パールの不穏な想像力、セオドアの詩的な感性、そしてハーヴィーの論理的な裏付け。コーデリアは周囲の才能を贅沢に借り受けて、物語という名の水底をより深く、より美しく塗り重ねていった。
春、コーデリアは完成した原稿を応募用の封筒に入れて、祈るような気持ちで投函した。返ってくるかもしれないし、返ってこないかもしれない。今度こそと思っているけれど、思っているだけでは何も変わらない。
しかし運命は彼女を感傷に浸らせてはくれなかった。夏の気配が校舎に忍び寄ると同時に、卒業という巨大な濁流が押し寄せてきたのだ。
教職試験の合格通知という輝かしい勲章を手にしても、休息の時間は皆無だった。次に待っていたのは、理事会という名の古めかしくて威圧的な運命の分かれ道である。
「面接の練習なら、僕が理事役をやってあげようか? 多少、意地悪な質問も用意して」
セオドアはすでにレイクフォールでの教師の内定を手にしながら、相変わらず穏やかな笑顔でコーデリアを励ました。一方で、古の遺物に心惹かれているベアトリスは「学芸員として採用されたら、あなたの書いた小説の資料を特別展の目玉として展示してあげるわ」と笑い、ハーヴィーは出版社への就職を決め、「埋もれた作家の物語を僕が世に出すんだ」と確かな野心を眼鏡の奥に隠していた。
そして「私はグレイマロウ大学へ行くわ。文学部の深くて暗い文献を読み漁るためにね!」と瞳を輝かせるパールを見つめながら、コーデリアはまだ見ぬ結末に思いを馳せた。
そんな慌ただしい日々の最中、面接の前夜。明日言うべきことを頭の中で繰り返していたコーデリアの手元に、一通の封筒が届いた。消印はグレイマロウの郵便局。リーヴァイからだった。
大学の近況、専門課程の難解な試験のこと、図書館で居眠りをしたら司書に怒られたこと。いつものように淡々と、でも以前よりは言葉が増えた気がする。
読み進めると、後半には彼女が「読んでほしい」と送りつけた小説の第一章に対する、リーヴァイからの容赦のない感想が綴られていた。
──面白かった。湖の底に町がそのまま残っているという発想はどこから来たんだ。ただ、彼らの呼吸器官がどうなっているのか気になった。水底を耕し、森で迷子になる程度の活動量があるなら、エラ呼吸か皮膚呼吸では代謝が追いつかないはずだ。
「……相変わらずうるさい人ね!」
返信の便箋を取り出して、つらつらと書いた。
──呼吸器官については説明しないことにしたのよ。想像する余地を残したかったから。あなたがその余地を、論理という名の土砂で埋めたがる人だということは、よく知っているけれど。
しかし、手紙の終わりに「ちゃんと寝ているのか」と書き添えられていて、その一言で怒りは呆れに変わって溶けてしまった。「寝ているわ」と返事を書きながら、実はあまり寝ていなかったけれど。




