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コーデリア・レイス、霧の谷にて  作者: 櫻まど花


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第二十三話

 アカデミーの二年生は、一年生の頃の冒険のような心躍る日々とは一変し、容赦のない現実が押し寄せてくる時間だった。

 教育学の先生が「教育者の礎石」とのたまった推薦図書は、コーデリアの細腕にはあまりにも分厚く、十冊が積み上がった様はまるで本棚の一部を切り取ってそのまま持ってきたかのようだった。

「今学期中に読み切れるかな」とセオドアも遠い目をしていた。「読み切るしかないわ」とコーデリアは答えながらも、一ページをめくるごとに、彼女の知的好奇心は悲鳴を上げていた。


 忙しい日々の中で、学食だけは変わらない憩いの場だった──はずなのだが、秋に新しい調理人が来てから少し様子が変わった。

 

「ねえ、これってなんのスープかしら」


 パールがスプーンで表面をそっと突きながら言う。深みのある琥珀色で、何かの香草が浮いていて、正体のよく分からない具が沈んでいた。調理場に顔を出して調理人に尋ねてみたが、調理人はにこりと笑うだけで何も答えなかった。


「聞いても教えてくれないわ」


「秘伝なのかしら」


 二人で顔を見合わせていると、セオドアがスプーンを持ち上げて「勇気があれば飲めるよ」としばらくスープを眺めた。結局、三人で意を決してスプーンを口に運ぶと、そこには驚くほど芳醇な旨味が広がっていた。

 

「なんなの、怖いくらい美味しいわ。勇気ある者への報酬かしら」


「正体が分からない方が美味しく感じるのかもしれない。……知らない方がいいこともある」


 三人がスープの虜になっている頃、遠く離れたグレイマロウの地からリーヴァイの手紙が届いた。今学期から解剖の実習が始まった、と書いてあった。それから一段落分、人体の構造についての所感が続いた。


 ──人体は驚くほど無駄なく、かつ緻密に設計されている。本当によくできている。


 怖いと思った。夕食の話でも書くような調子で、人体の精緻さについて書いている。


 ──解剖の実習の話、夜に読むものではなかったわ。でも、あなたが楽しそうで良かった。


 返事に封をして、コーデリアは少し頬を緩めた。楽しそう、という言葉が正しいかどうかは分からないけれど、いつになく饒舌になって語るリーヴァイが確かに目に浮かんだ。


 冬季休暇にはパールと共に、セオドアの生まれ育ったレイクフォールを訪れた。名前の通り果てしなく広がる巨大な湖が横たわっていて、湖面は冬には凍っていた。


「歩けるの? 本当に?」


「毎年凍るんだ。子供の頃はよくここで遊んだな。……怖がらなくていいよ、氷は十分に厚いから」


 セオドアが先に踏み出して、コーデリアはおそるおそる湖の縁に足を置いた。もう一歩、また一歩。足の下でときどき、ぴしりと音がする。


「よく鳴るけど、大丈夫じゃなかったことは一度もないから安心して」


 コーデリアはそれを信じることにしてもう少し先へ進んだ。パールはすでに躊躇なく湖の真ん中まで歩いていて、「気持ちいい」と言いながら両手を広げていた。彼女は三人の中で度胸が一番ある。

 透き通った氷の下には暗い水があった。どこまでも深そうな底の見えない暗さで、コーデリアは少しの間その水底を見つめた。


「ねえ、セオドア。この湖、底はどのくらい深いの?」


「深いところだと相当あるよ。それと、湖の底に町が沈んでいるって噂もある」


「町が?」


「昔この辺りに小さな集落があったけど、山の上で雪解け水が一気に溢れてそのまま沈んだって話。本当かどうかは分からないけど、晴れた日に氷の下を覗くと石積みのようなものが見える、ってこの辺の年寄りは言うよ」


 パールが息を呑み、氷の上にへたり込むようにして水底を覗き込んだ。


「ねえ、聞いて。今の音、もしかして沈んだ町の人たちの話し声じゃないかしら? 彼ら、氷の下で今も冬の準備をしているのかも……!」


「それも面白いね。もし彼らがここにいるなら、氷を滑る僕たちの足音を懐かしく聞いているんじゃないかな」


 コーデリアも氷の上にしゃがんで暗い水を見つめた。底に町が沈んでいる。冬になると湖が凍って、その上を人が歩く。知らないまま笑いながら滑って、誰かの眠る場所の上を渡っていく。


「ミスト・ヴァレーには霧があって、レイクフォールには沈んだ町がある。あなたの故郷もなかなか物語の匂いがするわ」


「霧のない街だと言っていたけれど十分ね。むしろ書き甲斐があるわ。ここなら三人くらい幽霊を出しても怒られなさそうよ」


 セオドアが「帰ったら書いて」と笑い、パールが「かつて起きた凄惨な殺人の舞台にしてもいい?」と返す。コーデリアもまた、指先が無意識のうちに氷の表面に文字を描こうとしていた。冷気がペン先となって、心の中にある物語を刻み込んでいく。


「でも、あまり氷の上で長居すると結末を思いつく前に凍え死んじゃうよ。向こうにカフェがあるんだ。そこでなら沈んだ町の伝説も、氷上の殺人事件もいくらでも続きが書ける。物語を紡ぐのは大歓迎だけど、凍った湖に魂まで吸い込まれるのは僕としても困るからね」


「そうね、まずは温かい飲み物から始めましょうか。コーデリア、行こう。セオドア、その沈んだ町の歴史をちゃんと教えてよね」


 二人の言葉にコーデリアはようやく我に返り、ふっと息を吐いた。三人は立ち上がり、氷の表面に足跡を残しながら湖畔の先にある街並みへと足を進める。湖は氷の下の秘密を抱え込み、何事もなかったかのように凪いでいた。

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