第二十話
文芸サークルの拠点は、アカデミーの本館から少し離れた古い棟の、階段を上がった突き当たりにあった。
扉を開けると本と紙と埃の匂いがした。窓際には本が積み上がっていて、床には誰かが読みかけのまま置いていった本が開いたまま伏せてある。
「来てくれたね」
セオドアが詩集から顔を上げた。
「ええ。誘ってくれてどうもありがとう」
「みんな、紹介するよ。コーデリア・レイス、教職課程の一年生。歓迎してあげて」
歓迎、というほどの反応はなかった。何人かが顔を上げて、何人かは顔を上げなかった。ただそれぞれが自分の世界に入りこんでいるようで、コーデリアはなんとなくこの部屋が好きになりそうだと思った。
窓際の椅子には背表紙の剥げた外国の本を読んでいる学生。その隣では細い女の子が文庫本に時々鉛筆で書き込みをしている。テーブルの端では眼鏡をかけた男子学生がひたすら何かを書いていた。
「あの人は?」
「読むのしか興味がない。声をかけても返事が来ないこともあるから、気にしないで」
「あちらは?」
「哲学の話になると止まらない。気をつけて」
セオドアが苦笑いを浮かべつつ答えてくれる。コーデリアが椅子を引いて腰を下ろしたところへ、向かいから声がかかった。
「ねえ、新しい人。良かったら読む? パールよ。小説を書いているの」
「わたし、コーデリアよ。読ませてもらえるの?」
「良かったら感想を聞かせてほしくて。女の子の目線が聞きたいの」
大きな丸い目のパールは嬉しそうに原稿をコーデリアへ渡した。コーデリアは最初の一行を読んで、そのまま物語に引き込まれた。
古い城に住む吸血鬼と、迷い込んだ少女の話。吸血鬼は首筋から滴る真っ赤な血を指先に含ませると、少女の蒼白い頬をキャンバスに見立て、震えるような詩を書き連ねていく。少女は痛みより先に、その文字が何を綴っているのかを知りたくて動けない──。
「どうだった?」
「すごいわ。本当に。この場面、血で詩を書くところ。どこから思いついたの?」
「夢で見たの。怖い夢だったんだけど、目が覚めたら書きたくて仕方なくなったのよ。血と詩って、相性がいいと思わない?」
「……そうね。相性がいいというより、同じものかもしれないわ。自分の身を削って、痛みを伴って生まれる、という意味で」
「そう! そういうことを言ってほしかったのよ」
パールが身を乗り出したところへ、テーブルの端から声が割り込んだ。
「血で詩を書くという発想自体は悪くないが、あの場面は長すぎる。読者が置いていかれる前に終わらせるべきだ。それに吸血鬼の心理描写が浅い。なぜ詩を書こうと思ったのか、動機が曖昧なままでは説得力に欠ける」
眼鏡の男子学生が原稿から目を上げずに言った。コーデリアが少し面食らってパールを見ると、彼女は特に傷ついた様子もなく「ほら」と肩をすくめる。
「ハーヴィーはいつもああなの。批評家気取りで、人の作品には必ず何か言わないと気が済まないのよ」
「批評家気取り……」
「本人はちゃんとした批評のつもりだから余計に厄介なのよね。でもたまに正しいことも言うから、無視するわけにもいかなくて」
パールはやれやれという顔をしながら、でもそれほど気にしていない様子だった。コーデリアはもう一度ハーヴィーを見た。彼はまだペンを動かして原稿に何かを書き込んでいる。
「動機が曖昧と言っていたけれど、わたしは曖昧でいいと思うわ」
気がついたら、口を開いていた。
「読んだ人が想像する余地があってもいいと思うの。吸血鬼がどうして詩を書いたのか、読者が考える時間も物語の一部じゃない?」
部室が少し静かになって、ハーヴィーが初めてこちらを見た。
「面白い意見だ。でも想像の余地だけでは物語は成立しない。読者は納得を求めている」
「吸血鬼が詩を書く理由って、説明できるものかしら。夜が長すぎて、言葉を書かないと壊れてしまいそうだったのかもしれない。そう思うと、あの場面は少し寂しくて綺麗だったわ」
ハーヴィーはしばらくコーデリアを見ていた。それから、また原稿に目を戻した。
「……次の作品で試してみるといい」
パールがコーデリアの腕をそっとつついて、小声で「すごい、言い返した人初めて見た」と囁く。セオドアが窓際から、少し楽しそうな顔でこちらを見ていた。
文芸サークルの古びた部室は、コーデリアにとってかけがえのない新しい居場所になっていった。授業が終わると自然と足が棟へ向かって、古びた紙の匂いの中で互いの言葉を読み合う。
お題を使って物語を書く遊びがサークルの定番だった。あるとき、コーデリアはセオドアとペアを組んだ。お題は「燃えない蝋燭」である。
「光を失った蝋燭が光を求めて旅をするんだ。でも辿り着く先々で問いが生まれて──」
「それは素敵だわ。じゃあ旅の途中で、蝋燭は光でなくても温かいものに出会うの。人の記憶の中に宿る火とか、消えかけの星が落とした欠片とか──」
「詩的すぎて話が進まないな」
ハーヴィーが横から言って、コーデリアとセオドアは顔を見合わせた。結局書き上がったものを読み上げると、パールが「表現が美しいわ」と言い、ハーヴィーが「オチがない」と言い、哲学好きの学生が「これは存在論だ」と言い出して話が脱線した。
パールが新聞部への寄稿を持ちかけてきたのは、木枯らしが吹き始めた頃だった。
「アカデミーの新聞に文芸欄があるのよ。私、次の号に出したくて。コーデリアも一緒にどうかしら。あなたの書くものが好きなの。絶対に面白いと思う」
コーデリアは少し考えて、オーロラのことを書こうと思った。
斑模様の猫が館の屋根の上から見下ろすミスト・ヴァレーの霧、墓地の塀を渡って迷い込んだ先で出会う不思議な生き物たち。書いてみると止まらなくて、気がつけば十ページを超えていた。
パールの作品はやけにおどろおどろしい恋愛小説だった。城に幽閉された伯爵令嬢と彼女に恋をした亡霊の話で、血と薔薇と涙が惜しみなく使われていた。
二つの作品が掲載された翌朝、廊下ですれ違った知らない学生に「猫の話、面白かったよ」と声をかけられた。コーデリアは「ありがとう」と答えながら、少し不思議な気持ちがした。自分の書いたものが、見知らぬ誰かのところへ届いたのだ。
サークルの中では誰もが互いの作品を真剣に受け取った。揶揄う人は一人もいなくて、ハーヴィーの批評でさえ悪意ではなく真剣さから来ていることが少しずつ分かってきた。そういう場所で読み上げることは授業で先生に読まれるのとは全然違って、むしろもっと良いものを書きたくなる。
冬が来た頃、コーデリアは一本の原稿を書き終えた。
ミスト・ヴァレーに来た日から書き溜めてきた想像の欠片──霧の谷、墓地の静けさ、雨の匂い、誰かの手の温もり──それらを束ねた長編だった。何度も書き直して、何度も最初から読み返して、それでもまだ直したいところはあったけれど、ある夜、もうこれ以上は手を加えられないと思った。
翌日サークルに持っていくと、パールが最初に読んだ。途中から黙って、最後まで黙ったまま読んで、閉じてからしばらく何も言わなかった。
「……コーデリア。これ、応募したら?」
「応募?」
「文芸賞よ。学生向けの公募が年明けにあるわ。絶対に出すべきだと思う」
セオドアも原稿を読み終えて、興奮したように続けた。
「出した方がいいよ。こういう作品が埋もれたままなのは、すごくもったいないことだ」
ハーヴィーでさえしばらく原稿を持ったまま黙り、それからようやく口を開いた。
「第三章の一節は冗長だ。直してから出すといい。それ以外は悪くない」
ハーヴィーにしては破格の評価だった。パールがまた「すごい!」と声をあげて、嬉しそうにコーデリアに抱きついた。




