第十九話
アカデミーの授業はリーヴァイが予言した通り、想像以上に厳しかった。教育学の先生は早口で、発達心理の課題は毎週提出で、文学の講義だけは息ができたけれど、それでも読まなければならない文献の量が心を折りそうにさせた。
ベアトリスとは専攻が分かれているため、校舎内ですれ違うことは滅多にない。それでも毎朝、霧に包まれた谷の道を二人で駅まで歩き、汽車に揺られてアカデミーへ向かった。
「ねえコーデリア、昨日の課題終わった? 私なんて途中で寝ちゃって、姉さんに叩き起こされたわ」
ベアトリスはそう言いながらも教本を開き、指先で年号を追っている。コーデリアのほうは、昨夜書いた文章の一節がどうしても気になって、同じ言葉を何度も頭の中で転がしていた。
二人とも喋っているようで、それぞれ自分の世界の中にいる。それでも並んでいるだけで不思議と心は落ち着いた。霧の中を走る汽車の揺れに身を任せながら、こういう朝の時間が案外好きだとコーデリアは思っていた。
自習室は夕方には喧騒が引いて、残るのは試験前の切羽詰まった顔の学生か、あるいはコーデリアのように、誰にも邪魔されたくない用事を持った人間だけだった。
──霧の夜、窓の外に灯台の光が見える。光は奥へ奥へと伸びようとしていたが、霧はそれを許さなかった。光は行き場のないまま幽霊のように漂い、ただ夜を白く濁らせるばかりだった。
鉛筆を止めて書きかけの文章を眺めたコーデリアは、違う、と思った。「夜を白く濁らせる」では弱い。霧の中の光を知っている人間にしか分からないあの感覚を、たった一語で言い表さなければならない。コーデリアは欄外に「滲ませる? 溶かし込む?」と書き連ねて、全部に斜線を引いた。
机の上にはリーヴァイにもらったノートが開いてある。ミスト・ヴァレーに来てから書き溜めてきた想像の欠片──霧の夜、墓地の静けさ、橋の上の会話、雨の匂い。それらを一本の小説にまとめようと思い立ったのは、アカデミーに入ってすぐのことだった。
書くことはずっと好きだった。でも好きだからこそ妥協したくなくて、一つの文が気に入らなければその先へ進めない。「霧の夜、窓の外に──」という書き出しだけで、もう三日が経っていた。
「ずいぶんと熱心だね」
不意に声をかけられて、コーデリアは顔を上げる。
いつの間にか斜め向かいの席に人が座っていた。彼は机の上に薄い詩集を開いたままにしてこちらを見ている。
確か、教職課程の同じクラスで何度か見かけた顔だった。授業中はいつも窓際の席で、先生の話よりも手元の本に目を落としていることが多い人だ。
「……ごめんなさい、気づかなかったわ」
「ごめん、邪魔をするつもりはなかったんだ。ただ、つい目が行ってしまって。書いては止まって、また書いては止まる。もうしばらくそうしているから。……何を書いているの?」
コーデリアは少し迷ってから、正直に答えた。
「小説よ。でも、一文が気に入らなくて先へ進めないの。霧が光にすることを表す言葉を探しているんだけど、どれもしっくりこなくて」
男子学生はしばらく黙っていた。詩集を膝の上に伏せて、少し考えるような顔をする。
「見ても構わない?」
「ええ、どうぞ」
彼は机の上の文章に目を走らせた。コーデリアの書きかけの一文と、欄外に連なる書き損じと、その全部に引かれた斜線を。コーデリアがもどかしくなるほどゆっくり読んで、それからまたゆっくり考えた。
「『灯台の光は霧に押し戻され、さまよえる幽霊のように空を漂って、夜を淡く蒼白に曇らせていた』……とか。こんなのはどうだろう」
彼は自分のノートの隅に、細い万年筆でさらさらと単語を書き出す。
さまよえる幽霊のように──行き先を失って押し戻されるのに消えない、そういう光。淡くという一語は、光の弱さではなく光の儚さを言っていて、それが霧のある夜の正確な色だった。
「……すごいわ、それ。すごくいい!」
「本当に?」
「ええ。霧は光を拒絶しているんじゃなくて、ただそこにあるだけなのに、光の方は惑わされてしまうの。ミスト・ヴァレーの霧って、そういうものだから」
「ミスト・ヴァレーから来たの?」
「ええ。あなたは?」
「レイクフォールの生まれだよ。霧のない街」
コーデリアは霧を知らない人間がこんな言葉を選んだことが、少し面白いと思った。欄外の書き損じをすべて消せば、文章がようやく先へ続く気がした。
「ありがとう。……えっと」
「セオドア。セオドア・クロプシーだ。教職課程で同じクラスだよね」
「コーデリア・レイスよ。……わたしのこと、もしかして知ってた?」
「知ってた。作文の課題、いつも先生に読み上げられているから」
頬が熱くなるのを感じながら、コーデリアは首を横に振る。
「あれは、本当に本当に恥ずかしいのよ」
「どうして。いい文章だと思うけど」
「褒められ慣れていないの、あんな場所で。みんなが聞いている前で読まれるなんて公開処刑みたいなものよ。いつも机に突っ伏したくなるわ」
「君の文が人を引き込むから、先生もつい声に出して読みたくなるんだよ。それは恥ずかしいことじゃないと思うけど。僕はむしろ、あの時間が楽しみなんだ」
セオドアはそれ以上踏み込まず、それきり自分の詩集に視線を戻した。コーデリアは小さく「……そう。ありがとう」と呟くと、吸い寄せられるように再び鉛筆を握る。
すると三日間止まっていた文章が、不思議と流れるように動き始めた。誰かに読んでもらったからかもしれない。褒めてもらったからかもしれない。それとも単純に、「さまよえる幽霊のように」という言葉が、詰まっていた何かを押し流してくれたのかもしれなかった。




