第十八話
夏特有の濃い緑の匂いと、熟れた果実の甘酸っぱい香りが鼻をくすぐる。ミスト・ヴァレーの短い夏は霧さえも輝いて見えた。コーデリアは手慣れた様子でプラムの木に登り、葉の隙間からのぞく赤紫色の実を一つひとつ丁寧に摘み取っていく。
「コーデリア、そっちの枝はもうおしまい?」
下からミリエルが声をかける。彼女の家の農園を手伝うのはここ数年の恒例行事だ。収穫のあとに、売り物にならない少し傷のついた完熟のプラムを頬張る時間は、何にも代えがたい夏の楽しみだった。
「あら」
ミリエルが不意に声を上げる。
「コーデリア、道の向こうから誰か来るわ。──あっ、リーヴァイじゃない?」
「え? ……きゃっ!」
カゴを片手にバランスを崩しかけ、慌てて幹にしがみつく。木の上からは、街へと続く一本道がよく見えた。
ミリエルが指をさして、コーデリアは目を凝らす。確かにリーヴァイの姿があった。黒い上着を腕にかけ、いつもの足取りで歩いてくる。
「……本当だわ」
片手には封筒を持っていた。コーデリアは木の上から目を細める。文字はここからでは読めないけれど、差出人のところに押された印が、遠目にもはっきりと見える──グレイマロウ大学。彼が焦がれた医学の権威からの通知であった。
リーヴァイがすぐそばで立ち止まって、木の上のコーデリアを見上げる。それから封筒を少し持ち上げて見せた。
「降りてくるか、上で見るか」
「今開けて! そこで開けて!」
コーデリアは枝を掴んだまま、身を乗り出した。白い紙に光が反射して、ここからでは読めない。リーヴァイの目が紙の上を動いて止まる。その顔は何も読めない、いつも通りの涼しい顔だった。
「……どうだったの!」
「合格だ」
「リーヴァイ!」
「待て、木の上から──」
待てるはずもない。コーデリアは枝から手を離し、リーヴァイの肩に両手をついてそのままの勢いで飛び降りた。悲鳴を上げたのはミリエルで、コーデリア自身は笑っていた。
コーデリアの影が嬉しさで弾んで花を咲かせる。リーヴァイは反射的に腕を伸ばし、落ちてきた彼女を横抱きにして受け止めた。
「飛び降りるなよ。落ちたらどうするんだ」
「だって嬉しかったんだもの。それに、あなたが受け止めてくれるから。おめでとう、リーヴァイ。本当におめでとう」
リーヴァイは黙ってしまった。コーデリアを降ろしもせず、かといってそのままでもなく、ただ少しだけ腕の力が緩んだような気がした。
「グレイマロウ大学ね。遠くなるわ」
「遠くないよ。汽車で四時間だ」
やがてリーヴァイはコーデリアをゆっくりと地面に下ろす。コーデリアはスカートの裾を払って、ミリエルが木の陰からそろそろと出てきた。
「おめでとう、リーヴァイ。プラム食べてく? 傷ものだけど、甘くて美味しいわよ」
「毎年これが楽しみで手伝いに来ているのよ。一緒に食べましょう」
「……君の手伝いの動機はいつもそういうものだな」
三人で農園の木陰に腰を下ろした。ミリエルがプラムを山盛りにした皿を持ってきて、甘い香りが夏の風に混ざって漂ってくる。
コーデリアはプラムを一粒かじって、グレイマロウ大学の合格通知を眺めた。
「ちゃんと額に入れて飾るのよ」
「そこまではしないよ」
リーヴァイは合格通知を折り畳んで胸ポケットにしまう。夏の風が農園を渡って、プラムの葉をさわさわと揺らした。
遠くなる、とコーデリアは思った。秋からはグレイマロウに下宿して、ミスト・ヴァレーを離れてしまう。汽車で四時間なんて、リーヴァイは遠くないと言うけれど、毎日の送り迎えがなくなって、二人での勉強会がなくなって、霧の日も雨の日も欠かさず来てくれた人がいなくなる。それはやっぱり、遠くなることだと思った。
でも。
コーデリアはプラムをもう一粒かじった。甘くて、少しだけ酸っぱい。
でも、リーヴァイは行く場所を見つけた。コーデリアも行く場所を見つけた。それぞれの道を歩いていくだけだ。置いていかれるわけじゃない──あの秋の湖畔で、リーヴァイが言った通りに。
◆
蒸気機関車が吐き出す白い煙が、霧と混ざり合って視界を白く染める。その中でリーヴァイは両親にすっかり包囲されていた。
「リーヴァイ、着替えは足りるのか? 向こうは風が強いというし……」
「忘れ物はない? お金は変なことに使っちゃダメよ。困ったらすぐに手紙を書くのよ」
サロウ夫人は息子の外套の衿をまっすぐに直して、それからまた直して、それからもう一度直した。
「……わかってる。もういいって。子供じゃないんだから」
リーヴァイは答えながら、母親の手をそっとどける。衿はもう十分まっすぐだった。サロウ夫人は今度はリーヴァイの鞄を引き寄せて、留め金がちゃんと閉まっているか確かめ始めた。
コーデリアはその様子を少し離れたところから眺めて、しめしめ、と口元を隠した。
わたしより二つも年上なのに。もう十分大人なのに。お母さんに衿を直されて困ったような顔をしている。いつもは何を言っても動じない顔をしているくせに、こういうときだけ少し、どこへ視線をやればいいか分からなそうにしている。
けれど、その小さないい気分も、列車の発車を告げる鋭い汽笛の音にかき消されてしまった。今日から彼はグレイマロウへ──六年という長い歳月を、医学の研鑽に捧げるために。
「……じゃあ、行くよ」
ようやく両親の手を逃れたリーヴァイが、コーデリアの前で足を止めた。
「泣くなよ、コーデリア」
「泣いてないわ。風が冷たいから目が潤んでいるだけよ。秋ってそういうものじゃない」
「そうか。まあ、泣いても構わないけど。休暇には戻ってくる。六年って、そんなに長いかな」
「長いわ。すごく長い。六年後にはわたしたち、ずいぶん変わってしまうんじゃないかって思うの。少し怖いくらいに」
「変わらなかったら困るよ。何もしなかったことになるから。君だってぼさっとしてる暇はないぞ。アカデミーでの勉強は、僕が教えたことよりずっと厳しいはずだ」
コーデリアはぐっと込み上げてくる寂しさを笑顔で押し殺した。笑っていないと本当に目が潤んでしまいそうだった。
「……元気でいてくれ。影が暴れたら、遠慮なく知らせるんだ。すぐに戻るよ」
「そう簡単に戻ってこられるわけないでしょう。それに、そんな手紙は出さないわ。ちゃんと自分でやれるもの。……そのかわり」
「そのかわり?」
「楽しいことがあったときに手紙を書くわ。アカデミーで面白いことがあったとか、先生に褒められたとか、そういう話を送るから、あなたもちゃんと返してね」
コーデリアは手を伸ばして、リーヴァイの手を握った。初めて会ったころのリーヴァイの手は、もっと細くて頼りなかった気がしたけれど、今は違う。同じ人の手なのに、こんなに変わるものなのかしら、とコーデリアは思った。
「わたしたち、お互いの成長を楽しみにして待つことにしましょう。六年間が長く感じなくて済むように、お互い一生懸命やって、久しぶりに会ったときにびっくりさせ合うの。どっちがより立派になったか、競争してもいいわ」
「……うん。そうしよう」
汽車が低く鳴った。出発の合図だった。
サロウ夫人がまた息子の名前を呼んで、もう一度だけ外套の衿に手を伸ばした。リーヴァイは今度は素直にされるままにしていた。コーデリアはそれを見て、またくすくすと口元を隠した。
霧の中に消えていく汽車を見ながら、これがミスト・ヴァレーらしい見送りだと思った。霧に溶けて、消えていく。晴れた街ならもっと遠くまで見送れるのに、ここではいつもそうだ。霧が全部、連れていってしまう。
「コーデリアちゃんも、寂しくなるでしょう」
「少しだけ。でも、楽しみにしているから平気なの」
「楽しみに?」
「次に会うとき、どんな顔で帰ってくるのか。──きっと、びっくりするくらい立派で見違えるようになっているわ」
六年間という季節は、きっと二人を別々の場所で、けれど同じ歩調で大人にしてくれるはずだ。霧混じりの風がホームを吹き抜けて、十六の年を数えたコーデリアの髪を揺らした。




