第十七話
春の終わりか、あるいは夏の始まりか。谷底から這い上がってくる深い霧は、若葉の緑を幻想的な乳白色に染め上げている。
玄関の石段に腰を下ろしたコーデリアは、その霧の向こうを見つめていた。あの日、苦手な数学の試験を終えた後のどんよりとした不安は、今は露に洗われて、ただ純粋な期待と少しの震えに変わっている。
「……遅いわね、オーロラ」
足元で丸まっている愛猫の背をなでる。ベアトリスと共に鉛筆を握りつぶす勢いで勉強した日々、リーヴァイに叱咤されながら問題を追いかけた夜。そのすべての答えを運んでくる馬車が、ついに霧の向こうから姿を現した。
「お嬢ちゃん。そんなところで待ち構えて、今日は特別に大事な手紙でもあるのかい?」
御者台に座っていたのは見覚えのある顔だった。かつて孤独に震えていた少女を馬車に乗せ、この屋敷へと連れてきてくれた、あの郵便配達人だ。
「……ええ。今日で、わたしの人生が変わるかもしれないの。あなたが、わたしをこの屋敷へ連れてきてくれたあの日みたいに」
「そうか。あの日の小さな女の子が、今はそんな顔をして未来を待っているんだな。それじゃあ、これこそが君の新しい鍵になるはずだ」
差し出されたのは、合格者名簿が掲載されたばかりの朝刊だった。コーデリアは震える指でそれを受け取り、インクの匂いが残る紙面を広げた。
A、B、C……。
活字の列をなぞる指先が、ある一点で止まった。
──コーデリア・レイス。
その数行上には、ベアトリスの名前も誇らしげに並んでいる。
「……あった。あったわ。受かったのよ……!」
叫び声は澄んだ音色で庭に響き渡り、郵便配達人は自分のことのように嬉しそうに、帽子を振って祝福してくれた。馬車が去っていく音を聞きながら、コーデリアは合格者名簿を胸に抱きしめた。
あの日、馬車に揺られてこの街にやってきたときは、自分の影に怯えることしかできなかった。けれど今は違う。
教壇に立ち、子供たちに言葉の力を伝えられる未来がある。母が立っていたかもしれない、あの光の射す場所へ。
「おじ様、エレン! 見て、わたし、やったわ!」
屋敷に駆け込むと、廊下でエレンが真っ先に声を上げた。手にしていた洗濯物を籠ごと取り落として、両手で口を覆う。それでも隙間から「まあ、まあ、まあ!」と喜びが漏れ出ている。次の瞬間には力強く抱きしめられ、コーデリアも笑いながら抱きしめ返した。
書斎から出てきたヴェスパー卿は、名簿をコーデリアの手から受け取ってじっと名前を確かめた。
「……よくやった、コーデリア」
それだけだったけれど、その声には深い誇らしさが滲んでいた。コーデリアは喉の奥が詰まるような気がして、黙って頷いた。ひとしきり喜んだあと、ヴェスパー卿がおもむろに言った。
「少し、腰を下ろして聞いてくれないか。これからの君の未来に必要な話だ」
「……話?」
「座りなさい」
促されて居間のソファに腰を下ろすと、卿は向かいの椅子に落ち着いて、いつものように手を組んだ。「お茶をお持ちします」と廊下へと消えていったエレンの足音が遠ざかっていく。
「影のことだ」
卿はまっすぐに切り出した。
「今は随分と落ち着いている。だが、これから君はミスト・ヴァレーという小さな揺り籠を出ていく。世界が広がれば、それだけ身に降りかかるものも変わってくる。何があっても対処できるよう、君の傍には君の病に精通した人間が必要だ」
「……どういうことですか、おじ様?」
「医師のことだよ。……いや、単なる医師ではない。君の影の性質を理解し、どんな変化にも即座に応じられる人間がだ」
コーデリアは窓の外の霧を見つめた。影が完全に消えたわけではない。それはよく知っていた。嬉しいことがあれば弾んで、悲しいことがあれば沈んで、それに引きずられるように影も揺れる。うまく付き合えるようになっただけで、なくなったわけじゃない。
「……分かります。でも、それは」
「リーヴァイに話をした」
コーデリアが黙り込むのを待たず、卿はゆっくりと言葉を継ぐ。
「彼が医学を志していることは知っている。それならば、と考えた。コーデリアの病について適切に対処できるよう学ぶことを条件に、大学の学費を支援しようと」
「……おじ様」
「随分としぶられた」
卿はそこだけ、少し表情を緩めた。
「己の足で立とうとする、頑固なほど気概に満ちた子だ。だが君のためだと言ったら、最後には頷いてくれた」
「……わたしには、一言も教えてくれなかったわ」
「言わないだろう、あの子は。……コーデリア、これは施しじゃない。リーヴァイにとっても、医学を学ぶ理由が一つ増えただけのことだ。だから、素直に受け取りなさい」
コーデリアはいてもたってもいられず、合格者名簿を抱えて駆け出した。ミスト・ヴァレーの外れにある図書館は蔦が壁の半分を覆っていて、看板が古びて文字がほとんど読めなくなっている。
知っている人間しか辿り着けないような場所だったけれど、コーデリアはリーヴァイがここで勉強しているのを知っていた。
「……リーヴァイ!」
声をかけると彼は少しだけ眉を寄せ、ゆっくりとこちらを振り返った。その瞳が、名簿を抱えるコーデリアの姿を捉える。
「騒がしいよ、コーデリア。ここがどこだか分かっているのか」
「ごめんなさい。でも、どうしても伝えたくて。……わたし、受かったわ! 何度見ても信じられなくて、来る途中も三回確かめたわ」
「そうか。あの程度の試験で落ちるようなら、この先が思いやられると思っていたところだよ」
いつもの彼らしい皮肉混じりの祝福。けれど、コーデリアは彼がヴェスパー卿の申し出を──自分の病を学ぶという条件付きの支援を──受け入れたことを知っている。
「ねえ、リーヴァイ。大学へ行くんですってね。おじ様から聞いたわ」
「……厚意を無下に断る理由はないからな。でも、君のその厄介な影を制御できるようになるのも、僕のやりたいことの一つだよ。少なくとも、僕以外の誰かに君の面倒をみさせるつもりはない。効率だけを考えても、それが最善の選択だろう」
コーデリアは溢れるように微笑んだ。それ以上問い詰めるつもりはなかった。言葉にしてほしかったけれど、言葉にできない人間がいることも知っていた。
「……ありがとう、リーヴァイ。本当に。あなたが勉強を見てくれなかったら、わたし絶対に受からなかったわ。それだけじゃなくて、ずっとそばにいてくれたことも、毎日迎えに来てくれたことも、全部」
「君が解いたんだ。僕のおかげじゃない」
「あなたのおかげよ。受け取ってよ、今日くらいは」
コーデリアは踵を返して図書館の出口へ向かった。ベアトリスともこの喜びを分かち合わなければ。本棚の間を抜けて、扉に手をかけたところで、後ろからリーヴァイの声がした。
「コーデリア。転んで膝でも擦り剥いたときも、ちゃんと診てやる。夜中でも構わないから遠慮なく来い」
コーデリアは扉を押したまま、少し笑った。
「……膝の擦り傷を診るのに、大学六年間は少し長すぎない?」




