第十六話
ベアトリスの部屋は、いつ来ても彼女そのものだった。本は背表紙の高さ順に並び、窓辺の鉢植えはいつも土がちょうどよく湿っていた。コーデリアはここへ来るたびに、自分の部屋の惨状を思い出して少しだけ反省する。もっとも、館に戻るころには綺麗さっぱり忘れているのだが。
窓辺に二脚並んだ椅子に腰を落ち着けて、コーデリアは膝の上に毛糸を広げた。クリーム色と薄荷色、二玉。オーロラのために小さな帽子を編もうと思い立ったのは三日前で、編み図まで丁寧に描いたのに、いざ針を持つと目数が合わなくて、もう四度もほどいている。
「……ねえ、ベアトリス。リーヴァイは卒業したらまずは働くんですって」
目数を三目減らすか、二目か。首を傾げながらなんとなく口を開くと、慣れた手つきでティーポットカバーを編み進めていたベアトリスの編み針が一瞬だけ止まった。
「まあ。あんなに理屈っぽくて自信家なリーヴァイが? 卒業してすぐに高名な法学部へでも殴り込むのかと思っていたけれど」
「本当は医学を学びたいそうよ。でも、まずは働いて学費を貯めてから行くって。すごく当たり前みたいに、自分の足で将来を歩こうとしているの。それを聞いたら、わたし、自分が急に頼りない子供みたいに思えてきて……」
コーデリアは毛糸を引きながら、少し眉を寄せた。糸がもつれて、指先がもどかしい。
「……自分の力を、どう使えばいいのかなって。みんなちゃんと行き先があるじゃない。なのにわたしだけ、何かできる気はするんだけど、それが何につながるのかいまいちよく分からなくて」
「代筆屋はもうやめたんでしょ」
「やめたわよ! もうとっくにね。あんなに綺麗な言葉を書いても、結局誰のものでもなかったんだもの」
「じゃあ、言葉を使って何かをすることは好きなの? 嫌いになった?」
「好きよ。それは変わらないわ、きっと一生よ。物語を想像することも、誰かに何かを伝えることも」
ベアトリスはしばらく考えるような顔をした。窓の外の枝が風に揺れて、光が揺れて、部屋の中がきらきらと動く。
「ねえコーデリア、去年の詩の授業を覚えてる? ロザリーが韻の踏み方がどうしても分からなくて、泣きそうになっていたとき。コーデリアが隣で教えてあげていたじゃない」
「覚えているわ。あの子ったら、強弱の置き方がどうしても頭に入らないって」
「あのときのコーデリアの顔が、私はずっと忘れられないのよ。生き生きしていたわ。ロザリーの目がぱっと開いた瞬間、コーデリアが一番嬉しそうだったもの。ロザリー本人よりも」
「……そうだったかしら」
コーデリアは針を止めた。言われてみれば、そうだったかもしれない。誰かに言葉の意味を教えて、その子の目が開く瞬間──あれは好きだった。ミリエルの代筆をしたときとは違う、もっと真っ直ぐな喜びが、あそこにはあった気がした。
「ねえ、コーデリア。アカデミーには教職課程があるわ。もしあなたが本気で言葉を愛し続けたいなら、次はそれを教えるという形で使ってみたらどうかしら。はっきり言って、あなたが先生になったら絶対にいいと思う。言葉が綺麗で、人の気持ちが分かって、誰かの目が開く瞬間を一番喜べる人だもの」
「……先生? わたしが? それに、そんなふうに思っていてくれたの?」
「そうよ! 何より、私が寂しいじゃない。あなたがいないアカデミーなんて、議論の相手がいなくて退屈で死んでしまうわ。だから一緒に来なさいよ。あなたは教職の免許状を、私は歴史の修了証を。二人でミスト・ヴァレーを驚かせてやるのよ」
ベアトリスはにっこりした。ベアトリスがにっこりするのは珍しいことで、コーデリアは少し面食らった。
「急に言われても、なんだか信じられないくらいだわ。……でも、わたしのママは家庭教師をしていたの。顔も覚えていないし、会ったこともないけれど。ずっと思っていたの、同じ場所に立ってみたいって。そこから見える景色が、ママの見ていたものに少しでも近いかもしれないから」
答えが出たのはその夜のことだった。
ヴェスパー卿に相談すると、彼は驚きつつも「素晴らしい考えだ。よく決めたな、コーデリア」と力強く背中を押してくれた。エレンに至っては涙を浮かべて喜んでくれたほどだ。「自分で身を立てられる術を持っておくことは、何よりも大切なことですよ。知識は誰にも奪われないあなたの財産になりますから。必ずどこかで役に立ちます」という彼女の言葉は何よりも心強かった。
ただ、問題が一つあった。アカデミーの入学試験は生半可なものではない。筆記に口述、小論文まである。ベアトリスは「大丈夫よ」と言ってくれたけれど、大丈夫かどうかは自分が一番よく分からなかった。
不安に押しつぶされそうになってリーヴァイに打ち明けると、彼は「……まあ、僕が少し見てやってもいいよ」と、これまた彼らしいぶっきらぼうな態度で、毎日館まで送ってくれた後に勉強を見てくれるようになった。
「やる気があるのは認めるが、その解答の導き方は論理が飛躍しすぎだ。もう一度、前提から読み直せ」
机に広げられた参考書の上で、リーヴァイの厳しい声が飛ぶ。
「……リーヴァイ、ちょっと厳しすぎないかしら。もう二時間もぶっ通しよ」
「甘えるんじゃない。僕がいない場所で君が恥をかくのは、僕の教え方が悪かったようで癪なんだよ」
ペンを握る指先が少し痛む。けれどランプの火に照らされた彼の横顔を盗み見ながら、コーデリアはふと、遠い日の記憶を重ねていた。
まだ影の暴走に怯え、震えていた自分に、リーヴァイが初めて文字を教えてくれた時のこと。あの時も彼は今のように辛抱強く、世界を読み解くための言葉を一つずつ手渡してくれた。
「……何を見てるんだ。手が止まっているよ」
「なんでもないわ。……ただ、変わらないなと思って」
「進歩がないと言いたいのか?」
「違うわ。ただの感謝よ」
厳しい先生の視線を感じながら、コーデリアは一歩ずつ、確かな足取りで自分の行先を書き換えていく。それはかつての空想の物語よりも、ずっと手応えのある未来だった。




