80 地獄行の勅命
侍女のクリスが戻ってくる。
その事実が、ブリジアの足取りを軽くした。
クリスはシャミンと共に耐火殿に戻っていった。
クリスがブリジアに仕えるにしても、荷物や準備があるのだ。
憩休殿の奥に入ると、魔王が投げつけた器が床にめり込み、ブリジアの足もとに埋まった。
魔王が投げつけたものがダイヤモンドの塊だと見て、ブリジアはイブリンを振り向いた。
「持ち帰れません。人族の力では、掘り出せません」
「……そうよね」
「ブリジアか?」
魔王が苛立った声を出した。
ほとんどの妃が、それだけで足をすくませる。
皇后は例外である。
ブリジアも、魔王の怒りが自分に向いているのでなければ、恐ろしいとは思わなかった。
「魔王陛下にご挨拶を」
「よい。立て」
「感謝いたします。クリスの件、本人から聞きました。ご配慮、ありがとうございます」
ブリジアが言うと、魔王はハエを払うかのように鷹揚に手を振った。
「ああ。妃のシャミンは不服そうであったがな。だが、デジィに勘付かれては、誤魔化しも効かん。デジィは、クリスのことは覚えていなかった。朕が新しい妃の夜伽もせずに、侍女を孕ませたと勘違いして、隔離話法で散々嫌味を言ってきた。孕んだ侍女を妃だということにして、その主人に嫌がらせをして憂さ晴らしをしたらしいがな」
デジィがいつクリスの妊娠に気付いたのかは、ブリジアにはわからなかった。
隔離話法というのは、魔王が時々ブリジアに送ってくる、頭の中だけで響く声なのだろう。
魔王しか使えないとは思わない方がいいようだ。
「皇后様に嫌味を言われて、お怒りなのですか?」
ブリジアは立ち上がった場所から動かず、めり込んだダイヤモンドを取り出そうとしたが、魔王の兵装を支えることもある床は、本来ダイヤモンドより硬い素材なのだ。
投げられてめり込んだのは、それだけ投げた勢いが凄まじかったのだろう。
「そんなことで腹は立てん。近頃、人族どもが朕に感謝することが増えていてな。それをこの世界の神に向けさせるよう、第13部隊に指示したのだ。神たちというは、守護するものたちの信仰が力となる。朕が信仰の対象となれば、神どもと敵対することになる。今は、まだその時ではない。大人しくさせねばならない魔物が数多くいる。神どもと戦っている場合ではないのに、デジィは、神どもを利することだと怒り出してな。最後には、朕と女神の不義密通を疑い出した」
「どうして、この器に八つ当たりをするのですか?」
ブリジアが足もとを指差した。
魔王は言った。
「ある火山で、美味いマグマが吹き出す山があった」
「……はぁ」
魔王は何を言い出すのだろうと思いながら、ブリジアは曖昧に返事をした。
魔王は続ける。
「マグマというのは、湧き出る場所によって味が違う。だが、マグマ自体は地下深くで繋がっているのだ。美味いマグマが噴き出る火山を活性化させるため、別の場所にある火山の噴火を鎮めたのだ。鎮めた火山は低く、周囲に人族の街があった。人族が、朕に感謝して送ってきたものがそれだ。人族に感謝されるなど、もっての他なのだ。仕方なく、朕はその国の王の娘の誘拐を命じ、火山が鎮まったのは神の力だと宣伝させた。それを知ったデジィが怒ったのだ」
「魔王様も、大変なのですね」
「ようやくわかったか。ブリジアは何の用だ? クリスはいずれ封眠殿に移動させる。十分な食事を与えるといい。居心地がよいほど、根付いた命は長く体内にいて、母体を健全に保とうとするだろう」
「……産んだ後、クリスも眠りにつきますか?」
「それはない。魔族の女だけだ。だから、魔族の妃は皇后だけなのだ。皇后が長く眠っている間に、後宮の秩序が乱れないようにする配慮だな」
ブリジアは、結局足元に埋まったダイヤモンドを諦めて魔王に近づいた。
「魔王様にお願いがあって参りました」
「なんだ?」
魔王は、ガギョクが注いだお茶を飲んだ。
お茶に見えるが、赤い液体が煮え立っている。マグマらしい。
「地獄に行きたいのです」
ブリジアの言葉に、驚いたのだろう。口にしていた岩でできた器を、魔王は噛み砕いた。
「ブリジア、よく言った。それでこそ、朕の妻である」
「ありがとうございます。お褒めいただけるとは思っていませんでした。陛下の妻というのも、まだただの称号ですし。それでは、ご許可いただけるのでしょうか?」
魔王は、岩石の器を完食することにきめたらしい。噛み砕いてしまった部分にさらに口をつけ、ぼりぼりと齧りながら答えた。
「……許可……そうだな。妃も侍女も、後宮から出ることは禁止されている」
「はい」
「朕が許可したとなれば、他の妃が五月蝿いだろう。朕が命じた方がよかろう。いずれ、詔を出す。それまでは待つがよい」
「ありがとうございます。それと、お伺いしたいことがあるのですが」
「なんだ?」
器の最後の欠片を口に投げ入れながら、魔王がブリジアに先を促した。
ブリジアは頷いて続ける。
「私は、トボルソ王国の女王になったのですか?」
「うむ。そう報告を受けている」
「私は、聞いていないのですが」
「王冠と王笏を受け取ったであろう」
「魔球の練習場で、道具として使うように渡されました」
「渡し方の問題ではあるまい。人族の王権を象徴するものが、現にブリジアの手にあるのだ。すでにブリジアは国の王である。拒むことはできまい」
「……無理ですよね」
「そんなことはない」
魔王は大きな手を伸ばし、ブリジアの紫色の髪を撫でた。
「私は、ずっと後宮にいて、国のこともわかりませんし、何の裁量もありません」
「人族の国の中には、国王が他国との戦争に明け暮れ、一〇年も不在にした国もある。国王が政治に関わらぬ国も多い。トボルソの王は、ブリジアが祖国にもたらした恩恵に自らの非力を感じ、自ら退位したと聞いておる。これから、王として裁量が必要な書類は、ブリジアにも渡す。自ら確認し、署名するといいだろう」
魔王はブリジアを抱き上げ、膝に座らせた。
どんな妃も震え上がることだが、ブリジアは慣れていた。
皇后以外の妃は、魔王が猛獣と人族を掛け合わせたような姿をしているときは、恐れて平伏すのだ。
「パパは……いえ、国王は無事なのですか? トボルソで内乱が起きて、退位させられたとかではないのですか?」
「魔王城と直接転移できる魔法陣が設置された国は他にない。ブリジアが朕の寵妃であれば、トボルソが食糧難に陥ることも、敵国に侵略されることもない。食料は全て、魔王領の地下施設で賄える。前王がブリジアの功績を国内に発表した結果、国内からもブリジアを王にせよという声が高まったらしいぞ」
「お父様……私の功績にしなくてもいいのに……」
「それだけ、ブリジアを可愛がっているのだろう。娘の功績を自分の功績だとは言えなかったのだ。それに、どうやったところで、トボルソにいる王が、我が国と交渉するだけで利益を得ることなど、できるはずもない」
「一度、国に帰ることはできるでしょうか?」
「無論だ。トボルソに転移の魔法陣を設置したのは、魔王領から行き来するためだけではなく、他の人族の国と交流するためだろう。どの国と交流するかは今後の課題だろうが、外に出られなければ交流先を決めることもできまい。何のために、そなたを封眠殿に送ったと思っておる。封眠殿にいれば、皇太后の後ろ盾があるのだ。他の妃も、容易には口出しできん」
「さすがは陛下、そこまでお考えなのですね」
「皇太后がブリジアの侍女たちを気にいるとは、予想外だったがな」
魔王は頬を掻いた。
皇太后ミスティの判断は、魔王でも理解できないのだろう。その部分が予想外だったのなら、大部分は偶然だということになる。
だが、ブリジアはそれには触れず、頬を膨らめた。
「でも、地獄に行くのは勅命でなければいけないのですか?」
「当然だ。自国の王となってしまったから、自国のために外に出たいというのなら、許可でもよい。ブリジアの護衛なら、ダキラが喜んでやるだろう。慶事の時に来られなくて、悔しがっておったからな。だが、地獄にいくのは訳が違う。地下後宮にいるはずの妃を、地上に放って好きに暴れされるわけにも行くまい」
「私、暴れたりしませんけど……」
「暴れなければ、地獄には届くまい」
「……わかりました。私は、まだ地獄に行ったことがありませんので、陛下に従います」
「うむ。それがよい」
魔王はブリジアの頭を撫でて、ガギョクに人族が好む菓子を持ってくるように命じた。




