79 名妃と貴女
〜封眠殿〜
ブリジアは、正殿に侍女のテティと、シャミンの侍女ギエイを残して、与えられた自室に戻ってきた。
「ブリジア様、おかえりなさい」
ブリジアの部屋で、侍女のシテンがハンマーを振り下ろしていた。
シテンは天才的な魔道具製作職人である。
ブリジアの侍女として役目がない時は、ほとんどの時間ハンマーを握っている。
「テティはしばらく戻らないわ」
「珍しいですね。事故でもありましたか?」
シテンは保護用のメガネを外しながら尋ねた。
魔道具を作っていても、道具に愛されていると言われるシテンは、汚れることがない。
艶やかな黒髪が白い額にかかる様は、ブリジアすら羨ましくなるほどだ。
「地獄を作るんですって」
「ああ……地獄巡りでしたね。地獄というより、湯治場に惹かれたのでしょう。チャクも一緒ですか?」
「うん。地獄絵図を書くのに必要なんですって」
「そこだけ聞くと、とても恐ろしいことをしているようですね」
ブリジアはとてとてと奥に行くと、戸棚を開けた。
お菓子が入った椀を引き出す。
ブリジアが一人で戻ってきたのは、綺麗になることに執着する大人たちにつきあいきれなかったからである。
「うん。血の池地獄とか、針の山とか、氷結地獄とか言っていたわよ」
ブリジアが器の蓋を開けると、料理上手の侍女が作った餅菓子が入っていた。
ブリジアがつまみ食いすると、シテンが険しい顔をした。
「血の池に氷結……炎獄もありますか?」
「火の山? あるんじゃない? お茶が飲みたいわ」
ブリジアがお菓子を頬張ると、湯呑みに入ったお茶が差し出された。
差し出したのはシテンではない。
シテンが作ったカラクリ人形が、お茶を運んできたのだ。
ブリジアが受け取る。シテンが言った。
「どうやって再現するのでしょうか」
「それを考えるのはきっと……シテンの役目ね」
ブリジアが言うと、シテンがにやりと微笑んだ。
「ブリジア様、皇太后様がお見えです」
「えっ? はい」
声をかけたのは、ブリジアの侍女の一人イブリンである。
狙撃の名手で、視界に捕らえさえすれば、どんな小さな標的にも、どんな得物でも当てられると言われる。
緑色の髪を後頭部で団子にしている。
ブリジアは、皇太后ミスティがいた正殿から戻ったばかりである。
テティといた時、ミスティもいたのだ。
ブリジアが部屋に戻ると、すぐに皇太后が追ってきたことになる。
ブリジアが膝をつこうとすると、ミスティが止めた。場所はブリジアの部屋である。ブリジア自身が知らない内に、ミスティが中にいたことになる。
だが、ブリジアは恐れなかった。むしろ、喜んだ。
最初の出会いこそ恐ろしかったが、ミスティはブリジアが知る中でも、最も落ち着いた魔族の一人だ。
「皇太后様、どうなさいました?」
「いや。あたしも飽きたのさ。人族の女たちの、美しくなりたいって欲望にはいつも驚かされる。あのテティもチャクも、びっくりするぐらい美人なのにね」
「皇太后様には敵いません」
「あたしの顔がどんなか、ブリジアはわかるのかい?」
ミスティが入ってきたことで、シテンはハンマーを隠し、忠実な侍女そのものの振る舞いで壁際に移動していた。
ミスティが自分の顔を指差した。
見られるといえば、嘘をつくことになる。
嘘はバレるだろう。
ミスティの肌は、あまりにも黒いために光すら飲み込んでしまう。
顔立ちは誰もわからないのだと言われる。
「……ごめんなさい。でも、陛下は皇太后様似でしょう? なら……」
「あの子は、どっちにも似ていない。それでいいのさ。魔族の女は、自分にも父親にも似ていない子供こそ、最上だと見なす。親よりも常に強い。そうでなければ、種族として強くなれないからね。そんなことを言いにきたのではないよ。ブリジア、地獄に行きたくないかい?」
突然、ミスティは尋ねた。
ブリジアは驚いた。
正直にいえば、地獄に行きたくなどなかった。
「私、償わなければならない悪いことをしましたか?」
「そうじゃない」
ミスティが笑う。背後に向かって手招いた。
皇太后に導かれるように、厳しい鎧を身につけた戦士レガモンと、流線形のアームスーツを輝かせたナギサが入ってきた。
2人が膝をつく。ブリジアは立つように促した。
ミスティの許しを受け、レガモンが言った。
「地獄というのは、魔王領の西方にあるダンジョンの名前です。魔族の罪人を閉じ込めて置く場所だとか」
「……そこに行って、何をするんですか?」
ブリジアは、言い方を間違えたと悟った。ミスティは言った。
「地獄巡りっていう湯治場を作るのに、本物の地獄を知らないってのは、いただけないだろう。それに、ブリジアは新しい妃……名前は忘れたけど、その子に一騎討ちを申し渡したんだ。地獄っていうのは、うってつけだと思うけどね」
「……レガモン、ナギサ……」
ブリジアは助けを求めたかった。
侍女クリスを取り戻したかったのは間違いない。だが、シャミンの立場を考えると、ブリジアが一騎討ちを申し込んだのは、行き過ぎだったと反省していた。
ブリジアは、本人にはあまり自覚はないが、魔王に寵愛されている。
その寵妃が新入りの妃に一騎討ちを申し込むのは、いじめだと言われても仕方がない。
実際には、魔球の競技場の中央で跪かせられたブリジアは、一騎討ちを申し込むだけの理由がある。
だが、シャミンは入内後、魔王が訪問しないために苦しい立場にあるとも聞いていた。
「ブリジア様、大丈夫です」
レガモンが力強く答えた。
「うん。ありがとう」
「必ずや、シャミン名妃をコテンパンにして見せます」
「ナギサ」
レガモンは誤解している。ブリジアが、元勇者に助けを求めた。
流線形のアームスーツを解除したナギサは、ほっそりとした華奢な娘だった。
だが、レガモンと互角に戦うほどには強い。
「ブリジア様に恥をかかせたのです。かならず、仇を討ちます」
ナギサも駄目だ。
ブリジア悟った。
ミスティを振り返る。
「でも、陛下がお許しにならないのではないでしょうか? 陛下は、妃が後宮から出ることをお許しになりません」
「そうかもしれないね」
ミスティは認めたが、その言葉はむしろ、ブリジアには不吉に聞こえた。
※
ブリジアは、皇太后ミスティの許しを得て、魔王の住まいを訪れることにした。
ミスティは、魔王は頻繁に封眠殿に来るのだから、自ら出向く必要はないと考えていた。
だからこそ、ブリジアは魔王に会いに出かけたのだ。
ミスティは、ミスティが望む方に誘導しようとする。
皇太后の意向であれば、よほどの理由がなければ魔王も断ることはない。
皇太后は、魔王よりよほど人族の脆弱さについて熟知しているし、皇后よりよほど人族を見下していないが、より本人が楽しむことを優先する。
魔王と相談したかったのは、地獄巡りのことではない。シャミンのことなのだ。
ブリジアは、頭に血が昇ってシャミンに一騎討ちを申し渡したのを後悔していた。
地下後宮の噂になったが、その噂は、むしろブリジアに好意的だった。
いかなる理由があろうとも、慶事の最中にその中央で、長時間膝をつかされたのは事実なのだ。
しかも、ブリジアが寵妃であることを否定する妃はいない。
時折封眠殿を尋ねてくる人族の妃は、耐火殿の妃たちを除いて、シャミンを悪辣に罵って帰っていった。
だが、ブリジアはシャミンの立場も理解しているし、顔馴染みである。
ミスティは、ブリジアとシャミンの対立を楽しんでいるのだ。
ブリジアは、封眠殿にいるからこそ使用できる輿を急がせ、魔王の住まいである憩休殿に降り立った。
武闘派のレガモンとナギサには留守番を命じ、地獄巡りに夢中になっているテティを残したため、イブリンが従っていた。
シテンは魔道具を作る時間が減るので、外出は嫌うのだ。
ブリジアが憩休殿の門をくぐった時、正殿から出てくる人影と出くわした。
「シャミン名妃にご挨拶を」
ブリジアが平静を装って、上位の妃に対する礼をすると、シャミンは立ち止まって言った。
ブリジアは視線を下げていたので気づかなかったが、声が震えていた。
泣いているのだと感じた。
「好きにして。陛下に言われたでしょう」
シャミンが背後の侍女に囁く。
侍女は言った。
「ブリジア様、魔王陛下がおっしゃいました。新しい妃となるか、ブリジア様の侍女に戻るか選べと」
ブリジアが驚いて視線を上げる。
懐かしいクリスが、ブリジアの前で膝をついていた。
「私の中には、陛下の子供がおります。この子は……ブリジア様のお子です」
クリスは、自分の腹部を撫でた。
「クリス、いいの? あなたなら、いずれ宮殿の主人になれるかもしれないのに」
「私は、どんなに頑張っても、幸運に恵まれても、宮殿の主人まででしょう。ブリジア様がそれで止まるとは思いません。ブリジア様にお支えさせてください」
クリスはにこやかに言った。後悔している様子はないし、迷いもしなかったのだろう。
「……シャミン様、よろしいのですか?」
「陛下のご意向だと言ったでしょう。クリスは、いずれにしても私の侍女ではいられないわ。これでいいでしょう?」
シャミンは涙を流していた。
クリスを手放したくないのか、悔しいのか、おそらく両方だろうとブリジアは感じていた。
「『いい』って、どういうことですか?」
「しゃ、謝罪を求めるの? 私から、お気に入りの侍女を奪ったのよ。もう、いいじゃない。一騎討ちなんて……私の味方は、もう侍女のギエイしかいないのよ。あの子は優秀で美人だけど……常に何か企んでいるわ。とても、勝負にならないわ。ただでさえ私は恥をかくのに、地獄に置き去りにして、永久に苦しめないと気が済まないの?」
シャミンは捲し立てた。
言いながら、さらに涙を流していた。
ブリジアは、クリスの手を借りて立ちながら言った。
「ああ、そうだった。地獄に行く許可をもらいに、陛下のところに来たのだったわ」
「酷い!」
シャミンは走り出していた。
ブリジアは驚いた。
シャミンとは仲直りしたかったのだ。
だが、クリスの話で本来の要件を忘れていたところで、シャミンが思い出させたため、口に出てしまったのだ。
「待って! イブリン……それは駄目よ」
「承知しました」
ついてきた侍女のイブリンは、どんな的でも、どんな得物でも命中させられる特殊技能の持ち主だ。
良すぎる目を保護するために、普段は片目に眼帯をしている。
ブリジアの言葉を受け、シャミンを足どめするためにブーメランを手にしたところで、主人から止められたのだ。
「ブリジア様、シャミン名妃と仲直りしたければ、耐火殿に出向けばよろしいでしょう」
「ああ、そうね。さすがはクリスだわ」
ブリジアが感心すると、クリスははにかんで笑った。
見慣れたクリスの表情に、ブリジアは感じたことのない安心感を覚えた。
「ところで、どうしてイブリンが一緒なのですか? テティはどうしました?」
「うん。テティは、皇太后様の計画に夢中になっているから……」
「あの子……ブリジア様のお世話が、第一でしょうに。はっきりと言って差し上げます」
「い、いいのよ。私が許可したのだから。それに、テティは正式に侍女頭にしたから、叱るのはやめてあげて。クリスがいない間に、みんなもしっかりしてきたわ。イブリンだって……我慢できるようになったし」
ブリジアが言うと、クリスはしぶしぶと頷いた。
イブリンが胸を撫でる。
侍女たちの中でも、テティとクリスは別格なのだ。
「それより、行きましょう。あそこでゴリョウが、首を長くしているわ。私が中に入るかどうかわからないから、困っているのよ」
ブリジアが指差した先で、魔王親衛隊のホムンクルスの1人が、首を伸ばしてブリジアたちを覗いていた。




