75 新しい妃の受難
〜耐火殿〜
地下後宮の中で、皇后に継ぐ地位にいる王妃と呼ばれる妃の一人エレモアは、封眠殿から届いた書状に頭を抱えた。
「エレモア様、シャミン名妃が参りました」
エレモアの専属侍女モリスが告げた。
人族の国にいた時から仕えている、ふっくらとした女性だ。
エレモアは、魔王領が存在する西側の大地の出身である。
魔王領の西側は、広大な平原ではなく起伏に富んだ地形が広がっている。
大国といっても広大な領地を持っているわけではなく、一都市一国家となる都市国家も多い。
亜人族との交流も活発で、さまざまな種族が入り混じった結果、魔術の作法が簡略化された。
簡略化された魔法は効果が弱く、科学技術で補う習慣が根付き、魔力と科学が融合した文明が展開されている。
エレモアは、小国ではあったが宰相の娘で、幼少の頃より美貌を絶賛されてきた。
燃えるような赤い髪と、対比するような白い肌が特徴で、大きな瞳に睨まれた者を萎縮させてきた。
「あの役立たずが何の用かしら。いいわ。通して」
エレモアは、シャミンを耐火殿に引き取った。
どの宮殿も妃の数は3人から4人だが、部屋数はもっと多い。
魔王がブリジアを寵愛していることで耐火殿にくることが減り、俸給が少なくなっているのは他の宮殿と変わらない。
かつてエレモアは魔王の寵愛を受け、まだ幼い2人の公子を授かっている。
「エレモア王妃にご挨拶を」
シャミンが戸口で膝を曲げ、地下後宮で行われる無手と心をささげる礼をした。
「まあ、シャミンさん、恭しい礼は不要よ。私たちは家族のようなものなのだから」
エレモアは険しい表情を一瞬で和らげ、椅子から立ち上がってシャミンに手を伸ばした。
「エレモア様に感謝を」
シャミンが真っ直ぐに立つと、エレモアよりも少し背が高い。
わずかでも見下ろされるのは、エルモアは気に入らなかった。
微笑みながら、シャミンに椅子を勧める。
背を向け、エレモアは自ら椅子に戻った。
「エレモア様、来奇殿のブリジアのことです」
腰掛けると、早速シャミンが切り出した。
エレモアは、機先を制するようにモリスに命じた。
「お茶を用意して」
「承知いたしました」
「あ、あの、エレモア様……」
「シャミン、ブリジアが入内する時、誰も欲しがらなかったわ。それなのに、入内すると同時に来奇殿に多大な貢献をした……シャミンが入内してから、魔王様は何度お越しになった?」
「あ、いえ。まだ、一度も……」
シャミンは小さくなった。
「あなたに、ブリジアをどうにかできると思うの?」
「ですが、ブリジアから一騎討ちを申し込まれています。このまま、引き下がれません」
モリスがお茶を運んでくる。
エレモアは、蓋つきの湯呑みを受け取った。
ほうじ茶の芳しい香りが広がる。
「引き下がる方が賢明ね」
言いながら、エレモアは湯呑みに口をつけた。
シャミンにも湯呑みが渡されたが、エレモアの湯呑みよりはるかにシンプルである。
「……私に、ブリジアに謝罪しろとおっしゃるのですか?」
地下後宮の妃同士は、決して仲が良いわけではない。
絶対的な存在である皇后デジィの体面もあり、表立った争いはないが、水面下では嫌がらせの応酬である。
その中で、決定的な破局をもたらさないために、妃同士が争う場合の規則がある。
「地下後宮の一騎討ちは、地上で人族が行う一対一のものではないわ。私たちはか弱い乙女だもの。自分の力で従えられる、あらゆるものを使ってもいいことになっているわ」
「……地下後宮に来たばかりの私には、不利ということでしょうか……」
ブリジアが地下後宮で生活を始めて一年とは経たないが、魔王の寵愛を受けているために従う者は多い。
だが、シャミンは誤解している。
「どの宮殿の主人も、ブリジアを引き抜こうとしても、潰そうとはしないわ。魔王様の寵愛を受けている。それは確かね。でも、それだけじゃない。ブリジアが連れている8人の侍女がどんな能力を持っているのか……特別なのは、見た目だけじゃないらしいわよ。トボルソ王国はまるで、人材の宝庫ね」
「でも……ブリジアは、もし一騎討ちに勝ったら、私に謝罪を求めるだけではないでしょう。私の侍女を奪うつもりです」
「構わないでしょう。クリスでしたっけ? もともと、ブリジアの侍女だったのでしょう。くれてやりなさい」
「嫌です。クリスは、私のものです」
シャミンは頑固に首を振る。
ブリジアの侍女の1人を、決して手放したがらない。
そのことが、すでにブリジアの強さを物語っているとは、シャミンは気づいていないようだ。
「なら、ちょうどよかったわ。シャミン、皇太后様からお誘いよ。一騎討ちの方法を話し合いたいとね。皇太后様はずっと寝ていたから、私もお会いしたことはないわ。ただ噂では、大層遊び好きみたいね」
「……望むところです」
シャミンは、エレモアが読んでいた封眠殿からの書状を受け取った。
強気に言ったシャミンの顔色が変わる。
「エレモア様、『地獄巡り』とありますが……これは、何をするのですか?」
シャミンが尋ねた通りだ。
封眠殿からの文書には、一騎討ちを地獄巡りで行うと書かれていたのだ。
「知らないわ。本物の地獄に連れていかれるわけではないと思いたいわね。それを決めるために呼ばれたのでしょう」
「本物の……地獄があるのですか?」
「あるわよ。ああ……シャミンは東側の人族だったわね。東側では、地獄といえば、まるで死後に罪を償う場所のように言われているみたいね。西側では、地獄とは、あるダンジョンを示す言葉よ。深く広いダンジョンで、灼熱や氷結で、罪人を永遠に苦しめると言われているわ。ブリジアとの一騎討ちなら、最適かもしれないわね。どちらがより罪が重いかをはっきりさせるのでしょう」
「どちらが……ブリジアが非礼を働いたのです。私は、当然の罰を与えたのです」
シャミンは、震える手で封眠殿からの文書を握りしめていた。
手が震えている。恐怖ではない。自分にそう言い聞かせた。
エレモアは静かに言った。
「ならば、一騎討ちには勝てるでしょう。ブリジアが非礼を働いた。あなたが罪を与えた。それが、慶事として魔球が行われた会場の中央で、ずっと跪かせたことが妥当な罰であれば、皇太后様も納得されるでしょう」
「……あっ。で、でも、忘れていたのです。魔球の最中に跪かせ続けるつもりはなかったのです。突然中央の櫓に呼ばれて、魔王様や皇后様に拝謁して……何も考えられなくなって……」
「何も考えられなくなったのは、どうして?」
「……恐ろしかったのです」
「魔王様がご来臨されないわけね。シャミン、一騎討ちを申し込まれたのはあなたなのだから、きちんと始末をつけなさい。全て終わったら、報告に来なさい」
「あの……一緒に来てはいただけないのですか?」
「その必要がある?」
エレモアは、人族であれば魅了せずにはいられない眼差しを向けた。
魅了するというのは、場合によっては相手の要求を拒絶することになる。
「……承知しました」
シャミンは下がる。
エレモアの侍女モリスが尋ねた。
「助けてあげないのですか?」
「あの子が魔王様の寵愛を独占する日を待つより、私が魔王様を誘惑した方が確実よ」
「ご英明です」
モリスが頭を下げる。
※
シャミンは自室に戻り、専属侍女のクリスに泣きついた。
クリスは、時に非常に腹部が膨らんでいるように見える。
まるで妊婦のようだと思う時もあれば、現在は痩せすぎを心配するほど、腹部は引っ込んでいる。
妊婦であれば、腹が引っ込むことはない。
服の着方なのだろうと、シャミンは思っている。
「クリス、封眠殿からこんな手紙が来たわ。ブリジア、私を殺すつもりなのだわ」
泣きつくシャミンを抱き寄せ、クリスが羊皮紙に書かれた文字を読む。
「ブリジア様の文字ではありませんね。私の知る、ブリジア様の侍女たちの文字でもありません。皇太后様のご意志だとしたら、『地獄巡り』の名前だけが決まっていて、内容はこれから相談したいということではないですか?」
「えっ? 本当?」
クリスはシャミンから受け取った文書を、お茶を運んできたもう一人の専属侍女ギエイに渡す。
ギエイは一読して言った。
「内容までは書かれていませんね。ただ、この名前では、どんな過酷な内容を決められても文句は言えません。シャミン様、ブリジア貴女と和解することはできないのですか?」
ギエイの提案は、ブリジアが怒っているなら、謝罪してしまえばいいということだ。
シャミンは首を振る。
「ただ謝るだけでも嫌なのに、ブリジアは……きっと別のものも要求してくるわ。自分より下級の妃に、舐められては駄目でしょう?」
かつて後宮に仕えていたクリスに尋ねる。
クリスは頷いた。
「はい。そのように伺っています。ですが、ブリジア様はお優しいお方です。弱みにつけこむようなことは、なさらないでしょう」
シャミンはクリスを睨んだ。
ブリジアが欲しいものとは、まさにクリスなのだ。
そのことを、本人は理解していないのだろうか。
ギエイがクリスに尋ねる。
「ブリジア貴女がそれほど優しいのなら、クリスが言って話してきたらいいわ。シャミン様はお体が悪いからと言って、封眠殿に行ってきてよ」
「駄目よ。クリスを行かせては駄目」
「シャミン様、どうなされたのですか?」
ギエイが心配そうにお茶をすすめる。
シャミンはお茶を受け取り、一口含んだ。
「でも……私が自分で行かなくてもいいなら、その方がいいわ。ギエイ、頼める?」
「承知いたしました。皇太后様には、シャミン様は全身に発疹が出て寝込んでいるとお伝えします」
ギエイは深く頭を下げる。
「そ、そんなに大袈裟に言わなくていいわ。仮病だってばれてしまう。私は……クリスと一緒に、魔王様のところに行くわ。エレモア様は、私のところに魔王様が来られないご不満みたいだもの。あの恐ろしい魔王様に近づきたくないけど、耐火殿にいらしていただくように頼まなくては。クリス、魔王様への付け届けを用意して」
「承知いたしました」
耐火殿の俸給が上がっても、シャミンの取り分はないだろう。
付け届けは、いわば賄賂である。
魔王に来てもらうために賄賂を贈れば、シャミンにとってはマイナスでしかない。
それでも、エレモアの態度が少しは軟化するのであれば、意味はある。
シャミンは、入内直後に早くも地下後宮の恐ろしさを噛み締めていた。




