76.意の枷 ①
制作に没頭し、周りが見えなくなっていたトオルは、ようやくクロディスの言葉を聞き入れ、ダイニングにやってきた。6人がけの食卓に、トオルが座る。
クロディスはかいがいしく夜食を用意した。お椀に熱々のご飯をよそうと、微塵切りの魚肉や何かの野菜、ネギと海苔を散らして、スープを注ぐ。味付けを調整するための塩こしょう瓶も食卓に置いた。
「お茶漬け?随分立派だな」
「ふふ、友だちがレシピを教えてくれたの。食べてみて」
トオルは早速スプーンで掬い、口に運んだ。思いのほか熱く、ハフハフと口の中で転がして食べる様子を、クロディスは優しい笑顔で見守っている。
「どう?」とテーブルに頬杖をついて、クロディスが訊ねた。
「美味しい。クロディスは食事をしないのに、良く上手に味付けできるな、凄い」
「ほとんどレシピ通りなんだけど、トオルがいつも入れる調味料の案配を覚えてたから、それで微調整したの」
「ありがとう」
自分だけのために心を込めて作ってくれた夜食は、トオルの身も心も芯まで温めた。
「よかったね」
食事に集中していたトオルは、クロディスの気持ちを読み取ることに意識を向けていなかった。彼女がなぜそんな言葉を発したのか分からず、トオルは一旦箸を置いて、クロディスを見つめる。
「何が?」
「トオル、良い友だちを持ったね」
「依織さんたちのこと?うん、そうだね、相談できる人がいるのって、心強いね」
クロディスは頬を載せていた両手を下ろし、トオルに応じた。
「特に金田さんは、ありがたい存在だね」
「うん、まあ、ちょっと無神経で一言多いのは玉に瑕だけど」
「たしかに気性は荒いところがあるけど、でも、経験値が高いから、いざという時の対応は安定感があるよ。何度も死の狭間をくぐり抜けて生き残った勇者だって、分かる」
「そうだなあ、世代も上だし、辛い経験はぼくよりずっと多いんだろうな」
何気なく答えたが、クロディスはもっと深い部分を見ていた。
「いい、トオル?個性の違いは批判せず、受け入れることだよ。金田さんの経験を尊重してあげて。きっとトオルよりも長けていることがあるから、欠けているところじゃなくて、良いところを見てあげて。それが友情を長く続ける秘訣だよ。飛空船でのテロ事件を解決できたのは、皆が力を合わせたからでしょう?」
「それは分かるけど」と言いながらも、トオルはクロディスの言いたいことがまだ要領を得ないようだ。
「昌彦のことも、彼がトオルにしたこと、許してあげて」
昌彦の名を聞いて、トオルは仕事中に横槍を入れられた時の不快感を思い出し、ムッと口を曲げた。
「それはできない。奴はぼくの仕事場で、それもお客さんの前で、ぼくを貶めようとした。許せるもんか」
たまたまホルマットが心理学に長けており、かつトオルの働きぶりをこれまでも見ていたから難を免れたものの、トオルの心に刻まれた傷はまだ熱を持っている。トオルは怒りの炎がふつふつと勢いを取り戻すのを感じた。
そんなトオルを見て、クロディスは渋い笑みを浮かべる。
「トオルの気持ちも分かるけど、悪いことをした人にはいつか相応の報いがある。でも、彼を許せないことは、トオルがいつまでも辛い気持ちを持ち続けることになってしまうよ」
「それはできない……」
クロディスの真剣な口調に、トオルはさっと目線を逸らした。お茶漬けの置かれているランチョンマットの柄をじっと見つめる。
怒りを増した様子のトオルの表情を見て、クロディスの笑顔に少しだけ悲しみが混じった。
当時、トオルがどんな目に遭い、どんな気持ちで過ごしてきたか、クロディスは彼の心の傷の深さもキャッチしてきた。トオルが罵られた時、殴られた時の感覚の意識も、クロディスは昨日の出来事のようによく思い出せる。トオルがすぐに許せるわけではないだろうとは、クロディスにも分かっていた。それでも、日頃あまり感情を出さないトオルの鬼のように怒った表情を見て、クロディスは心が痛んだ。
「昌彦のこと、許せない?いつか仕返ししてやりたいと思う?」
「いや、ぼくにはそんな暇はない。復讐に使う時間があるなら研究に費やしたい。ぼくはもう、二度と奴に関わらないようにと思っていたんだ。なのに、異世界に来てまで、まだぼくの邪魔をするなんて……」
苛立ちでいっぱいのトオルから視線を逸らし、クロディスも切なげな口調になった。
「トオル、彼は憐れな寂しい人だよ」
「寂しい?」
「本当に嫌いな人のことって、なるべく意識に入れないものよ。でも彼はトオルにわざわざ近付いてくる。それはきっと、彼の生活が上手くいっていないからだと思う。そんな時、話し相手になってくれるのは身内だけでしょう?それはトオルが地球界で過ごしていた時、私にしか心を開けなかった時があるのと似ているんだよ」
アトランス界に来て、昌彦は以前の自分のような孤独を感じているのかもしれないと知っても、それはもう関係のないことだとトオルは思った。
「いつも迷惑をかけてきて、気分が悪いんだ」
「トオル、それは違う」
「どうして」と、トオルはふて腐れている。
「今のトオルの考え方は、叔父さんたちと同じよ?でも、思い出して。彼らがトオルのお世話をしてくれたこと」
「君は何が言いたいの?」
少し棘のある言い方になったと思ったが、トオルは撤回しなかった。
クロディスはそんなトオルをじっと見つめて言う。
「彼らに感謝を伝えて」
クロディスの思いがけない言葉に、トオルはカッとなった。それは、味方だと思っていた人に裏切られた気持ちに似ていた。
「このぼくに、彼らに対して恩返しをしろって言ってるのか?そんなこと……できるわけない」
クロディスはトオルの目を見続け、先に逸らしたのはトオルだった。その後は、気まずい沈黙だけが辺りに広がっていた。
――あんな扱いをされてきたのを知っているのに、どうしてクロディスは……。
トオルの憤りは、叔父一家に対するものだけでなく、クロディスが自分の心情を理解していないことへの悲しみも含まれていた。その気持ちを汲んだうえで、クロディスは自分の意見を曲げなかった。
「トオル、人は甘くされて伸びる時もあれば、苦しみの中で伸びる時もある。良い人に巡りあって助けてもらえたから苦難を乗り越えられる時もあるけれど、誰かに嫌な思いをさせられたことで芯が強くなる時もあるんだよ」
トオルはクロディスと目線を交わした。
「叔父さんの家で過ごした時間は辛かったと思う。だけど、その全てを乗り越えたから、今のトオルがいて、私たちはここで再会できたんだよ?そう思えば、トオルは彼らから、ちゃんと与えられている」
そんなふうに考えられるほど、叔父たちのことを俯瞰して見たことはなかった。トオルは戸惑いを覚えつつ、クロディスはなぜ急にこんな話をするんだろうと思った。
「……考えておくよ」
トオルはそれだけ言ったが、クロディスは彼の心の声をしっかりと聞き取っていた。
「今この話をするのはね、叔父さんたちのことと同じ理由で、トオルは石井さんの勝負を引き受けたからだよ」
「どういうこと?彼のことと叔父さんたちは、全く関係ない」
「でも、本質は同じ。トオルは「意の枷」に縛られている」




