第五十一話:深夜のハプニング、駿の苦笑
5.深夜のハプニングと、アイリスの受難
深夜二時。
公爵邸の静まり返った廊下を、静かに歩く人影があった。
お盆の上に温かいハーブティーのカップを乗せた、アデライードの侍女、アイリスだった。
アイリスは、翔の部屋の前を通りかかった際、部屋の奥から遅くまで「話し声」が聞こえていたことを気に病んでいた。
翔様は、昼間は毎日激しい訓練を行い、夜は他国との外交や商会の準備で、常に一人で何かを呟きながら(駿との念話だが、側から見れば独り言である)仕事に追われている。
(翔様……また夜遅くまで、ご無理をされているのかしら。少しでも、お疲れを癒して差し上げたいけれど……)
アイリスは、「夜にこっそり大胆にアプローチしなさい!」と公爵夫人公認(?)のお言葉をいただき、顔を真っ赤に染めながらも、密かに勇気を振り絞っていた。
コン、コン……。
非常に控えめな、しかし落ち着きのないノック。
返事はない。だが、アイリスが恐る恐るノブを回すと、鍵はかかっておらず、ドアが静かに開いた。
「……翔様? 夜遅くに、失礼いたし──あ」
アイリスは、足を踏み入れた瞬間、手に持っていたトレイを落としそうになり、その場にカチコチに硬直した。
ベッドの上に、月光を浴びて横たわる、巨大な男の彫刻のような肉体。
着崩れたTシャツの裾から覗く、ギリシャ神話の戦士のように美しく引き締まった腹筋。そして、長い脚を包む黒いボクサーパンツ。
翔は、完全に無防備な姿で、静かな寝息を立てて眠りこけていた。
「ひゃ、ひゃあ……っ!?」
アイリスは顔面が弾け飛びそうなほど真っ赤になり、片手で口を覆った。
鍛え抜かれた、本物の男の、これ以上ないほど雄々しい肉体。
アイリスは、羞恥心で今すぐ部屋から飛び出したい衝動に駆られたが、同時に、北国の深夜の冷え込みが、彼の薄着の身体を冷やしてしまわないかという、侍女としての、そして一人の女性としての「心配」が勝った。
「しょ、翔様……。風邪を、ひいてしまいますわ……」
アイリスはお盆をそっとテーブルに置くと、ベッドの脇に落ちていた厚手の毛布を両手で持ち上げ、震える足取りでベッドへと近づいた。
翔の身体に、優しく毛布をかけようと、身を乗り出した、その瞬間だった。
アイリスの手先が、翔の熱を帯びた広い胸板に、ほんの少しだけ触れた。
「ん……?」
アルコールのせいで、感覚が完全に狂っていた翔の身体が、その「触れられた温もり」に、無意識の防衛本能(あるいは抱き枕を求める泥酔者の習性)で、素早く反応した。
スッ。
「あ──」
翔の太い、強靭な右腕が、アイリスの細い手首をぐっと掴んだ。
驚異的な膂力。逆らう余地など微塵もなく、アイリスの軽い身体は、一瞬にしてバランスを崩され、翔の待つベッドの上へと引っ張り込まれた。
フワリ、とアイリスの身体が、翔の分厚く、そして驚くほど熱い胸板の上にダイレクトに重なる。
「冷たい……良い匂いだな、この抱き枕……」
「しょ、翔様!? 離して、離してくださいまし……!」
アイリスは心臓が口から飛び出しそうなほどのドラムの連打を聞きながら、必死に翔の胸板を押そうとした。
だが、泥酔した翔は、その「抱き枕」をさらに愛おしそうに、大きな両腕で背中からガッチリと抱きしめ、自分の肉体へとぴったりと密着させてしまったのだ。
アイリスの豊かな胸元が、翔のTシャツ越しにダイレクトに押し潰される。
翔の長い脚が、アイリスの脚の間に無意識に絡みつき、逃げ場を完全に奪う。
さらに、翔の大きな手が、アイリスの細い腰や、背中、そしてお尻のあたりを、無意識にスリスリと、気持ち良さそうに撫で回し始めた。
「んぅ……柔らかいな……」
「ひゃぅっ!? あ、あそこは、ダメ……ですわ……! 翔様……っ!」
耳元で囁かれる、翔のハスキーな寝息と、男らしい低い声。
アイリスの全身の力が、そのあまりにも強烈で、かつ安心感に満ちた男の温もりに、みるみるうちに溶かされていく。
アイリスは、真っ赤な顔で涙目を浮かべながらも、翔の胸に顔を埋め、彼の放つ、少しアルコールの混ざった甘く力強い香りに、完全に意識を奪われて蕩けていくのだった。
(最後の一線だけは、越えていませんわ……! 奥様(公爵夫人)……! でも、私……もう、どうにかなってしまいそうです……!)
深夜の静かな個室で、無自覚な熱血教師による、甘く過激な抱き枕ハプニングは、朝が来るまで、静かに続いていくのだった。
6.駿のバイタルサインと、苦笑
同じ頃、現代日本の新事務所。
開発デスクでプログラミングの最終調整を終え、伸びをしていた駿は、ふとデスクの上のシステムスマートフォンに目をやった。
画面には、リアルタイムで同期されている翔の「バイタルサイン(心拍数・体温・血圧)」が、異常なほどのスピードで跳ね上がっているのが表示されていた。
【──心拍数:平均145%に急増──】
【体温:急上昇中。皮膚接触反応を検知】
駿は一瞬、目を点にした。
そして、そのバイタルサインの「意味」を察し、なんとも言えない呆れたような、しかし最高に楽しそうな苦笑いを浮かべた。
「……あいつ、またそっちで、美少女たち相手に何しとんねん」
駿は首筋を掻きながら、スマートフォンをパタンとデスクの上に置いた。
「お義父さん(公爵)の大剣に縦真っ二つに斬られんようにな、兄貴。最後の一線だけは、ほんまに死守するんやで?」
地球の深夜。双子の弟は、異世界で「両手に花」ならぬ「寝込み襲撃」に晒されている兄の貞操の危機に、そっと祈りを捧げるのだった。




