第三十三話:ハプニングだらけ、日常の危険水域と後輩との再会
1.令嬢たちの猛攻と、湯気の中のハプニング
「──翔様! 本日のトレーニングの合間に、是非こちらを召し上がってください!」
ブルグンド公爵城のテラスに、アデライードの元気な声が響き渡った。
彼女が誇らしげに掲げたトレイの上には、少し形はいびつだが、香ばしく焼き上げられた手作りのクッキーが並んでいる。
「アデライード様、これは手作りですか?」
「ふ、ふん、当然よ! 私が厨房の料理長に無理を言って、指導してもらったのだから。貴方が毎日、あんなに激しい鍛錬を行っているのだもの。これくらい、公爵家の娘として差し入れて当然だわ!」
頬をほんのり赤らめ、ツンと上を向くアデライード。
だが、その背後から、さらに上品な香りを漂わせながらベアトリーチェが歩み寄ってきた。
「まあ、アデライード。翔様を労うのでしたら、私のカノーヴァ特産の最高級ハーブを用いた、特別なデトックスティーもお忘れなく。翔様、どうぞ、私が自ら淹れましたのよ。お疲れを芯から癒して差し上げますわ」
ベアトリーチェは、朝露を湛えたサクラのような微笑みで、翔のすぐ隣にぴったりと寄り添い、お茶を差し出した。
「お、おい、ベアトリーチェ! 貴方、ずるいわよ! 私が先に翔様をおもてなししていたのよ!」
「ずるいなどと、心外ですわアデライード。私はただ、翔様の健康を一番に考えておりますの。……さあ、翔様。どちらを最初に召し上がっていただけますか?」
二人の超絶美少女令嬢から、バチバチとした火花が散るような視線を左右から浴びせられ、翔は額から冷や汗を流しながら「え、ええと、お茶もクッキーも、両方ありがたくいただきます……」と、必死に引きつった笑顔を浮かべることしかできなかった。
そんな嵐のような日々が続く中、ある日の夜、翔を最大のハプニングが襲った。
「ふぅ……。今日も一日、生徒たちの付き合いで身体を動かしたからな。早くお風呂に入って寝よう」
夜十時を回った頃。翔は、城内に特別に設置された「日本式共同浴場」へと向かった。
これは、ほのかが土・水・火の魔法で岩盤をくり抜いて作り上げ、駿が日本から『つながる手』経由で送ってくれた最新の簡易シャワーヘッドや、肌に優しい極上のボディーソープを設置した特別な浴室だった。
「誰もいない時間のはずだし、ゆっくり湯船に浸からせてもらおう」
翔は脱衣所で衣服を脱ぎ捨て、腰にバスタオルを巻いて浴室の重厚なドアを静かに開けた。もわっと立ち込める温かい湯気。
「はぁ……気持ち良い……」
湯船の奥から、聞き覚えのある小さな、しかしひどく艶っぽい吐息が聞こえてきた。翔がハッとして湯気の向こうに目を凝らすと、そこには──。
「──え?」
湯船に肩まで浸かり、豊かな黒髪をアップにまとめ、白く美しいデコルテを晒して気持ち良さそうに目を閉じている、アイリスの姿があった。
さらに、彼女のすぐ近くのカランには、駿が送ってきた「超微細気泡シャワーヘッド」や、日本の高級シャンプーのプラスチックボトルが不思議そうに置かれている。彼女はお風呂を借りるついでに、その未知の現代テクノロジーの使い方に手こずっていたようだった。
「あ……」
「……え?」
アイリスがゆっくりと目を開け、そこに身長百九十センチの鍛え抜かれた鋼のような肉体を持つ翔が、バスタオル一枚で立っているのを視界に収めた。
静寂。時間にして、わずか数秒。しかし、二人にとっては永遠のような沈黙が浴室を支配した。
「ひゃ, ひゃああァァァァッッッ!?」
「す、すみませんっ!! 完全に誰もいないものと思い込んでいました!!」
翔は音速を超えるようなスピードで回れ右をし、脱衣所へと飛び出してドアをバタンと閉めた。顔が火を吹くほどに熱い。心臓がかつてないほどのテンポで警鐘を鳴らしていた。
(アイリスさんだった……! アデライード様たちのお世話で疲れて、夜遅くにお風呂を借りに来ていたのか……! なんで確認しなかったんだ、俺のバカ!!)
翌日、食堂でアイリスと顔を合わせた際、アイリスは顔を真っ赤にして終始うつむき、手元を震わせながら給仕をしていた。だが、それ以来、彼女が翔をチラチラと盗み見る視線には、昨日までとは明らかに異なる、熱っぽく、どこか意識したような光が混ざり込むようになっていたのだった。
2.日本側の15日間と、再会した「天才後輩」
異世界で翔たちがハプニングまみれの日常を送っていた頃、日本側の大阪・梅田のタワーマンションでも、三好駿を巡るもう一つの「大ハプニング」が巻き起こっていた。
翔から送られてきた数千枚に及ぶ魔法陣の画像データ。
それは、主婦同盟(母親たち)の驚異的な手際の良さとトレース作業によって整理され、CADデータへと変換されつつあった。だが、それらを「現代科学の製品やプログラムにどう落とし込むか」という段階に至り、投資家である駿の専門知識の壁が立ちはだかっていた。
「……さすがに、グラフ理論やトポロジー幾学のアルゴリズムなんて、俺の専門外やぞ。どうやってこのノイズだらけの配列をデバッグすりゃいいんだ……」
マルチディスプレイを前に、駿がコーヒーを片手に頭を抱えていた、まさにその時だった。
タワマンのインターホンがけたたましく鳴り響いた。
「駿くん、開けてちょうだい! 柊です!」
ドアを開けると、そこにはエプロン姿の柊鏡花の母親と──その後ろで、少し緊張した様子で、しかしどこか懐かしそうに駿を見つめている一人の女性が立っていた。
少しハネた黒髪を後ろでラフにまとめ、知的な丸眼鏡の奥から黒い瞳を覗かせている。大学時代、駿と並んでコードを叩き、いつも少しだけお互いを意識していた──後輩の名取 蓮だった。
「……蓮!? なんでお前がここに……」
「お久しぶりです、三好先輩。お元気そうですね」
蓮は少しはにかみながら、ペコリと頭を下げた。
「駿くん、驚いた? この子、私の高校時代の同級生の娘さんなのよ! 駿くんと同じ大学の情報工学科にいる蓮ちゃんだよ。大学院でプログラミングの天才って呼ばれてるのに、研究室の予算が削られてまともな実験もできずに干されてたらしいの。バイトを探してるって言うから、駿くんの手伝いにちょうどいいと思って無理やり連れてきちゃった!」
柊の母親が嬉々として説明する。
「まさか柊さんのお知り合いだったとはな……。大学の時は、お互い自分の研究とバイトで忙しくなりすぎて、気づいたら疎遠になってたけど……」
駿が頭を掻きながら言うと、蓮も「先輩が卒業して投資家になってから、連絡しづらくなっちゃって。また会えて嬉しいです」と、少し頬を染めて微笑んだ。
まさかこんな形での再会になるとは思わなかったが、駿はすぐにピンと閃いた。
情報工学、それもトポロジー幾何学や最適化アルゴリズムを専門とする現役の天才プログラマー。これほど頼もしい相棒は地球上どこを探してもいない。
「……蓮。ちょっとこの画面、見てくれへんか?」
駿は彼女をデスクの前に引っ張り込み、トレースされた魔法陣のCADデータと、波動エネルギーのシミュレーションコードを見せた。異世界の話は伏せ、「極秘ベンチャーの特殊フラクタル回路パターン」として説明した。
だが、その画面を見た瞬間、名取蓮の目の色が一変した。
かつて大学の共同研究で、二人して夜を徹して画面に齧り付いていた時の──あの獲物を狙うような、美しくも鋭い知性の輝きが彼女の瞳に戻った。
「──ッ!? な、何ですかこれ……。自己相似図形の極限を応用した、全く新しい『電磁気学の位相幾何学パターン』じゃないですか! 既存の数学モデルを完全に超越してる……! 先輩、これ、どこの研究機関が作ったんですか!? これを使えば、超伝導回路の電力ロスを完全にゼロにする、全く新しいエネルギー伝達アルゴリズムが組めますよ!」
「そうやろ、蓮。俺一人じゃ手が足りん。時給は五千円出す。このデータのデバッグと、AIを用いたパターン解析、手伝ってくれへんか?」
「やります! お金なんてどうでもいいです、この美しいコードの裏にある『物理法則』を、もう一度先輩と一緒に解き明かしたい!」
蓮はバッグからマイノートPCを取り出し、お気に入りのキーボードをカタカタと恐るべき速度で叩き始めた。
駿は「よし、最高の相棒を囲い込めた」と確信したが──同時に、彼女の放つ凄まじい「開発バカ」の熱量に、今度は自分自身が引きずり込まれることになる。
「先輩! この幾何学配列、おかしいです! ここに三次元的なねじれを加えることで、データの処理効率が理論上180万倍に跳ね上がります! ほら、このコードを見てください、私たちが昔組んだトポロジーエンジンの応用です!」
「待て、蓮。そんな処理、現在のPCのメモリじゃ──」
「だから並列分散処理(MapReduce)の最適化アルゴリズムを、今ここで書き換えたんですよ! 先輩、数学的モデルの検証を今すぐやってください! 一緒にデバッグしましょう!」
プログラミングの「沼」に入った蓮は、周囲の視線も、男女の距離感も完全に忘れて駿に詰め寄ってくる。
ふと肩が触れ合い、懐かしい彼女のシャンプーの香りが鼻腔をくすぐる。かつて大学の研究室で、明け方に二人きりでコーヒーを飲みながら語り明かしたあの感覚が、一気に蘇ってきた。駿自身、投資のシミュレーションプログラムを自作するほどの理系脳だ。蓮が提示する、見たこともない「魔法の数式(=異世界の幾何学魔法陣)」の美しさと、彼女の真剣な横顔に、次第に強烈に心を奪われていった。
「おい、蓮、ここの変数の代入、こっちのトポロジー行列を使った方が綺麗に収まるぞ。ほら、ここや」
「ああっ! 本当だ、さすが三好先輩! 脳みそがバグるほど美しいです! じゃあ、次はここのモジュールを──」
気がつけば15日間。
駿は、億単位の投資の取引を完全にシステムによる自動運用(放置)に切り替え、寝食を忘れて蓮と共にコーディングの泥沼へと「引きずり込まれて」いた。
部屋にはピザの空き箱とエナジードリンクの缶が山積みになり、タワマンの広いリビングは、二人の狂ったプログラマーが徹夜でキーボードを叩き続ける「本物のオタク研究室」と化してしまった。
しかし、その最中、ふと目が合って「私たち、大学の時と全然変わってないですね」「そうやな。でも、今のほうがずっとおもろいわ」と、少し照れくさそうに笑い合う二人の距離は、確実にあの頃よりも近づいていた。
そして、その「受難(開発沼)」の成果は凄まじかった。
魔法陣の幾何学パターンを解析し、電磁気学や信号処理の効率を極限まで高める「超電導応用回路」のベータ版が、わずか15日間で完成の域に達しようとしていたのだ。




