第8話「英雄の夜」
拍手が鳴り止むまで、アイギスは笑顔を崩さなかった。
今夜は年に一度の表彰式だった。イージス社が主催する、優秀なウォーリアへの授賞式——その場で会長として挨拶をするのが、アイギスの役割だ。何年も続けてきた仕事だ。目を閉じていてもできる。
壇上に立つ。マイクに向かう。用意した言葉を、用意した声で、用意した笑顔で話す。
客席が沸く。カメラが光る。コメント欄が流れる。
それだけのことだ。
「素晴らしいスピーチでした」
会場を出たところで、若い社員が駆け寄ってきた。入社して二年目の男だ。名前は覚えている——覚えておく必要があるから覚えている。
「ありがとう」とアイギスは言った。
「会場の反応も最高でしたね。特に最後の『諦めないでください』という一言——あそこで会場全体がひとつになった気がしました」
「そうか」
「アイギス様のお言葉には、いつも力があります。本当に」
「ありがとう」
もう一度、同じ言葉を返した。
社員が満足そうな顔で離れていった。
アイギスは廊下を歩き始めた。
表彰式の余韻が、会場の奥からまだ聞こえてくる。笑い声。乾杯の音。ウォーリアたちの名前が呼ばれるたびに沸く拍手。
廊下を進むにつれて、それが遠ざかっていく。
エレベーターに乗り、最上階へ向かった。
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アイギスの執務室は、ネレイスで最も高い場所にある。
窓から見える景色は、外周の居住区から商業区、その先の防衛区まで、ネレイス全体が一望できる。夜のネレイスは明かりが多い。上の層ほど明るく、下の層に行くほど暗くなっていく。廃棄区画の辺りは、ほとんど見えない。
アイギスは窓の前に立った。
笑顔を、落とした。
特に何かが変わるわけじゃない。笑顔が消えた後の顔が、アイギスの素顔というわけでもない。ただ——使わない筋肉を緩めた、それだけのことだ。
窓の外に目をやる。
防衛区の方向が、わずかに明るかった。今日の戦闘の後片付けがまだ続いているのだろう。昼間の侵略波は規模が大きかった。廃棄区画まで押された、という報告は既に受けていた。
死者の数も、把握している。
ウォーリアが四名。民間人が二名。
数字として、頭の中に入っている。
デスクの端末を開いた。
今日の戦闘データが表示される。アビスの出現数、撃退数、各ウォーリアのMVPポイント、装備の損耗率——全てが数字として並んでいる。
その中に、一つ見慣れない名前があった。
登録日時:本日。
スポンサー:なし。
使用装備:支給品(標準)。
特記事項:戦闘中、死亡ウォーリアのデバイスを無断使用。廃棄区画での民間人保護を確認。登録はシエル選手の証言に基づく。
アイギスはその項目を、しばらく眺めた。
「ソウマ」
声に出してみた。
特に意味はない。名前を確認しただけだ。
端末を閉じた。
窓の外、ネレイスの夜景が静かに広がっている。明かりの多い上の層。暗い下の層。その境界線が、くっきりと見える。
アイギスはそれを眺めながら、何も考えていなかった。
考えなくていい夜だ。今夜の仕事は終わった。表彰式は滞りなく終わった。スピーチは成功した。客席は沸いた。
全て、予定通りだ。
椅子に座った。
机の上に、小さな写真立てがある。古い写真だ。まだイージス社が小さかった頃——アイギスが医療用パワードスーツの研究をしていた頃の写真だ。白衣を着た若い男が、試作品のパワードスーツの前で笑っている。
アイギスは今、その写真を見ていた。
笑っている。
あの頃は、笑い方が違った。
何が違うのかと聞かれたら、うまく答えられない。ただ——今夜の壇上での笑顔とは、何かが違う。どこがどう違うのかは、もう思い出せない。
写真立てを、引き出しの中にしまった。
立ち上がり、また窓の前に立った。
夜景は変わっていない。明かりの多い上の層。暗い下の層。廃棄区画の辺りは、今夜も見えない。
端末をもう一度開いた。
「ソウマ」という名前の項目を、もう一度見た。
スポンサーなし。支給装備。廃棄区画出身。
アイギスは端末を閉じた。
窓の外を見た。
何も言わなかった。
ただ——窓ガラスに映った自分の顔を、一瞬だけ見た。
それから視線を外した。
夜が、静かに続いていた。




