第2話「スラムの朝」
朝は残骸の匂いで始まる。
機械油と錆と、どこからか漂ってくる海水の塩気が混じった、廃棄区画特有の空気だ。ソウマはそれを何年も吸い続けてきたせいで、もはや嫌だとも思わなくなっていた。
起き上がり、顔を洗い、昨日の残りのパンを一口食べる。
それだけが朝のルーティンだ。
外に出ると、路地はまだ薄暗かった。廃棄区画の上層には、商業区の建物が覆いかぶさるように並んでいるせいで、昼でも日当たりが悪い。それがここを「廃棄」たらしめている理由の一つでもある。日の当たらない場所に、日の当たらない人間が集まる。
ソウマは袋を担いで歩き始めた。
目的地は決まっている。昨日の戦闘で防衛区に近い区画に残骸が出たという話が、スラムの中で回っていた。戦闘が終わった後の残骸は早い者勝ちだ。使えるパーツは他の連中にさらわれる前に確保しなければならない。
路地を抜け、廃棄区画の外れへと向かう。
足元に転がっている瓦礫を避けながら歩いていると、前方から声が聞こえてきた。
「ソウマ!待て待て」
振り返ると、ルドルフが小走りで追いかけてきていた。年齢の割に足が速い老人だ。息を切らしながら、それでも追いついてくる。
「なんですか、朝から」
「朝から、じゃない。お前が早すぎるんだ」ルドルフは隣に並びながら言った。「昨日の残骸の話か」
「そうです」
「だと思った。俺も行く」
「なんで」
「お前が持ち帰ったパーツを適正価格で買い取るためだ」
「昨日は六ネルでしたよね」
「それは昨日の話だ」
ソウマは前を向いたまま歩き続けた。ルドルフもそれ以上は言わず、隣を歩いていた。
しばらく二人で無言で歩く。
廃棄区画の外れに近づくにつれ、建物の密度が下がっていく。壊れたままの壁。半壊した構造物。そのあちこちに、昨日の戦闘の跡が残っていた。地面に焦げ跡があり、壁に引っかき傷が走っている。
「昨日の戦闘、ここまで来たんですね」
「防衛ラインが一時的に押されたらしい。すぐ押し戻したが」
「知らなかった」
「お前は残骸を漁るのに忙しかったからな」ルドルフが鼻を鳴らした。「それより、見たか。昨日のRe:cord」
「見ました」
「カラムはすごいな。あの幻影の使い方」
「そうですね」
「セレストも相変わらずだった。あのアビス・ナイトを素手で——」
「ルドルフさん」
「なんだ」
「残骸の話をしましょう」
ルドルフが苦笑いをした。
前方に残骸が見えてきた。昨日の戦闘で破壊されたアーマーの断片や、ガジェットの残骸が散乱している。すでに何人かのスラムの住人が来ていたが、まだ手つかずの場所が残っていた。
ソウマは無言で動き始めた。
残骸を一つ一つ手に取り、使えるものを選別していく。装甲板の断片。エネルギーケーブルの切れ端。センサーユニットの一部——これは使えるかもしれない。
「これ、いくらで買いますか」とソウマはセンサーユニットを掲げた。
ルドルフが眼鏡越しに確認する。
「四ネルだな」
「七で」
「四ネルだ」
「六」
「四・五」
「五」
ルドルフが少し考えてから、ため息をついた。
「わかった、五だ。まったく、どこでそんな交渉術を覚えた」
「ルドルフさんと毎日やってるので」
「俺のせいか」
「そうです」
ルドルフが笑い声を上げた。スラムの朝に、その笑い声だけが妙に明るく響いた。
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収穫を終えて廃棄区画に戻ると、昼が近づいていた。
今日の成果は悪くなかった。センサーユニットが一つ、エネルギーケーブルが数本、装甲板の断片がいくつか。全部売れば三十ネルにはなるだろう。
食事代を引いても、少し残る。
袋を抱えて路地を歩いていると、古いモニターの前に人が集まっているのが見えた。昼の集計配信が始まるらしく、住人たちが思い思いに座り込んでいる。
ソウマは端に腰を下ろした。
売り先の当てを考えながら、流れてくる映像を横目で追う。
《ーーよっしゃあ!本日の戦闘、MVPポイント集計結果を発表するぞォ!俺様フォーチュン、今日も元気にやっていくぜ!》
「フォーチュンきたァ」「集計楽しみ」「カラムまたトップじゃないの」
《今日の戦闘MVPはァ——やっぱりこの男!カラム選手!ポーン十二体撃破にファーストキルボーナス、さらに視聴者投票一位!合計で今日だけで八百ネルオーバーだァ!》
「さすが」「カラム強すぎ」「スポンサーのおかげもあるけど」「実力もあるやろ」
隣に座っていた老婆が「八百ネル……」と呟いて絶句した。ソウマも内心で同じ気持ちだった。一日で八百ネル。スラムの人間なら一ヶ月以上かかる金額だ。
《続いてセレスト選手!アビス・ナイト単独撃破に最多撃破ボーナス!合計六百五十ネルオーバーだァ!》
「セレストさんも強い」「ナイト単独撃破えぐすぎ」「スポンサーどこだっけ」
《ところでなァ》
フォーチュンのトーンが少し変わった。
《セレスト選手のスポンサーといえば、ヴィオラ・クチュールとルクス・ブランシュだろ。どっちも高級アパレル・化粧品の一流ブランドだ。いやァ、なんであんなオッさんに化粧品やアパレルが全力で支援してるんだろうねぇ。不思議で仕方ないんだよなァ、俺》
「草」「言っちゃった」「そこ言う?」「確かに気になってた」「でもセレストさん似合ってるから」
モニターの向こうで、フォーチュンが言葉を続けようとした——その瞬間だった。
ソウマは気づいた。
モニターを見ていた住人の一人が、小さく身震いした。
隣の男も、なぜか背筋を伸ばした。
老婆が「なんか寒くなった」と呟く。
ソウマには何も見えなかった。聞こえるのはコメントの流れと、フォーチュンの実況だけだ。でも——空気が、変わった気がした。
《……えー、あの、改めて言いますが、セレスト選手はネレイス最強の一角です。スポンサー各社の審美眼は正しかった。以上》
「フォーチュンまた黙らされた草」「何があった」「セレストさんこわ」「でも好き」「そろそろ懲りなよ…」「画面越しに伝わったの草」
コメント欄が一気に沸いた。
《セレスト選手のファンの皆さん、本当に怖いですねぇ。本人もファンも》
「認めてて草」「フォーチュン正直すぎる」「セレストファンは怖い」「でも俺もセレストファンだから」「俺も」「俺も」「みんなセレストファン草」
住人たちがまた笑い声を上げた。ソウマも、少しだけ口元が緩んだ。
見えない距離から殺気を飛ばせる人間が、世の中にいるらしい。
「あのおっさん、本当にすごいな」と隣の男が言った。
「どっちが」とソウマは聞いた。
「両方」
それはそうかもしれない、とソウマは思った。
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集計配信が終わり、住人たちが散り始める。
ソウマは袋を持って立ち上がった。
売り先を回って、飯を食って、また残骸を漁る。それが今日の残りのやることだ。
歩き出しながら、ふと頭の中でカラムの変身シーンが蘇った。昨日から何度も頭に浮かぶ、あの動作。
六百五十ネル。
八百ネル。
ソウマの一日の稼ぎは、うまくいって二十ネルだ。
袋小路だな、と思いながら、ソウマは路地を歩き続けた。




