第16節
すみません、怠けてました。
第16節
『追い風』という言葉が有る。リアルな意味での風ではなく、順風満帆とか、追い風に背中押されて、とかの精神的な意味合いでの『追い風』だ。『背中押されて』とか言うくらいだから、おそらく後ろから吹く風なのだろう。
だが、実際に船に乗って、操船を学んで初めて知ったのだが、縦帆船で最も速度が出る時と云うのは、実は風が横から吹いてくる時なのだ。これを『アビーム』と言うらしい。
何故横からの風で最も速度が出るのかと言うと、これは船の動く原理に関係してくる。
細かい事は俺もまだよく分かっていないし、面倒なので省くが、イメージとしては石鹸だろうか。
まず、垂直な壁を想像して欲しい。できればあまり凹凸の無い、ツルツルのタイルのような壁を思い浮かべて欲しい。これが海だ。…今回の場合は砂漠か。
次に石鹸をイメージして欲しい。この石鹸もできれば新品ではなく、ちょっと使われて、角が取れてツルツルになったやつの方が良い。これが、船だ。
この石鹸を垂直な壁に押し付けてみて欲しい。この押し付ける腕の力が、帆で受ける風、すなわち『揚力』に相当する。
ではこの時、ツルツルの壁に押し付けられたツルツルの石鹸はどうなるだろう?
ツルンと手から逃れて、あらぬ方向へ滑っては行かないだろうか。これこそが、船の『推進力』にあたる。
この時『追い風』、つまり真後ろからの風を受けると言う事は、すなわち壁に向かって進むということなのだ。壁が豆腐かなにかで出来ていなければ、とてもではないが進むのは困難に思える。それよりは、壁に沿ってツルンと滑る方が良い、というわけだ。
《砂船》はこの時期の変わりやすい風位に対応できるように、基本的には縦帆船である。もちろん、俺達の乗る《かざはな号》も、その御多分に漏れず、縦帆だ。
つまり、俺達にとっての『追い風』は、横から吹いて来るのだ。
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空は快晴、雲ひとつ無いとはこの事だ。絶好の進水式―――いや失敬。進砂式日和だ。今日、クラフストンに面した砂漠の端で、密かに我らが砂船、《かざはな号》の進砂式がとり行われようとしていた。
何故、こんな端の方でやっているのかと言うと、《風竜走実行委員会》なる《風竜走》を取り仕切る組織から、俺達の砂船の練習場所として指定されたのが、このすみっこの区画だった。
ここは領域の端にも近いため、魔獣も出やすいらしく、最も人気が無い場所のようだ。事実、周囲に他の砂船の姿は見えない。
だが、操船に関しては素人同然の俺達にとっては、むしろ都合が良かったので、OKを出したのだ。周囲に他の船がいないってことは、接触に気を使わなくてもいいということでもあるし。
というわけで、こんな街外れの砂漠まで、《かざはな号》が乗った造船台兼台車を、えっちらおっちら運んで来たのだった。
進砂式ということで、簡素ながらもくす玉とワインを用意した。フーカが鼻息を荒くして力説するには、
『進砂式は、砂船にとって結婚式みたいなものなんですよ!』
――らしい。出来る限り、形式に則ってやりたいそうだ。そんなフーカの熱意ある言葉を聞いていると、《かざはな号》の白い塗装がウエディングドレスに見えてくるから不思議だ。
その《かざはな号》の船首には、色とりどりの花で編んだ花冠がかけられている。それが、さらに華やかな雰囲気を高めていた。
ちなみにこの花は、最近毎日のようにフーカの家に届けられる物で、常に『ヒカルさんへ』と書かれたメッセージカードが添えられているのだが、いつもアキトが無言のままに破っている。もちろん、先日の一件を知らないフーカには、それが何なのか、何を意味しているのか分かるはずもなかったが。
「それでは、魔術刻印を起動します」
フーカが宣言して、そっと船体に手をふれる。起動に必要な合言葉を口ずさむ。
「《サキヨミの船よ。目覚めなさい》」
いつになく凛とした口調のフーカの言葉に応えるように、船底に刻まれていた幾何学模様のような刻印が淡く光を発したと思うと、確かな風を巻き起こし付近の砂を吹き上げる。近くにいたフーカは、帽子を飛ばされそうになり、慌てて頭を押さえた。すると今度は白のプリーツスカートが捲れあがり、顔を真っ赤にしながら、どちらを押さえようかとワタワタしている。とりあえず、船から離れれば良いと思う。
ところで、《砂船》の動力…というか浮力は、この船底に刻まれた魔術刻印によって得られるのだが、その魔術刻印を動かす為の、謂わば燃料は当然『魔力』である。
造られてから長期間放置されていた《かざはな号》には、残存魔力がほとんど無かったので、昨日の内にヒカルに頼んで注入してもらった。要領は普段彼女が魔術を行使する時、触媒に魔力を込めるのと同様に船体のキーク材に魔力を注ぐ。満タンでおおよそ一日分の動力となるらしい。
ともあれ、魔術刻印を起動した《かざはな号》は静かに浮かび上がる。完全に地面から剥離するわけでは無く、あくまで砂地との摩擦を軽減する程度だが、確実に《かざはな号》は走り出す準備を終える。後は俺が船を留めている支綱を切るだけだ。
「フーカ」
最後に彼女に向かって視線を送る。俺がこの支綱を切ってしまえば、《かざふね号》は砂を踏み締め、走り出す。そうなれば、純白だった船体もやがては傷付き、汚れるのだろう。立ち止まる事は出来ても、後戻りは決して出来ない。
そして、それはフーカも同じ。彼女と俺達、そして《かざはな号》は一蓮托生。途中下船は出来ない。傷付こうと、汚されようと、ゴールに辿り着くまで。
フーカは瞳を閉じて、深呼吸をする。その小さな身体目一杯に力を溜め込むように。
それが再び開かれた時、そこには以前どこかの誰かが見せたような決意の炎を宿す瞳が在った。その熱量に、不覚にもドキリとさせられる。それを察知したのか、『どこかの誰か』が腕を抓る。顔をしかめながらも、しかし視線はそのままに。
「――よろしくお願いします」
フーカの覚悟の籠った言葉に首肯で応え、手に持った斧を振り上げる。その勢いのまま船を繋ぐ支綱に向けて振り下ろす。
確かな手応えと共に、支綱が断裂し、最後の支えを失った《かざはな号》はゆっくりと砂漠に向けて進み、ザザァーという軽快な音を立てその身を世界に晒す。
(結婚式と言うより、誕生日だな…)
支綱というへその緒を切り、今《かざはな号》は『生』を受けた。
シノが手に持っていたくす玉を割り、中から紙吹雪と共に『かざはな号』と書かれた垂れ幕が落ちる。
パチパチと拍手はまばらに、しかし確かに祝福を含ませて。
誰も言葉を発して褒め称える事は無いけれど、確かな一歩を感じて。
これが始まりなのだ。ここが始まりなのだ。
往こう、往こう、サキヨミの船よ。ツクヨミの船よ。カザヨミの船よ。
今はまだ届かぬけれど。『追い風』は決して背中を押してはくれないけれど。
往こう、往こう、カザハナの船よ。
最後にフーカが船に向けて葡萄酒のボトルを投げつける。それは船体に当たり、砕け、真紅の液体が純白の船体を染めあげる。
それはまるで、美しい花嫁が祝福に白い頬を染め、幸福に微笑みを浮かべているようだった。
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砂漠に燦然と輝くその船が浮かぶのを、フーカは不思議な感慨をもって眺めていた。笑ってしまうかもしれないが、目の前の光景が夢の中の出来事のように思えてしまったのだ。
いや事実、それは夢とすら呼べないような、絵空事。『夢想』ですらなく、『空想』。または、『妄想』。そういった類の事だったはずだ。
余人は夢か現かの区別を付けるのに、己の頬を抓るらしいが、今のフーカはそれをするのが少し怖い。抓った頬に、痛みが走らないのではないか。そういった思いを捨てきれない。
そう考えると、自分の身体もなんだか不確かに感じられて、まるでフワフワと浮足立っているかのようだ。
「――おっと」
突然肩を誰かに掴まれる。どうやら、浮足立つあまり本当に足元がおぼつかなくなっていたらしい。
優しく己の双肩を支えてくれる、その人物を見やる。
「大丈夫かフーカ?ふらついてるぞ?もしかして、日射病…ハッ! 熱中症か!?」
なにやら、的外れな心配をしているその人物こそ、私がここに居る原因にして、私がこれを夢だと錯覚している一因なのだが。
なんせ、彼はあまりに私にとって都合が良すぎる。
誰にも気付かれず死のうとした所を助けて貰い?偶然にも冒険者で?金貨十枚もの大金を持ち?見ず知らずの獣人の頼みを真剣に聞き?無償で協力してくれる?
あまりに出来過ぎている。それこそ、砂漠で遭難したら偶然オアシスが湧いたのと同じくらい。そして、それは往々にして蜃気楼と決まっている。
決まっている…はずなのだが……。
「フーカ? フーカ!? ヤバい! 返事が無い!!」
そもそも、何故私は彼に協力を――救いを求めたのだろうか?
それが途方も無い事だと、一番良く知っていたのは自分だ。こんな自分に協力してくれる人間などいないと言っていたのも自分だ。
ならば、何故私は彼に頼んだのだろうか?絶対に断わられるような頼みを。
「しっかりしろ、フーカ!! 傷は浅いぞ!?」
それを言葉にするならば――――、『予感』…だろうか?
彼を見た時、彼と言葉を交わした時、何故か感じてしまったのだ、『始まり』を。
まるで、葉に着いた雫が今まさに落ちようとする瞬間を見るような…、あるいは、ようやく僅かに白み始めた黎明の地平を前にしたような、そんな感覚。
何かが動き出す、確かな予感。
そうそう、地平と言えば、どうして私の眼に映る白の砂漠と青の天球の境目は、縦に伸びているのだろう?
これではまるで、私が地に臥せっているようではないか。
「フ―――――――――カ―――――――――――!?」
アキトの叫びがだだっ広い砂漠に木霊した。
この日、折角砂漠に浮かべた《かざはな号》であったが、疾ることはままならなかったのだった。
明日から本気出す。(フラグ)




