止まる。(前編)
暦ではまだ初夏にはなっていないものの、その日はもう夏と言ってもよいほどの暑さだった。
サラリーマンはスーツを脱いで通勤している。そんな中、高瀬は身体にフィットするスーツを着て、あるアパートの前に立ち尽くしている。
目の前のアパートの、2階へ上る外階段には少し前まで警察によって規制線が貼られていた。
今は何も制限するものがないにもかかわらず、高瀬は階段を登れなかった。
拒絶されているように感じるのは、霊感なのか…それとも自責の念からか――
三宅の孤独死について第一発見者となった高瀬は、警察からの簡単な事情聴取が終わってからしばらくここから動けずにいる。
発見直後、動揺しつつも面倒くさそうにしている管理人をよそに警察へ110番通報、救急隊と職場にも連絡をし対応に当たっていた時は無我夢中だった。眠っているように見える三宅は、暑さのせいかまだ身体は冷たくなっていなかった。
救急隊と警察がほぼ同時に到着し、現場の確認と三宅の搬送がてきぱきと行われていく。
到着後すぐに三宅の死亡は確認されたのだろう、あわただしく動き回るわけでもなく、救急隊も警察も事務的な処理をしているように、高瀬には見えた。
いつのまにか周りには、サイレンとあわただしく動く人たちを見て野次馬が増えていた。
その中には、以前このアパート近くで時々見かけた黒いスーツの男もいる。三宅の関係者なんだろうか――
高瀬はぼんやり考えるものの、頭の中のどこかにもやがかかったように、考えがまとまらない。上滑りしているような感覚。
今、高瀬の心の中を占めているもの―――それは罪の意識だった。
最後に面談したとき、高瀬は焦っていた。
三宅光男の生活保護継続について、職場の会議では否定的な意見が出てきていたから。
上司から見れば、三宅の評価は「怠慢」だった。
「また競馬ですか」
上司は報告書を机に放り投げた。
「働けないってわけじゃないでしょう―――」
「で、ですが……」
「生活保護は遊ぶための金じゃない。高瀬さん、しっかり見ておいてくださいね」
上司は高瀬からの報告を受けるたびに三宅の怠惰ぶりを指摘し、厳しく指導をするよう命令していた。
高瀬は三宅に寄り添いつつも、そのような指摘に反論もできず追い詰められていたのは確かだ。
三宅さんが働く気を取り戻してくれたら―――
身体に不調があったとしても、やれることを探す姿勢を見せてくれたら――
まだ、戻れる。
社会復帰できるかもしれない。
その想いは三宅に通じると思っていた。
誰だって、自分の足で立って人生を歩んでいきたいと思うはずだと。
自分の思う正しさをまっすぐに伝えれば、きっとわかってくれる―――
そんな想いは虚しく砕け散った。
必死に訴えれば訴えるほど、三宅の眼からは光が失われていくようだった。自分の声が大きくなっていくのと反比例するように三宅の声が小さくなっていったのを今でも覚えている。
やる気を出してもらおうと説得を試みた分だけ、三宅と高瀬の距離は開き、間に溝ができていく気がした。
―――もしかして。
私が、三宅さんを―――
追い詰めたのかもしれない。
「正しさ」を振りかざして、自分の思いをただぶつけただけ……?
住人のいなくなった部屋のドアをぼんやりと見つめながら、高瀬は自分を責め始めていた。
そんなとき――視界の端に入ってきた大きな男に気づいた。
その男は、まるで暑さに負けた熊みたいに歩いていた。
大きな身体。
引きずるサンダル。
汗で張り付いたスウェット。
見ているだけで疲れが移りそうだ。
が―――なぜか、高瀬はその男が気になってしまう。
近所に住んでる人だとしたら。その容姿から考えても仕事とかしてなさそうだし――
もしかしたら三宅さんのことを知っているかも。
高瀬がその男に話しかけようか迷っていると、男は高瀬の近くまで来たところで立ち止まる。
振り向くように三宅のアパートのドアを見上げながら、独り言のように話し始めた。
「あいつ……かわいそうになぁ」
やはり三宅さんの知り合いなんだ…と考えつつも、高瀬はその言葉に身体を震わせる。
私が、追い詰めたから―――で、でも―――
自分の罪を暴かれたような気持ちと、他に事情があったかもしれないという責任回避の思考で揺れ動く。
ともかく、何があったのか聞かないと――と、意を決して高瀬は男に話しかけた。
「あの―――あなたは、三宅さんのお知り合いなんですか?」
「あぁ……まぁ、そうなるかな。あんたは?」
眠そうな低い声で男は答えてくれた。
自分が三宅のケースワーカーであったことを伝えると、男はゆったりと口角を上げた。
「あぁ、あんたが。あいつから聞いてたよ。世話を焼いてくれる若いおねーちゃんだって」
やはりこの男の人は、三宅さんのことを知っている。私の知らないこともあるのかも―――あんなことになった理由とか。
高瀬は男に、三宅のことを教えてほしいと伝えたところ、面倒くさそうにはしていたものの了承を得られた。
立ち話をするには少し暑く、男が面倒そうにしていることもあって近くの喫茶店で話を聞くことになった。
「―――んで?あんたは何が聞きてぇの?言っとくけど、俺そこまで仲が良かったわけじゃねぇぞ?」
注文してすぐに出されたアイスコーヒーを飲みながら、面倒くさげに男は言い放つ。
「三宅さんは―――、なぜあんな結果になってしまったんでしょう」
「何か、私の知らないトラブルとかがあったのかなって……」
「金銭トラブルとか、人間関係とかで追い詰められてたり―――してたんでしょうか」
高瀬はうつむきながら、自分の思いの一部を投げかける。
「さぁなぁ。そんなトラブってたとかは言ってなかったけどなあ」
「多かったのは、仕事するのが嫌だって話題だな」
「頑張っても無駄だとか、また同じことの繰り返しだーとか言ってたな」
男が言い終わるころには、高瀬の手は震え始めていた。
やっぱり―――。
「私が――追い詰めた……んでしょうか」
絞り出すような声。男に届いたかどうかもわからないほど小さかった。
「―――――――あいつ、苦しそうにしてたのは確かだな」
残り少なくなったコーヒーの入ったグラスを揺らしながら男は答える。
静かな店内に氷がグラスにぶつかるカラカラという音だけが響く。
高瀬の目の前は急に暗くなる。
自分が救うべき人間を、正論で追い詰めて――そして彼は死んだ。
そこからの数秒間は、高瀬にとっては数十分にすら感じるほど長かった。
「――私が……私が、追い詰めた……んだ…」
高瀬の心の悲鳴が漏れて出たようなか細い、しかし――悲痛な声。
「さぁなぁ。――あいつが考えてたことなんて誰にもわかんねぇよ」
「ま、もう死んじまったしな」
突き放すというよりは興味がないような言い方だった。
「でも、あんた――頑張ってたみたいじゃん。自分のせいだって思わねぇほうがいいぜ」
その言葉を聞いた高瀬は、自分でもわからないうちに涙を流していた。
涙とともに、胸の奥の何かがほどけて落ちていく気がした。
しばらく、俯いたまま声を殺して泣く高瀬を見る男は、ひげ面の奥で笑っていたが――もちろん高瀬は気づかない。
「――ありがとう……ございました。いろいろ伺えて助かりました。」
「では―――失礼します」
目を腫らした高瀬が男とともに喫茶店を出たのは夕暮れだった。
ずっと泣いていた自分を咎めもせずじっと待っていた男に、高瀬は感謝を述べて去ろうとした。
「なぁ」
後ろから男の声が聞こえた。
振り返る。
「少し――何も考えず、休めよ。疲れてる顔してるぞ」
にんまり笑ってそう言い放ち、男も背を向けて去っていく。
高瀬の心は、さらに軽くなった。
家に帰る途中、高瀬の鞄の中で仕事用のスマホが震える。
画面を見て少し考え―――小さくつぶやいた。
「疲れてて気づかなかったのよ」
スマートフォンはそのまま鞄の奥に押し込まれた。
その夜は、三宅の事件があった日より前と同じぐらいよく眠れた。




