愚者の日常(後編)
都内から少し離れた住宅街。
三宅光男は、布団の上でぼんやり天井を見ていた。
テレビはついている。
昼の情報番組。芸能人の謝罪。政治家の失言。
誰かが怒り、誰かが笑い、誰かが炎上している。
いつもいつも同じような話題なのに飽きずに放送しているんだから、飽きずに見る奴が多いんだろうな…
そんなことをぼんやり考えているとき――
古びたアパートの階段を、重たい足音がゆっくり上がってくる。
光男の部屋の前で足音は止まり――ピンポーン。
チャイム。
光男はゆっくり身体を起こす。
時計を見る。いつのまにか昼過ぎだった。
「……誰だよ」
気だるそうに呟きながら玄関へ向かう。
鍵を開けると、そこにいたのは大柄な男だった。
短く刈った髪。黒いジャケット。脂っこい笑み。
少し背の高い、肉厚な体つきの中年。
「ちわっす、三宅さん」
軽い調子。
だが――目だけは笑っていない。
光男は露骨に顔をしかめた。
「あぁ……あんたか」
男は勝手知ったる様子で玄関を覗き込む。
「家賃、ちょっと遅れてるんで一応ね」
責める口調ではない。むしろ親しげですらある。
だが光男は知っている。
この男は、“優しい人”ではない。
近所の不動産屋と繋がっている――というより操っている――いわくつきの男。
近藤というこの男は、生活保護受給者や訳あり人間に近づき、安い部屋を回し、薬を買い取り、簡単な運び仕事を斡旋する。
そして――少しずつ食う。
「近藤さん、来週には保護費が入るから……」
「あーいやいや、別に急かしてるわけじゃないっすよ」
男は笑いながら手を振る。
「三宅さん真面目ですし。飛んだりしないでしょ?」
その言い方が妙に馴れ馴れしい。
男はポケットから煙草を取り出し、一本咥える。
「――そういや、薬余ってません?」
「……睡眠薬?」
「っす」
男は悪びれない。
「最近ちょっと足りなくて」
光男は小さく舌打ちする。
病院から処方されている睡眠薬。
飲まずに余らせていた分がある。
「……少しなら」
「助かるわぁ」
男はにやっと笑った。
嬉しそうですらある。
「あと、もし金きつかったら軽い仕事ありますよ」
「運ぶだけ。マジで簡単なんで」
光男は曖昧に視線を逸らした。
「……まぁ、その時は」
男はそれ以上強く言わない。
「無理ならいいんすよ。三宅さん身体悪いですしねぇ」
その口調が、妙に優しい。
光男は少しだけ安心してしまう。
責められない。
期待されない。
頑張れとも言われない。
それが楽だった。
余分な薬を小遣いぐらいの金と交換し、ろくに挨拶もせず男が帰った。
入れ替わるように、再びチャイムが鳴る。
光男はうんざりした顔を浮かべた。
扉を開ける。――まだ何か用があったのか。
「こんにちは、三宅さん」
高瀬だった。
今日はいつもより少し疲れた顔をしている。
それでも笑おうとしていた。
「……どうも」
高瀬は部屋へ入り、周囲を軽く見回す。
以前より、少し散らかっている。
求人票は机の端に積まれたまま。
コンビニ容器。
吸い殻。
開けていない郵便。
高瀬は小さく息を呑んだ。
「体調―――どうです?」
「まぁ……普通」
「そうですか」
会話が続かない。
高瀬は書類を開きながら、慎重に言葉を選ぶ。
「……お仕事の件なんですが」
光男はもう、その時点でうんざりしていた。
まただ。
働け。
動け。
戻れ。
そんな空気。
「この前お渡しした求人、見てもらえました?」
「あぁ……まぁ、一応」
嘘だった。
ちゃんと見ていない。
高瀬は少しだけ前のめりになる。
「短時間でもいいんです。少しずつ生活リズム戻していけば――」
「いや」
光男が遮る。
高瀬が言葉を止める。
「……俺――そこまでして働きたいわけじゃないんだよ」
部屋が静かになる。
高瀬は一瞬、言葉を失った。
「でも……」
「今でも別に死にそうってほど困ってねぇし」
投げやりな声。
「頑張って面接行って、落とされて、また嫌な思いするぐらいなら……今のままでいい」
高瀬の眉がわずかに寄る。
「三宅さん」
その声には、少しだけ焦りが混じっていた。
「このままだと、本当に動けなくなります」
光男は黙る。
高瀬は続ける。
「今なら――まだ戻れるんです」
――またそれだ。
まだ。
まだ。
まだ。
その言葉が重い。
光男は顔をしかめた。
「……戻ってどうすんだよ」
「――え?」
「頑張って働いて、また壊れて、また捨てられて終わりだろ」
高瀬が息を呑む。
「そんなこと――」
「あるんだよ」
少しだけ声が強くなる。
「実際そうだったんだから」
高瀬は黙った。
正しい言葉が、すぐに出てこない。
光男は視線を逸らした。
「……もう疲れたんだよ。だから、俺にかまわないでくれねぇかな」
高瀬はその横顔を見る。
そして。
ほんの少しだけ――苛立ってしまった。
まだ頑張れるのに。こんな生活から抜け出すためにやれることはあるはず。
それが三宅さんのためになるはずなのに―――なんでこの人は…
「でも!三宅さんが諦めたら終わりじゃないですか」
―――その瞬間。
光男の表情から、何かが消えた。
――あぁ、結局この人もそうなんだ。
頑張れって言う側。
努力しない事が悪だと決めつける。
諦めることを許さない。
面倒くせぇ――
「…でも―――私だって、どうしたらいいか分からないんですよ」
高瀬の声には、励ましだけではない疲労が混じっていた。
しかし、光男はもう返事をしなかった。
その日の夕方。
高瀬が何も言わず帰ったあと、光男はいつもの公園に向かっていた。
薄曇りの空。
古びたベンチ。
熊のような男は、いつものように大きい背を丸めながら缶コーヒーを片手にぼんやり座っていた。
光男は迷わず男に向かって歩いていく。
「……浮かねぇ顔してんな。また何かあったのか?」
男から話しかけられた光男は、腰を重そうに下ろして男の隣に座った。
「――ケースワーカー来てさ」
「ふぅん」
「働けって」
ベルフェゴールは小さく鼻で笑う。
「真面目だねぇ」
光男は力なく笑った。
「俺、もうそこまで頑張りたくねぇんだよ」
ベルフェゴールは何も言わない。
缶コーヒーを弄びながら続きを待つ。
「――頑張ってもどうにもならなかったし」
「働いて壊れて」
「また働いて」
「気づいたらこんなんだ」
光男は俯く。
「今さら必死になって戻る意味あんのかなって……」
突きつけられた責任、努力の強要に耐え切れず、弱音を吐いてしまう。
光男は期待していた。この男なら―――
少しの沈黙のあと、ベルフェゴールは缶コーヒーを傾けながらぼそりと言った。
「今の生活、そんな不満か?」
光男は遠くを見ながら少し考える。
狭い部屋。
金はない。
未来もない。
だが。
「……別に」
飢えてるわけじゃない。
殴られるわけでもない。
ただ――止まってるだけだ。
男は口の端をわずかにゆがめ、諭すように光男に言う。
「なら、無理しなくていいんじゃねぇの」
静かな声。
「面倒なことってさ」
「結局、誰かがやるんだよ」
光男は黙って聞いている。
「働けるやつが働いて」
「元気なやつが頑張って」
「真面目なやつが社会回してくれる」
ベルフェゴールは眠たげに空を見る。
「別に、お前まで無理する必要なくねぇ?」
その言葉は。
ひどく暖かく、優しかった。
まるで深い泥の中へ身体を沈めるような。
光男はゆっくり目を閉じる。
肩から、少し力が抜けた気がした。
――あぁ。もう頑張らなくていいのか。
その瞬間。
何かが、静かに沈んだ。
隣の大男の笑みは、誰にも気づかれることはなかった。
数日後。
高瀬は、以前よりさらに反応の薄くなった光男を前にしていた。
返事は曖昧。
視線も合わない。
机の上の求人票には、折り目すらついていない。
高瀬は唇を引き結ぶ。
「……三宅さん」
返事はない。
「―――このままだと、こちらとしても支援継続が難しくなる可能性があります」
行政的な言葉。
だが光男には、十分だった。
見捨てられる。
その感覚だけが残る。
高瀬は続ける。
「少しでいいんです。動こうとしてもらえれば――」
「……もういいや」
投げやりな返事。
「―――来て話したら仕事完了だろ?そろそろ帰ってくれねぇ?」
高瀬は、もう何も言えなかった。
夜。
光男はまた公園へ向かう。
男はやはりいつもの場所にいた。
「打ち切るってさ――はは」
光男が笑う。
乾いた笑い。
「結局、役所も面倒なんだろうな」
男は黙って聞いていた。
光男はぼんやり空を見る。
「……なんか、もう全部面倒くせぇ」
「働くのも」
「生きるのも」
「考えるのも」
長い沈黙。
やがて男は、小さく言った。
「まぁ――人間、生きてるだけで疲れるしなぁ」
光男は笑った。久しぶりにちゃんと笑った気がする。
「だよな」
「最後にはどうせ死ぬし」
ベルフェゴールは気怠げに空き缶を転がす。
「無理して頑張る方が、面倒かもな」
光男は、何も答えなかった。
ただ――
その言葉を、否定もしなかった。
数週間後。
高瀬は、何度目かの訪問で異変に気づく。
新聞受けが溜まっている。郵便物もそのまま。
訪問に来た時にちょこちょこ見ていたスーツの男も最近は見なくなった。
――嫌な予感がした。
何度かチャイムを押す。
返事はない。
管理会社を呼び、扉を開ける。
部屋は静かだった。
テレビも消えている。
時計は止まっていた。
カーテンは閉じたまま。
机の上には、高瀬が持ってきた求人票が残っていた。
警備。清掃。倉庫作業―――
一枚も応募されないまま。
けれど、不思議なほど丁寧に揃えられていた。
そして―――
布団の上で横になったままの三宅光男は、もう動かなかった。
苦しそうな顔ではなかった。
ただ。
長い疲労の果てに、ようやく眠れたような顔をしていた。




