愚者の日常(中編)
三宅光男は、また同じ公園のベンチに座っていた。
空は今日も薄曇りだった。
春も終わりかけているというのに風は妙に冷たい。
光男は飲み干した缶コーヒーを片手に、ぼんやり前を見る。
――特に理由があって来ているわけではない。
部屋にいても息が詰まるだけだからだ。
テレビ。
湿った空気。
止まった時計みたいな毎日。
何をしていても、家にいると「努力すべき」という感覚が薄く付きまとってくる。
面倒くさい……
――だから外へ出る。
出たところで何かが変わるわけでもないが、それでも部屋にいるよりはましだった。
「――また来てんのな」
低い声。
視線を向けるまでもない。
あの男だった。
灰色のパーカー。
ぼさぼさの頭。
眠そうな目。
コンビニ袋を提げ、今日も気怠げに歩いてくる。
「……暇なんだなお前」
光男が言うと、男はくくっと小さく鼻で笑った。
「人のこと言えねぇだろ」
――違いなかった。
男はベンチの端へ腰掛け、缶コーヒーを一本投げて寄越す。
光男はなんとか落とさずに受け取る。
自然だった。
いつの間にか、こういう関係になっていた。
この男の名前も知らない。
何をやっているかも知らないし、家族がいるかどうかももちろん聞いたことがない。
だが――妙に居心地がいい。
理由は単純だった。
この男は、何も求めてこない。
頑張れとも言わない。
変われとも言わない。
それが楽だった。
「そういやケースワーカーは?」
男がぼそりと聞く。
「あぁ――昨日来た」
光男は苦笑交じりに言葉を返し、缶コーヒーのプルタブを引っ張る。
「ふぅん…で、なんて?」
「仕事探せってさ」
男も缶コーヒーを開けながら言う。
「探したいのか?」
手の中の缶コーヒーをぼんやり見つめながら、光男は少し考える。
「……いや――」
「ならいいじゃねぇか」
あっさりした返答。なんの遠慮も建前もない、あけすけな言葉。
――その瞬間。
光男は少しだけ安心してしまう。
肯定された気がした。
働きたくない。動きたくない。考えたくない――――
そんな自分を責めなくていいと言われたようで。
男は大きなひと口でコーヒーを飲み干し、空を見上げて言う。
「結局さぁ―――」
眠そうな声。
「真面目なやつほど損するんだよ」
光男はびっくりしたような顔で男を見る。
―――同じことをいつも考えてた。見透かされたのかと手がわずかに震える。
「頑張るやつは使い潰されるし」
「壊れても誰も責任取らねぇし」
「それでいて“努力不足”とか言われる」
男は笑った。
鈍い笑いだった。
「世の中―――案外クソだぜ」
男は少しだけ顔を動かして横目に光男を見やる。
その表情を見て、光男は大きくうなづきたい気分だった。
「……まぁな」
力のない笑みを浮かべながら、できるだけ恰好をつけたつもりだった。
光男には”案外クソ”な世の中を実感している。ただ、それを声高に叫ぶほど若くはなかった。
――工場で腰を壊した時、会社はすぐ次を入れた。
長年働いていたはずなのに。代わりはいくらでもいるみたいに――
その後働いた派遣先でもそうだった。
年下の社員。ロボットを扱うみたいなぞんざいな指示。
無理なシフト。そして腰痛。
挙句、使えなくなれば終わり。
あの頃からだ。
少しずつ、何かが削れていった。
「俺さぁ―――」
光男が、飲み干した缶コーヒーの向こうにある地面を見つめながら、ぽつりと言う。
「昔は結構ちゃんとしてたんだよ」
男は興味なさそうに「へぇ…」とだけ返す。
否定もしない。
興味津々でもない。
それが逆に話しやすかった。
何故なのか、光男はこの男に圧迫感を感じない…むしろ包容力すら感じる。
「工場にずっと勤めててさ」
「遅刻もほとんどしたことなかった」
「親父が倒れた時も介護しながら働いて――」
そこまで言って、光男は自嘲的に笑う。
「まぁ、結局こうだけどな」
男は億劫そうに缶を傾ける。
「別に――いいじゃねぇか」
投げやりではない、本気で思っている口ぶりで、男は光男を肯定した。
「……何が」
光男は、この男の返事に期待した。
「頑張った結果がそれなら、もう十分だろ」
光男の眼に少し生気が灯る。男はいつも俺の望んでいる答えを口にしてくれる。
これでいいんだ、と許してくれる。
しなくちゃいけない。
こうあるべき。
努力すれば。
―――面倒くせぇ。
今まで頑張ってもどうにもならなかったんだ。
今から頑張ったらどうにかなるなんて思えない。
男はわずかに口元を歪めたが、光男は気づかない。
「もう働かなくていい理由――ちゃんとあるじゃねぇか」
その言葉は妙に優しかった。
優しすぎた。
だから危なかった。
だが光男は気づかない。いや気づきたくないのか。
その言葉に、少しずつ身体を預け始めていることに。
その頃。
高瀬は役所のデスクで書類を見つめていた。
『三宅光男』
ずいぶん厚くなってきたケースファイル。
訪問の度につけてきた記録。
光男が受け答えの際に取っていた態度まで記載した面談内容。
高瀬は小さく息を吐く。
「……難しいなぁ――」
同僚が苦笑しつつ声をかける。
「また三宅さん?」
高瀬はその声の方を向きつつ、浮かない顔でうなずく。
「はい……」
「動けないタイプ?それとも精神的な疾患とか?」
同僚は世間話のような軽い調子で掘り下げてくる。
高瀬も、解決してくれると期待するわけでもないが吐き出したい気持ちで応じる。
「―――というか、“動く理由”を失ってる感じで」
高瀬は悩んでいた。
三宅は暴れるわけでもない。
理不尽な要求をするわけでもない。
ただ。
止まっている。
そして、その停止状態に慣れ始めている。
それが危うかった。
「でも、まだ戻れると思うんです」
高瀬の声には少し力がこもっていた。
「話はちゃんと聞いてくれるし……」
同僚は曖昧に頷いた。
「まぁ、本人次第だよ」
――本人次第。
その言葉は正しい。
正しいが――残酷でもあった。
夜。
光男は古いアパートへ戻る。
郵便受けにはチラシ。督促ではない。
――少しだけ安心する。が、不安がなくなるわけでもなかった。
階段を上り、古びた鍵をがちゃがちゃと音を立てて開け、部屋へ入る。
暗い。
静か。
どかどかと部屋に入り、テーブルに置いてあるリモコンでテレビをつける。
見たい番組があるわけでもない。ただ――音がないのが落ち着かない。
机の上には高瀬から渡された求人票が、渡された時のまま整然と置かれている。
警備。
清掃。
倉庫作業。
光男は煙草に火をつけながら、何件かある求人票をぼんやり眺める。
頭の中で想像する。
面接。
自分より年下の面接官に気を遣われるだろう。
年齢を見られ、今までの退職理由も聞かれるかもしれない。
腰は大丈夫ですかと聞かれる。
そして―――落とされる。
そんな想像が、やけに明確に思い浮かぶ。
またダメかもしれない。
また惨めになるかもしれない。
くそっ…俺の人生、ケチのつきっぱなしじゃないか。
――その時。
男の声が脳裏をよぎる。
『もう十分だろ』
『頑張らなくていい理由、あるじゃねぇか』
光男は、身体に充満していた悪いものがふっと消えたような感覚を覚えた。
安心した。――本当に少しだけ。
そして―――求人票を裏返した。
見えないように。
考えなくて済むように。
テレビの光が、ぼんやり部屋を照らしているその中で。
光男は動かなかった。
少しずつ。
本当に少しずつ。
光男本人が気づいているのかいないのか―――”戻る理由”を捨て始めていた。




