愚者の日常(前編)
都内から少し離れた住宅街。
古びた二階建てアパートの一室で、三宅光男はぼんやり天井を見上げていた。
カーテンは閉まりきっていない。
隙間から差し込む午後の日差しが、畳の上に細く伸びている。
埃の薄く積もったテレビからは昼のワイドショーが垂れ流されている。
――芸能人の不倫だの、政治家の失言だの、誰かの炎上だの……
内容は光男の頭にとどまることはなく通り過ぎていく。
ただ、空虚な笑い声や音だけが部屋に充満する。
六畳一間。
古い冷蔵庫。
積み上がったコンビニ弁当の容器。
干しっぱなしの洗濯物。
鼻をつくほどではないが、生活が少しずつ淀んでいる匂いがする。
三宅は気だるそうにゆっくり起き上がった。
腰に鈍い痛みが走る。
「……っ」
小さく顔をしかめる。
もう何年も付き合っている痛みだった。
10年ほど前だろうか…40代初め、工場で荷物を運んでいる頃だったと思う。
最初は軽い違和感だった。だが無理を重ねるうちに悪化し、気づけば長時間立つと気になるぐらいにまでなっていた。
――このまま働き続けるのは無理だと判断し会社を辞めた。
再就職はうまくいかなかった。
年齢。
腰痛。
資格なし。
特別な技術もない。
派遣をいくつか回ったが、どれも長く続かなかった。
そして―――今はといえば。
生活保護を受けて働かずに暮らしている。
三宅は机の上の煙草へ手を伸ばしかけ――止めた。
残り二本。
次の支給日まで、あと四日。
「……はぁ」
力なく息を吐く。
腹は減っていた。だが何かを作る気力はない。
冷蔵庫を開ける。
ペットボトルのお茶。
半額シールの豆腐。
昨日の残りの総菜。
光男は少し考えたあと、力なく扉を閉める。
―――面倒くせぇ。
その時、机の上のスマートフォンが震えた。
のっそりと手に取り画面を見る。
『本日14時に伺う予定です。よろしくお願いします。』
ケースワーカーからだった。
三宅は顔をしかめる。
「……今日か」
忘れていた。
いや、忘れたかった。
時計を見る。13時40分。
三宅は舌打ちし、小さく伸びをする。
散らかったテーブルを少し片付け、空き缶をまとめる。
別に見栄を張りたいわけではない。
ただ、“完全に終わってる人間”だと思われたくなかった。
おおかた片づけたころ――雑物を端に避けただけだが――チャイムが鳴った。
三宅は重い身体を引きずって玄関へ向かう。
心底面倒そうに扉を開ける。
「こんにちは、三宅さん」
二十代後半くらいの若い女だった。
少しだけ体にフィットした、こざっぱりしたスーツ姿。
服装にはちょっと似つかわしくない疲れた笑顔で挨拶をしている。
担当ケースワーカーの高瀬だった。
「あぁ……どうも」
「体調どうですか?」
「まぁ……ぼちぼち」
どこでも交わしている、定型と言っていいあいさつの後、高瀬は慣れた動きで部屋へ入り、書類を取り出す。
三宅はなんとなく居心地悪そうに座った。
「最近、お仕事探しのほうはどうです?」
――来た。
光男は曖昧に視線を逸らす。
「いやぁ……ちょっと腰が」
愛想笑いとも苦笑ともつかない顔で、へへへ……と曖昧に笑う。
「短時間の軽作業でも大丈夫ですよ」
優しい声だった。責めているわけではない。
光男を気遣った言葉だが――それが逆に辛い。
「今、年齢高めの方向けの支援制度もありますし――」
高瀬は一生懸命だった。真面目なのだろう。
生活保護から抜け出すことを光男も望んでいる――そう信じて救いの手を伸べようとしている。
三宅にもそれは分かる。
だが。
話を聞いているだけで疲れる。
働く。
面接。
履歴書。
また落ちるかもしれない。
またダメかもしれない。
その“また”を想像するだけで、身体が重くなる。
「……まぁ、そのうち」
三宅は小さく返した。
高瀬は少しだけ寂しそうに笑う。
「無理にとは言いません。でも、三宅さんならまだ――」
まだ。
その言葉が妙に引っかかった。
まだ働ける。
まだやれる。
まだ戻れる。
―――本当に?
三宅は曖昧に頷きながら、頭の奥で別のことを考えていた。
――もう、疲れたんだよ。
光男には長く感じた面談が終わった頃には、外は少し曇っていた。
小一時間の面談だったのに天気はすぐに変わったようだ。
光男は息苦しさを振り払うためにアパートを出る。
――部屋にいると息が詰まる。
が、特に行く場所もない。
行く当てもない光男の足は自然と近くの公園へ向かっていた。
平日の昼下がり。
人は少ない。
公園の隅にあるボロボロのベンチに腰掛け、道すがら自販機で買った缶コーヒーを開ける。
温い。
空を見上げる。灰色――光男の心のようにどんよりとしている。
「よう」
低い声が横から投げられる。
三宅は視線だけ動かす。自分にかけられた声だったのか――
大柄な男だった。
灰色のパーカー。
ぼさぼさの髪。
眠そうな目。
最近、たまに見かける男。
名前は知らない。
だが、なぜか拒絶しようとは思えない。
男はコンビニ袋を脇に置き、さも当然のように光男の隣へどかっと座る。
「また役所か?」
「……まぁな」
男は小さく笑う。
「真面目だなぁ」
「別に真面目じゃねぇよ」
三宅は缶コーヒーを手で弄びながらぼそっとつぶやく。
「働け働けって言われるだけだ」
「働きたいのか?」
「……いや」
即答できなかった。
男はそれ以上聞かない。
そこが楽だった。
沈黙。
風が吹く。
遠くで子供の声。
男は缶コーヒーを開けながら言う。
「まぁでも、今さら頑張ってもなぁ」
三宅ははっと視線を向ける。
男は気怠げに続けた。
「真面目にやっても、損する時は損するし」
「身体壊したら終わりだし」
「頑張ったから頑張った分、報われるわけでもねぇ」
その言葉は、不思議と胸に馴染んだ。
慰めではない。
励ましでもない。
ただ――
“そういうもんだろ”と、世界を諦めている声だった。
三宅は小さく笑う。
乾いた笑い。
「はっ……まぁ、そうなんだよな」
男は公園の中心のほうを向いたままゆっくり頷く。
「だったら、無理しなくてもいいんじゃねぇの」
少し冷えた風が吹く。
公園の木々が揺れる。
三宅は何も答えなかった。
――だが。
その言葉は、静かに胸へ沈んでいった。
まるで。
長い間立ち続けていた身体が、
ようやく座る理由を見つけたように。
「――ありがとな。聞いてくれて。」
「じゃぁ―――帰るわ。」
立ち上がるのにも時間をかけ、光男は力ない足取りで家路に向かう。
息苦しい空気が、もう自宅に残っていないことを祈りつつ――。




