止まる。(中編)
翌朝、高瀬は目覚ましの音で目を覚ました。
時計を見る。
「8:37」
一瞬、数字の意味が理解できなかった。
数秒遅れて状況を理解し、慌てて布団から飛び起きる。
シャワーを浴びる時間もない。
髪を整える余裕もない。
吊るしていたスーツに袖を通し、最低限の身支度だけ済ませて家を飛び出した。
職場に着いたのは始業から三十分近く経ってからだった。
フロアに入った瞬間、周囲の視線が刺さる。
高瀬は小さく頭を下げ、自分の席へ向かおうとした。
「高瀬さん」
上司の声だった。
足が止まる。
「社会人なんですから、時間管理くらいしっかりしてください」
「……申し訳ありません」
「体調が悪いなら連絡してください。無断で遅刻されると困ります」
「はい」
「返事だけじゃなくてですね――」
その後も何か言われていた気がする。
だが頭に入ってこなかった。
まるで透明な膜を一枚隔てて聞いているようだった。
予定を大幅に遅れて自分のデスクに着く。
パソコンを立ち上げ、メールを開く。
未処理の案件が並んでいる。
至急取り掛からなければならないものもあった。
画面を見つめる―――が、何も考えられない。
数十分経ってもほとんど業務は進捗しないまま、高瀬は担当者訪問のため外へ出た。
さびれたアパートの一室の前でチャイムを押す。
ぼろぼろのドアが開き、高齢の受給者が出迎える。
いつもなら健康状態を確認し、就労の可能性や今後の支援について話す。
それが仕事だった。
しかし今日は違った。
「最近、お身体はどうですか」
「相変わらずだよ」
「そうですか……」
会話が続かない。
以前なら、通院はどうか。
薬は飲めているか。
生活習慣は改善できそうか。
そういった話題へ踏み込んでいた。
だが今は違う。
言葉が喉で止まる。
就労支援。
自立支援。
通院指導。
それらすべてが、相手を追い立てる行為のように思えた。
刹那、三宅の顔が脳裏をよぎる。
『少しでも動いてみませんか』
『できることから始めましょう』
『このままでは良くなりません』
あれは本当に支援だったのだろうか。
ただ自分の正しさを押し付けていただけではないのか。
その結果、三宅は死んだのではないか―――
高瀬は予定よりも早く訪問を切り上げた。
帰り道。
足は自然と三宅のアパートへ向かっていた。
理由は自分でも分からない。
救いを求めているのか、はたまた許しを得ようとしているのか。
三宅がいないとしても、あの男がいてくれれば――という願いもあるのかもしれない。
平日の昼間。
人影もまばらな公園。
――――いた。
ベンチの上で大きな男が寝転がっている。
黒いスウェット。
無精ひげ。
だらしなく投げ出された手足。
まるで巨大な熊だった。
高瀬は思わず眉をひそめる。
「あなた……仕事とかしてないんですか」
男は片目だけ開けた。
「あぁ?」
「平日の昼ですよ」
「あるわけないだろ」
口角だけを上げて笑う。
本当に悪びれる様子もない。
高瀬は呆れる。
呆れるはずなのに。
少しだけ羨ましかった。
男は欠伸をしながら起き上がる。
「で、今日は浮かねぇ顔してんな」
「別に」
「そうかぁ?」
図星だった。
高瀬は答えない。
男は気にした様子もなく空を見上げた。
「頑張ってどうなった?」
―――唐突だった。
高瀬の肩がわずかに震える。
「……」
「救えなかったじゃねぇか」
返す言葉がない。
「真面目な奴から先に潰れていくんだよなぁ」
男は独り言のように呟く。
責めているわけではない。
慰めているわけでもない。
ただ事実を口にしているだけのようだった。
それが――余計に苦しかった。
目当ての男に会えたにも関わらず、高瀬はろくに話もできずその場から立ち去るしかできなかった。
その日をきっかけに、高瀬は徐々に萎れていった。
報告書を書く手が止まる。
訪問を先延ばしにする。
帰宅すると何もせず横になる。
洗濯物は積み上がる。
風呂に入るのも面倒になる。
脱いだスーツもソファに投げる。最近皺が目立つようになった。
だが高瀬は自分に言い聞かせる。
少し疲れているだけ。
そのうち元に戻る。
そう思っていた。
数日後。
担当受給者の一人が窓口で激昂した。
「お前らは口だけなんだよ!」
机を叩く音が大きく響く。
職員たちの注目が一点に集まった。
「働けだの自立しろだの好き勝手言いやがって!」
唾が飛び、怒鳴り声が響く。
以前の高瀬なら受け止められた。
怒りの奥にある不安や苦しみを理解しようとしていた。
だが今は―――違う。
何も言えない。
何も返せない。
ただ黙って立ち尽くす。
三宅の顔が浮かぶ。
自分は本当に誰かを助けていたのか。
それとも追い詰めていただけなのか。
受給者は最後に舌打ちをして帰っていった。
高瀬は深く頭を下げたまま動けなかった。
帰り道。
夕暮れ、川沿いの遊歩道を歩く。
隣にいつの間にか男がいた。
驚く気力もなく、ただ足を引きずるように歩き続けた。
「な?」
男が言う。
「もう頑張らなくていいだろ」
高瀬は足を止める。
その言葉を否定しなければならないと思った。
ケースワーカーとして。
社会人として。
けれど――できなかった。
言葉は、高瀬の口から出てこなかった。
代わりに――涙があふれた。
悔しさなのか、情けなさなのか。
自分でも分からない。
ただ止まらなかった。
その夜。
職場から電話がかかってきた。
着信画面には上司の名前。
高瀬はしばらく見つめる。
出なければならない。
わかっている。
だが――指は動かない。
やがてスマートフォンを裏返しにした。
呼び出し音が続く。
それも次第に止んだ。
静寂―――――
天井を見上げる。
隣には誰もいない。
なのに。
すぐそばで誰かが――くくっ、と笑った気がした。
高瀬は目を閉じた。
もう少し――もう少しだけ休みたい。
そのあと考えよう。
そう自分に言い聞かせて眠りについた。




