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死に至る罪  作者: 影沼 蓮


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10/14

止まる。(中編)


翌朝、高瀬は目覚ましの音で目を覚ました。



時計を見る。


「8:37」


一瞬、数字の意味が理解できなかった。

数秒遅れて状況を理解し、慌てて布団から飛び起きる。


シャワーを浴びる時間もない。

髪を整える余裕もない。

吊るしていたスーツに袖を通し、最低限の身支度だけ済ませて家を飛び出した。





職場に着いたのは始業から三十分近く経ってからだった。


フロアに入った瞬間、周囲の視線が刺さる。

高瀬は小さく頭を下げ、自分の席へ向かおうとした。


「高瀬さん」


上司の声だった。


足が止まる。


「社会人なんですから、時間管理くらいしっかりしてください」


「……申し訳ありません」


「体調が悪いなら連絡してください。無断で遅刻されると困ります」


「はい」


「返事だけじゃなくてですね――」


その後も何か言われていた気がする。

だが頭に入ってこなかった。

まるで透明な膜を一枚隔てて聞いているようだった。





予定を大幅に遅れて自分のデスクに着く。


パソコンを立ち上げ、メールを開く。

未処理の案件が並んでいる。

至急取り掛からなければならないものもあった。


画面を見つめる―――が、何も考えられない。

数十分経ってもほとんど業務は進捗しないまま、高瀬は担当者訪問のため外へ出た。





さびれたアパートの一室の前でチャイムを押す。

ぼろぼろのドアが開き、高齢の受給者が出迎える。


いつもなら健康状態を確認し、就労の可能性や今後の支援について話す。

それが仕事だった。


しかし今日は違った。


「最近、お身体はどうですか」


「相変わらずだよ」


「そうですか……」


会話が続かない。


以前なら、通院はどうか。

薬は飲めているか。

生活習慣は改善できそうか。


そういった話題へ踏み込んでいた。


だが今は違う。


言葉が喉で止まる。


就労支援。

自立支援。

通院指導。


それらすべてが、相手を追い立てる行為のように思えた。

刹那、三宅の顔が脳裏をよぎる。


『少しでも動いてみませんか』

『できることから始めましょう』

『このままでは良くなりません』


あれは本当に支援だったのだろうか。

ただ自分の正しさを押し付けていただけではないのか。

その結果、三宅は死んだのではないか―――


高瀬は予定よりも早く訪問を切り上げた。





帰り道。


足は自然と三宅のアパートへ向かっていた。

理由は自分でも分からない。


救いを求めているのか、はたまた許しを得ようとしているのか。

三宅がいないとしても、あの男がいてくれれば――という願いもあるのかもしれない。



平日の昼間。

人影もまばらな公園。


――――いた。


ベンチの上で大きな男が寝転がっている。

黒いスウェット。

無精ひげ。

だらしなく投げ出された手足。


まるで巨大な熊だった。

高瀬は思わず眉をひそめる。


「あなた……仕事とかしてないんですか」


男は片目だけ開けた。


「あぁ?」


「平日の昼ですよ」


「あるわけないだろ」


口角だけを上げて笑う。

本当に悪びれる様子もない。


高瀬は呆れる。

呆れるはずなのに。

少しだけ羨ましかった。


男は欠伸をしながら起き上がる。


「で、今日は浮かねぇ顔してんな」


「別に」


「そうかぁ?」


図星だった。

高瀬は答えない。


男は気にした様子もなく空を見上げた。


「頑張ってどうなった?」


―――唐突だった。

高瀬の肩がわずかに震える。


「……」


「救えなかったじゃねぇか」


返す言葉がない。


「真面目な奴から先に潰れていくんだよなぁ」


男は独り言のように呟く。


責めているわけではない。

慰めているわけでもない。


ただ事実を口にしているだけのようだった。

それが――余計に苦しかった。


目当ての男に会えたにも関わらず、高瀬はろくに話もできずその場から立ち去るしかできなかった。



その日をきっかけに、高瀬は徐々に(しお)れていった。



報告書を書く手が止まる。

訪問を先延ばしにする。

帰宅すると何もせず横になる。

洗濯物は積み上がる。

風呂に入るのも面倒になる。

脱いだスーツもソファに投げる。最近皺が目立つようになった。


だが高瀬は自分に言い聞かせる。

少し疲れているだけ。

そのうち元に戻る。


そう思っていた。





数日後。


担当受給者の一人が窓口で激昂した。


「お前らは口だけなんだよ!」


机を叩く音が大きく響く。

職員たちの注目が一点に集まった。


「働けだの自立しろだの好き勝手言いやがって!」


唾が飛び、怒鳴り声が響く。


以前の高瀬なら受け止められた。

怒りの奥にある不安や苦しみを理解しようとしていた。


だが今は―――違う。


何も言えない。

何も返せない。

ただ黙って立ち尽くす。


三宅の顔が浮かぶ。


自分は本当に誰かを助けていたのか。

それとも追い詰めていただけなのか。


受給者は最後に舌打ちをして帰っていった。

高瀬は深く頭を下げたまま動けなかった。





帰り道。


夕暮れ、川沿いの遊歩道を歩く。


隣にいつの間にか男がいた。

驚く気力もなく、ただ足を引きずるように歩き続けた。


「な?」


男が言う。


「もう頑張らなくていいだろ」


高瀬は足を止める。


その言葉を否定しなければならないと思った。

ケースワーカーとして。

社会人として。


けれど――できなかった。

言葉は、高瀬の口から出てこなかった。

代わりに――涙があふれた。


悔しさなのか、情けなさなのか。

自分でも分からない。


ただ止まらなかった。






その夜。


職場から電話がかかってきた。

着信画面には上司の名前。


高瀬はしばらく見つめる。

出なければならない。


わかっている。

だが――指は動かない。


やがてスマートフォンを裏返しにした。


呼び出し音が続く。

それも次第に止んだ。


静寂―――――


天井を見上げる。

隣には誰もいない。


なのに。


すぐそばで誰かが――くくっ、と笑った気がした。





高瀬は目を閉じた。


もう少し――もう少しだけ休みたい。

そのあと考えよう。


そう自分に言い聞かせて眠りについた。



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