足るを知る者
夜の新宿―――
無数の光が、今日も飽きることなく明滅している。
女は、高層ビルの窓辺からそれを見下ろしていた。
行き交う視線の端々に、羨望が滲む。
恋人を見つめる孤独。
他人の成功を笑えない苛立ち。
“なぜ自分ではないのか”という沈殿。
――この街には、小さな小さな悪意が溢れている。
視線を滑らせるだけで、それらはいとも簡単に見つかる。
すれ違った恋人たちを睨む視線。
無能だと思っていた同期が昇進したことへの苛立ち。
幸福そうな家族への諦め混じりの羨望。
どれも――ありふれている。
ありふれていて、醜く…そして美しい。
「とはいえ……今日は薄いですね」
女は小さく呟く。
小さな嫉妬はいくらでもある。
だが、どれも浅い――
根を張り、大きく育つほどではない。
すぐに流れ、薄まり――別の感情に上書きされていく。
つまらない。
そう思った時だった。
彼女の視線が、眼下の少し年季の入った外観の居酒屋で止まる。
ガラス越しに見える会社員たち。おそらく金曜の飲み会だろう。
男女入り混じり、アルコールによって適度に羽目の外れた10人程度の集団。
その中心で笑っている男がいた。
これといって特徴を挙げられない顔。整っているともいえるが端正というほどでもない。
「中肉中背」という言葉をそのまま人の形にしたような体格、バーゲンで売れ残っていただろう吊るしのスーツを着た、三十代後半の、ごく普通の会社員。
彼女とこの集団の人間以外には認知されもしないのではないかというほど――存在感が薄い。あまりにも「普通」すぎて。
だが―――
なぜか、周囲の空気が柔らかい。
誰かが話せば、彼はそちらを見て楽しそうに笑い。
後輩が何かを言えば、自然に会話を繋ぎ――先輩が会話に乗っかって話が弾む。
“輪の中心”というほどではない。
だが、確実にそこにいることで空気を整えている。
女は、もともと切れ長な目をさらに細めた。
「相馬さんって絶対次の人事で課長っすよね!」
若い男がジョッキ片手に言う。
相馬恒一は苦笑した。
「やめろやめろ。お前、主任になった半年後ぐらいにも同じこと言ってたぞ」
「でもマジでありえますって!」
「いやぁ……どうかなぁ」
恒一は照れたように頭を掻く。
その仕草に嫌味がない。
演技でもない。
「相馬さん、営業成績ずっと安定してるじゃないですか」
なおも若い後輩は話題を続けようとする。
「お前らがフォローしてくれてるからだろ」
恒一は素直な気持ちを言葉に乗せ、自然に返す。
後輩の男は、意外な恒一の言葉に少し嬉しそうな笑みを浮かべた。
時間は過ぎ、終電の時間も気になり始めたころ…恒一たちも例に漏れず解散していく。
会計を済ませ、居酒屋の前で円になってまだ余韻を楽しんでいる。
会話は散り散りになり、取り止めもない。
恒一が主役になることもないが、会話から外れると誰かが自然と話を振ってくる。
いつの間にか居酒屋の通りにいた女には違和感があった。
普通なら――
こういう人間の周囲には、もっと濃い感情が渦巻く。
妬み。
反感。
劣等感。
だが、それが薄い。
完全にないわけではない。
だが、“定着”していない。
まるで、根を張れない。
散り散りに解散した後、恒一はポケットから煙草を取り出した。
火をつける。紫煙が夜へ溶けていく。
遅くまで仕事をし、しっかり飲んで疲れてはいるものの、恒一の表情はいつもどおり満足げだ。
皆の前で遠慮していた煙草は、思いのほか体に吸い込まれて酔いを持続させている。
「珍しいですね」
恒一の脇から不意に声が落ちた。
振り向く。
黒髪の女が立っていた。
整った顔立ち。だが、その眼だけが異様だった。
妙に冷たい。
人を見る目ではない。
おもちゃを値踏みする目。
「……どちらさまです?」
恒一は警戒しながらも、どこか困ったように笑った。
女は答えない…代わりに、彼を見つめる。
「あなた、妬まれないんですね」
唐突な言葉だった。
恒一は一瞬きょとんとして、それから吹き出した。
「ははっ…何ですかそれ」
「昇進間近。家庭円満。部下からの信頼も厚い」
女は淡々と続ける。
「普通なら、もっと嫌われます」
いきなりの物言いだが、悪意は感じない。恒一は笑顔を崩すことなく応じる。
「いやぁ…嫌われてますよ、多分」
言いながら肩を竦める。
「自分からは見えないだけで」
「それでも――薄い」
女は低く小さく、呟く。
「なぜなんです?なぜ――」
――負の感情が湧いてこないの?
恒一は酔いの回った頭で少し考え、整理するように目を細める。
煙草の先端が赤く灯る。
「うーん……」
そして。
「運が良かったからじゃないですかねぇ」
興味深そうに一挙一動を観察していた女の眉が、わずかに動く。
「――運?」
「えぇ、はい」
恒一は柔らかそうに笑う。そこに女への警戒などは全くなかった。
「上司にも恵まれましたし、嫁さんにも恵まれましたし」
「子供も元気に過ごしてますし」
「後輩も、あぁ見えてちゃんとしてますしね」
自慢げでもない口調で当たり前のことを話すようだった。
そこに誇示はない。
優越もない。
ただ、事実として受け取っている――そんな口調。
女は静かに問う。
「あなたは、奪われたことがないんですか?」
恒一は少し黙って、夜空を見上げ…深く吸い込んだ煙草の煙をゆっくり吐き出す。
「―――ありますよ」
静かな返答。しかし表情は穏やかなまま変わらない。
「同期に先越されたこともありますし――」
「付き合ってた人に振られたこともあります」
「営業取られたこともあるし、頑張っても評価されない時もありました」
その言葉には実感があった。
綺麗事ではない。嘘もない。
だからこそ、女は次を確信する。
――ここだ。
「では――なぜ妬まないんです?」
その声は、わずかに鋭かった。
その口調に、恒一は初めて目を丸くした。
「…いや、妬みますよ?」
あっさり言う。
女の動きが思わず止まる。予想外とでもいうように。
「――でも」
恒一は苦笑した。
「それで周り嫌いになったら、もったいないじゃないですか」
女は、わずかに眉をひそめる。
その返答は、彼女の理解から外れていた。
「……もったいない?」
「えぇ」
恒一はまだ少し残った煙草を携帯灰皿に押し込む。
「俺、自分だけでここまで来たと思えないんですよねぇ。いろんな人に助けてもらうことが結構多いんですよ」
「だからまあ――」
少し照れ臭そうに笑う。
「今あるものまで嫌いになりたくないなって」
―――沈黙。
女は、何も言えなかった。
――理解できない。
なぜ不足ではなく、“持っているもの”を見る。
なぜ比較しない。
なぜ削ろうとしない。
この男の中には、嫉妬がある。
確かにある。
だが―――
根付かない。
感謝が、それを押し流している。
「……変な人ですね」
女がようやく絞り出した言葉に、恒一は笑った。
「ははっ――よく言われます。さっきも同僚に言われてましたしね」
いつも通りの返答が、ごくごく自然に恒一の口から放たれる。
何も他意のない、心からの言葉。
――やがて恒一のポケットが震える。
スマートフォンを取り出し、画面を見る。
「お、娘だ――。っと、すみませんね」
頬が少し緩む。スマートフォンの通知が画面に映し出されていた。
『ぱぱまだー?』
短いメッセージ。
恒一の口角が自然に上がる。
「ごめんなさいね、そろそろ帰らなくちゃ――」
恒一は女に軽く頭を下げる。
「それじゃ、お疲れ様です」
少し頼りない足取りで去っていく背中。
その背を、女は黙って見届ける。
少しの動揺と驚きとともに。
通りに夜風が吹いた。
遠くで誰かの笑い声。
通り過ぎる車の音。
明滅するネオン。
世界は変わらず、醜い。
――そのはずだった。
だが。
ほんの一部。
理解できない人間がいる。
女はゆっくり目を細めた。
「――気に入らない」
それは怒りではなかった。
強いて言うなら敗北感に近かった。
彼女は周囲を見回す。
無数の光。
羨望。
不足。
欲望。
嫉妬。
そのすべてが、今日も街に満ちている。
なのに――
たった一人。
そこへ沈まない人間がいた。
「種はあるのに――根を貼らないなんて……気持ち悪い」
温度のない声で吐き捨てるように呟く。
――だが、その声はどこか弱かった。
女は踵を返す。
黒髪が揺れる。
いつも自信にあふれた立ち居振る舞いからは想像できないぐらい、その背はほんのわずかにだけ…小さく丸まっていた。
嫉妬は、特別な感情ではない。
誰かの成功。
誰かの幸福。
誰かが自分より先へ進んでいくこと。
そんな瞬間に、心がざわつくことはある。
――なぜ、自分じゃないのか。
その問いは、とても自然だ。
誰の中にも生まれる。
だからこそ。
それ自体は、きっと罪ではない。
問題なのは、その感情をどう育てるかだ。
飲み込まれ、誰かを引きずり下ろそうとするのか。
それとも―――
羨みながらでも、自分の持つものを見失わずにいられるのか。
人は、満たされているから優しくなれるわけじゃない。
不足を知っていてもなお、感謝を忘れない人間がいる。
そして、そういう人間を。
彼女は、ひどく嫌う。
理解できないから。
壊せないから。
何より――自分には、なれないから。
夜の街は、今日も光っている。
羨望も。
不足も。
嫉妬も。
きっと、なくならない。
だがその中には。
誰かを羨みながらも憎まずにいられる人間が――確かに存在している。




