祝福を与える者
――渋谷・円山町のとあるオフィスビル。
河本真央は、そのビルのなかに小ぢんまりしたオフィスを構える中小企業で、ごくごく平凡な営業事務をこなしている。
日々事務作業をしている女性たちのささやかな癒しの時間、昼休みの休憩室はいつもより少しだけ賑やかだった。
「それでそれで!――いつなんですか!?」
女子社員たちの弾んだ声は、気持ち抑えられてはいたものの十分大きい。
好奇の視線が、その中の一人に集まる。
大学を卒業してすぐ入社した片山美津紀は、女子事務員のなかではベテランになりつつある。
「入籍は来月です。式と披露宴はもう少し先で、小さくやることになりそうですけど……」
照れたように笑う美津紀に向けて、周囲から一斉に声が上がる。
「おめでとう!」
「いいなぁ!」
「絶対行くからね!」
明るい空気。
素直な祝福。
お祝いムードのただ中で、彼女も楽しそうに笑っていた。
美津紀とは10年以上の付き合い。少しだけ先輩ということで、美津紀からも頼られつつ、上司に一緒に怒られたりもしながら仲良く過ごしてきた――真央は、美津紀の一番近くで彼女を祝福する。
「おめでとう!彼氏とは長かったもんね…もう、自分が結婚するよりうれしいんだけど!」
自然に出た言葉だった。
嘘ではない。
本当に、そう思っていた。
そのはずだった。
その日の仕事終わり、帰り道。
いつも通りの電車。いつも通りの帰宅。
いつもと違うことと言えば、昼休みにあった同僚の結婚報告だけだ。
少しくたびれた感のあるレディースマンション。
真央はいつも通りよどみなく鍵を開け部屋に入る。
靴を脱ぎ、鞄を置き、電気をつける。
すべてが、何も変わらない。
ソファに座ったところで、少しだけ――吐息が漏れる。
疲れからか、それとも心に何かが引っ掛かったのか。
何気なくスマートフォンを手に取った。
通知がいくつか溜まっている。
会社の女子社員で作ったグループチャットが昼間の続きでにぎわっている。
「結婚おめでとう!」
「幸せそうで羨ましい!」
「理想のカップル!」
並んでいるのは、同じような言葉ばかり。
祝福。
祝福。
祝福。
「……よかったね」
小さく、呟いてスクロールする。
美津紀が写真を何枚か投稿していた。
笑顔。
指輪。
寄り添う二人。
そのどれもが、きちんと“幸せ”を表している。
「……」
真央の指が、少しだけ止まる。
(私は?)
(私には…なにもない――)
その言葉は、音にならなかった。
ただ、浮かんで。
すぐに沈む。
「……おめでとう」
画面に向かって、もう一度言う。
指が動く。
チャット欄が開く。
「みっちゃんおめでとう!ほんとによかったね!」
美津紀への祝福の言葉を打ち込む。
いつもの呼び方で、いつも通り。自然な文章。
何もおかしくない。
送信——
……しない。
ほんの一瞬、指が止まる。
理由は、分からない。
ただ。
少しだけ、重かった。
真央はそのままサイドボタンを押し、画面が黒く落ちる。
それで、終わり。
「……まあ、いいか」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
(送らなくても問題ないよね。昼間もお祝いしたし)
どうせ明日もまた、この話になるだろう。何回も祝うことになる。
―――はぁ。
スマートフォンを、机に置く。
部屋は、静かだった。いつもならすぐにテレビをつけ、一人暮らしの寂しさを紛らわすように騒がしくする真央は、今日に限ってリモコンに手が伸びなかった。
そんな静けさの中で。
ほんのわずかに。
何かが、沈殿していく。
気づくほど大きな変化ではない。だが―――
確かに、そこに“何かが残った”。
翌日。
「昨日、ありがとうね!」
真央は後ろから美津紀に明るく声をかけられる。
「ううん、こちらこそ!」
笑顔で返す。
何も問題はない。
会話も、続く。
いつも通りだ。
ただ――
ほんの少しだけ―――
いつもより距離が、空いていた。
気づくほどではない。
だが、確実に。
数日後も。
「最近ちょっと忙しくてさ」
真央の口からはそんな言葉が増える。
美津紀からのランチの誘いは断った。
連絡が少し後回しになっていく。
悪意はない。祝福の気持ちも本当だ。
ただ、少しだけ―――面倒だった。
(今じゃなくていい)
それで済ませる。
さらに、数日。
「みっちゃん、無理してないといいけどね」
別の同僚との会話。同僚は不意に発せられた真央の言葉にきょとんとする。
「え?無理?してるのかな」
はたから見ていると美津紀は元気だ。どちらかというといつもより明るく、幸せな生活を満喫しているように受け止められていた。
「でもほら、ああいうのって、結構大変じゃない?準備やらあいさつ回りやら……」
軽い調子。
心配する“ふり”。
「あぁ~……まあ……そうかもねぇ。」
気のない同調が返る。
その瞬間——何かが、形を持つ。
彼女は、それにまだ気づかない。
真央はその程度の同調でも十分だった。自分の心にある、すごく薄い靄。
否定されないことで、その靄は少しだけ薄くなったような気がする。
オフィスの外の通路。彼女たちからは認知されないぐらいの距離で、それを見ているものがいた。
そのしなやかな体躯と、綺麗に切りそろえられた黒髪が周囲の関心を引く。
しかし興味をもって顔を見たほとんどの男性は、なぜかその女から目をそらす。
心の底――魂ともいえるぐらい奥底で、女を恐怖しているかのよう。
立ち止まって見ていた女は、何も言わない。ただ、静かに観察している。
介入する必要はない。すでに…始まっているから。
「――綺麗ですね」
小さく、呟く。
壊れていない。
まだ。
だが――確実に、歪んでいる。
「そのままでも、十分です」
唇が、わずかに歪む。
「友の幸せを喜びながら……削れていく」
それは。
とても、人間らしい形だった。
女は、それ以上何もしない。するつもりもない。
視線を外す。
もう、見届ける必要もない。
彼女たちの関係は、自然に崩れていくだろう。
本人たちさえ気づかないまま。
——それで、十分だった。
「妬みは……どこにでも生まれるものね」
女のつぶやきは、やはり誰にも届かない。
真央は、その日の仕事もいつも通りこなし帰宅する。
テレビをつけ、程よいノイズで孤独をやわらげながら…机の上のスマートフォンを手に取った。
グループチャットの画面を開く。今や美津紀の結婚に関する祝福のメッセージは、明日のランチをどこにするかという話題で埋もれていた。
前に途中まで打った言葉が、残っている。
「みっちゃんおめでとう!ほんとによかったね!」
数秒、見つめる。
そして——
静かに、削除した。
チャット欄は、空白になる。
「……もう、いいか」
今度は、迷いがなかった。
送る理由が、もうなかった。
いつもの通り、サイドボタンを押して――画面は沈黙する。
——何も変わらない。
ただ。
もう――戻らないだけだ。




