吊られた男
彼女は相変わらず眼下の雑踏を見つめている。
嫌悪と侮蔑の入り混じった悪意は、長年の訓練の結果か表に出ることはなかった。
自分の望みをかなえるために必要な人間を探すのに、現代ではそこまで困ることもない。
視線が滑る。人混みを、光を、笑顔を…
——値踏みするように。
その動きが、ふと止まった。
雑踏の中を歩く一人の男。
急ぐでもなく、遅れるでもなく、ただ周囲に紛れているだけの存在。
だが。
「……見つけた」
小さく落ちた声は、誰にも届かない。
佐伯和馬は、目立たない男だった。
良くも悪くも平均的。
記憶に残らない顔立ち、無難な服装、控えめな態度。
強いて特徴を挙げるとすれば、30歳を少し超えたばかりの割には皮膚に艶がないことぐらいか。
仕事でも、やはり彼は目立たない。
それが今の職場では都合が良いと受け止められているようだ。
指示には従い、無駄口は叩かず、必要な仕事はきちんとこなす。
「助かるよ、佐伯くん」
そう言われることはあっても。
それ以上の言葉を向けられることはなかった。
評価されないわけではない。
だが、選ばれもしない。
その“半端さ”が、彼のすべてだった。
いつも通り定時上がりの帰宅途中。
佐伯は駅までの道すがらスマートフォンを取り出す。
指先が迷いなくSNSを開いた。
匿名アカウントでログインしどんどんと下にスワイプしていく。
タイムラインには、見慣れた名前が並んでいる。
同僚、業界人、インフルエンサー。
——そして、成功者。
「……はは」
乾いた笑いが漏れる。
“新規事業成功”
“若手最速昇進”
“理想の結婚生活”
どれもこれも、眩しすぎて現実味がない。
まるで”理想の人生”そのものじゃないか。
だから、少しだけ。
現実に引き戻してやる必要がある。
指が動く。
「この人、裏で結構グレーなことしてますよ」
短い文章。
断定はしない。だが否定もしない。
事実を混ぜる。
嘘を足す。
疑いが“自然に育つ”形に整える。
投稿。
数秒の沈黙のあと、反応がつき始める。
それで十分だった。
「面白い使い方をするんですね」
不意に、背後から声が落ちた。
振り返る。
そこにいたのは、一人の女。
黒髪のボブ。
整いすぎた輪郭。
そして——視線。
どこを見ているのか分からない。
いや、見られているのは分かるのに、“焦点が合っていない”。
そんな違和感。
「な…何ですかあなた」
警戒が滲む。
女は答えない。
代わりに、彼のスマートフォンへと視線を落とす。
「それ」
一言だけ。
背筋が冷える。
「見てたんですか」
「ええ」
隠す様子もなく、あっさりと。
「よく出来ています。事実と虚構の配分が」
——踏み込みすぎている。
「……関係ないでしょう」
吐き捨てるように言う。
だが女は、わずかに首を傾げただけだった。
「関係はありますよ」
静かな声。
「それで均衡を取っているんでしょう?」
意味が分からない。そう思ったはずなのに。
否定が、遅れた。
「……何の話ですか」
「うまくいかないあなたの人生と、煌びやかな成功者たちとの均衡を」
女は一歩、近づく。
距離が縮まる。
…なのに、温度は感じない。
「嫉妬…ですよね」
心臓が、強く打つ。
「自分の足りなさを反省するわけでもなく、他者の努力を認めることもない」
女の発する言葉には温度がない―――
単なる言いがかりのはず。なのに……
逃げられない——蛇に睨まれた蛙のように。
「違う」
即座に返した。
そのはずなのに、声はわずかに揺れていた。
「違いませんよ」
女は、あっさりと言い切る。
「努力はしていた。正しいこともしていた」
——その言葉に、ほんの一瞬だけ、思考が止まる。
なぜ。
「でも、選ばれなかった」
過去が、勝手に浮かび上がる―――
もう10年近く前、まだ新人だった頃。
誰よりも早く来て、資料を作り直した夜。
先輩に頼まれて引き受けた案件。
持てる全てを出し切って自分がまとめたはずの企画が、別の名前で通った会議。
「評価されるぐらいのことはしていたはずなんだ…」
無意識に呼吸が浅くなる。
女は表情を変えず言い放つ。いや―――もしかしたら少し笑っているのかも知れない…
「あと一歩。ほんの少しだけ、足りなかった」
――やめろ。
「その“少し”を埋めたのは、あなたじゃなかった」
――やめろ!
「そしてあなたは理解したのよ」
女の瞳が、ゆっくりと持ち上がる。
三白眼。
白が多すぎるその眼は、人のそれではない。
「ここは奪う側の世界だと。奪うつもりがないと奪われるだけだと。」
——違う。
そう言いたかった。
だが。
「……だったら、俺がやってることの何がおかしいって言うんだよ」
気づけば、声が漏れていた。
初めての“本音”だった。
「何もおかしくはないわ」
女は、淡々と答える。
「あなたのやり方は、すごく人間的だから」
肯定。
だがそれは、救いではない。
「ただし」
一拍。
「弱い」
言葉が、視線が、佐伯の眼を突き抜け脳に突き刺さる。
「奪えないから、奪うふりをしているだけ」
視界が、歪む―――
俺が情けない自分をなんとか正当化するためにやっていたこと。
他人を引き摺り下ろし、自分と同じような苦しみを味わわせる。
成功という果実を俺が得られないから…ほかの奴が奪っていくのを許したくなかった。
そんな感情をどうやってかわからないがあっさり見抜いた目の前の女は、責めるどころか肯定した。
肯定したうえで―――
馬鹿にしやがった。
中途半端だと。フリだけだと。
しかし瞬時に燃え上がった怒りは、女の視線を受けた瞬間に霧散した。
代わりに湧き上がってくる感情は――
恐怖。
「安心してください」
女はいかにも取ってつけたかのような笑みを顔に張り付け、さらに距離を詰める。
逃げ場がない。
最初からなかったかのように。
唇が、わずかに歪む。
血のように鮮やかな赤。
「均衡は取れます」
その声は、あまりにも静かで。
「あなたが落ちることで」
あぁ…終わった――
宣告ともとれる一言を残して女は踵を返し、佐伯が歩いてきた方向にゆっくりと歩いて去っていった。
どれほどの時間、その場所に立ち尽くしていたかはわからない。
我に返った佐伯がスマホに視線を落とした。
画面左上の時刻は、先ほど投稿した時間から2分後を表示していた。
ついさっきの出来事のはずなのに、細かく思い出すことが…できない。
全ての記憶が、えも言われぬ恐怖と生存本能で塗り替えられているようだ。
なぜか――呼吸が整わない。
佐伯は弱弱しい足取りで自宅へと変えるためにまた歩き出した。
スマホは開かずに。
その夜。
いくつもの情報が、あらゆるSNSを同時に駆け巡った。
意図的に改ざんされたデータ。
販売されていた顧客名簿。
不正アクセスの痕跡。
匿名アカウントで悪意を持って放たれた嘘の数々。
点だったものが、線になる。
その線の出所は―――すべて佐伯を指している。
言い訳は届かない。
事情も考慮されない。
ただ“そういう人間だった”と処理される。
それだけだった。
―――今夜は、いつにも増して部屋が静かだ。
部屋の中に、音はほとんどない。冷蔵庫の低い駆動音と、時計の秒針。
そんな室内では、自分の心音が大きく鳴っているように感じられる。
佐伯は、椅子に座ったまま動かなかった。
スマートフォンは暗い画面のまま、机の上に置かれている。
——開けない。
理由は分かっている。開けば、そこにある。
“結果”が。
「ふ……ぅ…」
喉が乾く。だが、水を飲む気にはなれない。
頭の中では、何度も同じ言葉が反芻されていた。
——奪えない者は、奪われる側に回るだけ。
「……違う」
小さく、否定する。
――だがその声は、自分の中にすら届かない。
違うはずだ。俺は、奪ってなんかいない。
ただ。少し、均衡を取っただけだ。
「……そうだ」
――言葉が、形を持ち始める。
あいつらは、持ちすぎている。成功も、評価も、運も。
だったら、少しくらい削ってもいいはずだ。
俺は、何も間違っていない。
その瞬間だった。
——“それ”が、音もなく固定された。
部屋の空気が、わずかに重くなる。
だが、佐伯は空気が変わったことには気づかない。――気づけない。
それに気づいたのは、まったく別の存在。
「……ああ」
――いつの間にか。
部屋の隅に、女が立っている。
音はなかった。気配もなかった。
ただ、そこに“いた”。
「やっと、だ」
その声は、どこか満足げで。だが、喜びとは少し違う。
しかし佐伯は、顔を上げない。
女の存在を、認識していない。
いや——認識する必要が、もうない。
「綺麗に整った」
女は、ゆっくりと歩み寄る。
「最初は、ただの違和感だったのに」
女の指先が、佐伯の肩に触れる。
拒絶は、起きない。
「ちゃんと、“正しい”形になった」
佐伯の視線は、虚ろに宙を見ている。
だがその内側では、確かなものが根を張っていた。
——俺は間違っていない。
「これなら、もう消えない」
女の唇が、わずかに歪む。
「あなたは、あなた自身で落ちていったの」
その言葉は、優しかった。あまりにも、穏やかで―――
救いのようにすら、聞こえた。
「安心して」
耳元で、囁く。
「私は、何もしていない」
——事実だった。
最初に、指を動かしたのは佐伯だ。
最初に、疑いを言葉にしたのも。
少しずつ、少しずつ。自分で選び取ってきた。
ただ――それを、手放さなかっただけだ。
女は、ゆっくりと手を離す。もう、興味はない。
視線はすでに、別の場所へ向いている。
「均衡は、取れた」
女がやや満足そうに小さく、そう呟く。
踵を返し部屋から音もなく出ていく。
女が去った後の部屋の灯りが、やけに明るくなったように感じられた。
が、佐伯は―――動かない。
もう、戻る理由がなかった。
——その夜。
再び、夜の街。
女は変わらず、光を見下ろしている。
一つ、灯りが消えたところで。
世界は何も変わらない。
細い指が、ゆっくりと髪に触れる。
その動きは、ひどく緩慢で。
絡め取るような気配を帯びている。
「奪えない者は——」
小さく、呟く。
「奪われる側に回るだけです」
視線が流れる。
次の対象を探すように。
静かに。確実に。
——捕食するために。
その5日後、都内から遠く離れた山中。
登山道から少し脇にそれた林の中で佐伯は発見された。
今まで目立つことのなかった佐伯は、やはり短い記事として消費された。




