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死に至る罪  作者: 影沼 蓮


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13/14

後始末(中編)


六月も終わりに近づいていた。


空は厚い雲に覆われている。

雨が降りそうで降らない、そんな鬱陶しい午後だった。


近藤は軽自動車を運転していた。

助手席には書類の束。後部座席には米や日用品の入った段ボール。

例のアパートの入居者へ届ける予定のものだ。


信号で停車する。

窓の外をぼんやり見た。

そして気づく。


歩道のガードレールにもたれ掛かるようにして、あの大男が立っていた。


黒いスウェット。

無精ひげ。

眠そうな目。


この前会ったあの男だった。


目が合う。

向こうはにやりと笑いながら軽く手を上げた。

近藤は舌打ちし、視線を前に移す。にわかに信号が青になった。


近藤は視線を戻さず無視して発進した。

嫌な奴に会ったと思った――が、そんなことも数秒で頭の中からは抜け落ちていた。


どうでも良いことを長く覚えていられるほど暇じゃない。


―――だが十分後。

次のアパートへ着くと、そこにも男がいる。


さらに三十分後。

病院近くの自販機の前にもいた。


夕方―――コンビニから出ると、またいる。



さすがに近藤も足を止めた。


「お前――」


熊のような大男が缶コーヒーを飲みながら振り返る。


「あー……」


「何なんだよ」


「何が?」


「しらばっくれんじゃねぇよ。ついてきてんだろ」


男はゆっくりとした欠伸をする。


「ん~――暇だからなぁ」


「暇なら仕事探せ」


「嫌だね」


即答だった。

近藤は頭痛がしてきた。


大男は楽しそうに笑う。


「――なぁ。なんでそんな働くんだ?」



またその話か。

近藤は足を止め、手に持った缶コーヒーを開けた。


「仕事だからだ」


ぐびっとコーヒーを飲み下した近藤は、吐き捨てるように言う。


「――は?それだけ?」


「食うためだ」


「他は?」


「ん……組のためでもあるな」


あまりにも現実的だった。

男は不思議そうに首を傾げる。


「お前には夢とか理想とかはねぇの?」


「ねぇよ」


近藤の即答。男は僅かに苦笑する。


「人生の目標とか」


「知らん」


「幸せになりたいとか」


近藤は鼻で笑った。


「お前、中学生みたいなこと聞くんだな」


男は黙る。

近藤は続ける。


「仕事がある」

「金が入る」

「飯が食える」

「―――それで十分だろ」


それだけ言うと近藤は足早に歩き出した。

背中を丸めた熊のような大男はその背中を見送る。


―――不思議だった。


高瀬は違った。

三宅も違った。


二人とも理想があった。

正義があった。

期待があった。

だから―――壊れた。


だが近藤にはそれがない。

まるで機械みたいだった。


なのに…人間だ。

ベルフェゴールは初めて興味を持った。


こいつは何で動いているのか。

それを知りたくなった。





その夜、近藤は事務所にいた。

古びた雑居ビルの三階。

机の上には帳簿。

家賃管理表。

携帯電話。

灰皿からは煙草の煙が漂っている。


誰もいない。

静かな時間だった。


熊はいつのまにか勝手にソファを占領していた。


近藤は追い出さない。

面倒だからだ。


「――――なぁ」


男はソファにふんぞり返り、天井を見ながら言う。


「お前――昔からそんな感じだったのか」


近藤は書類から目を離さない。


「何がだ」


「働き虫」


男の言葉に近藤は少し考えた。


そして煙草を咥え、火をつける。

紫煙が揺れる。


「――――違うな」


珍しく即答ではなかった。

男はソファに座り直し、興味深そうに少し目を開く。


「へぇ!」


「昔はもっと必死だった」


その声は少しだけ低かった。

近藤の視線は机ではなく、どこか遠くを見ていた。



父親は消えた―――小学校三年の時だった。

ある日突然いなくなった。借金だけ残して。

ただそれだけだった。その後音沙汰もない。


そのころから母親は酒を飲むようになった。

昼間から飲む。夜も飲む。朝も飲む。


働かない。

怒鳴る。

泣く。

物を投げる。

また飲む。


中学に入った頃には、近藤が働いていた。


新聞配達。

荷運び。

建築現場の手伝い。


年齢をごまかしてできることは何でもやった。

働かないと飯がなかった。

働かないと電気が止まった。

働かないと終わった。


―――それだけだった。


「だからよ」


近藤は煙を吐く。


「止まるって発想がねぇんだ」


男は黙って聞いている。


「止まったら終わりだったからな」


「――今でも?」


「ああ」


近藤は間髪入れずに答えた。

迷いなく。


「今でもだ」


ベルフェゴールは理解した。

ようやく。


近藤は勤勉なんじゃない。

真面目でもない。

責任感の塊でもない。


怖いのだ。


貧乏が。

空腹が。

無力が。


だから動いている。

動き続けている。

止まらない。

止まれない。


いや――――止まることを恐れている。


ベルフェゴールは初めて納得した。


なるほど。

こいつは希望で歩いているんじゃない。

恐怖で走っている。


だから強い。

そして厄介なのだ。






夜は更けていた。

時計は一時を回っている。


事務所には近藤だけ。

書類はまだ終わらない。

明日の家賃回収。

入居者対応。

病院送迎。

役所との調整。


やることはいくらでもある。


近藤は煙草を吸う。

男はまだ向かいのソファにおり、怠惰を全身で表現するように寝転がっていた。


しばらく沈黙―――

やがてベルフェゴールが口を開く。


「なぁ」


「何だ」


「もう十分だろ」


近藤は書類をめくる。


「何が」


「十分頑張ったじゃねぇか」


近藤は何も言わない。男は優しい口調で続ける。


「誰も感謝しねぇぞ」


「知ってる」


「三宅も死んだ」


「そうだな」


「佐々木もいつか死ぬ」


「だろうな」


「組だってお前の代わりくらいいる」


近藤は初めて相槌を打たず――黙る。

ベルフェゴールは静かに笑った。


「休めよ」


初めてだった。


高瀬の時よりも。

三宅の時よりも。

ずっと真面目な声だった。


悪意もない。

嘲笑もない。


本心からの提案だった。


休め。


それはベルフェゴールの慈悲だった。


近藤は煙草を灰皿に押し付けた。

そして―――


「――そうだな」


吸い込んだ煙草の煙をゆっくり――大きく吐きながら出た言葉に、ベルフェゴールが少し驚く。


初めてだった。

反論されなかった。


「だろ?」


「おう」


「じゃあ―――休めよ」


近藤は椅子からゆっくり立ち上がる。

上着を手に取り、腕にかける。

机の横に無造作に置いていた鞄を持つ。


ベルフェゴールは笑みを抑えきれない。

――――ようやくか。


そう思った。

が。


近藤は事務所の電気を消しながら言った。


「明日――家賃回収あるしな」


沈黙の中、ベルフェゴールは瞬きをした。


近藤は続ける。


「今日は帰って寝る」

「明日も働く」

「それだけだ」


ベルフェゴールは言葉を失った。開いた口がふさがらないとはこういう時のための言葉か。


理屈は通っている。


休む。

寝る。ちゃんと休息は取る。

でも止まらない。


明日になればまた動く。

当たり前みたいに。

呼吸するみたいに。



近藤は事務所を出ていった。

階段をゆっくりと下りる足音が遠ざかる。


ベルフェゴールだけが残された。

ソファに身体を沈め、しばらく天井を見つめる。


そして珍しく困った顔をした。


「……何なんだ、あいつ」


初めてだった。

怠惰の悪魔が――人間の理解に失敗したのは。




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