後始末(中編)
六月も終わりに近づいていた。
空は厚い雲に覆われている。
雨が降りそうで降らない、そんな鬱陶しい午後だった。
近藤は軽自動車を運転していた。
助手席には書類の束。後部座席には米や日用品の入った段ボール。
例のアパートの入居者へ届ける予定のものだ。
信号で停車する。
窓の外をぼんやり見た。
そして気づく。
歩道のガードレールにもたれ掛かるようにして、あの大男が立っていた。
黒いスウェット。
無精ひげ。
眠そうな目。
この前会ったあの男だった。
目が合う。
向こうはにやりと笑いながら軽く手を上げた。
近藤は舌打ちし、視線を前に移す。にわかに信号が青になった。
近藤は視線を戻さず無視して発進した。
嫌な奴に会ったと思った――が、そんなことも数秒で頭の中からは抜け落ちていた。
どうでも良いことを長く覚えていられるほど暇じゃない。
―――だが十分後。
次のアパートへ着くと、そこにも男がいる。
さらに三十分後。
病院近くの自販機の前にもいた。
夕方―――コンビニから出ると、またいる。
さすがに近藤も足を止めた。
「お前――」
熊のような大男が缶コーヒーを飲みながら振り返る。
「あー……」
「何なんだよ」
「何が?」
「しらばっくれんじゃねぇよ。ついてきてんだろ」
男はゆっくりとした欠伸をする。
「ん~――暇だからなぁ」
「暇なら仕事探せ」
「嫌だね」
即答だった。
近藤は頭痛がしてきた。
大男は楽しそうに笑う。
「――なぁ。なんでそんな働くんだ?」
またその話か。
近藤は足を止め、手に持った缶コーヒーを開けた。
「仕事だからだ」
ぐびっとコーヒーを飲み下した近藤は、吐き捨てるように言う。
「――は?それだけ?」
「食うためだ」
「他は?」
「ん……組のためでもあるな」
あまりにも現実的だった。
男は不思議そうに首を傾げる。
「お前には夢とか理想とかはねぇの?」
「ねぇよ」
近藤の即答。男は僅かに苦笑する。
「人生の目標とか」
「知らん」
「幸せになりたいとか」
近藤は鼻で笑った。
「お前、中学生みたいなこと聞くんだな」
男は黙る。
近藤は続ける。
「仕事がある」
「金が入る」
「飯が食える」
「―――それで十分だろ」
それだけ言うと近藤は足早に歩き出した。
背中を丸めた熊のような大男はその背中を見送る。
―――不思議だった。
高瀬は違った。
三宅も違った。
二人とも理想があった。
正義があった。
期待があった。
だから―――壊れた。
だが近藤にはそれがない。
まるで機械みたいだった。
なのに…人間だ。
ベルフェゴールは初めて興味を持った。
こいつは何で動いているのか。
それを知りたくなった。
◇
その夜、近藤は事務所にいた。
古びた雑居ビルの三階。
机の上には帳簿。
家賃管理表。
携帯電話。
灰皿からは煙草の煙が漂っている。
誰もいない。
静かな時間だった。
熊はいつのまにか勝手にソファを占領していた。
近藤は追い出さない。
面倒だからだ。
「――――なぁ」
男はソファにふんぞり返り、天井を見ながら言う。
「お前――昔からそんな感じだったのか」
近藤は書類から目を離さない。
「何がだ」
「働き虫」
男の言葉に近藤は少し考えた。
そして煙草を咥え、火をつける。
紫煙が揺れる。
「――――違うな」
珍しく即答ではなかった。
男はソファに座り直し、興味深そうに少し目を開く。
「へぇ!」
「昔はもっと必死だった」
その声は少しだけ低かった。
近藤の視線は机ではなく、どこか遠くを見ていた。
父親は消えた―――小学校三年の時だった。
ある日突然いなくなった。借金だけ残して。
ただそれだけだった。その後音沙汰もない。
そのころから母親は酒を飲むようになった。
昼間から飲む。夜も飲む。朝も飲む。
働かない。
怒鳴る。
泣く。
物を投げる。
また飲む。
中学に入った頃には、近藤が働いていた。
新聞配達。
荷運び。
建築現場の手伝い。
年齢をごまかしてできることは何でもやった。
働かないと飯がなかった。
働かないと電気が止まった。
働かないと終わった。
―――それだけだった。
「だからよ」
近藤は煙を吐く。
「止まるって発想がねぇんだ」
男は黙って聞いている。
「止まったら終わりだったからな」
「――今でも?」
「ああ」
近藤は間髪入れずに答えた。
迷いなく。
「今でもだ」
ベルフェゴールは理解した。
ようやく。
近藤は勤勉なんじゃない。
真面目でもない。
責任感の塊でもない。
怖いのだ。
貧乏が。
空腹が。
無力が。
だから動いている。
動き続けている。
止まらない。
止まれない。
いや――――止まることを恐れている。
ベルフェゴールは初めて納得した。
なるほど。
こいつは希望で歩いているんじゃない。
恐怖で走っている。
だから強い。
そして厄介なのだ。
◇
夜は更けていた。
時計は一時を回っている。
事務所には近藤だけ。
書類はまだ終わらない。
明日の家賃回収。
入居者対応。
病院送迎。
役所との調整。
やることはいくらでもある。
近藤は煙草を吸う。
男はまだ向かいのソファにおり、怠惰を全身で表現するように寝転がっていた。
しばらく沈黙―――
やがてベルフェゴールが口を開く。
「なぁ」
「何だ」
「もう十分だろ」
近藤は書類をめくる。
「何が」
「十分頑張ったじゃねぇか」
近藤は何も言わない。男は優しい口調で続ける。
「誰も感謝しねぇぞ」
「知ってる」
「三宅も死んだ」
「そうだな」
「佐々木もいつか死ぬ」
「だろうな」
「組だってお前の代わりくらいいる」
近藤は初めて相槌を打たず――黙る。
ベルフェゴールは静かに笑った。
「休めよ」
初めてだった。
高瀬の時よりも。
三宅の時よりも。
ずっと真面目な声だった。
悪意もない。
嘲笑もない。
本心からの提案だった。
休め。
それはベルフェゴールの慈悲だった。
近藤は煙草を灰皿に押し付けた。
そして―――
「――そうだな」
吸い込んだ煙草の煙をゆっくり――大きく吐きながら出た言葉に、ベルフェゴールが少し驚く。
初めてだった。
反論されなかった。
「だろ?」
「おう」
「じゃあ―――休めよ」
近藤は椅子からゆっくり立ち上がる。
上着を手に取り、腕にかける。
机の横に無造作に置いていた鞄を持つ。
ベルフェゴールは笑みを抑えきれない。
――――ようやくか。
そう思った。
が。
近藤は事務所の電気を消しながら言った。
「明日――家賃回収あるしな」
沈黙の中、ベルフェゴールは瞬きをした。
近藤は続ける。
「今日は帰って寝る」
「明日も働く」
「それだけだ」
ベルフェゴールは言葉を失った。開いた口がふさがらないとはこういう時のための言葉か。
理屈は通っている。
休む。
寝る。ちゃんと休息は取る。
でも止まらない。
明日になればまた動く。
当たり前みたいに。
呼吸するみたいに。
近藤は事務所を出ていった。
階段をゆっくりと下りる足音が遠ざかる。
ベルフェゴールだけが残された。
ソファに身体を沈め、しばらく天井を見つめる。
そして珍しく困った顔をした。
「……何なんだ、あいつ」
初めてだった。
怠惰の悪魔が――人間の理解に失敗したのは。




