後始末(前編)
三宅が死んでから、一週間。
梅雨入り前だというのに蒸し暑い日だった。
古い木造アパートの二階。
かつて三宅光男が住んでいた部屋では、遺品整理業者が黙々と作業を続けている。
畳は日に焼けて変色し、壁紙は黄ばんでいた。
窓は開け放たれているが、長年染みついた煙草の臭いまでは追い出せていない。
業者が古びた布団を抱えて部屋から出てくる。
その後に続くように、段ボール箱や雑誌の束が運び出された。
部屋の入口に立つ近藤は、手元に持った書類に目を通しながらその様子を見ている。
感傷はない。だからといって無関心でもない。
残念だとは思うものの、それ以上にやるべき仕事が山積みなだけだ。
「近藤さん」
業者の一人が声を掛けた。
「これ―――どうします?」
差し出されたのは古びたファイルだった。
何度も読み返されたらしく端が擦り切れている。
近藤は一瞥し、軽くパラパラとめくってみる。
三宅が家族とともに笑顔で立っている、昔の写真。
子供からもらった手紙。誕生日おめでとうの文字。
職場からもらった部長賞の賞状。
どうやら、三宅の思い出の品のようだ。
「――捨てていい」
業者は頷き、ゴミ袋へ無造作に放り込む。そしてすぐに部屋に戻っていった。
三宅が生きていた証拠の一つ一つが、音もなく消えていく。
しばらくして別の業者が話しかけてきた。
「こういう仕事してると気が滅入りますね」
汗を拭いながら苦笑する。
「孤独死ってやつですよね……嫌になりますねぇ」
近藤は目も合わせず、ポケットから煙草を取り出した。
火をつける。紫煙がゆっくりと昇る。
「私はこういう現場初めてなもんで……こういうのって――慣れるもんですかね」
業者が尋ねた。
近藤は少し考えて、そして短く答える。
「――慣れねぇよ。誰だって嫌な気分になる」
意外そうな顔をされる。
近藤は煙を吐いた。
「慣れなくても、嫌でも――終わらせる。仕事だからな」
それ以上は何も言わなかった。
業者もそれ以上の答えは返ってこないと思ったのか、作業へ戻っていく。
僅かな時間のうちに部屋はどんどん空になっていく。
布団が消えた。
衣類が消えた。
テーブルが消えた。
生活の痕跡が少しずつ削られていく。
気付けば部屋の中央には何も残っていなかった。
近藤は畳の上に目を向ける。
そこは三宅がよく座っていた場所だった。
自然と記憶が蘇る。
「今月も厳しいですかねぇ」
三宅は情けなく笑っていた。
缶ビール片手に。
「毎月言ってんな」
近藤は呆れたように返した。
「はは……」
三宅は笑う。
その笑い方が妙に弱々しかったことを思い出す。
あの頃から、もう限界だったのかもしれない。
だが今さら考えたところで意味はない。
近藤は煙草を灰皿へ押し付けた。
「――馬鹿が」
小さく呟く。
怒っているのか。
呆れているのか。
自分でも――よく分からなかった。
その時、古臭い黒電話のベルが鳴った。
近藤は即座にポケットからスマホを取り出し、出る。
「俺だ」
『近藤さん、次の入居候補者を一人見つけました』
「審査は?」
『問題ないです。身寄りなしでいなくなっても困らない人間です』
「そうか――じゃあ進めろ」
『了解です』
電話を切る。
そして何事もなかったように階段を下りた。
三宅の部屋は空になった。
だがアパートは残る。
空部屋にしていてもシノギにならない。
入居する奴も見つけてこられた。
止まっている暇はなかった。
◇
市民病院の待合室は混雑していた。
受付番号を呼ぶ電子音が定期的に響く。
近藤は長椅子に座り、缶コーヒーを飲んでいた。
隣には痩せた老人がいる。
アパート入居者の佐々木だった。
七十六歳。生活保護受給者。
中程度の糖尿病で一人暮らししている。
そして妙に頑固。
「近藤さん」
「ん?」
「本当に来てくれたんだねぇ」
「約束したからな」
老人は嬉しそうに笑う。
「息子より頼りになるよ」
近藤は露骨に顔をしかめた。
「気持ち悪いこと言うな」
「ははは」
老人は楽しそうだった。
診察室から呼ばれる。
佐々木は立ち上がった拍子にふらつく。
近藤が咄嗟に腕を掴む。
「っ!――危ねぇな」
「歳だからねぇ」
「笑い事じゃねぇだろ」
老人は肩をすくめた。
診察が終わるまで三十分。薬局でさらに二十分。
会計と次回予約。気づけば昼を回っていた。
病院を出る。
佐々木が近藤に対して深々と頭を下げた。
「ありがとう」
近藤は背を向けたまま歩き出す。
「今度は薬ちゃんと飲めよ」
佐々木は苦笑する。
「面倒なんだよねぇ」
近藤が振り返った。
「死ぬぞ」
「別にいいさ」
その言葉に近藤の眉間へ皺が寄る。
「――よくねぇよ」
佐々木が目を丸くする。
「――なんでそんな必死なんだい」
近藤は答えない。
答えられない。
別に助けたいわけじゃない。
善人でもない。
だが放っておく気にもなれない。
結局。
「次サボったら病院まで引きずってくぞ」
そう言い残して歩き出した。
後ろから老人の笑い声が聞こえた。
◇
昼過ぎ。
近藤はコンビニで弁当を買った。
焼き魚弁当と缶コーヒー。
それだけ。
近くの公園へ入り、ベンチへ腰掛ける。
ようやく昼食だった。
時計を見る。休めるのは十分――長くても十五分。
午後の予定が詰まっている。
弁当を食べ始めた時―――隣のベンチが軋んだ。
誰かいる。
視線を向ける。
大男だった。
黒いスウェット。
ぼさぼさの髪。
無精ひげ。
手足を投げ出し、堂々と寝転がっていた。
平日の真昼間だ。
五分経っても、十分経っても起きない。
近藤は弁当を食べ終えた。
立ち上がった、その瞬間。
男が片目を開けた。
「おー」
眠そうな声。近藤は振り返り男の方に顔だけ向けた。
「仕事か?」
近藤は眉をひそめる。
「見りゃ分かるだろ」
男は欠伸をした。
「偉いなぁ」
近藤は舌打ちする。
「お前みたいなのが一番嫌いだ」
男は笑う。
心底楽しそうに。
「そうかぁ――」
近藤は背を向けた。関わる気はない。
だが後ろから声が飛ぶ。
「――なぁ」
「何だ」
振り返らない。
「そんなに頑張ってどうすんだ?」
近藤は鼻で笑った。
「生きるためだ」
即答だった。
男は少しだけ目を細める。
「――へぇ」
その声には興味が混じっていた。
近藤は気にせず歩き出す。
午後のシノギが待っている。
男は去っていく背中を眺めていた。
そして誰にも聞こえない声で呟く。
「――面白ぇな。」
巨大な男――ベルフェゴールは、初めて近藤という人間に興味を持った。




