後始末(後編)
六月もそろそろ終わるころ――朝から近藤の機嫌は最悪だった。
事務所の机に肘をつきながら、目の前の若い衆を睨みつける。
若い衆は顔面蒼白で下を向いていることしかできない。
「―――もう一回言え」
低い声。
若い衆の肩が跳ねる。
「……昨日の回収先なんですが」
「おう」
「―――――飛びました」
近藤の眉がぴくりと動く。無言のまま続きを待つ。
「家賃三か月分、未回収です」
しばらくの沈黙。
事務所の空気が張り詰めた。
若い衆の声は上ずる。
「す、すみません」
「すみませんじゃねぇだろ」
即答する近藤の声は低かった。
「何で飛ばした?」
「まだ大丈夫だと思って――」
「思っただぁ!?」
近藤は勢いよく立ち上がった。
若い衆は棒立ちのまま、僅かだが確かに飛び上がった。
だが殴らない。
机も蹴らない。
ただ近藤は頭を掻いた。
「――住所は?」
「実家は分かってます!」
「保証人は?」
「叔父です!」
「電話したか?」
「……まだです」
近藤は深いため息を吐いた。
語気は落ち着いているものの、それがまた若い衆に圧をかける。
「――馬鹿かお前」
若い衆が縮こまる。
「今から電話しろ」
「はい!」
「住民票追え」
「はい!」
「保証人押さえろ」
「はい!」
「飛んだなら飛んだで回収方法考えろ」
「はい!兄貴すみませんでした!!」
若い衆ははじかれたように部屋を飛び出し、すぐさま行動に移っていった。
近藤は椅子へ腰を下ろした。
――怒っている。
確かに怒っている。
だが怒っても金は戻らない。
怒鳴っても問題は解決しない。
――なんなら怒鳴って若い衆が委縮して動かなくなる可能性だってある。
だったら動くしかない。動かすしかない。
―――それだけだった。
事務所の隅。
ソファで寝転がっていた大男が欠伸をする。
「――疲れねぇのか?」
近藤は帳簿を開く。
「疲れる。当たり前だ」
「じゃあ――休めばいいじゃねぇか」
近藤は鼻で笑った。
「疲れるから何だ」
その一言で話は終わった。
ベルフェゴールは珍しく黙った。
◇
その日の夜。
近藤は軽自動車を運転していた。
飛んだ入居者の保証人宅へ向かう途中だった。
赤信号で停まる。
窓の外にはスーパー帰りの主婦。
塾帰りの学生。
犬の散歩をする老人。
それぞれの生活。
それぞれの人生。
ベルフェゴールは助手席に座っていた。
勝手に。いつの間にか。
「――なぁ」
「何だ」
「お前さ」
ベルフェゴールは窓の外を見る。
「諦めたこと――ねぇの?」
近藤は少し考えた。
そして答える。
「ある」
ベルフェゴールが目を細める。
「いっぱいある」
近藤はハンドルを握ったまま続けた。
「高校も諦めた」
「普通の仕事も諦めた」
「まともな人生も諦めた」
淡々としている。
感情はない。
「じゃあ何で――」
ベルフェゴールは途中で言葉を止めた。
自分で気づいたからだ。
近藤は諦めない人間じゃない。
むしろ諦めてばかりだ。
だが。
立ち止まらない。
考える暇がない。
次の問題。
次の仕事。
次の支払い。
次の飯。
次の家賃。
次の生存。
人生が常に目の前へ課題を投げ続ける。
だから諦める暇がない。
ベルフェゴールはゆっくり笑った。
「なぁるほどなぁ――」
近藤は意味が分からなかった。
「何がだ?」
「いやぁ?――別に」
ベルフェゴールは空を見上げる。
ようやく理解した。
三宅は未来を諦めた。
高瀬は自分を諦めた。
だが近藤は違う。
諦める前に次の現実が来る。
だから止まれない。
だから落ちない。
ベルフェゴールは近藤を堕とすことを諦め始めた。
◇
深夜。アパートの屋上。
梅雨前の湿った風が吹いていた。
近藤はフェンスにもたれながら煙草を吸う。
今日最後の一本だった。
街の明かりが遠くに見える。
ベルフェゴールは隣に座っていた。
珍しく黙っている。
しばらく風の音だけが流れた。
やがてベルフェゴールが口を開く。
「―――なぁ」
「ん?」
「お前―――――幸せか?」
近藤は煙を吐いた。
答えない。
長い沈黙。
煙草が半分ほど燃えた頃。
ようやく口を開く。
「――知らねぇ」
ベルフェゴールは笑う。
近藤は続ける。
「考えたこともねぇな」
本当にそうだった。
幸せかどうか。そんなことを考える余裕がなかった。
明日の予定。
来月の家賃。
入居者の病院。
役所との話。
組の仕事。
考えることは山ほどある。
幸せかどうかを考える暇はない。
ベルフェゴールは静かに立ち上がった。
「そっか―――」
近藤は煙草を咥えたまま首を傾げる。
「何だよ」
ベルフェゴールは笑った。
初めて見るような穏やかな笑みだった。
「よし――じゃあ俺は諦めるとするわ――――お前みたいなのは初めてだ」
「は?なんのことだ」
意味が分からない。
近藤が聞き返した時には、もう大男は歩き出していた。
「おい」
呼んでも振り返らない。
そのまま夜の闇へ消えていく。
近藤はその背中を見送るしかなかった。
「―――変な奴だな」
結局それしか感想は出なかった。
煙草を吸い終える。
火を揉み消す。
そして階段へ向かった。
◇
翌朝。
目覚ましが鳴る。
近藤は目を開く。
目覚ましを止め、起き上がる。
顔を洗う。
煙草を一本吸う。
スーツを着る。
スマホを見て今日の予定を確認する。
家賃回収三件。
病院送迎一件。
新規入居対応一件。
役所との調整。
いつも通りだった。
近藤は玄関の扉を開ける。
梅雨特有の湿った空気が流れ込んできた。
そして何事もなかったように仕事へ向かった。
今日もやることは山ほどある。
近藤は歩き出した。




