第六十七話 ここにいるのは、わたし
重い石扉が、地の底から響くような音を立てて開いた。
冷たい空気が流れ込み、広間の青白い光がわずかに揺らぐ。
オルクスは、囚われた三人の前で静かに立っていた。
その視線はただ一点――アレスが現れるはずの入口を見据えている。
だが……扉の向こうから姿を現したのは、彼が知るアレスではなかった。
最初に目に飛び込んできたのは、闇の中で淡く揺れる、ひと筋の光だった。
少女の髪は、まるで世界の理を無視したような色をしていた。
根元には、アレスの持つ柔らかな金色が息づいている。
それは朝の光が地平線をそっと撫でる瞬間のように、温かく、優しく、柔らかい。
だが毛先へ向かうほど、その金色は静かに夜へと沈み込むように変化していく。
深い黒紫――エリスの魔力が宿す、星明かりを吸い込んだような色。
ただ暗いのではなく、月影のような艶と、夜の底のような深さを併せ持つ。
金と紫は境界を持たず、互いを侵し合うこともなく、ただ静かに寄り添い、混ざり合い、夜明け前の空がゆっくりと色を変える瞬間を永遠に閉じ込めたようだった。
その髪はまるで生きた風景のように表情を変える。
そして、彼女の瞳。
右目はアレスの淡い青。
澄んだ空のように透明で、優しさを宿した色。
左目はエリスの妖しい紫。
深淵のように静かで、魔性を秘めた光。
二つの色は決して混ざらず、しかし不思議な調和を保って少女の顔に宿っていた。
その瞳は、人間の少女でありながら、人間ではない何かを感じさせた。
ネプトが最初に声を漏らした。
「……は……? 誰だ……君は……? こんなとこ、来ちゃだめだ!!」
ディアナは結界の中で息を呑み、少女の魔力を感じ取ろうとするが――
「アレス……じゃない……でも……魔力の質が……似てる……どういう……こと……?」
ヴェスタは震える声で呟いた。
「女の子……? ……な……なんでこんな場所に……?」
三人の混乱は当然だった。
彼らが知るアレスとは、まるで違う姿。
オルクスの瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。
それは驚きでも恐れでもない。
ただ、計算が狂ったことへの微細な反応。
だがその揺らぎは一瞬で消え、次の瞬間には冷たい殺意へと切り替わっていた。
「……なるほど。アレス・オリンではないが……『同質の魔力』を持つ存在か」
少女は静かに答えた。
「――わたし、アリス。ここにいるのは、わたし」
その声は、アレスの柔らかさとエリスの艶やかさが重なり、どこか人間離れした響きを持っていた。
オルクスは刃を構え、迷いなく踏み込む。
「ならば――消すだけだ」
ネプトが叫ぶ。
「やめろ!! そいつは無関係な――!」
ディアナも声を張り上げる。
「逃げて!! あなたじゃ――!」
ヴェスタは涙を流しながら叫んだ。
「だめ……! 死んじゃう……!」
だが――
アリスは微動だにしなかった。
オルクスの刃が振り下ろされる寸前、少女の瞳が静かに光る。
「――遅い」
黒紫と金の光が弾け、遺跡の空気が震えた。
オルクスがアリスへ向けて踏み込んだ瞬間、広間の空気がわずかに揺れた。
死神がネプトたち三人から距離を取った――
それは、ほんの数秒の移動にすぎない。
だがアリスにとっては、三人を巻き込まずに空間魔法を使える唯一の「間」だった。
アリスの瞳が光を帯びる。
「……今」
囁きは風のように静かだったが、その瞬間、空間そのものが震えた。
アリスが指先を軽く払うと、
彼女の周囲の空気が黒紫と金の光を帯びて歪み始めた。
「空間転移」
アリスの詠唱とともに、広間の床に、円形の魔法陣が静かに浮かび上がる。
空間が裂け、深い闇のような亜空間が口を開けた。
オルクスの足元が沈む。
「……ほう。空間魔法か」
死神は驚きも焦りも見せない。
ただ淡々と状況を観察している。
アリスは一歩踏み込み、その手をオルクスへ向けて伸ばした。
「あなたを――あちらへ連れていく」
魔法陣が輝き、オルクスの身体が亜空間へと引きずられていく。
だが、オルクスは一筋縄でいく存在ではなかった。
亜空間に沈みかけたその瞬間、死神の腕が蛇のように伸び、拘束された三人の方へ向かう。
アリスが叫ぶ。
「やめ――!」
だが遅かった。
オルクスの指先が、震えていた少女――ヴェスタの腕を掴んだ。
「ひっ……!」
ヴェスタの小さな悲鳴が広間に響く。
ネプトが絶叫した。
「ヴェスタ!!」
ディアナが結界の中で身を乗り出す。
「ヴェスタに触らないでっ!!」
オルクスは淡々と告げた。
「この私が、そうやすやすと倒されると思ったか……?」
アリスの顔が蒼白になる。
「やめて……! ヴェスタは関係ない!!」
死神は冷たく笑った。
「関係があるかどうかは、お前がどう動くか、で決まる」
そして――
アリス、オルクスとヴェスタの身体が、亜空間の闇へと沈んでいく。
ヴェスタは涙を浮かべながら、必死に手を伸ばした。
「アレスさん……! アレスさん……助けて……!」
その声が闇に飲まれ、三人の姿は完全に消えた。




