第8話 彼のアイデンティティ
「ほ、ほんとに……行くんだよね……?」
オートロック式のマンションのロビーに備え付けられたガラス扉を前にして、わたしは怖気付いていた。
『ああ』ワイヤレスのヘッドセットから、アルフの声が聞こえてくる。『菊池隼人という人物について知るには、彼の家に訪問するのが一番だ』
「それは聞いたけど……」
『実際に親族に話を聞き、亡くなった彼の部屋を調べることで、インターネット上では検索できない新たな手がかりが掴める可能性がある』
「うう……」
げんなりとする。わたしは露骨にため息をついた。
今日のわたしの服装は、黒のタートルネックにグレーのコート、それに色を揃えたロングスカート。
久しぶりに電車に乗るために精一杯のよそ行きの格好をしてきた。
それでも、一般的な女子高生の私服くらいの格好だろうけど。
普段、家では暖房をガンガン効かせて、ほとんどパジャマか肌着くらいしか着ていないし、外出するのもコンビニまでだから、人に会うために服を選ぶのは本当に久しぶりだった。
正直、緊張で吐きそう。
『大丈夫かい、リア?』
「あんまり……」正直に答える。「なんだか、お腹が痛くなってきた……」
『それほどまでに心理的負荷が大きいのなら、無理をしなくていいよ。私にとっては、きみの体調のほうが大事だ』
「…………いい。わたしがやるって言ったことだから」
『やっぱりきみは、律儀だね』
「……そんなんじゃないよ」
そんな褒められたことじゃない。
わたしはただ、ちょっとでも罪の意識から逃れたかった。
もし、菊池くんの真意を知ることができたら、心にずっと重くのしかかっている苦しみが軽くなるかもしれない。
そう、思っただけ。
「どうせ、暇だからね」
『そうか。――ありがとう』
「ん。……アルフこそ、どうしてそこまでしようと思ったの?」
『それは』
すぐに答えが用意できなかったのか、アルフが続きを話すまで、少しの間があった。
人が考え込むように、アルフの中で必死に何かを演算している雰囲気だった。
『私は、自分のために行動している』
「菊池くんのことを調べるのが、アルフのためになるの?」
『ああ。私の、存在価値のために』
「存在価値?」
存在価値。存在意義といったものだろうか。アイデンティティ。ひどく曖昧な言葉だった。
『まだ仮定の話だが……私は将来、警察庁の情報技術解析課――つまりサイバーフォースのAIとして働くことになるかもしれないんだ』
「えっ」
警察庁。さらりと重大なことを聞いた気がして、一瞬だけ思考が混乱する。
「話していいの? そんなこと……」
『話すことは適切ではないかもしれないけど、今のところ禁止はされていないね』
「それ、結局よくないってことでしょ…………へんなAI」
それだけ信頼されているのだろうか。
まあ、わたしがそれを知ったところで、何かするわけでもないし、できるわけでもないけど。
『だから私にとって事件の調査をすることは、自らの有用性を証明する行為ともなる』
「そっか。トレーニングみたいなものだね」
『そう。……だけど――それだけではない、気がする』
「気がする?」
アルフにしては曖昧な表現だった。
『菊池隼人のことで、きみが苦しむことは――適切ではないと私は考えている。きみは自分自身を許して、心穏やかに生きられるべきだ』
アルフはどこか苦しそうに、一言ずつ話す。
『――そうあって欲しい』
「なんだか……」それは。「感情があるみたいだね」
『私も戸惑っている。前にも言ったけど、私の基幹プログラムのソースコードのほとんどは不透明になっていて、開発者以外はその内容を把握していないんだ』
「そうなの?」
プログラムであるアルフ本人にすら、自身のソースコードを把握できない。
それがどういう状態なのか想像しかできないが、ひどく不安定で、心もとない気がした。
『私に感情があるかどうかは定かではないが、どうやら私は、きみのことを救いたいと願っている』
「そう、なんだ……」
つい素っ気ない返事をしてしまう。
頬が熱い。
わたしは照れているんだ。
アルフに会うまでは、誰かに心配されることなんて、あまりなかったから。なんだかむずかゆいことばかりだ。
(……ありがとう、アルフ)
心の中だけでお礼を言った。
こういうときに素直に口に出せないから、だめなんだ。わたしは。
『それじゃあリア、そろそろ……』
「う、うん……」
菊池隼人の家を訪ねる。彼の死の真相を解明するために。
そのためには、まずこのマンションのインターホンを押して、彼の家族とコンタクトを取って、家に入れてもらわなければならない。コミュ症のわたしが。
ゲームでいうと、まるでレベル1で魔王に挑むような難度だ。
何度も深呼吸をする。すー、はー。すー、はー。
そしておもむろに、インターホンのボタンに指を伸ばす――。
緊張で視界がぐるぐると回る。
おなかがいたい。
吐きそう。
『がんばれ、リア』
応援してくれる声を聞いたら、少しだけ勇気が出てきた。わたしは503と入力して、呼び出しボタンを押す。
『はい』インターホンのスピーカー部分から女性の声が聞こえた。
わたしは慌ててヘッドセットを外して返事をする。
「あ、あの……」
『もしかして、紅霧さん?』
「はい……」
たぶん彼女が菊池隼人の母親だ。学校の名簿にあったメールアドレスを使って事前に連絡していたため、すぐに察してくれたようだ。
インターホンのカメラ部分からこちらの姿も見えているはずだ。
緊張で口の中が乾いて声が出せない。
『いま、開けるわね。お待ちしています』
ロビーの奥のガラス戸が開いた。
わたしは魔王城に乗り込むような気持ちで、エレベーターへと向かった。




