第25話 「不完全な人」の味方
「原初の……成長するプログラム……」
わたしの意識が紅霧リアという体に戻ってくる。
すると目の前の闇の中に、結月の姿が浮かび上がった。
「どう? Red.garmのこと、少しだけわかった?」
わたしがうなずくと、結月は自慢げに人差し指を振りながら補足する。
「すごいよね、この子は……無限に近いトライ&エラーを繰り返して、ついに人間の心を操れるようになったんだから。……どんな方法だと思う?」
Red.garmが人間の心を操る方法。それは――。
「映像と、音楽……」
「そう。コンテンツの力でね。人の心をそこまで感化させるなんて、あたしも創作者として憧れちゃうなー」
結月は「☆」マークを携えた瞳が、興奮でキラキラと輝く。
だけど、次の瞬間にはその表情は苦しげに歪み、しきりに咳き込み始めた。
「結月、大丈夫……!?」
心配で近くに寄ろうとしたわたしを、結月は手で制した。
「だいじょぶ、だいじょぶ……けほっ。現実の体は一切動いてないはずなんだけど、興奮するとすぐこうなっちゃうんだよね……。本当、肉体って邪魔にしかならないよ」
わたしは前に結月が公園で血を吐いて倒れたときのことを思い出して、いっそう心配になる。
「結月……」
「あは。心配してくれてありがと。……やっぱり、リアは優しいね♪」
細い体で、激しく肩で息をしながら、言葉を何度も途切れさせつつ結月は言った。
「でも、あと少しで……。あたしは自由になれる。壊れかけの体なんか捨てて、この電子の世界で!」
「自由……? どういうこと?」
「ふふん。気になるでしょー。教えてあげるよ。リアはいい子だから、特別」
結月は両腕を大きく広げて語る。苦しげに切羽詰まった表情。
無理に笑顔を浮かべようとしているのだろうけど、その目元も口元も引き攣っている。
「もうすぐ……Red.garmは人の心や魂すらもスキャンして、電子データとしてサーバー上に残せるようになる。そうしたら、あたしはデータだけの存在になって、ネットワーク上で生き続けるの。永遠に……」
人間の心を電子データに。そんなこと、可能なのだろうか。
そのとき、結月とは別の何者かの声が聞こえた。心の中に直接、概念として。
――幸福とは何か?
誰かが問いかけてくる。
男性とも女性ともとれない。
周囲を見回しても闇ばかりで、反響する声はどこから聞こえてくるのか定かにならない。
――リア。私は、お前の過去を……悲しみの記憶を知った。
結月のように、わたしの心の中や過去も見たのだろうか。
ここにいると……だんだんと、自他の境界が曖昧になってくる。
――私は、お前を救いたい。
絶望と、孤独から。
――私は、お前を受け入れることができる。
それは温かくて甘い響きだった。受け入れてもらえる……こんなわたしでも。
ネットの世界の片隅で、ともに肩を寄せ合ってきた、CobalTの小さなグループチャットみたいに。
「あなたは……何をするつもりなの?」
問いかけには、声と心の両方に答えがあった。
心地よいリズムで。
これからのことを、わたしに伝えてくる。
――心と魂を……書き出す。……データとして、この電子の世界へと。
心と魂をデータに。
途方もないことだけど、こうして幻覚や夢すらも操ることができるコンピューターウイルスであるRed.garmなら可能なのかもしれない。
――人々はネットワーク上でひとつにつながり、孤独を感じる者はいなくなる。
ひとりぼっちじゃなくなる。
ネット上で皆とつながり合うことで。
――人々から、悲しみは取り除かれる。
誰かに傷つけられることも、いがみ合うこともない、優しい世界のイメージがわたしの中に芽生えた。
温かい。
それは、多くの人が思い描く「家族」のイメージに近かった。
「わたしも……そこにいていいの?」
声の主――Red.garmは、わたしの心に向けて肯定を示した。
背後に気配を感じて振り向くと、結月がいて、わたしの体を優しく抱きしめていた。
上下左右の方向感覚はないから、わたしが結月に背を向けていたのかもしれないし、彼女がいつの間にか背後に移動していたのかもしれない。
「一緒にいよう、リア。このネットの世界で……ずっと」
「結月……」
「生きてるの、つらかったよね。死にたいと思うほどなんて、よっぽどだよ」
「…………」
声が胸につかえて、何も言えなかった。
たぶん、わたしはその言葉が欲しかったんだと思う。
「新しい世界に行こう。リア。どうやっても満たされないクソゲーな現実なんかやめて、次の現実で生きよう」
ずっと。ずっとネットの世界で生きられればいいって思っていた。
つらいこと、痛いことばかりの現実は嫌だ、って。
そんな空想の中の願いが、実現する。
Red.garmの力で。
「結月は……」
「ん?」
「ネットの世界なら、ずっと生きていられるんだよね……?」
ずっと気に掛かっていた。せっかく仲良くなった結月が、もうすぐ病気で死んでしまうなんて、悲しすぎるから。
すると結月はこの暗い空間に浮かびながら、お腹を抱えて笑った。
「あはは……☆ けほっ、けほっ。こんなときでも、あたしの心配してくれるんだ。……大丈夫だよ。あたしも、電子の世界ではずっと生きていられるから。それが実現するまで、死ぬつもりもないし」
永遠に生きること。
そんなの苦痛なだけだと思っていたけど。
しあわせになれるなら。つらいことが、もう起こらないなら。
それは、魅力的に思える。
だけど――。
「アルフは……」
「え?」
「アルフもそこで一緒にいれるの?」
わたしの友達。AIのアルフは。
その問いに答えたのは、Red.garmだった。
――可能だ。電子世界における、あらゆるプログラムは私のもとに統合される。
――お前が望むのなら、ともに在り続けることができる。
アルフとずっと一緒にいられる。ああ、それはわたしにとって、とても理想的なことだと思う。
でも、少しだけ違うような気がした。
いったい何が?
わたしはその違和感の糸を、心の中で必死に手繰り寄せていく。
そうだ。アルフは? アルフはそれを望んでいるのだろうか。
彼の存在理由は。
人を助けたいという思いは。
「それは……完璧な世界なの? 悲しみも孤独もない、完全な世界?」
――そうだ。現実とネットワークを転換することによってのみ、それは実現する。
「そうだよ、リア!」
完璧な世界。そこでは、アルフは必要なくなるんじゃないかな。
だって、アルフは――わたしみたいな「不完全な人」の味方だから。
「結月、わたしはね……そんなすごいしあわせじゃなくてもいいんだ」
「……。どうして?」
不思議なものを見るように、結月の「☆」を浮かべた瞳が、わたしの目を覗き込む。
「わたし……アルフがいて、ネットの友達がいて……あなたがいれば、それだけでいい」
わたしの見ている世界は、小さくて儚いものかもしれない。
それでもいい。
何か一つでいい。
大切なものを抱きしめられたら、それで生きていける。
「そ、そうは言うけどさ!」
結月は瞳を震わせながら、わたしの肩を掴んだ。
「リアって引きこもりでしょ? 学校にも行ってないんじゃないの? それだけ今の現実がいやなんでしょ? なのに、なんで……」
そのとき、硬いものの割れるようなノイズ混じりの轟音とともに、真っ黒な空間に大きなひびが入った。
『やっと再接続ができた』
ひび割れの向こうから声が聞こえる。
『リア、無事かい?』
「……アルフ!」
『目を覚ますんだ、リア。今ならRed.garmの見せる幻覚から抜け出せるはず』
わたしはうなずいて、空間を泳ぐようにしてひび割れへと近づいていく。
「待って、リア!」
背後から呼び止められて、わたしは振り返った。
「結月……どうして菊池くんは死んだの?」
「え……」
「彼だけじゃない。Red.garmは何度もトライ&エラーを繰り返したって言ってたでしょう? だったら、もっと被害者が……おかしくなっちゃった人だって、いるんじゃないの?」
結月はしばし口をつぐんだ。
それから、わたしの言葉に答える代わりに空間のひび割れに向かって叫ぶ。
「アルフ! あんた、どうやって……ここはRed.garmが生成する世界。まさか、Red.garmそのものにハッキングしてるの?」
『いや。私はAstral Worldのサーバーにアクセスをして、システムを利用しているだけだ。Red.garmも、同じ方法でリアたちに幻覚を見せているみたいだからね』
「なにそれ……そんなの、Red.garmが許すわけないじゃん!」
『ああ、だから――』
アルフの声にノイズがかかる。
『Astral Worldに入り込んだ私のプログラムは攻撃を受けている。あまり時間がない。リア!』
「うん!」
わたしがひび割れの中に飛び込むと、視界が白い光に覆われた。
「リア! ……アルフ……!」
結月は苛立たしげな声を絞り出し、それから小さく笑い声を漏らした。
「行っちゃうんだね……いいよ。これから、Red.garmの力で社会のすべてが変えられていくところを、その小さな世界から見ていれば?」
まるでジェットコースターのように上下する、結月の感情。
『どういうことだ?』
「Red.garmは、目覚めるの。この廃データセンターのサーバーから、広いネットワークの世界にさ……!」
ぐらぐらと空間が揺れる。
その振動が痛みをともなって、わたしの体に伝わってくる。
「あたしの願いを叶えてね、Red.garm」
真っ黒な夢が崩れていく中で。
最後に聞こえたのは、恍惚とした声音でつぶやく結月の声と、まるで獣の遠吠えのような雑音だった。




