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第七章 羊なメイドが隠した秘密

  ――お久しぶりです、アルス様」

「…………」

「…………」

 その言葉を最後に、二人の間に沈黙(ちんもく)が流れた。

 真夜中(まよなか)のウィルハード邸(てい)。

 皆が眠っている大部屋の扉の前で、アルスとメメリは向かい合ったまま立ち尽くしていた。

 アルスはようやく確かめることができた。

 目の前にいる少女が何者なのか。

 そしてメメリもまた、自分の正体がアルスには完全に知られてしまったことを認めた。

 だが――。

「…………」

「…………」

 誰も、次の言葉を口にしない。

 しばらくして。

「……いつまでこうして立ってんだ、あたしたち」

 アルスがぽつりと呟(つぶや)いた。

「え?」

「いや、話すことは山ほどありそうだけどよ」

 アルスは皆が眠っている部屋の扉をちらりと見る。

「ここでずっと立ち話ってのもあれだろ」

「あ……そうですね」

 メメリも小さく頷(うなず)いた。

 アルスは扉から少し横へ移動すると、その場の壁際(かべぎわ)に腰を下ろした。

「よっと」

 壁へ背中を預ける。

 そして自分の隣を軽く叩いた。

「ほら」

「…………」

 メメリは一瞬だけアルスを見る。

 それから――。

「では、失礼します」

 アルスの隣へ歩み寄り、スカートを整えながら静かに腰を下ろした。

 二人並んで、壁にもたれる。

「…………」

「…………」

 再び静寂(せいじゃく)。

 すぐ隣の扉の向こうでは、クロロたちが眠っている。

 少し声を大きくすれば、誰かが目を覚ましてしまうかもしれない。

 だから二人の声は自然と小さくなる。

 アルスが横目でメメリを見る。

 ミントグリーンの髪。

 その両側から伸びる羊の角。

 森で初めて会った時。

 ただの少し変わったメイドだと思っていた少女。

 だが今は違う。

 アルスは、その本当の名を知っている。

 ――メメリ・エアリーズ。

 そしてメメリもまた。

 隣に座るバーミリオンの髪の少女が何者なのかを、最初から知っていた。

 五百年以上という長い時を越えて。

 互いの人型(ひとがた)の姿すら知らなかった二人の十二星具(じゅうにせいぐ)が――。

 今、初めて互いの正体を知った状態で肩を並べていた。

 アルスは片膝を立て、その上に腕を乗せる。

「……さて」

「はい」

「聞きたいこと、いっぱいあるんだけどよ」

 メメリは静かにアルスへ顔を向ける。

 その表情にはもう――。

 先ほどまでのような、何も知らない少女を装う色はなかった。

「…………」

 それでもアルスは、すぐには質問しなかった。

 何から聞けばいいのか。

 五百年以上という空白。

 メメリがここにいる理由。

 記憶を失ったふりをしていた理由。

『星の導き』という言葉。

 そして――。

 今、この屋敷で起きていること。

 聞きたいことはいくらでもある。

 アルスは小さく息を吐いた。

 その隣でメメリは、両手を膝の上に重ねながら静かに待っていた。

 真夜中の廊下。

 眠る仲間たちのすぐそばで――。

 二人だけの話が、始まろうとしていた。

 真夜中の廊下。

 壁際に並んで座るアルスとメメリ。

 しばらく考え込んでいたアルスだったが――。

 やがて、最初の質問を口にした。

「……なあ、メメリ」

「はい、アルス様」

「あの戦いの後……お前、どうしてたんだ?」

「…………」

 メメリの表情がわずかに変わった。

 アルスが言う「あの戦い」。

 それが何を指しているのか、メメリにはすぐに分かった。

 遥(はる)か昔。

 星獣王(せいじゅうおう)と悪星王(あくせいおう)。

 十二人の英雄(えいゆう)。

 そして――十二星具(じゅうにせいぐ)。

 すべての運命を大きく変えた、あの戦い。

 アルスは片膝に腕を置いたまま続ける。

「あたしたちは、あの戦いが終わってからバラバラになった」

「…………」

「その後、あたしは色々あって……結局、あの地下で封印(ふういん)された」

 五百年以上。

 たった一人で。

 契約者(けいやくしゃ)となる者を待ち続けていた。

「だから、その間に他の奴らがどうしてたのか……あたしは何も知らねえ」

 アルスは横目でメメリを見る。

「お前が今ここにいるってことは分かった。でもよ」

 少しだけ声を落とす。

「そこに至るまで、お前が何をしてたのかは分からねえ」

「…………」

「だから、まずそれが聞きたい」

 アルスは真っ直ぐ尋ねた。

「――あの戦いの後、お前はどうしてた?」

「…………」

 メメリはすぐには答えなかった。

 膝の上に置いた両手を見つめる。

 その瞳には、普段クロロたちへ向けている穏やかなものとは違う――遠い過去を見つめるような色が浮かんでいた。

「……あの戦いの後、ですか」

「ああ」

「ずいぶん……昔のお話ですね」

「まあな」

 五百年どころではない。

 二人にとっては、さらに遥かな過去の出来事。

 メメリは少しだけ顔を上げた。

「…………」

 月明かりの差す廊下の先を見つめる。

 まるで、その向こうに遠い昔の景色があるかのように。

 アルスは急かさなかった。

 ただ隣に座ったまま、メメリが口を開くのを待つ。

 やがて――。

 メメリは静かに息を吸った。

「では……あの戦いが終わったところから、お話ししますね」

「ああ」

 アルスが頷く。

 誰も知らなかった――。

 メメリがあの戦いの後、どこで、何をしていたのか。

 その長い空白を埋める話が――。

 静かな夜の廊下で、今から語られようとしていた。

「では……あの戦いが終わったところから、お話ししますね」

 メメリが静かにそう告げる。

 そして――。

 彼女の意識は、遥か遠い過去へと遡(さかのぼ)っていった。

 ◇

 ――遥か昔。

 星獣王(せいじゅうおう)と悪星王(あくせいおう)。

 十二人の勇者と十二星具(じゅうにせいぐ)。

 世界の命運(めいうん)を懸(か)けた、あの大きな戦いが終わった後。

 メメリは――すぐに一人になったわけではなかった。

「…………」

 あの戦いでメメリを星具(せいぐ)として使っていた、一人の勇者。

 戦いが終わってからも、メメリはその勇者のもとを離れなかった。

 共に戦場を駆け抜けた二人は、そのまま何年もの間――一緒に生活していた。

 もう、目の前に悪星王はいない。

 命を懸けて戦う必要もない。

 毎日のように武器となり。

 敵を打ち砕き。

 互いの命を預け合う日々は終わった。

 代わりに始まったのは――。

 あまりにも穏やかな時間だった。

 朝を迎え。

 食事をして。

 他愛(たあい)のない話をして。

 時には一緒に出掛け。

 日が暮れれば同じ場所へ帰る。

 そんな、ごく普通の日々。

 戦いのために生み出された十二星具であるメメリにとって、それは戦場では知ることのできなかった時間だった。

 勇者にとってもメメリは、もう単なる「戦うための武器」ではなかった。

 そしてメメリにとっても――。

 自分を振るって戦ったその勇者は、ただの「使い手」ではなくなっていた。

「…………」

 何年もの時間を。

 二人は共に過ごした。

 悪星王との戦いが終わってもなお続いた――。

 勇者と星具の暮らし。

 それが、メメリ・エアリーズが大戦(たいせん)の後に歩み始めた、最初の日々だった。

 ◇

 ――それから、何年もの月日が流れた。

 戦いのない穏やかな日々は、メメリにとってかけがえのないものになっていた。

 しかし――。

 その時間が永遠に続くことはなかった。

 メメリは十二星具。

 人間とは違う時を生きる存在。

 けれど、彼女と共に暮らしていた勇者は――人間だった。

 どれほど強大な敵と戦える力を持っていようと。

 どれほど歴史に名を残す勇者であろうと。

 人間である以上、いつか必ず寿命(じゅみょう)を迎える。

 そして、その日は訪れた。

「…………」

 かつてメメリと共に悪星王へ立ち向かった勇者は、長い人生の終わりを迎え――。

 静かに、この世を去った。

「…………ご主人様」

 もう返事はない。

 かつて何度もメメリの名を呼んでくれた声も。

 共に笑った声も。

 戦いの中で互いを励ました声も。

 二度と聞くことはできない。

 メメリは、ただ静かにそこにいた。

 悪星王との戦いを生き延びた勇者。

 世界を守るために命を懸け、それでも生きて帰ることができた人。

 その人が今度は戦いではなく――寿命という、人として避けることのできない終わりを迎えたのだ。

 何年もの間、一緒に生活した。

 戦場だけではなかった。

 朝も。

 昼も。

 夜も。

 何でもない日々を共に過ごした。

 だからこそ――。

 その人がいなくなった後の静けさは、あまりにも大きかった。

「…………」

 メメリは俯(うつむ)く。

 自分はここにいる。

 けれど――ご主人様はもういない。

 初めて契約し。

 共に戦い。

 そして戦いが終わった後も、何年もの時を共に過ごした勇者。

 その生涯(しょうがい)を見届けて――。

 メメリ・エアリーズは、一人になった。

 勇者がこの世を去った後も――。

 ◇

 メメリは、すぐにその家を離れることはなかった。

 そこには、あまりにも多くの思い出が残っていたからだ。

 何年もの間、ご主人様と一緒に暮らした家。

「…………」

 朝になれば、いつもの場所から声をかけられるような気がした。

 部屋を歩けば、かつて交わした何気ない会話を思い出す。

 食事をしていた場所。

 共に笑った場所。

 静かに夜を過ごした場所。

 どこを見ても、ご主人様と過ごした日々の記憶が残っている。

 だからメメリは――。

 一人になった後も、何年かその家で暮らし続けた。

「…………今日も、静かですね」

 返事をする者はいない。

 それでもメメリにとって、そこは大切な場所だった。

 ご主人様がいなくなったからといって、思い出まで消えてしまったわけではない。

 むしろ一人になったからこそ――その家を離れたくなかった。

 しかし。

 そんなメメリの静かな暮らしも、突然終わりを迎えることになる。

 ある時――。

 メメリの暮らす家の近くにあった村で、争いごとが起きた。

 最初は、メメリの家とは関係のない場所で始まった争いだった。

 だが、それは次第に大きくなっていき――。

 ついには周囲まで巻き込み始めた。

 そして。

 メメリの暮らしていた家も、その争いに巻き込まれてしまった。

「…………!」

 長い間暮らしてきた家。

 ご主人様と何年も一緒に過ごし。

 ご主人様を見送った後も、一人で守るように住み続けてきた場所。

 それが――失われた。

「…………」

 メメリは、もうそこに住み続けることができなかった。

 ご主人様はもういない。

 そして今度は――。

 ご主人様との思い出が詰まった家まで、なくなってしまった。

「…………ご主人様」

 ぽつりと呼んでも。

 当然、返事はなかった。

 メメリは失われた家を、しばらくの間じっと見つめていた。

 何年もの間。

 ここだけは変わらず残っていると思っていた。

 自分がここにいれば、ご主人様と過ごした日々も、ずっとそばにあるような気がしていた。

 けれど――。

 その場所さえ、もうない。

「…………」

 やがてメメリは、静かにその場を離れた。

 振り返れば。

 そこにはもう――帰る家はなかった。

 勇者を失い。

 そして、勇者との思い出が詰まった家までも失ったメメリは――。

 この時から、再び行くあてもなく歩き始めることになった。

 ◇

 帰る家を失ったメメリは――。

 それから、旅に出た。

 どこかに目的地があったわけではない。

 誰かに会いに行くわけでもない。

 ただ、一つの場所に留まる理由を失ったから。

 メメリは歩いた。

「…………」

 山を越え。

 森を抜け。

 川を渡り。

 いくつもの町や村を通り過ぎた。

 時には人々の暮らす場所にしばらく滞在(たいざい)し。

 時には誰もいない場所で一人、夜を明かした。

 ある場所では人々を助け。

 ある場所では人々に助けられ。

 そしてまた、別の土地へ向かって歩き出す。

 そんな生活が続いた。

 一年。

 十年。

 百年――。

 人間にとっては、一生そのものとも言える時間。

 けれど。

 メメリの旅は、それでも終わらなかった。

 季節が何度巡ったのか。

 いくつの町を訪れたのか。

 何人の人間と出会ったのか。

 いつしか数えることさえなくなっていた。

「…………」

 昔訪れた町へ、長い年月を経て再び立ち寄ったこともあった。

 けれど――そこにあった景色は、メメリの記憶とはまるで違っていた。

 小さかった村が大きな町になっていることもあれば。

 かつて賑(にぎ)わっていた場所が、跡形(あとかた)もなく消えていることもあった。

 人々も同じだった。

 旅の途中で知り合った人。

 親切にしてくれた人。

 一緒に笑った人。

 再び訪れた頃には、もうこの世にいない。

 それでも――。

 メメリだけは変わらず旅を続けていた。

「…………また、行きましょうか」

 荷物を持ち。

 知らない道へ足を踏み出す。

 どこへ向かうのかは決めていない。

 ただ歩いて。

 どこかで生活して。

 そして、また旅立つ。

 そんな日々を――。

 メメリは、とてつもなく長い年月にわたって繰り返していた。

 かつて共に戦った勇者も。

 勇者と暮らした家も。

 遥か昔の思い出になっていく。

 それでもメメリは忘れなかった。

 自分が何者なのか。

 誰と共に戦ったのか。

 そして――。

 自分が【十二星具(じゅうにせいぐ)】の一人、メメリ・エアリーズであることを。

 長い、長い旅。

 それは人間の一生をいくつも重ねても到底(とうてい)届かないほどの年月だった。

 そしてメメリは――。

 その途方(とほう)もない旅の果てで、ある出来事を迎えることになる。

 ◇

 ――そして。

 途方もない年月にわたって旅を続けてきたメメリにも、ついに限界が訪れた。

 それは――現在から数年前のこと。

「…………」

 長い旅を続けるためには、当然ながら生活するためのお金が必要だった。

 食べ物。

 泊まる場所。

 旅に必要な物。

 どれだけ長い時を生きる十二星具であっても、人の姿で各地を渡り歩きながら生活していれば、何もなしに生き続けられるわけではない。

 メメリは、それまで何とかやりくりしてきた。

 持っていた物を売り。

 それでも足りなくなれば、旅の途中で手に入れた物も売った。

「これを……お願いします」

 一つ。

 また一つ。

 長い旅の中で持っていた荷物が減っていく。

 そうして得たわずかなお金で食べ物を買い、次の町へ向かう。

 それを何度も繰り返した。

 けれど――。

 売れる物にも、限りがある。

「…………」

 気がつけば。

 メメリの手元には、ほとんど何も残っていなかった。

 お金もない。

 売ることのできる荷物も、もうほとんどない。

 これまでは何とか次の日へと繋いできた生活が――ついに繋がらなくなろうとしていた。

「……困りましたね」

 メメリは小さく呟いた。

 何百年もの旅を続けてきた。

 いくつもの土地を渡り歩き。

 数え切れないほどの季節を越えてきた。

 そんな長い旅が。

 悪星獣(あくせいじゅう)との戦いでもなく。

 強大な敵との遭遇(そうぐう)でもなく――。

 ただ、生きていくためのものが尽きたことで、続けられなくなろうとしていた。

 それでもメメリは歩いた。

 立ち止まっていても、何も変わらない。

 どこかへ行けば。

 何かがあるかもしれない。

 そう思って――。

「…………」

 一歩。

 また一歩。

 けれど、満足に食事もできない状態で歩き続ければ、当然身体は弱っていく。

 足取りは次第に重くなった。

 それでも進む。

「まだ……大丈夫です」

 自分自身にそう言い聞かせながら。

 だが――。

 長い長い旅を続けてきたメメリの生活は、この時すでに限界を迎えていた。

「……まだ……大丈夫、です……」

 そう口にしたメメリだったが、その声にはもう力がなかった。

 一歩。

 また一歩。

 前へ進もうとする。

 だが、足元がおぼつかない。

 景色がぼやける。

 身体がふらつき、何度も転びそうになる。

 長い間まともに食事を取ることもできず、休む場所さえない。

 どれほど長い時を生きてきたメメリであっても――限界は確実に近づいていた。

「…………」

 それでも、メメリは歩き続けた。

 どこへ向かっているのか。

 自分でも、もう分からなかった。

 ただ――。

 止まってはいけないような気がした。

「……どこか……」

 掠(かす)れた声が漏れる。

「どこかに……行かないと……」

 その時だった。

 朦朧(もうろう)とする意識の中で――。

 メメリの脳裏(のうり)に、遥か昔の記憶が蘇(よみがえ)った。

 それは旅の途中で出会った誰かの言葉ではない。

 かつて自分たち十二星具を生み出した存在。

 ――星獣王(せいじゅうおう)。

「…………星獣王、様……」

 メメリの唇から、その名が零(こぼ)れた。

 遥か昔。

 悪星王との戦いが終わりを迎えた、あの頃。

 星獣王が自分たち十二星具へ遺(のこ)した言葉。

 あまりにも長い年月が過ぎたというのに――。

 メメリは、その言葉を忘れてはいなかった。

「…………」

 霞(かす)んでいく視界。

 重くなっていく身体。

 そんな中でメメリの意識だけが、遥か昔へと引き戻されていく。

 星獣王の姿。

 その声。

 そして――。

 自分たち十二星具へ託された、最後の言葉。

「……そう、でしたね……」

 メメリは弱々しく呟いた。

 途方もない年月を旅し続け。

 数え切れないほどの出会いと別れを繰り返し。

 いつしか、ただ生きるために歩き続けるようになっていた。

 けれど――。

 メメリには、本来果たすべき役目があった。

 遥か昔から。

 ずっと。

 星獣王によって託されていたものが。

 朦朧とする意識の中。

 メメリは――。

 あの日、星獣王から告げられた言葉を思い出していた。

 朦朧とする意識の中。

 メメリの脳裏には、遥か昔――星獣王から託された言葉が蘇っていた。

 自分たち十二星具が生み出された意味。

 そして、いつの日か果たさなければならない役目。

「…………」

 けれど。

 今のメメリには、その役目を果たせる未来など見えなかった。

 お金もない。

 食べ物もない。

 売れる荷物さえ、もう残っていない。

 自分が今どこを歩いているのかすら分からない。

 霞んだ視界の中に映る景色も、もう輪郭(りんかく)を失い始めていた。

「……星獣王……様……」

 掠れた声で、メメリは呟く。

 足が震える。

 身体に力が入らない。

 それでも前へ進もうと、一歩を踏み出す。

 だが――。

 ぐらり。

 身体が大きく傾いた。

「……ごめん……なさい……」

 メメリの瞳から、力が失われていく。

「メメリ……もしかしたら……」

 途切れ途切れの声。

 それでも、謝罪(しゃざい)の言葉だけは口にしたかった。

「……星獣王様に……言われたこと……」

 ずっと忘れていなかった。

 長い年月が流れても。

 共に戦った勇者を見送り。

 帰る家を失い。

 途方もない旅を続けても。

 胸の奥には残り続けていた。

 けれど――。

「……成し遂げられない……かも……しれません……」

 その言葉とともに、メメリの膝から力が抜けた。

「……本当に……ごめんなさい……」

 そして――。

 どさっ。

 メメリの身体が、その場に倒れ込んだ。

「…………」

 頬に触れる地面の感触。

 それが土なのか。

 石なのか。

 草なのか。

 もう、メメリには分からなかった。

 そもそも――。

 ここがどこなのかすら分からない。

 どれだけ歩いたのか。

 どちらから来たのか。

 近くに町や村があるのか。

 そんなことを考える力さえ、残されていなかった。

「…………星獣王……様……」

 最後にもう一度だけ。

 メメリは、自分を生み出した存在の名を呼んだ。

 そして――。

 ゆっくりと瞼(まぶた)が閉じていく。

「…………」

 意識が、暗闇へ沈んでいった。

 メメリは知らなかった。

 自分が倒れた、この場所がどこなのか。

 そして――。

 そのすぐそばに何があるのかも。

 何も知らないまま。

 メメリ・エアリーズは――。

 静かに意識を失った。

「…………」

 そこで――メメリの長い回想(かいそう)は途切れた。

 ◇

 時は戻り、現在。

 真夜中のウィルハード邸。

 皆が眠る大部屋の扉の横で、アルスとメメリは並んで座っていた。

 メメリは膝の上に重ねていた両手を見つめながら、静かに口を開く。

「――それが、メメリがこのお屋敷の前で倒れて……エメ様たちに助けていただくまでのことです」

「…………」

 アルスは何も言わなかった。

 あの戦いの後。

 自分を使っていた勇者と何年もの時を共に過ごし。

 その勇者の寿命を見届け。

 一人になった後も、思い出の残る家で暮らし続けた。

 だが近くの村で起こった争いに巻き込まれ、その家すら失った。

 それから――途方もない年月を、たった一人で旅していた。

 持っていた物を売りながら生活を繋ぎ。

 やがて金も荷物も尽き。

 星獣王から託された役目を果たせないかもしれないと謝りながら、力尽きて倒れた。

 その場所こそが――。

 このウィルハード邸の前だった。

「……そういうことだったのか」

 アルスが小さく呟く。

「はい」

 メメリは頷いた。

「メメリ自身も、あの時はもう意識がほとんどありませんでした。ですから、自分がどこまで歩いてきたのかも……ここがどこなのかも、何も分かっていなかったんです」

 そして目を閉じる。

「次に目を覚ました時には――このお屋敷の中にいました」

 それは昨日、エメから聞いた話へと繋がっていた。

 屋敷の前に、一人の少女が倒れていた。

 身体には一枚の布を巻いただけ。

 汚れた身体。

 ミントグリーンの髪。

 羊の角。

 そして――亡くした娘によく似た少女。

 エメはその少女を屋敷へ運び入れ、メイドたちに身体を綺麗にさせ、服を与えた。

 その少女こそが――メメリだった。

 アルスは壁に背中を預けたまま、天井を見上げる。

「……なるほどな」

 今まで別々だった話が、一つに繋がった。

 エメから聞いた――『メメリが屋敷の前に倒れていた』という話。

 そして今、メメリ本人から聞いた――『そこへ辿(たど)り着くまで』の話。

「…………」

 だが。

 だからこそ――。

 アルスには、まだ聞かなければならないことがあった。

 ゆっくりと顔を横へ向ける。

「でもよ、メメリ」

「はい?」

「だったら――」

 アルスの赤い瞳が、メメリを真っ直ぐ見つめる。

「やっぱりお前、エメたちに嘘ついたんだよな」

「…………」

 メメリは答えなかった。

 アルスはすでに知っている。

 メメリは記憶を失ってなどいなかった。

 自分の名前だけではない。

 どこから来たのかも。

 自分が何者なのかも。

 星獣王から何を託されたのかも――。

 すべて覚えていた。

 それなのに。

 エメから尋ねられた時、メメリは『何も覚えていない』と答えた。

 そして口にしたのは――。

 自分の名前と。

『星の導きに従った』という言葉だけ。

「…………」

 アルスが尋ねる。

「お前がここに来るまでのことは分かった」

 そして、次の疑問を口にする。

「じゃあ――なんで記憶を失ったふりなんかしたんだ?」

「…………」

 メメリの膝の上で――。

 重ねられていた両手が、ほんの少しだけ強く握られた。

「じゃあ――なんで記憶を失ったふりなんかしたんだ?」

「…………」

 アルスの問いに、メメリはしばらく黙っていた。

 膝の上で重ねた両手を、ほんの少しだけ握り締める。

 けれど――。

 やがて、その力をゆっくりと抜いた。

「……理由は、とても単純なんです」

「単純?」

「はい」

 メメリは小さく頷いた。

 そして、すぐ隣にある大部屋の扉へ目を向ける。

 その向こうでは――。

 クロロ。

 クロエ。

 エメ。

 ビークル。

 そして、この屋敷で働くメイドたち。

 自分にとって大切になった人たちが眠っている。

「メメリは……怖かったんです」

「怖かった?」

 アルスが眉を動かす。

「はい」

 メメリは静かに続ける。

「いつの日か……本当に戦わなければならない時が来たら――」

 その言葉に、アルスの表情が少しだけ真剣になる。

 十二星具である以上。

 いつまでも平穏(へいおん)な日々だけを送れるとは限らない。

 星獣王から託された役目。

 そして――再び悪星王が世界へ脅威(きょうい)をもたらす時。

 その時が来れば、メメリもまた戦わなければならない。

「メメリが十二星具だということを皆さんが知っていたら……その戦いに、皆さんまで巻き込んでしまうかもしれません」

「…………」

「エメ様も、ビークル様も……このお屋敷の皆さんも」

 メメリの声が、ほんの少しだけ弱くなる。

「メメリが何者なのかを知っているというだけで……危ない目に遭わせてしまうかもしれない」

 アルスは黙って聞いていた。

「皆さんは……メメリが何者なのかも知らないのに、助けてくださいました」

 行き倒れていた自分を屋敷へ運び。

 身体を綺麗にして。

 服を与えて。

 食事を与えて。

 そして――。

 帰る場所がないと言った自分へ、この屋敷で一緒に暮らそうと言ってくれた。

「何も持っていなかったメメリに……本当に親切にしてくださったんです」

「…………」

「だからこそ――危険なことには、巻き込みたくありませんでした」

 メメリは膝の上へ視線を落とした。

「メメリがただの『記憶を失って、行く場所のない女の子』なら……皆さんは、メメリが背負っているものとは関係ありません」

 だが。

 自分が十二星具【メメリ・エアリーズ】だと知られてしまえば。

 いつか再び戦いが始まった時。

 その事実が、この屋敷の人々を危険へ近づけてしまうかもしれない。

「だから……何も覚えていないことにしたんです」

「…………」

「どこから来たのかも」

「…………」

「自分が何者なのかも」

 メメリは静かに目を伏せる。

「全部……分からないことにしました」

 アルスは壁にもたれたまま、何も言わない。

 それは――。

 何か大きな秘密を企んでいたわけでも。

 誰かを騙して利用しようとしていたわけでもなかった。

 ただ。

 自分を助けてくれた人たちを――危険な目に遭わせたくなかった。

 それだけだった。

「……なるほどな」

 しばらくして、アルスが呟いた。

 メメリは少し寂しそうに笑う。

「もちろん……嘘をついたことが正しいとは思っていません」

「…………」

「エメ様はメメリを信じてくださいました。ビークル様も、このお屋敷の皆さんも……」

 だからこそ。

 騙していることへの後ろめたさは、ずっとあった。

「何度も……本当のことを話そうと思いました」

 メメリの脳裏に、これまでの日々が浮かぶ。

 エメの優しい笑顔。

 ビークル。

 共に働くメイドたち。

 そして――。

 自分の帰る場所になった、この屋敷。

「でも……話せませんでした」

「どうしてだ?」

 アルスが尋ねる。

「……大切になってしまったからです」

「…………」

「このお屋敷も……ここにいる皆さんも」

 メメリは扉を見つめる。

「大切になればなるほど……危険なことから遠ざけておきたくなりました」

 アルスは、その横顔をじっと見つめていた。

 途方もない年月を一人で旅して。

 帰る場所も失って。

 最後には、星獣王へ謝りながら倒れた。

 そんなメメリが――。

 ようやく手に入れた、新しい居場所。

 だからこそ。

 失いたくなかったのだ。

「……そっか」

 アルスは、それだけ答えた。

「はい」

 二人の間に、再び静かな時間が流れる。

 だが――。

 メメリはふと、表情を曇らせた。

「でも……」

「ん?」

「結局……」

 メメリの視線が、屋敷の奥へ向けられる。

 今夜。

 浴場(よくじょう)に現れた――。

 緑色の蔓(つる)。

 先端についた、鋭い歯の並ぶ口。

 切断されても再生し。

 そして、この屋敷のどこかへ逃げていった。

【デットリーフ】と思われる悪星獣(あくせいじゅう)。

「……危ない目に、遭わせてしまいました」

「…………」

「メメリが一番避けたかったことが……もう、このお屋敷で起きてしまったんです」

 その声には――。

 はっきりとした不安が滲(にじ)んでいた。

「……危ない目に、遭わせてしまいました」

「…………」

「メメリが一番避けたかったことが……もう、このお屋敷で起きてしまったんです」

 俯くメメリ。

 その横顔を見ていたアルスは、しばらく黙っていたが――。

「……起きちまったもんは、しょうがねえだろ」

「え……?」

 メメリが顔を上げる。

 アルスは壁に背を預けたまま、いつもの調子で続けた。

「今さら『起きなかったことにしたい』って言ったって無理なんだからよ。だったら、これからどうするか考えりゃいい」

「ですが……」

「それに」

 アルスは親指で、自分たちの後ろにある大部屋の扉を示した。

「今はあたしたちがいる」

「…………」

「クロロもいる。クロエもいる。あたしもいる」

 騎士長(きしちょう)であるクロエ。

 自分と契約(けいやく)を結び、十二星具の力を扱うクロロ。

 そして――十二星具の一人であるアルス自身。

「だから、そんなに心配すんな」

「アルス様……」

「デットリーフだか何だか知らねえけど、また出てきたら今度こそ逃がさなきゃいいだけだ」

 アルスはそう言って、にっと笑った。

「この屋敷の連中が危ない目に遭わねえように、あたしたちもちゃんと見張っててやるよ」

「…………」

 メメリは目を丸くしてアルスを見つめる。

 そして――。

「……ありがとうございます、アルス様」

 少しだけ安心したように微笑んだ。

「おう」

 アルスは短く返した。

 再び二人の間に静かな時間が流れる。

 だが。

「…………」

 アルスの頭の中には、先ほどから一つ――どうしても引っかかっていることがあった。

 メメリの過去を聞いたことで。

 むしろ、さらに気になってしまったこと。

「……なあ、メメリ」

「はい?」

「もう一個、聞いていいか?」

「もちろんです」

 アルスは少し身体の向きを変え、メメリを見る。

「さっきの話に出てきた――」

 そこで一度、言葉を切る。

「『星の導き』って……何だ?」

「…………!」

 メメリの瞳が、わずかに見開かれた。

「最初にお前と会った時もそうだったよな」

 アルスは思い返す。

 エメから聞いた話では、屋敷の前で倒れていたメメリが覚えていると言ったのは、自分の名前と――。

『星の導きに従った』

 ということだけだった。

「最初は、お前が正体を隠すために適当に言った言葉なのかとも思った」

「…………」

「けど、今の話を聞いたら違うんだろ?」

 アルスの表情が真剣になる。

 メメリが倒れる寸前に思い出していたもの。

 星獣王から託された言葉。

 そしてメメリは、自分がそれを成し遂げられないかもしれないと星獣王へ謝っていた。

 ならば――。

 あの『星の導き』という言葉には、もっと大きな意味がある。

「お前が言ってた『星の導き』ってのは……星獣王様があたしたちに言ったことと関係あんのか?」

「…………」

 メメリは答えず、静かにアルスを見つめる。

 アルスはさらに尋ねた。

「それに、お前はさっき――星獣王様に言われたことを成し遂げられないかもしれねえって思ったって言ったよな」

「……はい」

「だったら教えてくれ」

 アルスの赤い瞳が、メメリのミントグリーンの瞳を真っ直ぐ捉える。

「――その『星の導き』って、いったい何なんだ?」

「…………」

 メメリはしばらく黙っていた。

 やがて視線をアルスから外し――。

 静かな夜空が見える廊下の窓へと向ける。

 そこには。

 遥か昔から変わらず輝き続ける、無数の星々があった。

「……星の導き、ですか」

 メメリは小さく呟いた。

「はい。あれは……メメリにも、よく分かっていないんです」

「分かってない?」

 アルスが眉をひそめる。

 メメリは静かに頷いた。

「星の導きというのは――メメリが勝手にそう呼んでいるだけなんです」

「じゃあ、実際は何なんだ?」

「……声です」

「声?」

「はい」

 メメリは窓の向こうに広がる夜空を見つめた。

「誰のものなのか分からない……声を、メメリは聞いたんです」

「…………」

 アルスの表情が変わる。

「誰だか分からねえって……星獣王様の声じゃねえのか?」

「違います」

 メメリははっきりと答えた。

「星獣王様のお声なら、メメリも覚えています。ですが……あの声は違いました」

「じゃあ、誰なんだよ?」

「分かりません」

「…………」

 アルスはますます怪訝(けげん)そうな顔をする。

 誰なのか分からない。

 それなのにメメリは、その声を『星の導き』と呼んでいた。

「その声は……何て言ったんだ?」

 アルスが尋ねると、メメリは一度目を閉じた。

 遠い記憶を辿るように。

 そして――。

 ゆっくりと、その時に聞いた言葉を口にする。

「――『ここにとどまり、時を待つのだ』」

「…………!」

 アルスの赤い瞳がわずかに見開かれた。

「ここに……とどまれ?」

「はい」

「それって……」

 アルスはすぐ隣の扉を見る。

 その向こうでは、この屋敷の者たちと――クロロが眠っている。

「この屋敷に、ってことか?」

「メメリは……そう受け取りました」

「…………」

「だからメメリは、あの時エメ様に聞かれて……『星の導きに従った』とだけ答えたんです」

 アルスは黙り込む。

 今まで。

 メメリがエメたちへ語った『星の導き』という言葉は、自分の正体を隠すために作った曖昧(あいまい)な説明なのだと思っていた。

 だが違った。

 確かに――何者かの声を聞いていた。

 そして、その声はメメリへ告げた。

 ――ここにとどまり、時を待つのだ。

「……待てよ」

 アルスが呟く。

「じゃあお前、この屋敷に残ったのは、エメに助けてもらったからだけじゃなくて……」

「もちろん、エメ様に一緒に暮らそうと言っていただいたことが一番大きいです」

 メメリはすぐにそう答えた。

「このお屋敷はメメリを助けてくださった、大切な居場所です。それは嘘ではありません」

「……ああ」

「ですが――」

 メメリは自分の胸元へそっと手を添えた。

「ここにいることを決めた時……あの声のことも、メメリの中にはありました」

『ここにとどまり、時を待つのだ』

「…………」

 アルスは考え込む。

「いつ聞いたんだ、その声」

「…………」

「誰の声か分からねえ。何のために待つのかも分からねえ。それでもお前は、この場所に残った」

 アルスは窓の向こうの星空を見る。

 そして――。

 再び扉へ視線を移した。

 その向こうに眠る、一人の少年。

 クロロ・スターウェア。

 白く輝く謎の鳥に導かれ。

 五百年以上封印されていた自分のもとへ辿り着き。

 星の輝きに選ばれ――。

 アルスと契約した少年。

 そのクロロが今。

 偶然森でメメリと出会い。

 この屋敷へやって来た。

「…………」

 アルスの胸の奥に、一つの疑問が生まれる。

 メメリへ告げられた――『時を待つ』という言葉。

 では。

 その待つべき『時』とは――。

 いったい、何だったのか。

 そして。

 メメリをこの場所へ留めた、正体不明の声。

 それは――いったい誰のものだったのか。

「……何なんだよ、その声」

 アルスの呟きだけが――。

 静まり返った真夜中の廊下へ、小さく響いた。

「……何なんだよ、その声」

 アルスの呟きが、静かな廊下へ消えていく。

 誰の声なのか。

 なぜメメリへ語りかけたのか。

 そして――。

『ここにとどまり、時を待つのだ』

 その『時』とは、いったい何を意味していたのか。

 アルスには分からなかった。

 だが――。

「……メメリには、分かります」

「え?」

 アルスが隣を見る。

 メメリは穏やかな表情を浮かべていた。

 先ほどまでとは違う。

 迷っている顔ではない。

「分かるって……声の正体がか?」

「いえ」

 メメリは首を横に振る。

「声の主が誰なのかは、今でも分かりません」

「じゃあ何が分かるんだ?」

「『時を待つ』という言葉の意味です」

「…………」

 アルスは黙ってメメリを見る。

 メメリはゆっくりと、すぐ隣にある扉へ視線を向けた。

 その向こう。

 屋敷で一番大きな部屋では、多くの者たちが眠っている。

 エメ。

 ビークル。

 屋敷のメイドたち。

 クロエ。

 そして――。

「きっと……」

 メメリの表情が柔らかくなる。

「クロロ様を待て、という意味だったんだと思います」

「……クロロを?」

「はい」

 アルスの赤い瞳がわずかに見開かれる。

 メメリは扉を見つめたまま続けた。

「メメリはずっと、分かりませんでした」

 なぜ、あの声が自分にそう告げたのか。

 なぜこの場所にとどまらなければならないのか。

 何を待っているのか。

 それが訪れるのは明日なのか。

 一年後なのか。

 百年後なのか。

 何一つ分からなかった。

「それでもメメリは、ここで暮らし続けました」

 エメに救われ。

 この屋敷を居場所として与えられ。

 メイドとして働き。

 皆と笑い合い。

 大切な人たちができた。

 そうして数年の時が流れ――。

 ある日。

 休憩時間にいつものように森を歩いていたメメリの前へ、三人の旅人が現れた。

 地図を忘れ。

 森の中で迷子になり。

 言い争いながら歩いていた三人。

 クロロ。

 クロエ。

 そして――アルス。

「あの日、森でクロロ様たちと出会った時は……まだ分かりませんでした」

「…………」

「ですが、クロロ様からアルス様のお名前を聞いて――」

『アルス・サジタリアス』

 あの瞬間。

 メメリが僅(わず)かに反応した理由。

 それは――。

 遥か昔から知っていた、十二星具の一人の名だったから。

「十二星具であるアルス様が、クロロ様と一緒に旅をしている」

「……ああ」

「そしてお話を聞けば、クロロ様はアルス様と契約を結び……残る十一人の十二星具を探している」

 メメリは自分の胸へ、そっと手を添えた。

「それを知った時――メメリは思ったんです」

 長い年月。

 かつての勇者を見送り。

 家を失い。

 あてもなく旅を続け。

 すべてを失いかけた末に辿り着いた、この場所。

 そこで聞いた謎の声。

 ――ここにとどまり、時を待つのだ。

 そして数年後。

 自分の目の前に現れた――新たな英雄となる可能性を持つ少年。

「きっと……あの声が言っていた『時』は」

 メメリは静かに微笑んだ。

「クロロ様が、この場所へ来る時だったんです」

「…………」

 アルスは言葉を失う。

 偶然。

 そう言ってしまえば、それまでかもしれない。

 だが――。

 白く輝く星獣(せいじゅう)に導かれてアルスの封印を解いたクロロ。

 そのクロロが旅に出て。

 地図を忘れて森で迷い。

 偶然メメリと出会い。

 そして、この屋敷へやって来た。

 もし一つでも違っていれば――。

 この出会いはなかったかもしれない。

「……クロロを待つために、お前はここにいたってのか」

「メメリは、そう思っています」

「でもよ」

 アルスは眉を寄せる。

「だったら、その声は……クロロがいつかここに来るって知ってたことになるぞ?」

「……そうなりますね」

「…………」

 それが意味することの大きさに、二人とも黙り込んだ。

 声の正体は分からない。

 それでも――。

 メメリをこの屋敷へとどまらせた何者かは。

 クロロがいつの日か、この場所へやって来ることを知っていたのかもしれない。

 アルスは扉を見つめる。

「……クロロ、お前……いったい何なんだよ」

 その向こうでは。

 そんな話をされているとも知らず――。

 クロロは眠り続けていた。

「……クロロ、お前……いったい何なんだよ」

 アルスは扉の向こうで眠っているクロロを思い浮かべながら、小さく呟いた。

「…………」

 その隣で、メメリはそんなアルスの横顔をじっと見つめていた。

「ん?」

 視線に気づいたアルスが顔を向ける。

「なんだよ?」

「……アルス様」

「おう」

「メメリ、なんだか少しずるい気がしてきました」

「は?」

 突然そんなことを言われ、アルスは目を丸くした。

「何がだよ?」

 メメリは少しだけ頬を膨らませる。

「さっきから、メメリばかり質問されているじゃないですか」

「…………」

 言われてみれば、その通りだった。

 あの戦いの後、どうしていたのか。

 なぜ記憶を失ったふりをしていたのか。

『星の導き』とは何なのか。

 ここまで話していた内容は、ほとんどがメメリについてだった。

「いや、だってお前が色々隠してたからだろ」

「それはそうですけど……」

「じゃあしょうがねえじゃん」

「でも、ずるいです」

「なんでだよ」

 メメリはアルスを見つめる。

 そして――。

「今度は、メメリが質問します」

「……あたしに?」

「はい」

 少し前まで、自分の過去について真剣に話していた時とは違う。

 メメリの表情には、ほんの少しだけ好奇心(こうきしん)が浮かんでいた。

「メメリは自分のことをたくさんお話ししました」

「まあ……そうだな」

「ですから、今度はアルス様のことを聞かせてください」

「…………」

 アルスは少し困ったように頭を掻いた。

「あたしのことって言われてもなぁ」

「たくさんありますよ」

「例えば?」

 メメリは少し考える。

 同じ十二星具。

 遥か昔、同じ目的のために生み出され。

 それぞれ別の勇者と契約し、悪星王との戦いに身を投じた存在。

 だが――。

 十二星具たちは、互いの人型の姿すら知らなかった。

 戦いが終わった後、それぞれがどのような道を歩んだのかも知らない。

 だからメメリにとって。

 目の前にいるアルス・サジタリアスもまた――。

 知りたいことだらけの存在だった。

「メメリは、アルス様があの戦いの後に何をしていたのかも知りません」

「……まあ、そりゃそうだな」

「どうして五百年以上も封印されることになったのかも」

「…………」

「そして――」

 メメリは一度、皆が眠っている部屋の扉を見る。

「クロロ様と、どのように出会ったのかも」

「……クロロとか?」

「はい」

 メメリは微笑む。

「アルス様はクロロ様と契約しているんですよね?」

「ああ」

「でしたら、そこも詳しく聞いてみたいです」

「詳しくって……」

「メメリばかり全部お話しするのは、不公平ですから」

「お前、意外とそういうこと言うんだな……」

 アルスが呆れたように笑う。

「メメリだって、気になることくらいあります」

「へいへい」

 アルスは壁へ深く背中を預けた。

「分かったよ。答えられることなら答えてやる」

「本当ですか?」

「ああ。ただし長くなっても文句言うなよ?」

「ふふっ」

 メメリは嬉しそうに笑った。

「メメリも先ほど、ずいぶん長いお話をしましたから」

「確かにな」

 二人は小さく笑い合う。

 つい先ほどまで。

 互いの正体を探り。

 遥か昔から続く秘密について話していた二人。

 だが今は少しだけ――。

 同じ十二星具同士の、穏やかな会話へと空気が変わっていた。

「それじゃあ……」

 メメリはアルスへ身体を向ける。

 今度は自分が質問する番。

「まずは――」

 メメリ・エアリーズからアルス・サジタリアスへ。

 長い時を経て再会した十二星具同士の話は――。

 今度はアルスの物語へと移ろうとしていた。

「まずは――クロロ様との出会いについて、聞いてもいいですか?」

 メメリがそう尋ねると、アルスは少し意外そうに目を瞬かせた。

「クロロとの出会い?」

「はい。アルス様がクロロ様とどのように出会って、契約することになったのか……気になります」

「あー……そこか」

 アルスは頭の後ろを掻く。

「まあ、話すと色々あるんだけどよ。簡単に言えば――」

 アルスは皆が眠っている部屋の扉をちらりと見た。

「クロロが、あたしの封印を解いたんだ」

「封印……」

「ああ。あたしは五百年以上、ボーンスターの地下にある部屋に封印されてた」

 メメリの表情が僅かに曇る。

「五百年以上も……?」

「長かったぜ。ほんっとにな」

 アルスは苦笑する。

「で、クロロはバットウルフが街を襲った時に地面の下へ落ちてきた。それで地下を進んでるうちに、あたしが封印されてた場所まで来たんだ」

「クロロ様が偶然……」

「まあ、完全に偶然ってわけでもなさそうだけどな」

「?」

「白く光る鳥に導かれたらしい」

「白く光る……鳥……」

 メメリはその言葉を覚えるように小さく繰り返した。

 アルスは続ける。

「そいつに案内されて、クロロはあたしのところまで来た。そんで――あたしを封じてたものを壊して、外に出してくれた」

「それで、すぐに契約を?」

「いや」

 アルスは首を横に振る。

「クロロは妹のクロエが心配で、すぐ地上に戻ろうとしたんだ。あたしも後を追った」

 そして地上で見たもの。

 バットウルフとの戦いで限界まで消耗(しょうもう)し、今にも命を落としかねないクロエ。

 その姿を見たクロロ。

「そこでクロロは、クロエを助けるためにあたしと契約した」

「…………」

「そんであたしは【サジット・スナイプ】になって、クロロがあたしを使ってバットウルフを倒した」

 アルスはそこまで説明すると、軽く肩をすくめた。

「まあ、簡単に言やそんな感じだ」

「……本当に簡単ですね」

「簡単にって言っただろ?」

「ふふっ、そうでした」

 メメリが小さく笑う。

 だが、その瞳には興味が残っていた。

「それにしても……」

「ん?」

「五百年以上、封印されていたアルス様のもとへクロロ様が現れて、その封印を解いた……」

「ああ」

「そしてメメリも、誰か分からない声から『ここにとどまり、時を待つのだ』と言われ……この場所でクロロ様と出会った」

「…………」

 二人は同時に、扉へ目を向けた。

 偶然にしては――妙だった。

 アルスは白く輝く鳥に導かれたクロロと出会い。

 メメリは正体不明の声に従ってこの場所にとどまり、クロロと出会った。

「……やっぱ、あいつ何かに導かれてんのかもな」

 アルスが呟く。

「メメリも……そんな気がします」

 その答えを知る本人は――。

 今も扉の向こうで、何も知らずに眠っている。

 少しの沈黙の後。

 メメリは再びアルスへ顔を向けた。

「では……もう一つ聞いてもいいですか?」

「まだあんのか?」

「もちろんです」

「お前、質問する側になった途端に元気になってねえか?」

「だって、さっきまでメメリばかり聞かれていましたから」

「根に持ってんなぁ……」

 呆れるアルスに、メメリはくすりと笑う。

 長い年月を別々に生きてきた二人の十二星具。

 その夜の会話は――まだ続いていた。

「では……もう一つ聞いてもいいですか?」

「おう。今度は何だ?」

 メメリは少し考えてから、アルスへ尋ねた。

「アルス様は、どうして五百年以上も封印されていたんですか?」

「…………」

 その瞬間。

 アルスの動きが――ぴたりと止まった。

「……アルス様?」

「…………」

「どうされたんですか?」

「いや……」

 アルスはすっとメメリから目を逸らした。

「それ聞く?」

「はい」

「そこ聞いちゃう?」

「……?」

 メメリは不思議そうに首を傾げる。

 先ほどアルス自身が口にしていた。

 五百年以上もの間、ボーンスターの地下に封印されていた、と。

 当然メメリからすれば、なぜ同じ十二星具であるアルスがそんな目に遭ったのか気になる。

 だが――。

 アルスにとっては。

「…………」

 非常に話しづらかった。

 先ほどまでの威勢(いせい)のよさはどこへやら。

 アルスは片膝を抱えながら、なんとも言えない顔でそっぽを向いている。

「アルス様?」

「……なんつーか」

「はい」

「その話はよ……」

 アルスの頬が、ほんの少し赤くなる。

「ちょっと恥ずかしいんだよ」

「え?」

 メメリが目を丸くした。

「恥ずかしい……?」

「ああ……」

「封印されていた理由が、ですか?」

「そうだよ!」

 思わず声が大きくなり、アルスは慌てて口を押さえた。

「……っ!」

 二人は同時に大部屋の扉を見る。

「…………」

「…………」

 中から誰かが起きてくる気配はない。

 アルスはほっと胸を撫(な)で下ろすと、今度は声を潜めた。

「ったく……危ねえな」

「アルス様が大きな声を出したんじゃないですか」

「誰のせいだと思ってんだよ……」

「メメリは質問しただけです」

「ぐっ……」

 言い返せない。

 メメリはそんなアルスを見つめる。

 いつも強気で。

 男勝りで。

 先ほどまで自分の秘密を次々と問いただしていたアルスが――。

 今は明らかに気まずそうにしている。

「…………」

 少しだけ、メメリの好奇心が強くなった。

「……気になります」

「やめろ」

「とても気になります」

「余計気にすんな!」

「だってアルス様がそんな反応をされるから……」

「くっそ……」

 アルスは赤くなった頬を片手で掻く。

「別に、言えねえほどのことじゃねえんだけどよ……」

「では、教えてください」

「お前、こういう時だけ押し強えな……」

「メメリは先ほど、自分のことを全部お話ししました」

「それ言われると弱えんだよなぁ……」

 アルスはがっくりと肩を落とした。

 確かにメメリは、自分が長い年月をどう生きてきたのか。

 なぜ記憶喪失(きおくそうしつ)のふりをしたのか。

『星の導き』のことまで話してくれた。

 自分だけ答えないというのも――少しずるい。

「…………」

 アルスはしばらく悩んだ末。

 観念(かんねん)したように壁へ後頭部を預けた。

「……分かったよ」

「本当ですか?」

「ああ」

「では、なぜ封印されたんですか?」

「だから食いつくの早えって!」

 メメリは思わず、くすっと笑った。

 アルスは恨めしそうにそんなメメリを見る。

 そして――。

「はぁ……」

 大きくため息をついた。

「あれは……あたしが封印されることになった頃の話なんだけどよ」

 アルスは恥ずかしそうに視線を逸らしたまま――。

 五百年以上前。

 自分がなぜ地下深くに封じられることになったのか。

 その出来事を、少しずつ語り始めた。

「あれは……あたしが封印されることになった頃の話なんだけどよ」

 アルスは少し気まずそうに視線を逸らした。

「その前に言っとくと……あたしはお前とはちょっと違う」

「メメリと?」

「ああ」

 アルスは膝の上に腕を置く。

「あの戦いで、あたしを使ってた勇者は――戦死(せんし)した」

「…………」

 メメリの表情から笑みが消えた。

「そう……だったんですね」

「ああ」

 星獣王と悪星王。

 十二人の勇者と十二星具が挑んだ、遥か昔の戦い。

 メメリの勇者は、その戦いを生き延びることができた。

 だからこそ戦いが終わった後も、メメリは勇者と共に何年もの穏やかな時間を過ごすことができた。

 しかし――。

 アルスには、その時間がなかった。

 共に戦った勇者は、あの戦いの中で命を落としていた。

「……悪星王との戦いが終わった時には、もうあたしの勇者はいなかった」

 アルスは淡々(たんたん)と語る。

 だがその声には、普段の荒っぽさとは少し違う静けさがあった。

 メメリは何も挟まず、ただ隣で聞いていた。

「だから戦いが終わった後、あたしは一人になった」

「…………」

「お前みたいに、一緒に帰る相手もいなかったしな」

「アルス様……」

「そんな顔すんなって。何年前の話だと思ってんだよ」

 アルスは軽く笑ってみせる。

 それでもメメリは、アルスがその出来事を忘れているわけではないことを感じていた。

 長い年月が経とうとも。

 自分を使い、共に命を懸けて戦った勇者のことを――忘れられるはずがない。

 アルスは話を続ける。

「で、その後は……まあ、お前と似たようなもんだ」

「旅を?」

「ああ」

 勇者を失ったアルスは、一つの場所に留まることなく各地を旅するようになった。

 町から町へ。

 国から国へ。

 時には人の多い場所へ立ち寄り。

 時には誰もいない荒野(こうや)を一人で進む。

「別にこれって目的があったわけじゃねえ。ただ、同じ場所にずっといる気にもならなかったからな」

「……メメリも、似ています」

「だろ?」

 メメリもまた、勇者を失い、その後さらに家を失ってから長い旅へ出た。

 理由や辿った道は違っていても――。

 二人とも、遥か昔から長い時間を旅してきた。

「いろんな場所に行ったぜ」

 アルスは懐かしそうに目を細める。

「昔は何もなかった場所に町ができたり、逆にでっけえ町がいつの間にかなくなってたり……」

「分かります」

 メメリが小さく頷く。

「長く旅をしていると、同じ場所なのに全く違う場所のようになっていることがありますよね」

「ああ。あれは何度経験しても変な感じだったな」

 初めて――。

 二人の間に、長い時を生きる十二星具同士だからこそ分かる感覚が共有される。

「…………」

 しかしメメリは、ふと首を傾げた。

「ですが……」

「あ?」

「それでしたら、まだ分かりません」

「何が?」

「アルス様が封印された理由です」

「…………」

 アルスの顔が再び固まった。

 旅をしていた。

 そこまでは分かった。

 だが――。

 それと五百年以上もの封印が、まったく繋がっていない。

「やっぱそこに戻るか……」

「そのお話を聞いていたんですから」

「忘れてくれてもよかったんだけどなぁ」

「忘れません」

「即答すんなよ……」

 メメリはくすっと笑う。

「それで、旅をしていたアルス様に何があったんですか?」

「…………」

 アルスは再び恥ずかしそうに頬を掻いた。

「まあ……問題は、この後なんだよ」

「問題?」

「ああ」

 アルスは深いため息をつく。

「あたしが旅を続けてた時に――ちょっと、やらかしてな」

「やらかした……?」

 メメリの好奇心に満ちた瞳が、アルスへ向けられる。

「……だからそんなキラキラした目で見るなって」

「気になります」

「はぁ……」

 アルスは観念したように肩を落とした。

 なぜアルス・サジタリアスは――。

 五百年以上もの間、地下深くに封じられることになったのか。

 本人にとって少し恥ずかしい、その出来事へと――。

 話は続いていく。

「まあ……問題は、この後なんだよ」

 アルスはどこか気まずそうに頬を掻きながら、話を続けた。

「あたしが旅してた頃――今のボーンスターが、まだ国としてできたばっかりだった時の話だ」

「ボーンスターが……?」

「ああ」

 現在では大都市(だいとし)として栄えるボーンスター。

 だが、アルスがそこを訪れた当時は――国として設立(せつりつ)されてから、まだそれほど年月が経っていなかった。

「その頃のボーンスターには、初代国王(しょだいこくおう)がいた」

「初代国王様……」

「で、そいつの命を狙ってる奴がいたんだよ」

 メメリの表情が真剣になる。

「暗殺(あんさつ)……ですか?」

「まあ、そんなところだ」

 当時。

 何者かがボーンスターの初代国王の命を狙っていた。

 そして――。

「たまたま、あたしがその場に居合わせた」

 アルスは肩をすくめる。

「本当に偶然だったんだけどな」

 ◇

 ――遥か昔。

 国として歩み始めたばかりの、ボーンスター。

 その地を旅の途中で訪れていたアルスは――。

 偶然にも、初代国王の命が狙われる場面に遭遇した。

「…………!」

 国王へ迫る危険。

 アルスにとって、その男は契約者でもなければ、知り合いでもない。

 この国にだって、特別な思い入れがあったわけではなかった。

 ただ――。

 目の前で誰かが殺されようとしている。

 それを見過ごす理由もなかった。

「ったく……!」

 アルスは迷わず動いた。

 そして――。

 初代国王の命を救った。

「…………」

 命を狙われていた国王は、突然現れたバーミリオンの髪の少女を見る。

 アルスにしてみれば。

 旅の途中で偶然事件に遭遇し。

 たまたま助けられる力があったから助けただけ。

 それ以上でも、それ以下でもなかった。

 ◇

「――ってわけだ」

「アルス様が、ボーンスターの初代国王様を……」

「ああ。結果的にはな」

 メメリは少し感心したようにアルスを見る。

「すごいじゃないですか」

「いや……だからよ」

「?」

「ここまでは別に恥ずかしくねえんだよ」

 アルスがぼそりと言った。

「国王様の命を救ったことが、ですか?」

「当たり前だろ。人助けして恥ずかしがる必要ねえだろ」

「では――」

 メメリの瞳に、また好奇心が宿る。

「その後に、何かあったんですね?」

「…………」

 アルスが黙り込んだ。

 その反応だけで十分だった。

「やっぱり」

「嬉しそうに言うなよ……」

「だって、ようやく封印された理由に近づいてきましたから」

「お前、さっきまであんな大人しそうにしてたのに……」

「メメリは気を遣う性格なだけで、気になるものは気になります」

「はいはい……」

 アルスは深くため息を吐く。

「で、まあ……その初代国王を助けたせいで、あたしは王家(おうけ)と関わることになったんだ」

「王家と……」

「ああ」

 アルスは少しだけ遠い目をする。

 偶然救った一人の男。

 まだ生まれたばかりの国を治めていた――ボーンスター初代国王。

 この出会いこそが。

 後にアルス・サジタリアスが――五百年以上もの長きにわたり、地下深くへ封じられることになる出来事の始まりだった。

「あたしが初代国王を助けただろ?」

「はい」

「そしたら、その国王がな……あたしのことを町の連中に話したんだよ」

「アルス様のことを?」

「ああ」

 当時のボーンスターは、まだ国として設立されたばかり。

 そこを治める初代国王の言葉は、人々にとって非常に大きなものだった。

 その国王が――。

 自らの命を救った一人の少女について、人々へ語った。

 バーミリオンの髪を持つ少女。

 突然現れ、国王の命を救った存在。

 ――アルス・サジタリアス。

「それからだよ……」

 アルスは思い出すだけでも気恥ずかしいのか、片手で顔を覆った。

「町の連中が、あたしを見る目が変わっちまってさ……」

 ◇

 町を歩けば――。

「あっ!」

 誰かがアルスに気づく。

 すると、その声を聞いた別の者も振り返る。

「まさか……!」

「あの方だ!」

「国王陛下(こくおうへいか)のお命を救ったという……!」

「アルス様だ!」

「…………は?」

 最初。

 アルスには何が起こっているのか分からなかった。

 だが――。

 その話は、あっという間に町中へ広がっていった。

「あ、アルス様!」

「今日もお姿を見られるなんて!」

「陛下(へいか)をお救いくださったお方だぞ!」

「なんてすごい方なんだ……!」

「…………」

 歩くだけで視線が集まる。

 道を通れば声を掛けられる。

 それどころか――。

「アルス様!」

「ありがとうございます!」

「この国の恩人(おんじん)だ!」

「…………お、おう」

 いつしか人々は、アルスをただの旅人として見ることさえなくなっていた。

 国王の命を救った。

 その事実と初代国王自身の言葉によって――。

 町の人々はアルスを、とてつもなくすごい人物として崇(あが)めるようになってしまったのだ。

 ◇

「……って感じになった」

 現在。

 アルスはますます恥ずかしそうに俯いていた。

「なるほど……」

 メメリは頷く。

 そして少し考えてから――。

「でも、アルス様は実際にすごい方では?」

「そういう問題じゃねえんだよ!」

 アルスは思わず顔を上げた。

「町歩いてるだけで『アルス様!』『アルス様!』ってよ! どこ行ってもみんな寄ってくんだぞ!」

「人気者だったんですね」

「言い方!」

 メメリは口元へ手を当て、小さく笑う。

「ふふっ……」

「笑うな!」

「すみません。でも……少し想像すると」

 メメリは隣に座るアルスを見る。

 普段は男勝りで。

 口調も荒っぽく。

 クロエとしょっちゅう言い争っているアルスが――。

 町中の人々から『アルス様』と崇められている姿。

「……ふふっ」

「だから笑うなって!」

 アルスの頬がさらに赤くなる。

「これが恥ずかしいって言ってた理由の一つなんだよ……」

「一つ?」

「…………あ」

 アルスが固まった。

 メメリの目が僅かに輝く。

「ということは……まだ続きがあるんですね?」

「…………」

「アルス様?」

「……お前、変なところ鋭いな」

「続きをお願いします」

「ったく……」

 アルスは観念したようにため息を吐いた。

 町の人々から――。

 国王の命を救った偉大な存在として崇められるようになったアルス。

 だが。

 彼女が五百年以上も封印されることになった本当の理由は――。

 まだ、その先にあった。

「続きをお願いします」

「……分かったよ」

 アルスは観念したように答えた。

 だが、その頬は先ほどよりも赤い。

「町の連中があたしをすげえ奴みたいに扱うようになったって言っただろ?」

「はい」

「で……まあ……」

 アルスは視線を逸らす。

「当時のあたしも、そこまで悪い気はしてなかったんだよ」

「…………」

「最初は戸惑ったぜ? どこ行っても『アルス様!』『国王陛下を救った英雄だ!』って騒がれてよ」

 だが。

 毎日のように褒められ。

 感謝され。

 国王の命を救った英雄として扱われ続けているうちに――。

 当時のアルスは、少しずつそれを楽しむようになっていた。

 ◇

「アルス様! こちらをどうぞ!」

「おっ、いいのか?」

「もちろんです! アルス様からお代などいただけません!」

「そうか? じゃあ遠慮なく!」

 どんっ!

 アルスの前に大量の料理が並べられる。

 肉。

 魚。

 パン。

 山盛りの料理。

「うめぇ!」

「こちらもどうぞ!」

「おう!」

 国王の命を救った英雄。

 そんなアルスから金など取れない――。

 町の者たちは、次々と食べ物を振る舞った。

 そして。

「アルス様、お酒も!」

「おっ! 気が利くじゃねえか!」

「いくらでもございます!」

「最高だな、この町!」

 酒まで出てくる。

 食べる。

 飲む。

 また食べる。

 そして――また飲む。

「いやぁ~! いい町だなぁ、ここは!」

 すっかり上機嫌だった。

 ◇

「…………」

 現在。

 メメリは隣に座るアルスを見つめていた。

「つまり……」

「言うな」

「アルス様は、英雄として崇められているのをいいことに……」

「言うなって」

「ただでご飯やお酒を、たらふく――」

「それ以上言うなぁ!」

 アルスは顔を真っ赤にする。

 メメリは口元を押さえた。

「ふふっ……」

「笑うなよ!」

「す、すみません……」

「くそぉ……だから話したくなかったんだよ……」

 だが。

 本当に恥ずかしいのは――ここからだった。

 アルスはますます小さくなるように壁へ背中を預ける。

「……で、ある日な」

「はい」

「いつもみたいに酒を飲んでたんだよ」

「ただで?」

「そこ強調すんな!」

「すみません」

「……ったく」

 その日も。

 町の者たちは英雄アルスへ大量の酒を振る舞った。

 そしてアルスも――。

 完全に調子に乗っていた。

 ◇

「アルス様! もう一杯!」

「おう! 持ってこーい!」

「さすがアルス様!」

「こんなん水みてえなもんだ!」

 一杯。

 二杯。

 三杯――。

 どれだけ飲んだのか。

 途中から本人も覚えていない。

 そして――。

 飲みすぎた。

 完全に。

「うぃ~~……!」

 足元はふらふら。

 顔は真っ赤。

 まともに真っ直ぐ歩くことすらできない。

「アルス様、そろそろお休みになられたほうが……」

「だぁ~いじょうぶだってぇ!」

「ですが……」

「あたしを誰だと思ってんだぁ!」

 酔っぱらったアルスが胸を張る。

「アルス・サジタリアス様だぞぉ!」

 その時だった。

 何がきっかけだったのか。

 本人ですら――。

「……正直、よく覚えてねえ」

 現在のアルスがぼそりと付け加えた。

 そして。

 その夜――。

 事件は起きた。

「うおおおおおおおおおおおおっ!!」

 アルスが――。

 町を爆走した。

「アルス様ぁぁぁ!?」

「止まってください!」

「危ない! 逃げろぉぉぉ!!」

「ははははははっ!!」

 酔いに酔い。

 調子に乗り切ったアルスは――。

 大暴れした。

 ドガァァン!!

「ぎゃああああああっ!!」

「建物がぁぁぁ!!」

「アルス様! そっちはダメです!!」

「うおおおおおっ!!」

 ドゴォォォン!!

「また壊れたぁぁぁ!!」

 町中が大混乱。

 昨日までアルスを見つけるたびに喜んでいた住民たちが、この時ばかりは全力で逃げ回っていた。

 ◇

 そして――。

 翌朝。

「…………」

 酒が抜けたアルスの目の前に広がっていたのは。

「…………え?」

 変わり果てた町だった。

「…………」

 アルスは右を見る。

 壊れている。

 左を見る。

 やっぱり壊れている。

「…………」

 もう一度、正面を見る。

「…………誰がやったんだ?」

 周囲の人々が一斉にアルスを指差した。

「あなたです!!」

「…………あたし?」

「あなたです!!」

「…………」

 アルスの顔から血の気が引いていった。

 なんと――。

 酔っぱらったアルスの大暴走によって。

 町は――。

 半壊(はんかい)していた。

 ◇

「…………」

「…………」

 現在。

 真夜中の廊下に、なんとも言えない沈黙が流れた。

 アルスは真っ赤になった顔を両手で覆っている。

「……それで」

 メメリが恐る恐る尋ねる。

「罰として……?」

「……封印された」

「五百年以上……?」

「……ああ」

「…………」

 メメリは必死に耐えた。

 だが――。

「ふっ……」

「おい」

「ふふっ……!」

「笑うな!」

「だ、だって……!」

「だから言いたくなかったんだよぉ!!」

 アルスは声を抑えながら頭を抱えた。

「国王様を救った英雄が……ただでご飯とお酒をいただいて……」

「やめろ!」

「調子に乗って飲みすぎて……」

「やめろって!」

「町を爆走して……」

「メメリ!」

「半壊させて……五百年以上封印……」

「まとめんなぁぁぁ!!」

 もちろん大声は出せないため、アルスの叫びは必死に押し殺されている。

 メメリは口元を押さえながら肩を震わせた。

「す、すみません……アルス様……ふふっ……」

「全然反省してねえだろ!」

「でも……まさかそんな理由だったとは……」

「…………」

 アルスは完全に拗(す)ねたように膝を抱えた。

 そして。

「……しかも」

「はい?」

「この話――クロロには言ってねえ」

 メメリの笑いが止まった。

「え?」

 アルスは気まずそうに横を向く。

「クロロには……嘘ついてる」

「…………」

 メメリがぱちぱちと瞬きをする。

「クロロ様には、なんと?」

「……昔、あたしの力を悪用しようとした奴がいて、それで封印されたって」

「…………」

「…………」

 再び沈黙。

 メメリはアルスを見る。

 アルスは絶対に目を合わせようとしない。

「アルス様」

「なんだよ」

「それは……かなり格好よく変えていませんか?」

「うるせえ!」

「本当は酔っぱらって町を半壊させたからなのに……」

「だからクロロには絶対言うなよ!」

 アルスが勢いよくメメリへ顔を向ける。

「絶対だぞ!」

「…………」

「おい、その顔やめろ!」

 メメリの口元には――。

 とても楽しそうな笑みが浮かんでいた。

「本当は酔っぱらって町を半壊させたからなのに……」

「だからクロロには絶対言うなよ!」

「ふふっ……分かりました」

「本当だろうな?」

「はい。メメリとアルス様だけの秘密にしておきます」

「……頼むぜ、マジで」

 アルスは心底ほっとしたように息を吐いた。

「もしクロロに知られたら、あたしの威厳(いげん)が……」

「アルス様に威厳なんてありましたか?」

「お前なぁ!」

「ふふふっ」

「さっきまであんなに大人しそうだったのに、正体バレた途端これかよ!」

 声を抑えながら言い合う二人。

 だが、その表情はどちらも楽しそうだった。

 遥か昔。

 同じ十二星具として生み出されながらも、互いの人型の姿さえ知らなかった二人。

 悪星王との戦いが終わった後は、それぞれ全く違う道を歩んできた。

 メメリは勇者と暮らし、その最期(さいご)を見届け、家を失い、長い旅を続けた。

 アルスは勇者を戦いで失い、旅を続け――。

 酒で町を半壊させて封印された。

「……やっぱり笑ってんだろ」

「少しだけです」

「少しじゃねえだろ……」

「でも、安心しました」

「あ?」

 メメリは柔らかく笑う。

「アルス様と、こうしてお話しできて」

「…………」

 アルスは一瞬だけ目を丸くすると――。

「……あたしもだよ」

 照れくさそうに笑った。

 それから二人は、もう少しだけ話をした。

 遥か昔のこと。

 長い旅のこと。

 クロロたちのこと。

 ほんの少し前までは互いの秘密を探るような会話だったのに、いつの間にか二人の間には穏やかな空気が流れていた。

 そして――。

「…………ふぁぁ……」

 メメリが小さくあくびをした。

「ん?」

「あ……」

 メメリは慌てて口元を手で隠す。

「すみません、アルス様」

「眠くなったか?」

「……みたいです」

 考えてみれば、メメリは一度眠っていたところをトイレに行きたくなって起きてきただけなのだ。

 そこからアルスに呼び止められ。

 正体を見破られ。

 遥か昔のことまで話し。

 今度はアルスの昔話まで聞いていた。

 眠気が戻ってくるのも当然だった。

「無理して付き合わなくていいぞ」

 アルスは立ち上がる。

「今はあたしの見張りの時間だからな。お前は寝てろ」

「……はい」

 メメリもゆっくり立ち上がった。

「では……お言葉に甘えます」

「ああ」

 メメリは大部屋の扉へ手を掛ける。

 だが開ける直前――。

「アルス様」

「ん?」

 メメリは振り返った。

「今夜、お話しできてよかったです」

「…………」

 アルスは少しだけ笑う。

「そうだな」

 そして付け加えた。

「ただし――あたしが封印された本当の理由は秘密だからな?」

「ふふっ」

「おい!」

「分かっていますよ」

 メメリは小さく笑いながら、静かに扉を開けた。

 起こさないようにそっと中へ入り、自分の寝床へ戻っていく。

 横になり、布団を掛ける。

「…………」

 先ほどまでアルスと話していたせいか、その表情はどこか穏やかだった。

 やがて――。

「……おやすみなさい……アルス様……」

 小さく呟き。

 メメリは目を閉じた。

 ほどなくして、静かな寝息が聞こえ始める。

 再び眠りについたのだ。

「…………」

 廊下に残ったアルスは、扉の前へ視線を向けた。

 メメリ・エアリーズ。

 五百年以上の時を経て、ようやく出会った――自分と同じ十二星具。

「……まさか、こんなところにいたとはな」

 アルスは小さく笑った。

 だが――。

 今はまだ見張りの途中だ。

 屋敷のどこかには、あの異様(いよう)な【デットリーフ】が潜(ひそ)んでいるかもしれない。

 アルスは表情を引き締める。

 そして再び、静まり返った屋敷へ目を光らせながら――。

 自分の見張りを続けるのだった。

「……まさか、こんなところにいたとはな」

 アルスは小さく呟くと、再び見張りへと意識を戻した。

 屋敷の中は静まり返っている。

 聞こえてくるのは、時折風が窓を揺らす微(かす)かな音だけ。

 今のところ――あのデットリーフが再び現れる気配はない。

「…………」

 それでもアルスは警戒(けいかい)を解かなかった。

 浴場から逃げ出した以上、まだこの屋敷のどこかに潜んでいる可能性がある。

 やがて見張りの時間が終われば、次はクロロの番だ。

 それまでは――自分が皆を守る。

 アルスは静かな廊下へ目を光らせ続けた。

 ◇

 だが――。

 この時。

 アルスも。

 眠っているクロロも。

 クロエも。

 メメリも。

 そして――ウィルハード邸の誰一人として気づいていなかった。

 屋敷の外。

 月明かりに照らされた庭のさらに向こう。

 木々の影が重なり合う暗闇の中を――。

 一つの人影が歩いていた。

「…………」

 ゆっくりと。

 まるで屋敷の様子を窺(うかが)うかのように。

 その人影は、ウィルハード邸の周囲をうろついている。

 ざっ……。

 ざっ……。

 草を踏む小さな音。

 だが、それは屋敷の中にいる者たちの耳には届かない。

 月明かりが差し込むたび、人影の輪郭が僅かに浮かび――。

 次の瞬間には、再び木々の影へと溶けていく。

 何者なのか。

 なぜ、この真夜中に屋敷の周囲をうろついているのか。

 その目的すら――まだ分からない。

 ただ一つ確かなのは。

 その人影が偶然ここを通りかかったのではなく――。

 明らかに、このウィルハード邸の周囲を探るように動いているということだけだった。

「…………」

 やがて人影は足を止める。

 その先にあるのは――。

 静かに夜を迎える、ウィルハード邸。

 そしてその中には。

 クロロたちと――二人の十二星具がいる。

 だが。

 屋敷の中では、誰もその存在に気づかない。

 アルスでさえ――。

 まだ知らない。

 デットリーフだけではない。

 この夜。

 屋敷の外にもまた――。

 正体の分からない何者かが近づいていることを。

 そして、その人影が何のためにここへ現れたのかを――。

 この時はまだ。

 誰一人として、知る由(よし)もなかった。

 ◇

 そして――夜が明けた。

 長かったウィルハード邸の夜が終わり、窓の向こうから朝の光が差し込み始める。

 幸いなことに、あれからデットリーフが再び姿を現すことはなかった。

 屋敷に集まって眠っていた者たちも、一人、また一人と目を覚ましていく。

「……朝か」

 クロロもゆっくりと身体を起こした。

 結局、最後の見張りを務めたこともあり、少し眠そうに目を擦(こす)っている。

 それでも――。

 朝になったからといって、すべてが解決したわけではない。

 昨夜、浴場でクロエとアルスを襲った緑色の蔓。

 鋭い歯の生えた口を持ち。

 切断されても再生し。

 二人に敵わないと分かると、屋敷の中へ逃げていった。

 アルスが【デットリーフ】ではないかと考えている悪星獣は――。

 まだ見つかっていない。

 そのため屋敷の者たちは、いつも以上に周囲を警戒していた。

 だが。

 いつまでも全員が一つの部屋へ閉じこもっているわけにもいかない。

 ウィルハード邸での一日は――いつも通り始まった。

「おはようございます」

「おはようございます」

 メイドたちは互いに挨拶(あいさつ)を交わし、それぞれの持ち場へ向かっていく。

 朝食の準備。

 掃除。

 洗濯。

 屋敷の整備。

 その他にも、この大きな屋敷には毎日こなさなければならない仕事がいくつもある。

 もちろん、昨日のことがある。

 廊下の角を曲がる時。

 物陰(ものかげ)の近くを通る時。

 水場へ近づく時。

 皆、いつもより慎重(しんちょう)に周囲を確認していた。

 それでも――。

 可能な限り、いつも通りの日常を続ける。

 ただし。

 一部の者たちを除いて――。

 ◇

 昨日、事件の起きた浴場。

 そこには六人の姿があった。

 クロロ。

 クロエ。

 アルス。

 エメ。

 ビークル。

 そして――メメリ。

「……やっぱ、こうして見ると普通の風呂なんだけどな」

 クロロが浴場全体を見渡す。

 朝になったことで、昨夜とは雰囲気がまるで違っていた。

 透明になっている壁と天井から朝の光が入り込み、その向こうには広い花畑が見えている。

 昨夜。

 クロロが一人で入った時には、月明かりと星空に照らされた幻想的(げんそうてき)な空間だった。

 その後――。

 ここでクロエとアルスがデットリーフに襲われた。

「普通に見えるからって油断しないで、兄さん」

 クロエが真剣な表情で言う。

 その視線は浴槽(よくそう)だけではなく、壁際や床まで細かく確認していた。

「昨日、あれはお湯の中に隠れてたんだから」

「ああ、分かってる」

 クロロも頷く。

「……お湯の中からいきなり、か」

 その言葉に――。

「…………」

 クロエの動きが一瞬だけ止まった。

 昨日の出来事が脳裏をよぎる。

 緑色の蔓に触れられ。

 最初はアルスの仕業だと思い――。

 そして最後には。

 駆け込んできたクロロの前で――。

「…………っ!」

 クロエの顔がみるみる赤くなる。

(だ、駄目……! 思い出しちゃ駄目よ私!)

 しかし思い出せば思い出すほど。

(お兄様に……お兄様にぃぃぃ……!)

「クロエ?」

「な、何でもないわよ、兄さん!」

「なんで急に顔赤くなったんだ?」

「何でもないって言ってるでしょ!」

「朝から元気だな、お前……」

 クロロは首を傾げる。

「…………」

 アルスはそんな二人を見て、何か言いたそうにしたが――。

「……今はやめとくか」

「何よ」

「何も言ってねえだろ」

「絶対何か言おうとしたでしょ!」

「はいはい。今は調査が先だ」

「その返事やめなさい!」

「お二人とも……」

 メメリが困ったように笑う。

「昨日のことを調べに来たんですから……」

「……そうだった」

「……分かってるわよ」

 クロエとアルスがようやく浴場へ意識を戻した。

 一方。

「…………」

 エメは車椅子(くるまいす)に座りながら、浴場を静かに見渡していた。

 そのすぐそばにはビークルがいる。

「奥様。あまり前へ出られませんように」

「分かっています、ビークル」

「もし昨日の怪物がまだ潜んでいれば、危険でございます」

「ええ。ですが……」

 エメの表情が曇る。

「ここは、わたくしたちの家です。なぜあのようなものが現れたのか……少しでも手掛かりがあるのなら、わたくしも知っておきたいのです」

「……承知しております」

 ビークルはそう答えながらも、いつでもエメを守れる位置から離れなかった。

「よし」

 クロロが腕をまくる。

「とにかく探そう。昨日あいつがいた場所とか、逃げていったところとか。何でもいいから手掛かりがあるかもしれない」

「そうね」

 クロエが頷く。

「切った蔓の欠片(かけら)でも残っていれば何か分かるかもしれないし」

「あたしも探してみる」

 アルスは昨夜デットリーフが現れた浴槽へ近づく。

「昔あたしが戦った奴と同じ種類なら、何か痕跡(こんせき)が残ってる可能性もある」

「メメリも探します」

 メメリも浴場の中へ視線を巡らせる。

 昨夜。

 ここで何が起きたのか。

 そして――。

 なぜ、かつてアルスが知っていたものとは異なるデットリーフが、このウィルハード邸に現れたのか。

 六人は手分けして浴場を調べ始めた。

 浴槽。

 排水口(はいすいこう)。

 床。

 壁際。

 デットリーフが逃げていった場所。

 どんな小さな違和感も見落とさないように――。

 一つ一つ確認していく。

 しかし。

 彼らはまだ知らなかった。

 昨夜――。

 自分たちが眠っていたその間に。

 この屋敷の周囲を、一人の人影がうろついていたことを――。

 六人は手分けして、大浴場の中をくまなく調べていった。

 昨夜とは違い、浴槽の水はすでに抜かれている。

 広い浴槽の底まで完全に露出(ろしゅつ)しており、普段なら湯の中に隠れて見えない部分まで確認することができた。

「……何もねえな」

 アルスが浴槽の底を歩きながら周囲を見回す。

「昨日は確かにこの辺から出てきたんだよ」

「何か痕跡くらい残っててもよさそうなんだけどな」

 クロロもしゃがみ込み、床へ顔を近づける。

 水滴の残ったタイル。

 排水口。

 タイルとタイルの継ぎ目(つぎめ)。

 一つずつ確認していく。

 クロエも短剣(たんけん)を手にしたまま、いつ何かが飛び出してきても反応できるよう警戒していた。

「兄さん、あんまり一人で先に行かないで」

「大丈夫だって」

「昨日のあれがまた出てくるかもしれないでしょ」

「分かってるよ」

 そんな二人の少し後ろでは、メメリも床を注意深く調べている。

「…………」

 その時だった。

「……あれ?」

 メメリが足を止めた。

「どうした?」

 クロロが振り返る。

「今……何か」

 メメリは自分の足元を見る。

 何気なく踏んだ一枚のタイル。

 他の場所とは――ほんの少し感触が違った。

 メメリはその場にしゃがみ込む。

 そしてタイルの端へ指を掛け、軽く押してみた。

 カタッ。

「…………!」

 小さな音。

「クロロ様」

 メメリの声色が変わった。

「このタイル……」

 全員が集まってくる。

「何かあったのか?」

「はい。ここを見てください」

 メメリがもう一度押す。

 カタッ。

 タイルが僅かに動いた。

「……緩んでる?」

 クロロもしゃがみ込む。

 周囲のタイルを押してみる。

 こちらは動かない。

 隣も。

 その隣も。

 しっかりと固定されている。

 だが――。

 その一枚だけ。

 カタ、カタッ。

 明らかに緩んでいた。

「これ……おかしくねえか?」

 アルスが眉をひそめる。

「昨日までは、このようになっていなかったのでしょうか?」

 メメリがビークルを見る。

「少なくとも、私は聞いておりません」

 ビークルも険しい表情になる。

「浴場の清掃(せいそう)は日々行われております。これほど分かりやすくタイルが緩んでいれば、清掃を担当する者が気づくはずですが……」

「つまり――」

 クロエがタイルを睨む。

「最近こうなった可能性があるってことね」

「…………」

 全員の視線が、一枚のタイルへ集まった。

 昨夜。

 この場所に潜んでいたデットリーフ。

 そして今朝。

 水を抜いたことで初めて見つかった――不自然に緩んだ床のタイル。

「もしかして……」

 クロロがタイルの端へ手を掛ける。

「この下に、何かあるんじゃないか?」

「兄さん、待って」

 クロエがすぐに止める。

「もし下にあれが潜んでたら危険よ」

「そうだな」

 アルスも頷き、表情を引き締めた。

「全員、すぐ動けるようにしとけ」

 クロエは短剣を構え。

 アルスもいつでも魔力(まりょく)でスナイパーライフルを形成できるよう身構える。

 メメリはエメの前へ出るように立ち、ビークルも車椅子のそばについた。

「…………」

 クロロはもう一度、緩んだタイルへ視線を落とす。

 ただの老朽化(ろうきゅうか)なのか。

 それとも――。

「……開けてみるぞ」

 全員が息を呑んで見守る中。

 クロロはゆっくりと――。

 その一枚のタイルへ指を掛けた。

「……開けてみるぞ」

 クロロは緩んだタイルの端へ指を掛けた。

「気をつけて、兄さん」

「ああ」

 クロエとアルスがいつでも動けるよう身構える中――。

 クロロはゆっくりとタイルを持ち上げる。

 ゴトッ……。

「…………」

 外したタイルを隣へ置き、全員がその下を覗き込んだ。

「……なんだ、これ?」

 そこにあったのは――。

 ただの床ではなかった。

 ぽっかりと。

 暗い穴が開いていた。

「穴……?」

 クロエが眉をひそめる。

 クロロは顔を近づけ、中を覗こうとする。

「兄さん、近づきすぎないで」

「分かってるって」

 穴の中は暗く、奥までは見通せない。

 だが――。

 少なくとも、すぐ下で行き止まりになっているようには見えなかった。

 どこかへ向かって続いている。

「……これ、どこまで続いてるんだ?」

「さあな」

 アルスもしゃがみ込み、穴を覗く。

「けど……」

 アルスは穴の大きさを確認する。

「人間が入れる大きさじゃねえな」

 その通りだった。

 穴はかなり小さい。

 クロロが通るのはもちろん。

 クロエやアルス。

 小柄なメメリでさえ――身体を通すことは到底できない。

「キツネなどの動物でしたら……通れそうですね」

 メメリが言った。

「うん。それくらいだな」

 クロロも頷く。

「人が掘って出入りするための穴には見えない」

 エメは車椅子から、その穴をじっと見つめていた。

「わたくしは……このような穴が浴場の下にあるなど、聞いたことがありません」

「私もでございます」

 ビークルも険しい表情で答える。

「少なくとも、屋敷にこのような通り道が存在するという話は存じません」

「となると……」

 クロエは短剣を握ったまま、穴を見る。

「やっぱり昨日のあれが怪しいわね」

「……ああ」

 アルスの表情も真剣になる。

 人間は通れない。

 だが――。

 昨夜現れたデットリーフの、細長い蔓なら。

「この大きさなら、あいつの蔓は余裕で通れる」

 アルスが言った。

「じゃあ……」

 クロロはもう一度、暗い穴を覗き込む。

「昨日のデットリーフは、この穴から浴場に入ってきた可能性があるってことか?」

「可能性はあるな」

「それに、逃げた時も……」

 クロエが続ける。

「この穴を使ったのかもしれない」

「…………」

 全員の視線が穴へ集中する。

 昨夜。

 湯の中へいつの間にか潜んでいた、緑色の蔓。

 切断しても再生し。

 クロエとアルスに敵わないと判断すると、逃げていった。

 その侵入経路(しんにゅうけいろ)が――。

 今、目の前にあるのかもしれない。

「でも問題は……」

 クロロが呟く。

「この穴が、どこに繋がってるかだよな」

「そうですね」

 メメリも不安そうに穴を見つめる。

 屋敷の地下なのか。

 外なのか。

 それとも――。

 まったく別の場所なのか。

 穴の先は暗闇に包まれ、ここからでは何も分からない。

 そして何より。

 人間が入れる大きさではない以上――。

「見つけたはいいけど……」

 クロロは困ったように頭を掻いた。

「俺たちじゃ、この中を直接調べられないな」

 その言葉に、全員が黙り込む。

 ようやく見つけた――昨夜の事件へ繋がるかもしれない手掛かり。

 しかし。

 その先へ進むには――。

 あまりにも穴が小さすぎた。

「見つけたはいいけど……俺たちじゃ、この中を直接調べられないな」

 クロロが困ったように頭を掻く。

「そうね……」

 クロエも小さな穴を睨みながら考え込む。

 人間が通るには、あまりにも狭すぎる。

 だからといって、何も分からないまま放置するわけにもいかない。

 その時――。

「…………ん?」

 アルスが何かに気づいた。

「どうした?」

「いや……ちょっと待て」

 アルスは穴ではなく、先ほどクロロが取り外した一枚のタイルへ目を向けていた。

 床に置かれていたそれを拾い上げる。

「このタイル……」

 表側を見る。

 特に変わったところはない。

 浴場に敷き詰められている他のタイルと同じものだ。

 だが――。

 アルスがそれをひっくり返した瞬間。

「……おい」

 その声色が変わった。

「みんな、これ見ろ」

「何かあったの?」

 クロエたちがアルスの周りへ集まる。

 アルスが見せたのは――タイルの裏側。

 そこに。

 べっとりとまではいかないが――。

 ほんの少量。

 緑色の液体が付着(ふちゃく)していた。

「……緑?」

 クロロが目を細める。

 メメリも覗き込んだ。

「何でしょう、これ……」

「触るなよ」

 アルスがすぐに注意する。

「何なのか分かんねえからな」

 そしてアルスは、タイルの裏に残る緑色の液体をじっと観察した。

「……たぶんだけどよ」

「うん」

「あたしは、昨日の奴の痕跡だと思う」

「デットリーフの?」

「ああ」

 昨夜。

 浴場でクロエとアルスを襲った、緑色の蔓。

 植物のような身体。

 先端には鋭い歯が並ぶ口。

 その色と――タイルの裏に残された液体。

「少なくとも、ただの汚れには見えねえ」

 アルスが言う。

「昨日のあいつがこのタイルの下を通った時についた……って考えるのが一番自然じゃねえか?」

「じゃあ……」

 クロロは再び、タイルの下から現れた小さな穴を見る。

「やっぱりこの穴――」

「あいつが通った可能性が高いわね」

 クロエが言葉を継いだ。

「…………」

 エメの表情が曇る。

「この屋敷の下に……あの怪物が通れる場所があるということなのでしょうか」

「現状では、まだ何とも申し上げられません」

 ビークルが答える。

「ですが、この液体が昨夜の怪物のものであるならば……偶然タイルが緩んでいただけとは考えにくくなりました」

「そうですね……」

 メメリも不安そうに穴を見つめた。

 一方、アルスはタイルを手にしたまま考え込んでいる。

「昨日の奴がこの下から出てきたんなら……」

 アルスの視線が鋭くなる。

「この先を辿れば、あいつがどこから来たのか分かるかもしれねえ」

「でも、俺たちは入れない」

 クロロが穴の大きさを手で測るようにする。

「キツネとかなら通れそうだけど、人間じゃ絶対無理だ」

「問題はそこよね」

 クロエも腕を組む。

 せっかく見つけた手掛かり。

 タイルの裏に付着した緑色の液体によって、この穴と昨日の怪物が繋がっている可能性は高まった。

 だが――。

 その先を確かめる方法がない。

「…………」

 クロロはしゃがんだまま、暗い穴の奥を覗き込む。

 その先からは、何の音も聞こえてこない。

 何も動いていない。

 ただ――暗闇だけが続いている。

「……この先に、何があるんだ?」

 クロロの呟きに答える者はいなかった。

 緩んだ一枚のタイル。

 その下に隠されていた、小さな穴。

 そして――タイルの裏側に残された、謎の緑色の液体。

 昨夜のデットリーフへと繋がる手掛かりは――。

 少しずつ、形を持ち始めていた。

「……この先に、何があるんだ?」

 クロロが暗い穴の奥を覗き込みながら呟く。

 その横で――。

「…………」

 アルスは手に持ったタイルと、その下に隠されていた穴を交互に見つめていた。

 タイルの裏側に残された緑色の液体。

 キツネほどの動物なら通れそうな、小さな穴。

 そして昨夜、自分とクロエを襲った緑色の蔓。

「…………なるほどな」

「アルス?」

 クロロが振り返る。

 アルスの表情が先ほどまでとは変わっていた。

「どうしたの?」

 クロエも尋ねる。

「……一個、確信したことがある」

「確信?」

「ああ」

 アルスは手にしていたタイルを全員へ見せる。

「昨日あたしたちを襲った、あの緑のツタ野郎」

 タイルの裏側に付着した緑色の液体を指差す。

「間違いなく――この穴を通って浴場に入り込んだんだ」

「…………!」

 全員が再び穴を見る。

「この緑の液体があいつの痕跡だとすれば、浴場に入る時にタイルの裏へついたってことか」

 クロロが言う。

「ああ。それにこの穴の大きさなら、あいつの蔓は十分通れる」

 アルスは頷く。

「昨日あたしたちが風呂に入ってる時、こいつの下から浴槽に入り込んで……湯の中に潜んでたんだと思う」

「それで私たちを襲った……」

 クロエが表情を険しくする。

「おそらくな」

 そこまでは、かなり可能性が高い。

 しかし――。

「それとな」

 アルスは続けた。

「もう一つ。こっちは確信じゃねえ。あたしの仮説(かせつ)だ」

「何?」

「……このタイルだよ」

 アルスが持っている一枚のタイル。

「タイルが、どうかしたの?」

 クロロにはすぐ意味が分からなかった。

「考えてみろ」

 アルスはタイルを元々あった場所へ近づける。

「昨日、あいつがこの穴から出てきたとするだろ?」

「ああ」

「だったら当然、こいつが邪魔になる」

「…………」

「穴の上にはタイルがあったんだから、あいつは何らかの方法でこいつを動かして外へ出たはずだ」

 そこで――。

 クロエが気づいた。

「……待って」

 その視線が、アルスの手にあるタイルへ向く。

「でも今朝、タイルは穴の上にあった」

「そういうことだ」

 アルスの目が鋭くなる。

 クロロもようやく、その意味を理解した。

「つまり……あいつは穴から出た後――」

「ああ」

 アルスが頷く。

「タイルを元に戻した可能性がある」

「…………!」

 その場にいた全員の表情が変わった。

 エメも驚いたように目を見開く。

「怪物が……自分で?」

「まだ仮説だけどな」

 アルスは念(ねん)を押した。

「たまたま何かの拍子で元の位置に戻った可能性だってゼロじゃねえ。だから、ここは確信とは言えねえ」

 そして。

 タイルの裏側を見る。

「でもよ。もし――あいつが自分でこのタイルを動かして穴から出てきて、その後わざわざ元の位置に戻したんだとしたら……」

 アルスは全員を見渡した。

「昨日のあいつには――知能(ちのう)があるかもしれねえ」

「…………」

 浴場に緊張が走った。

「知能……」

 メメリが小さく呟く。

「ああ」

「ただ本能で人を襲っているだけではない……ということでしょうか?」

「その可能性がある」

 アルスは答える。

「少なくとも、穴を隠すって行動を意図的(いとてき)にやったなら――自分がどこから侵入したのか、あたしたちに知られないようにしたとも考えられる」

「……それって」

 クロロの表情も真剣になる。

「結構まずくないか?」

「ああ。かなりな」

 ただ襲いかかってくるだけの怪物なら、行動を予測する方法はある。

 だが。

 もし相手が考えることができるのなら。

 隠れる。

 逃げる。

 罠(わな)を仕掛ける。

 そして――自分の痕跡を隠す。

 そんな行動まで取る可能性が出てくる。

「昨日もそうだったわ」

 クロエが思い返す。

「私とアルスに敵わないと分かったら、あいつは戦い続けずに逃げた」

「……そういやそうだな」

 クロロが呟く。

「それも、状況を判断した結果だった可能性があるってことか」

「かもしれねえ」

 アルスは答える。

「昔あたしが戦ったデットリーフは、こんな奴じゃなかった」

 人間の負の感情を集め。

 口のついた実へ蓄(たくわ)え。

 その実を他の悪星獣へ与える。

 かつてのデットリーフは――あくまで負の感情を一時的に蓄える『貯蔵(ちょぞう)タンク』のような植物型悪星獣だった。

「それが今は動き回るツタになって、人間を襲って、切られても再生する」

 アルスは穴を睨みつける。

「そのうえ知恵までついてるかもしれねえとなると……あたしが知ってるデットリーフとは、ますます別物みてえになってやがる」

「…………」

 ビークルが静かにエメの車椅子へ手を添える。

「奥様。やはり屋敷の警戒をさらに強めたほうがよろしいかと」

「ええ……そうですね」

 エメも真剣な表情で頷いた。

 一方、メメリは――。

「…………」

 じっと穴を見つめていた。

 昨夜。

 自分が最も恐れていたこと。

 この屋敷の大切な人たちが危険に巻き込まれること。

 それが、すでに起きている。

 だが。

「メメリ」

「……!」

 アルスに呼ばれ、顔を上げる。

「昨日も言っただろ」

「…………」

「今はあたしたちもいる」

 その言葉に――。

 メメリは少しだけ表情を和らげた。

「……はい」

 クロロはそんな二人を不思議そうに見る。

「なんかお前ら、昨日より仲良くなってない?」

「…………」

「…………」

 アルスとメメリが同時に固まった。

「気のせいだ!」

「気のせいですよ、クロロ様」

「なんで二人揃って否定するんだよ……」

「兄さん、今はそんなことどうでもいいでしょ」

 クロエが呆れたように言う。

「はい……」

 クロロは再び穴へ目を向けた。

 昨夜の怪物がこの穴を使ったこと。

 そして――。

 その怪物には、これまで考えていた以上の知能があるかもしれないこと。

 一枚の緩んだタイルから見つかった手掛かりは――。

 新たな警戒すべき可能性を、彼らへ突きつけていた。

 一枚の緩んだタイルから見つかった手掛かり。

 その小さな穴が、昨日のデットリーフの侵入経路である可能性。

 そして――。

 そのデットリーフには、ただ本能のままに動くだけではない、何らかの知能があるかもしれないというアルスの仮説。

「…………」

 メメリは黙ったまま、床に開いた穴を見つめていた。

 その表情は、先ほどまでとは明らかに違っていた。

(……これは……)

 胸の前で、そっと手を握る。

(メメリが思っていたよりも……ずっと大きなことになっているのかもしれません)

 最初は、昨夜突然現れた一体の悪星獣。

 それだけだと思っていた。

 けれど。

 屋敷の中へ繋がる、誰も知らなかった小さな穴。

 そこを通って侵入したと思われる痕跡。

 さらに――侵入経路を隠した可能性まである。

 もしアルスの仮説が正しければ。

 あのデットリーフは、何も考えず偶然この屋敷へ迷い込んできたわけではないのかもしれない。

(…………)

 メメリは静かに顔を上げた。

 その視線の先には――。

 車椅子に座るエメ。

 そして、その傍(かたわ)らに立つビークル。

 二人とも真剣な表情で、クロロたちと話している。

 メメリを助けてくれた人たち。

 行き倒れていた自分を拾い。

 何者なのかも分からない自分を屋敷へ迎え入れ。

 居場所をくれた。

 家族のように接してくれた、大切な人たち。

 だからこそ――。

 メメリは今まで、本当のことを隠してきた。

 自分が記憶喪失だという嘘をついた。

 自分が何者なのか分からないと偽った。

 すべては――。

(皆さんを……巻き込みたくなかったから)

 いつか再び戦いの時が訪れたとしても。

 この屋敷の人たちだけは、その戦いから遠ざけておきたかった。

 自分が【十二星具】の一人――。

【メメリ・エアリーズ】であることを知らなければ。

 きっと、この人たちは巻き込まれずに済む。

 そう思っていた。

 だが――。

「…………」

 メメリは再び、小さな穴へ視線を落とした。

 もう。

 その考えだけでは済まされないところまで来ているのかもしれない。

 実際に悪星獣は屋敷へ侵入した。

 クロエとアルスを襲った。

 もし別の場所に現れていたら。

 もしエメが一人の時だったら。

 もしビークルや他のメイドたちが襲われていたら――。

「…………っ」

 メメリの指先に力が入る。

(隠しておくことが……本当に皆さんを守ることなのでしょうか)

 今までとは逆の考えが、初めてはっきりと胸に浮かんだ。

 何も知らないからこそ。

 危険に気づけないこともある。

 何も知らないからこそ。

 突然起きたことへ対処できないこともある。

 そして何より――。

 事態はすでに動き始めている。

(アルス様の言う通りなら……あのデットリーフには知能があるかもしれません)

 ただの偶然とは思えない。

 それほどまでに、今回の出来事は大きくなり始めている。

 ならば――。

 これ以上。

 自分だけが真実を抱え込んだままでいいのだろうか。

 メメリはエメを見る。

(エメさん……)

 そして。

 ビークルを見る。

(ビークルさん……)

 二人の顔を見つめながら――。

 メメリは心の中で、静かに決意した。

(……お話しします)

 これまで隠してきたこと。

 記憶を失ってなどいなかったこと。

 自分が何者なのか。

 なぜ、それを隠していたのか。

 すべてを――。

(メメリの本当のことを……お二人に)

 怖くないと言えば嘘になる。

 長い間つき続けてきた嘘だ。

 真実を知った二人が、どんな顔をするのか。

 怒るのか。

 悲しむのか。

 それとも――。

 今までと同じように接してくれるのか。

 メメリには分からない。

 それでも。

(もう……隠しているだけでは、皆さんを守れません)

 昨夜アルスにだけ打ち明けた真実。

 今度は――。

 自分を救ってくれた二人にも。

 ちゃんと自分の口から伝えよう。

 メメリは胸の前で握っていた手を、さらに強く握った。

 まだ、口には出さない。

 この場で突然話すことでもない。

 けれど――。

 その瞳には、確かな決意が宿っていた。

 エメとビークルに。

 自分が【十二星具(じゅうにせいぐ)】の一人、メメリ・エアリーズであることを話す。

 そして。

 これまでついてきた嘘についても――。

 すべて、正直に話す。

 そう。

 メメリは心の中で――固く決意した。

 メメリは、胸の前でそっと手を握りしめていた。

 その瞳には――先ほどまでにはなかった、確かな決意が宿っている。

「…………」

 そんなメメリの様子を。

 アルスは少し離れたところから、黙って見ていた。

 昨夜、廊下で二人きりで話したからこそ分かる。

 メメリが何を隠しているのか。

 なぜ隠してきたのか。

 そして――。

 この屋敷の人たちを、どれほど大切に思っているのか。

「…………」

 アルスは何も言わなかった。

 ただ、メメリが自分から動き出すのを待っていた。

 やがて――。

「……エメさん」

 メメリが静かに声をかけた。

「はい?」

 エメが振り返る。

「それから……ビークルさんも」

「私も、でございますか?」

 ビークルもメメリを見る。

 メメリは一瞬だけ言葉に詰まった。

 今まで隠してきたことを話す。

 そう決意したはずなのに。

 いざ二人を前にすると――胸の奥が強く締めつけられる。

 それでも。

「……お二人に、お話ししたいことがあります」

「わたくしたちに?」

「はい」

 メメリは頷く。

「できれば……少し別の場所で、三人だけでお話しできませんか?」

「…………」

 エメとビークルが顔を見合わせた。

 普段のメメリとは少し違う。

 その真剣な表情から、ただの世間話ではないことはすぐに伝わった。

「もちろんです」

 エメは穏やかに答える。

「メメリがそうしたいのであれば」

「ありがとうございます……」

 メメリが小さく頭を下げる。

 すると――。

「なら、行ってこいよ」

 アルスが口を開いた。

「アルス様……」

「ここはもう、あたしたちで調べとく」

 アルスは何でもないことのように言うと、クロロとクロエを見る。

「三人もいりゃ十分だろ?」

「え?」

 突然話を振られ、クロロが目を瞬く。

「三人って……俺とクロエとアルス?」

「他に誰がいるんだよ」

「いや、まあそうだけど」

「私は構わないわ」

 クロエはすぐに頷いた。

「兄さん一人に任せるよりは安心だし」

「なんで俺が一人でやる前提なんだよ」

「兄さんだから」

「理由になってないだろ」

 そんな兄妹のやり取りを横目に、アルスはメメリを見る。

 そしてほんの僅かに――。

「…………」

 頷いた。

 それだけだった。

 けれど。

 メメリには十分だった。

 昨夜、すべてを聞いてくれたアルス。

 だからこそ――。

 今、自分が何をしようとしているのかも分かってくれている。

「……ありがとうございます、アルス様」

 メメリも小さく頷き返した。

「ん」

 アルスはそれ以上、何も言わない。

 クロロはそんな二人を見比べる。

「……やっぱりお前ら、なんかあった?」

「何もねえ!」

「何もありませんよ、クロロ様」

「また同時に否定した……」

「兄さん」

「はいはい、捜索(そうさく)な」

 クロロは納得していない顔をしながらも、再び浴槽の底へ視線を戻した。

「では、奥様。参りましょう」

 ビークルがエメの車椅子へ手を掛ける。

「ええ」

 エメは頷いたあと、メメリを見る。

「行きましょう、メメリ」

「……はい」

 三人は浴場の出口へ向かう。

 その途中。

 メメリは一度だけ振り返った。

 視線の先には――アルス。

「…………」

 アルスは何も言わず、軽く手を上げた。

 行ってこい。

 そう言っているように見えた。

 メメリは小さく微笑む。

 そして今度こそ前を向き――。

 エメ、ビークルとともに浴場を後にした。

 ◇

 三人の姿が見えなくなる。

「さて、と」

 アルスは気持ちを切り替えるように腰へ手を当てた。

「こっちはこっちで続けるぞ」

「ああ」

「分かったわ」

 残ったのは――。

 クロロ。

 クロエ。

 アルス。

 三人は再び、水の抜かれた大浴場の捜索を始める。

 小さな穴。

 タイルの裏に残された緑色の液体。

 そして――知能を持っているかもしれないデットリーフ。

 まだ分からないことは多い。

 クロロたちは、他にも何か痕跡が残されていないか。

 浴槽の底や壁際。

 排水口。

 デットリーフが逃げていった方向。

 一つ一つ、さらに細かく調べていった。

 その一方で――。

 浴場を離れたメメリは。

 エメとビークルとともに、誰にも話を聞かれない別の部屋へと向かっていた。

 これから話すのは。

 長い間、二人に隠し続けてきた――。

 メメリ自身の、本当のことだった。

 ◇

 一方――。

 メメリたちが浴場を離れてからしばらくして。

 捜索を続けていたクロロ、クロエ、アルスの三人は、屋敷の中から場所を移していた。

 三人がやって来たのは――。

 ウィルハード邸の裏手に広がる、大きな庭。

 朝の日差しが降り注ぐ庭には、丁寧に手入れされた草花が広がっている。

 その中央には、大きな噴水(ふんすい)があった。

 サァァァァ――。

 噴水から絶え間なく水が流れ落ち、静かな朝の庭に涼しげな音を響かせている。

「……広いなぁ」

 クロロは庭を見渡しながら呟いた。

 昨日は屋敷の中で過ごすことが多かったため、こうして裏庭をじっくり見るのは初めてだった。

「さすがウィルハード家ってところか」

 アルスも周囲を見回す。

「庭だけで結構な広さだな」

「感心してる場合じゃないでしょ」

 クロエは周囲を警戒しながら歩いていた。

「今はデットリーフの痕跡を探してるのよ」

「分かってるって」

「だったらちゃんと探しなさい」

「探してるよ」

「兄さんは特に足元にも気をつけて」

「はいはい」

「返事は一回」

「はい」

 その様子を見ていたアルスが小さく笑う。

「相変わらずだな、お前ら」

「何か言った?」

「何も言ってねえよ」

 アルスはすぐに視線を逸らした。

 三人が浴場から庭へ移動した理由は単純だった。

 あの小さな穴が――どこへ続いているのか。

 人間が入れない以上、直接中を進んで確認することはできない。

 ならば。

 屋敷の周囲を調べて、穴の出口らしき場所や、デットリーフが残した痕跡を探す。

 そう考えたのだ。

「浴場の下から続いてるなら……」

 クロロは屋敷の方角を確認する。

「どこかで外に出てる可能性もあるよな」

「ああ」

 アルスが頷く。

「ずっと屋敷の地下を通ってるのか、それとも途中で外に繋がってるのかは分かんねえけどな」

「だから、この辺りも調べるってことね」

 クロエは庭の地面へ目を向けた。

「穴……緩んだ土……昨日の緑色の液体……何でもいいわ」

「そういうことだ」

 三人は少し距離を取り、それぞれ庭を調べ始めた。

 クロロは植え込みの周辺。

 クロエは屋敷の外壁(がいへき)に近い場所。

 アルスは噴水の周囲。

「…………」

 アルスはしゃがみ込み、噴水の縁の下まで覗き込む。

「ここには……何もねえか」

 クロロも草を掻き分けながら地面を確認する。

「こっちも普通だな」

「兄さん、素手であまり触らないで」

「分かってるよ」

「さっきからそればっかりじゃない」

「クロエが同じこと何回も言うからだろ」

「兄さんが心配させるからでしょ」

「……俺、そんなに信用ない?」

「ない」

「即答!?」

「くくっ……」

「アルス、笑うな!」

 三人の声に混じって――。

 サァァァァ……。

 噴水の水音が響き続ける。

 一見すれば。

 いつもと何も変わらない、穏やかな朝の庭。

 だが――。

 三人の目的は散歩ではない。

 昨夜、この屋敷へ入り込んだデットリーフ。

 その侵入経路と思われる小さな穴が、どこへ続いているのか。

 そして。

 この庭のどこかにも――。

 あの緑の怪物が残した痕跡がないか。

 クロロたちは噴水のある大きな庭を、少しずつ調べていくのだった。

 しばらくの間――。

 クロロたちは庭の隅々(すみずみ)まで調べ続けていた。

 屋敷の外壁のそば。

 植え込みの陰。

 花壇の周辺。

 地面に不自然な穴が開いていないか。

 土が掘り返されていないか。

 浴場で見つけたものと同じ、緑色の液体が残っていないか。

 三人で手分けして探してみたものの――。

「……ないなぁ」

 クロロが腰に手を当て、深く息を吐いた。

「こっちには何もない」

「私の方もよ」

 クロエも植え込みの中を確認してから立ち上がる。

 アルスも周囲を見回しながら戻ってきた。

「あたしの方も収穫なしだ」

「うーん……」

 クロロは腕を組んだ。

 浴場で穴を見つけた時は、これで何か大きな手掛かりが掴めると思った。

 だが――。

 肝心の穴がどこへ続いているのかが分からない。

 屋敷の裏まで来て探してみても、それらしい出口は見つからなかった。

「結構探したんだけどなぁ……」

 クロロは疲れたように肩を落とす。

 朝からずっと、しゃがんだり立ったり。

 地面を覗き込んだり、植え込みを掻き分けたり。

 昨夜は見張りもしていたため、疲れが少しずつ溜まっていた。

「ちょっと休憩……」

 クロロは庭の中央にある大きな噴水へ歩いていく。

 サァァァァ――。

 規則正しい水音。

 噴水の縁まで来ると――。

「よいしょっと」

 クロロは、その淵(ふち)へ腰を掛けた。

「ふぅぅ……」

 両手を後ろについて、少し身体を反らす。

「何にも見つからないな……」

 朝の柔らかな日差し。

 涼しげな噴水の水音。

 昨夜の騒動など嘘だったかのように、庭には穏やかな時間が流れている。

「兄さん」

 クロエが近づいてくる。

「休むのはいいけど、油断しないでよ」

「分かってるって……ちょっと座るくらいいいだろ」

「昨日あんなことがあったばかりなんだから」

「クロエは元気だなぁ……」

「兄さんが疲れすぎなのよ」

「昨日、見張りもしたからな……」

「それは……そうだけど」

 クロエは少しだけ言葉を弱めた。

 本当なら兄には休んでほしい。

 だが、今は何が潜んでいるか分からない。

 その二つの気持ちが混ざっているのが、表情からも分かる。

「ま、少しくらい休ませてやれよ」

 アルスも噴水の近くへやって来た。

「探し物ってのは、ずっと集中してると逆に見落としたりするからな」

「アルスがまともなこと言ってる……」

「どういう意味だ!」

「そのままの意味――痛っ!」

 アルスがクロロの頭を軽く小突く。

「何すんだよ!」

「余計な一言を言うからだ!」

「二人とも何やってるのよ……」

 クロエが呆れたようにため息をつく。

「はぁ……」

 クロロはもう一度息を吐くと、噴水の淵に座ったまま庭をぼんやりと眺めた。

「……それにしても、本当に何もないな」

 背後では――。

 サァァァァ……。

 噴水から流れ落ちる水の音が、絶え間なく響いていた。

 浴場で見つけた、小さな穴。

 その先がどこへ続いているのか。

 デットリーフは今、どこに潜んでいるのか。

 まだ何一つ分からないまま――。

 クロロは束(つか)の間、噴水の淵で身体を休めていた。

「……ん?」

 噴水の淵に腰掛けて休んでいたクロロが、ふと眉をひそめた。

 何気なく眺めていた噴水の水面。

 朝の日差しを反射して、きらきらと揺れる水の中に――。

 一瞬。

 何かが見えた気がした。

「…………?」

 クロロは身体を起こす。

 そしてもう一度、噴水の中へ目を凝(こ)らした。

「今……何かあったような……」

「兄さん?」

 少し離れた場所にいたクロエが声をかける。

 しかしクロロは答えず、噴水の中をじっと見つめていた。

 水面が揺れているせいで、よく見えない。

「……なんだ、あれ?」

 クロロは淵に座ったまま身体の向きを変える。

 そして――。

 ぐっと上半身を前へ倒し、水面へ顔を近づけた。

「…………」

 噴水の中を覗き込むクロロ。

 その背中は――。

 ちょうどアルスの方へ向いていた。

「…………」

 アルスはその背中を見た。

 無防備にこちらへ向けられた背中。

 すぐ目の前には噴水。

 クロロは何かに集中していて、こちらをまったく気にしていない。

「…………」

 アルスの口元が――。

 ニィ……。

 と、悪戯(いたずら)っぽく吊り上がった。

「……へへっ」

 アルスの頭の中に、一つの悪戯が浮かぶ。

 そーっと。

 そーっと――。

 足音を立てないように、クロロの背後へ近づいていく。

「……?」

 クロエがそんなアルスの動きに気づいた。

「ちょっとアルス、何して――」

 アルスは人差し指を口元へ当てる。

「しーっ」

「…………」

 嫌な予感しかしない。

 一方のクロロは、そんな二人の様子にはまったく気づいていなかった。

「もうちょっと近くで見れば……」

 さらに身を乗り出す。

 その背中へ――。

 アルスの両手がゆっくり伸びていく。

「……何だろ、あれ」

「クロロ」

「ん?」

 呼ばれて、クロロが振り返ろうとした――。

 その瞬間。

「ほいっ!」

 ドンッ!

「え?」

 背中を押された。

 クロロの身体がぐらりと前へ傾く。

「えっ――ちょっ!?」

 慌てて淵へ手を伸ばす。

 だが――。

 届かない。

「ああああああああっ!?」

 バッシャァァァン!!

 盛大な水音とともに――。

 クロロは頭から噴水の中へ落ちた。

「兄さぁぁぁん!?」

 クロエの叫び声が庭に響き渡る。

 水しぶきが高く舞い上がり。

 その一部がアルスにも降りかかった。

「ぶはっ!」

 数秒後。

 クロロが勢いよく水面から顔を出した。

 髪はびしょ濡れ。

 服もびしょ濡れ。

 前髪からポタポタと水滴が落ちている。

「…………」

 クロロは無言だった。

「…………」

 アルスも無言。

 そして――。

「ぷっ……」

 アルスの頬が膨らむ。

「くっ……くくっ……!」

 必死に堪えようとする。

 しかし。

「アッハハハハハハ!!」

 無理だった。

「見ろよクロロ! びっしょびしょじゃねえか!」

「…………アルス」

 クロロの低い声。

「ん?」

「お前……」

 クロロはゆっくりと顔を上げた。

「何してくれてんだぁぁぁぁ!!」

「アハハハハハ!」

「笑うなぁぁぁ!」

「だってよ! あんな無防備に背中向けてたら押したくなるだろ!」

「ならねえよ普通!」

「なる!」

「ならない!」

「アルス!!」

 今度はクロエの怒声(どせい)が飛んだ。

「何考えてるのよ! 兄さんが怪我したらどうするの!」

「わ、悪かったって!」

「悪かったで済むと思ってるの!?」

「いやでも、そんな深くねえし――」

「そういう問題じゃない!」

 クロエの剣幕(けんまく)に、さすがのアルスも一歩後ずさる。

「兄さん! 大丈夫!?」

「あ、ああ……怪我はしてない」

「本当に?」

「うん。ただ……」

 クロロは水の中に立ったまま、自分の服を見る。

「……全身びしょ濡れだけど」

「…………」

「…………」

 クロエの額に青筋が浮かんだ。

「アルスぅ……?」

「待てクロエ。落ち着け。話し合おう」

「何を?」

「……あたしも今ちょっと反省してる」

「ちょっと?」

「かなり反省してます」

 アルスが珍しく敬語になった。

「ったく……」

 クロロは濡れた髪を掻き上げる。

「最悪だ……」

「悪かったってクロロ」

「後で覚えとけよ」

「お、おう……」

 そう言いながら――。

 クロロはふと動きを止めた。

「……そうだ」

「どうしたの、兄さん?」

「俺、遊んでて噴水覗いてたんじゃないんだよ」

「え?」

 アルスも笑うのをやめる。

 クロロは先ほど自分が覗き込んでいた辺りへ視線を戻した。

 今はもう――。

 自分自身が噴水の中にいる。

 水面越しに見る必要はない。

「ここからなら……」

 クロロは目を細める。

「さっき見えたものを、もっと近くで確認できる」

「何かあったの?」

「ああ」

 クロロは水の中をゆっくり進む。

「何なのかは、まだ分からないけど……」

 クロエとアルスも噴水の淵から、その様子を見守る。

「確か――」

 クロロは水中へ目を凝らしながら。

 先ほど気になった――噴水の中の何かへと近づいていった。

「確か、この辺りだったはず……」

 噴水の中へ落とされたクロロは、先ほど水面越しに見えたものを探しながら、ゆっくりと水の中を進んでいく。

 濡れた服が身体に張りついて動きづらい。

 それでも、水の中に入ったことで先ほどよりずっと近くから確認できるようになった。

「兄さん、本当に大丈夫?」

 噴水の外からクロエが心配そうに声をかける。

「大丈夫だって。せっかくびしょ濡れになったんだし、ちょっと確認してみる」

「せっかくって……」

「悪かったって……」

 アルスが気まずそうに頭を掻いた。

 その時――。

「……あった」

 クロロが動きを止める。

 噴水の内側。

 水中に沈んでいる側面には、大きな排水溝(はいすいこう)が取り付けられていた。

 その蓋(ふた)の隙間に――。

 何かが付着している。

「……緑色?」

 水面の上からでは、揺らめいてよく見えなかったもの。

 クロロは大きく息を吸い込む。

「ちょっと潜ってくる」

「気をつけてよ、兄さん」

「ああ」

 クロロはそのまま――。

 ザブンッ。

 水中へ潜った。

「…………」

 目を開け、排水溝へ近づいていく。

 そして――。

(これ……!)

 クロロの目が大きく開く。

 排水溝の蓋に付着していたもの。

 それは――。

 浴場のタイルの裏側に残されていたものと同じ。

 緑色の液体だった。

(やっぱり……!)

 浴場の穴。

 タイルの裏に付着していた緑色の液体。

 そして。

 庭の噴水にある排水溝にも、同じ痕跡。

(もしかして……浴場で見つけた穴、この排水溝と繋がってるのか?)

 クロロはさらに詳しく確認しようとした。

 水中を進み――。

 排水溝の蓋へ顔を近づける。

(この奥が見えれば――)

 その瞬間。

 ガタンッ!!

(――え?)

 排水溝の蓋が――。

 突然、外れた。

 水中をゆっくりと沈んでいく蓋。

 そして。

 その奥に広がる真っ暗な排水溝の中から――。

 ギュルッ!!

 勢いよく何かが飛び出した。

(なっ――!?)

 緑色の――ツタ。

 昨日。

 浴場でクロエとアルスを襲ったものと同じ。

 先端に不気味な口を持つ、緑色のツタの化け物だった。

(こいつ――!!)

 クロロが離れようとする。

 だが。

 水中では思うように身体が動かない。

 ツタは一瞬でクロロへ迫り――。

 ギュルンッ!!

(――っ!?)

 クロロの首へ巻きついた。

「――――!!」

 声を出そうとしても。

 水中では叫ぶことすらできない。

 次の瞬間。

 グンッ!!

 強烈な力で――。

 クロロの身体が排水溝の方へ引っ張られた。

(まずっ――!!)

 クロロは必死にツタを掴む。

 だが、緑色のツタは首へ絡みついたまま、容赦(ようしゃ)なくクロロを排水溝の中へ引きずり込もうとする。

 水面の上では――。

「…………?」

 クロエが異変に気づいた。

 水中に見えていたクロロの身体が、突然大きく揺れた。

 そして。

 バシャッ! バシャバシャッ!!

 水面からクロロの足が現れ――激しくばたつき始めた。

「――兄さん!?」

 クロエの顔色が変わった。

「クロロ!?」

 アルスもすぐに気づく。

「何かに引っ張られてる!」

 二人は迷わなかった。

「兄さん!!」

 クロエが噴水へ飛び込み、クロロの脚を掴む。

 アルスも続いて身を乗り出した。

「クロエ! 引っ張れ!」

「分かってる!」

 二人でクロロの身体を掴み――。

「せぇぇぇのっ!!」

 力いっぱい引っ張る。

 水中では。

(ぐっ……!!)

 クロロの首を締めつけるツタ。

 外へ引っ張るクロエとアルス。

 排水溝へ引きずり込もうとする怪物。

 クロロの身体が両側から引っ張られる。

「絶対……離さない!」

 クロエが歯を食いしばる。

「兄さんを――」

 さらに力を込める。

「持っていかせるもんですかぁぁぁ!!」

「うおおおおっ!!」

 アルスも同時に引いた。

 その瞬間――。

 ズルッ!!

 クロロの首へ巻きついていたツタが緩んだ。

「今だ!」

 二人が一気に引き上げる。

 ザバァァァン!!

「――っ、げほっ! ごほっ、ごほっ!!」

 クロロの顔が水面から出た。

「兄さん!!」

 クロエとアルスはそのままクロロを噴水の外へ引きずり出す。

 クロロは地面へ両手をつくと――。

「げほっ! ごほっ……! かはっ……!」

 激しく咳き込んだ。

 少し長く水中にいたせいで、息が乱れている。

「兄さん! 兄さん、大丈夫!?」

 クロエはすぐにクロロのそばへ膝をついた。

「どこか痛い!? 息はできる!?」

「ごほっ……だ、大丈夫……」

「本当に!?」

「ああ……ちょっと……水飲んだだけ……ごほっ……」

 そう答えながら、クロロは首元を押さえる。

 そこには、先ほどツタが巻きついていた感触がまだ残っていた。

「……あいつ……いた……」

「え?」

 クロロは咳き込みながら噴水を指差した。

「排水溝の中……昨日の……緑のツタ……!」

「――!」

 アルスの表情が一変した。

「やっぱりここにいやがったのか!」

 アルスはすぐに立ち上がる。

 片手を前へ出すと――。

 魔力(まりょく)が集まり。

 光とともに、人型のまま扱う通常のスナイパーライフルが形成された。

 アルスは銃を構え、銃口(じゅうこう)を噴水へ向ける。

「出てこい……!」

 クロエもクロロを庇(かば)うように前へ出た。

「兄さんはそこにいて」

「クロエ……」

「今度は絶対に近づかないで」

 その声には怒りが滲んでいる。

 大切な兄を水中へ引きずり込もうとした怪物への――強い怒りが。

 サァァァァ……。

 噴水の水が流れ続ける。

「…………」

 アルスは銃口を動かさない。

「…………来る」

 水面が――。

 揺れた。

 ゴボッ。

 ゴボゴボゴボッ――!

「アルス!」

「分かってる!」

 次の瞬間――。

 バッシャァァァァン!!

 噴水から大量の水が弾け飛んだ。

「――っ!」

 クロロたちの前に――。

 緑色のツタが勢いよく飛び出す。

 一本。

 二本。

 三本――。

 水滴を撒き散らしながら、不気味にうねる無数の緑。

 そしてその先端では――。

 ギチッ。

 ギチギチッ――。

 鋭い歯の並んだ口が開かれていた。

 昨日、浴場で遭遇した――。

 あの緑のツタの化け物。

「……やっぱりてめぇか」

 アルスが銃を構えたまま睨みつける。

 怪物は水面の上で大きく身体をくねらせ――。

 まるで獲物を見定めるかのように。

 クロロ。

 クロエ。

 そしてアルスへ。

 その不気味な口を向けた。

 ◇

 ――その頃。

 屋敷の裏庭でクロロたちが調査を続けている一方、メメリはエメとビークルと共に、屋敷の一室へと場所を移していた。

 部屋の中は静かだった。

 窓から差し込む朝の光が床を淡く照らしている。

 エメは車椅子に座り、その傍らにはビークルが控えている。

 そして二人の正面には――メメリが立っていた。

「…………」

 メメリは俯き、自分の胸元で両手をぎゅっと握っていた。

 話さなければならない。

 そう決意して、二人だけで話がしたいと自分から申し出た。

 それなのに、いざ二人を前にすると――言葉が出てこない。

 これまでずっと隠してきたこと。

 自分が記憶を失ってなどいなかったこと。

 そして――自分が本当は何者なのか。

 それを知った二人が、どう思うのか。

 昨夜アルスにすべてを話した時とは違う。

 エメとビークルは、行く当てもなく倒れていたメメリを助け、居場所を与えてくれた人たちなのだ。

 だからこそ、怖かった。

「メメリ?」

 エメが優しく名前を呼んだ。

「……っ」

 メメリは顔を上げる。

 エメとビークルは、どこか心配そうな表情で自分を見つめていた。

「何か、大切なお話があるのよね?」

「……はい」

 小さく返事をする。

 しかし、その先が続かない。

「メメリは……」

 ようやく口を開いたものの、また言葉が止まってしまった。

 そんなメメリをしばらく見つめていたエメは、ふっと優しく微笑んだ。

「大丈夫よ」

「……え?」

 メメリが目を瞬かせる。

 エメはまっすぐにメメリを見つめていた。

「何をそんなに怖がっているのかは、まだ私には分からないわ。でも――これだけは先に言っておくわね」

 そして、いつもと変わらない穏やかな声で告げた。

「何があっても、私はあなたを嫌いになったりしないわ」

「…………!」

 メメリの瞳が大きく開かれる。

「あなたが何を話そうとしているのか。それがどんな秘密なのか……今は分からない。でも、それを聞いたからといって、今まであなたと過ごしてきた時間までなくなるわけじゃないでしょう?」

「エメ様……」

 メメリの声が微かに震える。

 すると、傍らに立っていたビークルも静かに頷いた。

「私も、奥様と同じ気持ちでございます」

「ビークルさん……」

「メメリ。あなたがこの屋敷へ来てから今日まで、どのように過ごしてきたのかを、私たちは見ております」

 ビークルの口調はいつも通り落ち着いている。

 けれど、その声には確かな温かさがあった。

「ですから、どうか恐れずにお話しください」

 二人の言葉が、メメリの胸へゆっくりと染み込んでいく。

 ずっと怖かった。

 真実を話せば、この場所を失うのではないか。

 嘘をついていた自分を、二人はどう思うのだろうか。

 そんな不安が、ずっと心の奥にあった。

 だが――。

「…………ありがとうございます」

 メメリは胸の前で握っていた手から、ゆっくりと力を抜いた。

 そして、一度だけ大きく息を吸う。

「エメ様。ビークルさん」

 今度は逃げずに、二人の顔を見る。

「お二人に……ずっと黙っていたことがあります」

 エメもビークルも何も言わない。

 ただ、メメリの言葉を待ってくれている。

「メメリは、このお屋敷の前で倒れていた時……記憶がなかったわけではありません」

「……!」

 ビークルの眉がわずかに動く。

 エメも少し驚いた様子を見せた。

「メメリは……自分が誰なのか、ずっと覚えていました」

 ついに口にしてしまった。

 けれど、二人は責めることなく続きを待っている。

 そのことが、メメリにもう一歩踏み出す勇気を与えた。

「メメリという名前も……自分がどこから来たのかも。そして、自分が何者なのかも……全部、覚えていました」

「では……記憶を失っているとおっしゃっていたのは……」

 ビークルの問いに、メメリは申し訳なさそうに目を伏せた。

「……嘘です」

 部屋に静寂が落ちる。

「ごめんなさい……。エメ様にも、ビークルさんにも……皆さんにも、ずっと嘘をついていました」

「…………」

「でも、それには……理由があったんです」

 メメリは再び二人を見た。

 そして――。

 今まで隠し続けてきた、自分の本当の名を口にする。

「メメリの本当の名は――」

 ほんの一瞬、ためらう。

 だが、もう逃げなかった。

「――メメリ・エアリーズ」

 エメとビークルが静かにその名を聞く。

「メメリは……かつて星獣王(せいじゅうおう)様によって生み出された、十二の星の武具(ぶぐ)――」

 メメリは自らの胸にそっと手を当てた。

「十二星具(じゅうにせいぐ)の一人。おひつじ座の星具(せいぐ)です」

「……十二、星具……?」

 エメが驚きに目を見開く。

 ビークルも、さすがにいつもの冷静な表情を保てなかった。

 伝説の中にしか存在しないと思われていたもの。

 数千年前、星獣王と共に悪星王へ立ち向かった十二の星具。

 その一人が――。

 何年もの間、この屋敷でメイドとして働いていた少女だというのだから。

 メメリは二人の反応を見つめながら、静かに続けた。

「はい」

 そして深く頭を下げる。

「これが――メメリがずっと、お二人に隠していた秘密です」

 メメリは、自分が十二星具の一人であることを告げた後、これまでの経緯(けいい)を二人に簡単に説明した。

 かつて悪星王との戦いが終わった後、自分を使っていた英雄――ご主人様と共に暮らしていたこと。

 そのご主人様を見送った後もしばらく同じ家で暮らしていたものの、やがて争いに巻き込まれ、その家さえ失ってしまったこと。

 それから長い長い年月、各地を一人でさまよい続けたこと。

 そして数年前――。

 とうとう持っていたお金も、売れる物もなくなり、食事すら満足に取れなくなってしまったこと。

 意識が朦朧(もうろう)とする中で歩き続け、最後にはこのウィルハード邸の前で力尽きたこと。

 さらに――。

 そこで聞いた正体不明の声。

『ここにとどまり、時を待つのだ』

 その言葉を、メメリ自身が『星の導き』と呼んでいたこと。

 そして、この屋敷で過ごしているうちにクロロたちが現れた。

 クロロがアルス・サジタリアスと契約し、残る十二星具を探していると知ったことで、あの声が告げていた『時』とは、クロロがここへやって来る時だったのではないか――そう考えるようになったこと。

 メメリは必要なことだけを選びながら、できるだけ短く二人へ説明していった。

 そして最後に――。

「メメリが記憶を失ったふりをしていたのは……皆さんを巻き込みたくなかったからです」

 メメリは膝の上で両手を握り締めた。

「十二星具である以上、いつかまた戦わなければならない時が来るかもしれないと思っていました。もしメメリの正体を皆さんが知れば……その時、このお屋敷の皆さんまで危険なことに巻き込んでしまうかもしれないって……」

 エメもビークルも口を挟まない。

 二人はただ真剣な表情で、メメリの話を聞き続けていた。

「だから……何も覚えていないことにしました」

「…………」

「エメ様にも、ビークルさんにも……ほかの皆さんにも、本当のことを言えませんでした」

 そして昨夜、この屋敷をデットリーフが襲ったこと。

 今朝の調査で、その脅威が思っていた以上に大きなものかもしれないと分かったこと。

 それをきっかけに――もう隠し続けるべきではないと決めたこと。

 そこまで話したところで、メメリは口を閉じた。

「…………以上です」

 部屋が静まり返る。

 全部――話してしまった。

 何年もの間、心の奥にしまい込んできた秘密。

 エメたちにだけは知られまいとしていた自分の正体を、ついにすべて話してしまった。

「…………」

 メメリの肩が少しだけ落ちる。

 覚悟を決めたはずだった。

 それでも、いざ話し終えてしまうと胸の中に不安が広がっていく。

(……ついに、全部話してしまいました……)

 怖くなって、二人の顔を見ることができない。

 嘘をつかれていたと怒るだろうか。

 悲しむだろうか。

 それとも――。

 今までと同じようには接してもらえなくなるのだろうか。

 メメリは俯いたまま、二人の言葉を待った。

 やがて――。

「……よかった」

「……え?」

 予想していなかった言葉に、メメリが顔を上げる。

 エメは胸に手を当てていた。

 その表情に怒りはない。

 むしろ――心からほっとしたような顔をしていた。

「安心したわ」

「…………え?」

 メメリは目をぱちぱちさせる。

 隣に立っていたビークルも、静かに息を吐いた。

「ええ。私も安心いたしました」

「ビ、ビークルさんまで……?」

 まったく予想していなかった反応だった。

「……あの」

 メメリは困惑(こんわく)しながら二人を見る。

「メメリ……ずっとお二人に嘘をついていたんですよ?」

「ええ」

 エメはあっさりと答えた。

「しかも、メメリは十二星具で……これから何が起きるのかも……」

「それも聞いたわ」

「だったら……どうして……」

 メメリには分からなかった。

 自分は今、とても重大な秘密を打ち明けたはずなのに。

 どうして二人が最初に口にした言葉が――。

『安心した』

 なのだろう。

 エメとビークルは顔を見合わせる。

 そして再び、目の前で戸惑っているメメリへと視線を向けた。

「……どうして、安心したんですか?」

 メメリが恐る恐る尋ねる。

 するとエメは、少し困ったように笑った。

「だって私たち、ずっと心配していたのよ」

「……心配?」

「ええ」

 エメは静かに頷いた。

「あなたがこの屋敷の前で倒れていた時、自分の名前以外は何も覚えていないと言ったでしょう?」

「…………はい」

「だからずっと考えていたの。あなたには本当は家族がいるんじゃないか。あなたの帰りを待っている人が、どこかにいるんじゃないかって」

「……!」

 メメリが目を見開く。

 ビークルも静かに続けた。

「記憶を失っている以上、それを確かめる術(すべ)がございませんでしたからな」

「いつか突然、記憶が戻るかもしれない。そうしたら、とてもつらい過去を思い出してしまうかもしれない……」

 エメの表情が少し曇る。

「それに……あなたがどうしてあんな状態で、この屋敷の前に倒れていたのかも分からなかった」

 食べる物もなく、身につけていた物もほとんどなく、ひどく衰弱(すいじゃく)した状態で倒れていた少女。

 何があったのか。

 どこから来たのか。

 誰かにひどい目に遭わされたのではないか。

 どこかで誰かがメメリを探しているのではないか。

 エメたちには、それすら分からなかった。

「あなたが笑ってこの屋敷で過ごしてくれるようになってからも……心のどこかでは、ずっと気になっていたのよ」

 エメは優しく微笑む。

「もし記憶が戻った時、あなたが帰りたい場所を思い出したのなら……私は笑って送り出してあげなくちゃって」

「エメ様……」

「もちろん、本当は寂しいけれどね」

 エメは少しだけ冗談めかして付け加えた。

 ビークルも小さく頷く。

「私も同様でございます。メメリが何者であるか分からなかったことそのものよりも、あなた自身が自分の過去を知らないままでいることのほうが心配でした」

「…………」

「ですが、今のお話を聞いて分かりました」

 ビークルは穏やかな眼差(まなざ)しをメメリへ向ける。

「あなたは自分が誰なのかを知っている。自分がどこから来たのかも、これまで何をしてきたのかも覚えている」

 エメがその言葉を引き継いだ。

「だから、安心したの」

「…………!」

「もちろん、あなたが十二星具だったなんて驚いたわよ?」

 エメはくすっと笑う。

「まさか伝説に出てくる存在が、毎朝私に紅茶を淹(い)れてくれていたなんて思わなかったもの」

「そ、それは……」

 メメリの頬がわずかに赤くなる。

「ですが――」

 ビークルが口元をほんの少し緩める。

「十二星具であろうと、メイドであろうと、メメリはメメリでしょう」

「……!」

 その言葉に、メメリの胸が大きく鳴った。

 エメも迷うことなく頷いた。

「そうよ」

 そして――エメはメメリへ手を伸ばした。

 メメリは一瞬戸惑ったものの、その手をそっと握る。

「あなたが何者なのか分かったからといって、私たちにとってあなたが別の誰かになるわけじゃないわ」

「エメ様……」

「私が知っているのは、いつも一生懸命で、誰かが困っていたら放っておけなくて、少し頑張りすぎてしまう――この屋敷の大切なメメリよ」

 メメリの瞳が揺れる。

「それにね」

 エメは握った手を優しく包み込んだ。

「あなたが嘘をついた理由も、自分を守るためじゃなかった」

「…………」

「私たちを危険に巻き込みたくなかったからでしょう?」

 メメリはゆっくりと俯いた。

「……はい」

「だったら、怒れないわよ」

「ですが……嘘をついていたことには変わりありません……」

「それはそうね」

 エメはあっさり認めた。

「……うっ」

 メメリの肩が小さく縮こまる。

 その反応がおかしかったのか、エメは小さく笑った。

「だから、そこだけは少し反省してもらおうかしら」

「……はい」

「これから一人で抱え込まないこと」

「え……?」

 メメリが顔を上げる。

 エメの表情は、とても優しかった。

「私たちを守ろうとしてくれたことは嬉しい。でも、あなた一人が何もかも背負う必要はないのよ」

「エメ様……」

「何かあったら話して。危険なことなら、一緒に考えましょう」

 ビークルも頷く。

「この屋敷に仕える者たちも、皆それぞれ自分で考え、行動できる者たちです。危険から遠ざけることと、何も知らせないことは同じではございません」

「…………」

「それに――」

 エメはメメリの手を握ったまま微笑んだ。

「あなたが私たちを大切に思ってくれているように、私たちだってあなたを大切に思っているのよ」

 その瞬間――。

 メメリの目に、うっすらと涙が浮かんだ。

 ずっと恐れていた。

 本当の自分を知られたら、この場所にはいられなくなるのではないか。

 十二星具という存在を怖がられるのではないか。

 嘘をついていた自分を嫌いになるのではないか。

 けれど――。

 何も変わらなかった。

「……ずるいです」

 メメリがぽつりと呟いた。

「え?」

「そんなことを言われたら……メメリ……」

 声が震える。

 メメリは慌てて目元を拭った。

「泣かないようにしていたのに……我慢できないじゃないですか……」

「ふふっ」

 エメは優しく笑った。

 ビークルも、そんな二人を穏やかな表情で見守っている。

 長い年月を生きてきた十二星具。

 かつてのご主人様を失い、帰る家を失い、何百年もの間さまよい続け――。

 ようやくたどり着いたこの場所。

 そこはもう、ただ一時的に身を寄せていた屋敷ではなかった。

 メメリにとって――。

 帰ることのできる、大切な家になっていた。

「泣かないようにしていたのに……我慢できないじゃないですか……」

 そう言って目元を拭うメメリ。

 けれど、一度溢れ出してしまった涙は、なかなか止まってくれなかった。

「……ごめんなさい……」

 メメリは俯きながら、何度も涙を拭う。

 その姿を見つめていたエメは――ゆっくりと車椅子を動かした。

「メメリ」

「……はい……?」

 呼ばれて、メメリが顔を上げる。

 エメはすぐ目の前まで来ると、メメリへ向かって両腕を伸ばした。

 そして――。

「……!」

 ぎゅっ――。

 メメリの身体を、強く抱きしめた。

「エ、エメ様……?」

 突然のことに、メメリは目を丸くする。

 だがエメは何も言わず、その身体をさらに強く抱き寄せる。

 まるで――もう二度と離したくないと伝えるように。

「……よかった」

 耳元で、エメの声が聞こえた。

「本当に……よかった……」

 その声は、先ほどまでより少しだけ震えていた。

「あなたが自分のことをちゃんと覚えていて……」

「…………」

「そして……私たちを守ろうとして、ずっと一人で秘密を抱えていたのね」

「エメ様……」

 メメリの手が宙をさまよう。

 どうすればいいのか分からなかった。

 長い年月を生きてきた。

 かつてのご主人様と過ごした時間もあった。

 大切な人を失った。

 帰る場所を失った。

 そして、何百年という長い時間を一人で歩き続けてきた。

 だから――。

 誰かにこんなにも強く抱きしめられる感覚を、メメリはいつの間にか忘れていた。

「……っ」

 胸の奥が熱くなる。

 止まりかけていたはずの涙が、また溢れてくる。

「メメリ」

 エメは優しく語りかける。

「あなたが十二星具でも……何百年も生きていても……そんなことは関係ないわ」

「…………」

「あなたは、あなたよ」

 その言葉を聞いた瞬間――。

 メメリも、そっと腕を伸ばした。

 そしてエメの背中へ腕を回す。

 最初は壊れ物に触れるように、恐る恐る。

 けれど――。

「……エメ様ぁ……」

 やがてメメリも、エメをぎゅっと抱きしめ返した。

「ごめんなさい……メメリ……ずっと……ずっと嘘をついてて……」

「もういいのよ」

「でも……っ」

「いいの」

 エメはメメリの頭を優しく撫でる。

「今、話してくれたでしょう?」

「……はい……」

「それで十分よ」

「…………っ」

 メメリはエメの肩に顔を埋めた。

 もう涙を隠そうとはしなかった。

「うぅ……エメ様……」

 長い年月を生きてきた十二星具とは思えないほど、今のメメリはただ一人の少女のようだった。

 エメもまた、そんなメメリを何も言わず抱きしめ続ける。

 その様子を少し離れたところから見守っていたビークルは――静かに目を細めた。

 いつも冷静な老執事(ろうしつじ)の表情にも、穏やかな笑みが浮かんでいる。

 しばらくして。

 メメリの涙が少し落ち着いた頃、エメはそっと身体を離した。

 けれど、その手だけはメメリの手を握ったままだった。

「ねえ、メメリ」

「……はい」

 涙で濡れた瞳を向けるメメリに、エメは微笑む。

「これから先、あなたが十二星具として戦わなければならない時が来るのかもしれない」

「…………はい」

「それでも――」

 エメはメメリの手を強く握る。

「ここがあなたの家だということは、何も変わらないわ」

「……!」

「どこへ行ったって、何をしなくちゃいけなくなったって……帰ってきたくなったら、いつでも帰ってきなさい」

 メメリの瞳から、また一粒の涙が零れ落ちた。

 けれど今度の涙は――。

 不安や罪悪感(ざいあくかん)から流れたものではなかった。

「……はい!」

 メメリは涙を浮かべながらも、満面(まんめん)の笑顔で頷いた。

「ありがとうございます……エメ様!」

 長い長い旅の果てに見つけた場所。

 それはメメリにとって、ただ身を置くための場所ではない。

 大切な人たちが待ってくれている――。

 かけがえのない家だった。

 そんな温かな時間が、もう少しだけ続く――。

 誰もが、そう思っていた。

 メメリは涙を拭いながら、エメの手を握っていた。

 長い間胸の奥に抱えていた秘密を打ち明け、それでも変わらず受け入れてもらえた。

 張り詰めていたものがようやく解け、メメリの表情にも安堵(あんど)が浮かんでいる。

 エメも、ビークルも同じだった。

 しかし――。

 その穏やかな時間は、突如(とつじょ)として打ち破られた。

 ――ズドォンッ‼

「――っ!?」

 屋敷の外から、重く鋭い音が鳴り響いた。

 窓ガラスが微かに震える。

「な、何……!?」

 エメが驚いて窓の方を見る。

 ビークルも一瞬で表情を引き締め、音がした方向へ顔を向けた。

 そして――。

「…………!」

 メメリだけは、その音を聞いた瞬間に何が起きたのかを察していた。

 今の音。

 ただ何かが壊れた音ではない。

 聞き覚えがある。

 昨夜の戦いでも耳にした――銃声(じゅうせい)。

「今のは……」

 メメリが呟く。

 先ほどまで涙を流していた表情から、柔らかさが消えていく。

「メメリ?」

 エメが尋ねると、メメリは窓の外へ視線を向けたまま答えた。

「……アルス様のライフルです」

「アルスさんの……?」

 ――ズドンッ‼

 再び。

 今度は先ほどよりもはっきりと、銃声が屋敷まで届いた。

「……っ!」

 メメリが立ち上がる。

 間違いない。

 アルスが戦っている。

 しかも――一発では終わっていない。

「まさか……!」

 頭をよぎったのは、今朝まで調べていた緑色の怪物。

 デットリーフ。

 昨夜、クロエとアルスを襲い、屋敷のどこかへ逃げ込んだ存在。

 先ほど浴場で見つけた穴。

 タイルの裏に残されていた緑色の液体。

 そして、アルスが口にした可能性。

 ――今のデットリーフには、知性(ちせい)があるかもしれない。

 メメリの胸に嫌な予感が走った。

「クロロ様たちが……!」

 そう言った直後――。

 ――ズドドンッ‼

 三度目の銃声。

 今度は、それまでよりも激しい。

 ビークルもすぐに状況を理解する。

「裏庭の方角ですな」

「……はい!」

 クロロたちは今、裏庭を調査している。

 そこからアルスの銃声が聞こえた。

 理由など、一つしか考えられない。

 何かが起きている。

「エメ様!」

 メメリは振り返る。

「行ってきます!」

 迷いはなかった。

 つい先ほどまで涙を流していた少女の顔ではない。

 その瞳には、はっきりとした決意が宿っていた。

 十二星具――。

 メメリ・エアリーズとしての顔だった。

 エメは一瞬驚いたものの、すぐに頷いた。

「ええ、行ってらっしゃい」

「……!」

 その言葉に、メメリの瞳が僅かに揺れる。

 行ってらっしゃい。

 その一言が、不思議なほど胸に響いた。

 ここには帰ってくる場所がある。

 ならば――。

「はい!」

 メメリは力強く頷く。

「行ってきます!」

 そして勢いよく部屋の扉を開け、廊下へ飛び出した。

 タッタッタッタッ――!

 普段のメメリからは想像できないほどの速さで、長いメイド服の裾(すそ)を揺らしながら廊下を駆け抜けていく。

 その背中を見送りながら、エメは胸元にそっと手を当てた。

「……メメリ」

 心配がないわけではない。

 むしろ――怖い。

 だが今は、彼女を信じる。

 ビークルも静かに窓の外へ目を向ける。

 その時――。

 ――ズドォンッ‼

 再び、アルスのライフルの銃声が鳴り響いた。

 メメリは走る。

(クロロ様……クロエ様……アルス様……!)

 階段を駆け下り、裏庭へと続く方向へ急ぐ。

(どうか――無事でいてください!)

 先ほどまでの温かな空気とは打って変わり――。

 ウィルハード邸に、再び戦いの音が響き始めていた。

メメリの秘密が明かされたその直後、屋敷の裏庭から鳴り響く銃声。

駆けつけた先で待っていたのは、再び暴れ始めた無数の緑のツタだった――。

次回、第八章「緑の魔手が狙うもの」。屋敷を覆う脅威との戦いが始まる。

第七章まで読んでいただき、ありがとうございます!


今回は戦闘から少し離れて、クロロとメメリを中心としたお話でした。

夜の廊下で交わした二人の会話や、メメリが抱えている秘密について、皆さんがどう感じたのか気になっています。

「この場面が好きだった」

「メメリについてこう予想している」

「クロロのこの言葉が印象に残った」

など、どんなことでも大歓迎です!

皆さんの予想や感想を読むのも楽しみにしています。

よければ気軽に感想を残していただけると嬉しいです!

次回、屋敷を覆う異変はさらに大きくなっていきます。


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