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第六章 屋敷うごめく緑の影

 ウィルハード家の屋敷やしきに一晩泊まることになったクロロたち。

 エメの厚意こういによって、三人には宿泊しゅくはくするための客室きゃくしつが用意されることになった。

 そして――。

「こちらがクロロ様のお部屋になります」

 屋敷やしきのメイドに案内され、クロロは一つの客室きゃくしつの前で足を止めた。

「うわ……」

 扉を開けたクロロは、思わず声を漏らす。

 広々とした室内。

 綺麗に整えられた大きなベッド。

 立派な家具も置かれており、旅の途中で一晩過ごすには豪華ごうかすぎるほどだった。

「すごいな……本当にここ使っていいのか?」

「はい。奥様から、皆様にはゆっくり身体を休めていただくよう申しつけられております」

「エメさんには感謝しないとな」

 クロロは嬉しそうに部屋を見回す。

 その一方で――。

「…………」

 クロエは無言だった。

「クロエ?」

「…………」

「どうした?」

「……別に」

 そう答えるクロエだったが、明らかに不機嫌そうだった。

 理由は簡単である。

 クロロに用意されたのは――一人部屋。

 そしてクロエに用意された部屋は。

「クロエ様とアルス様には、こちらのお部屋をご用意しております」

「おう、ここか」

 アルスが隣の客室きゃくしつを覗のぞき込む。

 中には二つのベッドが並んでいた。

「結構いい部屋じゃねえか」

「…………」

「なあ、クロエ」

「…………」

「おい?」

 アルスがクロエの顔を覗のぞき込む。

「なんでそんな不満そうなんだよ」

「別に不満なんてないわよ」

「顔に書いてあんぞ」

「書いてない!」

 クロエは即座そくざに言い返す。

 だが――。

(なんでよ……!)

 心の中では、思いっきり不満をぶちまけていた。

(どうして私がお兄様と別の部屋なのよ!)

 せっかく同じ屋敷に泊まることになったのだ。

 クロエとしては、ほんの少し――本当にほんの少しだけ――クロロと同じ部屋になることを期待していた。

(兄妹なんだから一緒の部屋でも別におかしくないじゃない!)

 そして何より。

 クロエは隣に立つアルスをちらりと見る。

「ん?」

「…………」

(どうしてよりによって、この女と同じ部屋なのよ!)

「お前、やっぱなんか文句あんだろ?」

「ないわよ!」

「じゃあなんで睨にらんでんだよ」

「睨んでない!」

 二人の間に火花が散る。

「また始まった……」

 クロロは呆あきれたようにため息をついた。

「二人とも、せっかく部屋を用意してもらったんだから喧嘩けんかするなよ」

「兄さん」

 クロエがクロロを見る。

「何?」

「……兄さんは、一人で寝るの?」

「そうみたいだけど?」

「…………」

(私と一緒でもいいのに)

 もちろん、そんな本音を口にできるはずもない。

「何だよクロエ。もしかしてクロロと一緒の部屋がよかったのか?」

 アルスがニヤリと笑った。

「――っ!?」

 クロエの顔が一瞬で赤くなる。

「な、何言ってるのよ!」

「図星ずぼしか?」

「違う!」

「じゃあ問題ねえじゃん。あたしと一緒で」

「それとこれとは別よ!」

「意味分かんねえな」

「うるさい!」

「クロエ、声大きいって!」

 クロロが慌てて止める。

 クロエは赤くなった顔を背けた。

(もう……!)

 そして心の中だけで呟つぶやく。

(せっかくお兄様と一緒に泊まれると思ったのに……)

 ちらり。

 もう一度アルスを見る。

(よりによってアルスと同じ部屋だなんて……!)

 一方――。

 アルスはそんなクロエを見ながら、呆れたように頭をかいた。

「ま、一晩だけなんだから我慢しろよ」

「その言葉、そのまま返してあげるわ」

「はいはい」

「その返事やめなさい!」

 クロロは再びため息をついた。

「……本当に同じ部屋で大丈夫なのか、この二人」

 そんなクロロの心配をよそに――。

 ウィルハード家の夜は、少しずつ更ふけようとしていた。

 この時の三人はまだ知らない。

 今夜、この屋敷で起こることを。

 そして――。

 静かな屋敷のどこかで。

 すでに何かが、動き始めていることを。

 クロエとアルスの口喧嘩は、まだまだ終わる気配がなかった。

「…………」

 クロロは二人を交互に見る。

「あなたと同じ部屋で一晩過ごすなんて、先が思いやられるわ!」

「そりゃこっちの台詞せりふだ! 寝てる間に蹴るんじゃねえぞ!」

「誰が蹴るのよ!」

「お前ならやりそうだろ!」

「やらないわよ!」

「…………もういいや」

 クロロは二人に背を向けた。

「え? 兄さん?」

「クロロ?」

「俺、先に休むから。二人ともほどほどにな」

「ちょ、兄さん!」

 クロエが呼び止めるが――。

「おやすみー」

 クロロは軽く手を振ると、自分に用意された客室きゃくしつへ入っていった。

 パタン。

 扉を閉めた瞬間――。

「はぁぁぁぁ……」

 クロロの口から、大きなため息が漏れた。

 途端とたんに廊下で言い争う二人の声が遠くなる。

「疲れた……」

 旅を始めて三日。

 慣れない道を歩き続け、そのうえ今日は森の中で完全に迷子。

 同じ場所を何度もぐるぐる回り、ようやくメメリと出会ってこの屋敷まで辿たどり着いた。

 身体はとっくに限界に近かった。

 クロロは部屋の奥にある大きなベッドを見る。

「…………」

 ふかふかの布団。

 綺麗に整えられたシーツ。

 旅の疲れが溜まっているクロロにとって、それはあまりにも魅力的みりょくてきに見えた。

「……ベッドだ」

 クロロはゆっくり近づく。

 そして――。

「とうっ!」

 ぼふっ!

 勢いよくベッドへ飛び込んだ。

「おおぉぉ……!」

 身体が柔らかな布団へ沈み込む。

「やばい……めちゃくちゃ柔らかい……」

 クロロはうつ伏せのまま、手足を伸ばした。

「最高……」

 森の硬い地面とは比べものにならない。

 歩き続けて重くなった足。

 荷物を背負って凝こり固まった肩。

 全身を包み込む柔らかな感触に、溜まっていた疲れが少しずつ抜けていくようだった。

 クロロはそのまま、ごろんと仰向あおむけになる。

「はぁ……生き返る……」

 天井を眺めながら、大きく息を吐いた。

「旅って……思ってたより大変なんだな」

 大都市だいとしボーンスターにいた頃とは何もかも違う。

 毎日歩かなければならない。

 自分で進む道を決めなければならない。

 寝る場所だって毎日あるとは限らない。

 そして何より――。

 残る十一の十二星具じゅうにせいぐを探すという目的がある。

「十一人か……」

 クロロは右手を天井へ伸ばした。

「どこにいるんだろうな」

 当然、答えは返ってこない。

「ま……考えても仕方ないか」

 今は休もう。

 明日になったらメメリに森を案内してもらい、今度こそ迷わないよう地図を手に入れる。

 そこからまた、旅を続ければいい。

「…………」

 瞼まぶたが少しずつ重くなる。

 だが――。

『星ほしの導みちびきに従したがったの』

 ふと。

 先ほどエメから聞いた、メメリの言葉が頭をよぎった。

「星の導き……か」

 自分もまた、白く輝く鳥に導かれてアルスと出会った。

 だからこそ、その言葉が少しだけ気になった。

「…………まあ、アルスなら何か知ってるかな」

 明日にでも聞いてみよう。

 そう思いながら――。

「ふぁぁ……」

 クロロは大きなあくびをした。

「もう無理……ちょっと寝よ……」

 目を閉じる。

 廊下からはまだ――。

「だからあたしのベッドはこっちだ!」

「窓側は私が使うの!」

「早い者勝ちだろ!」

「そんな決まりないでしょ!」

 二人の声が聞こえてくる。

「……元気だな、あいつら……」

 クロロは苦笑した。

 そして柔らかなベッドへ身体を預ける。

 長い一日の疲れが、一気に押し寄せてきた。

 クロロの意識は――。

 少しずつ、眠りの中へ沈んでいった。

 ◇

 クロロは柔らかなベッドに身体を預けたまま、しばらく動かなかった。

「はぁ……気持ちいい……」

 森の中を歩き回った疲れもあって、一度横になってしまうとなかなか起き上がる気になれない。

 このまま眠ってしまおうか――。

 そんなことを考えながら、クロロがぼんやりと天井を眺めていると。

 コンコン。

「ん……?」

 部屋の扉がノックされた。

「クロロ様、失礼いたします」

 扉の向こうから、女性の声が聞こえてくる。

 メメリではない。

 どうやらウィルハード家に仕えている、別のメイドのようだった。

 クロロはベッドの上で身体を起こした。

「はい」

「お食事の準備が整いましたので、お呼びに参りました」

「食事?」

 その言葉を聞いた途端――。

 ぐぅぅ……。

 クロロの腹が小さく鳴った。

「…………」

 そういえば、屋敷でお茶をもらってから何も食べていない。

 森を長時間歩き回ったこともあり、身体はかなり空腹だった。

「今行きます!」

「かしこまりました。それでは、ご案内いたします」

 クロロはベッドから降りる。

「よし……!」

 少し休んだおかげか、先ほどより身体が軽い。

 服の乱れを簡単に整えてから扉を開けると、廊下には一人のメイドが待っていた。

「こちらでございます」

「ありがとうございます」

 クロロが部屋を出る。

 そして――。

 ふと、隣の部屋を見る。

 そこはクロエとアルスに用意された客室きゃくしつだ。

 先ほどまで廊下に響いていた二人の口喧嘩くちげんかは、いつの間にか聞こえなくなっていた。

「……やっと静かになったか」

 クロロが苦笑する。

 さすがに二人も疲れて休んでいるのだろう。

 ――そう思った直後。

 ガチャッ!

 勢いよく隣の部屋の扉が開いた。

「兄さん!」

「うおっ!?」

 中からクロエが飛び出してくる。

 その後ろからアルスも姿を現した。

「なんだクロロ、お前も呼ばれたのか?」

「うん。夕飯の準備ができたって」

「私たちのところにも、さっき別のメイドが知らせに来たわ」

 クロエが答える。

「ちょうどよかった。それでは皆様、一緒にご案内いたします」

 メイドが丁寧に頭を下げる。

「お願いします」

 クロロたちはメイドの後について歩き始めた。

 豪華ごうかな廊下を進みながら、クロロは隣を歩くクロエとアルスをちらりと見る。

「……二人とも、喧嘩は終わったの?」

「別に喧嘩なんてしてないわ」

「してただろ」

「あなたが言うな!」

「ほら、まだやってるじゃん」

「兄さんは黙ってて!」

「なんで俺まで怒られるんだよ!?」

 アルスが横で笑う。

「ははっ! 大変だな、クロロ」

「あなたも原因でしょうが!」

「いてっ! 叩くな!」

 再び騒がしくなった二人を見て、クロロはため息をつく。

 先を歩いていたメイドも、そんな三人のやり取りを見て小さく微笑んでいた。

 やがて――。

「皆様、こちらでございます」

 メイドが大きな扉の前で立ち止まった。

 その向こうからは、食欲を刺激しげきする温かな料理の香りが漂ただよってくる。

「おお……!」

 クロロの表情が一気に明るくなる。

「めちゃくちゃいい匂い……」

「兄さん、顔に出すぎ」

「腹減ってるんだから仕方ないだろ」

 メイドが扉へ手をかける。

「どうぞ、お入りください」

 そして――。

 三人はウィルハード家で迎える、最初の夕食へ向かうのだった。

 ◇

 メイドに案内され、クロロたちは食堂の中へと入った。

「おお……」

 中へ足を踏み入れたクロロは、思わず辺りを見回す。

 食堂は広く、中央には大きな長テーブルが置かれていた。

 そして、そのテーブルの席には――。

「皆様、お待ちしておりました」

 ウィルハード家の主あるじ、エメが車いすに座ったまま待っていた。

 その両側には、執事しつじのビークルとメメリが控ひかえるように立っている。

「エメさん」

 クロロたちが入ってきたことに気づくと、エメは穏やかな笑みを浮かべた。

「少しはお休みになれましたか?」

「はい。部屋に入ってすぐベッドに飛び込んじゃいました」

「あらあら」

 エメが楽しそうに笑う。

「兄さんったら……」

 クロエは呆れたように呟く。

「いいじゃねえか。森で散々歩いたんだからよ」

 アルスも肩をすくめる。

 すると――。

「皆様、こちらへどうぞ」

 ビークルが静かに歩み寄ってきた。

「クロロ様、こちらのお席へ」

「ありがとうございます」

 クロロが案内された椅子の前まで移動すると、ビークルが椅子を引いてくれる。

「どうぞ」

「すみません」

 クロロは促うながされるまま腰を下ろした。

 一方――。

「クロエ様、アルス様はこちらへどうぞ」

 メメリも二人のもとへ近づき、それぞれの席へ案内する。

「ありがとう、メメリ」

「ありがとうございます」

 クロエが席へ着く。

「ありがとな」

 アルスも椅子へ腰を下ろした。

「いえ」

 メメリはにこりと微笑む。

 三人全員が席に着いたことを確認すると、ビークルとメメリは再びエメの両側へ戻った。

「…………」

 クロロはそんな二人の姿を見つめる。

 ビークルは執事しつじらしく背筋を伸ばし、静かに主人のそばへ控えている。

 その反対側では、メメリも両手を身体の前で重ね、立派なメイドとしてエメのそばに立っていた。

 森で出会った時の親しみやすい姿とは少し違う。

 今はしっかりと――ウィルハード家に仕えるメイドの顔をしている。

(本当にちゃんとメイドやってるんだな……)

 先ほどエメから聞いた話を思い出す。

 屋敷の前で倒れていた少女。

 自分がどこから来たのかも分からず、覚えていたのは自分の名前と『星ほしの導みちびきに従したがった』ということだけ。

 そんなメメリがこの屋敷で暮らし始め、自ら仕事を覚え、今では立派なメイドになった。

 その話を聞いたあとだからこそ――。

 こうしてエメのそばに立っているメメリの姿が、クロロには少し違って見えた。

「クロロ?」

「え?」

 アルスの声にクロロは我に返る。

「何ぼーっとしてんだ?」

「いや、何でもない」

 クロロは苦笑する。

 そんなクロロを――。

「…………」

 アルスが少しだけ目を細める。

 そして、その視線は自然とメメリへ向かった。

『メメリ……星の導きに従ったの』

 エメから聞いた言葉が、再びアルスの頭の中をよぎる。

 森で自分の本名を聞いた時の、メメリの反応。

 記憶のない過去。

 そして――星の導き。

(…………)

 アルスはまだ何も言わない。

 今はクロロにも。

 クロエにも。

 そして――メメリ本人にも。

(確かめるのは……あとだ)

 そう心の中で呟き、アルスは視線を戻した。

 その時――。

「それでは」

 エメが三人を見渡し、優しく微笑んだ。

「せっかく皆様に泊まっていただくのですから、今夜はゆっくりお食事を楽しんでくださいね」

「はい!」

 森を歩き回って腹を空かせていたクロロの返事は、誰よりも早かった。

「兄さん……」

 クロエが小さくため息をつく。

「ははっ、分かりやすいやつだな!」

 アルスが笑う。

「だって腹減ってるんだから仕方ないだろ!」

 そんな三人のやり取りを見て――。

 エメは楽しそうに微笑み。

 ビークルもわずかに表情を緩め。

 そしてメメリも――。

「ふふっ」

 小さく笑っていた。

 やがてエメは両手を胸元へ持ち上げた。

 そして――。

 パン、パン。

 二回、軽く手を叩いた。

「ん?」

 クロロが首を傾げる。

 すると次の瞬間。

 食堂の隣にある厨房ちゅうぼうの扉が開いた。

「おお……!」

 そこから何人ものメイドたちが、次々と姿を現す。

 その手には、大きな皿や銀色の蓋が被せられた料理が載ったトレー。

 一人。

 また一人。

 さらにその後ろからも料理を持ったメイドたちが続いてくる。

「えっ……まだ来るの?」

 クロロが目を丸くする。

 テーブルの上へ、次々と料理が並べられていった。

 焼きたてのパン。

 湯気を立てる温かなスープ。

 色鮮やかな野菜を使った料理。

 香ばしく焼き上げられた肉料理。

 魚を使った料理に、いくつもの付け合わせ。

 そして果物なども美しく盛りつけられている。

 長いテーブルが、あっという間にたくさんの料理で埋め尽くされていった。

「…………」

 クロロは呆然ぼうぜんとする。

 森の中を歩き回って腹を空かせていたとはいえ――。

 さすがに想像していた量を遥はるかに超えている。

「す、すげぇ……」

 思わず身を乗り出した。

「これ……全部、俺たちも食べていいんですか?」

「あら?」

 エメが不思議そうに首を傾げる。

「もちろんですよ。そのためにご用意したのですから」

「マジですか……!」

 クロロの目が輝いた。

「兄さん」

 クロエが隣から呆れた視線を向ける。

「そんな子供みたいな顔しないの」

「だって見ろよ! こんなにあるんだぞ!」

「分かったから落ち着いて」

「ははっ!」

 アルスは豪快ごうかいに笑った。

「いいじゃねえか。あたしも腹減ってたところだ」

「アルスまで……」

 クロエはため息をついた。

 それでもクロエ自身、目の前に並べられていく料理には少し驚いているようだった。

 やがて最後の料理が置かれると、メイドたちは綺麗に一礼して厨房ちゅうぼうへ戻っていった。

 食堂いっぱいに、食欲をそそる香りが広がる。

「…………」

 クロロは料理を右から左へ眺める。

 どれから食べよう。

 そんなことを真剣に考えていると――。

「ふふっ」

 メメリが小さく笑った。

「クロロ様、とても嬉しそうですね」

「そりゃ嬉しいよ。今日ずっと森の中歩いてたからさ」

「迷って、でしょう?」

 クロエがすかさず付け加える。

「それ言わなくていいだろ!」

「事実じゃない」

「メメリに会えなかったら、今頃まだ同じところぐるぐる歩いてたかもな」

 アルスまで笑いながら言う。

「アルスまで!」

「ふふふっ」

 今度はエメまで笑い出した。

 クロロは少し恥ずかしそうに頭をかく。

「もう勘弁してくださいよ……」

「申し訳ありません」

 そう言いながらも、エメは楽しそうだった。

 そしてエメは、目の前に並んだ料理へ視線を向ける。

「冷めてしまってはいけませんね」

 それからクロロたちを見て、優しく微笑んだ。

「さあ、皆様。どうぞ遠慮なさらず、召し上がってください」

「はい!」

 またしてもクロロが誰よりも早く返事をした。

「兄さん……」

「クロロ、お前ほんと分かりやすいな」

「いいだろ、別に!」

 クロロはさっそく目の前の料理へ手を伸ばす。

 その時だった。

「…………」

 クロロの隣で、アルスが妙に静かなことに気づく。

「アルス?」

 返事がない。

 アルスは目の前に並べられた大量の料理を、食い入るように見つめていた。

 香ばしく焼き上げられた肉。

 焼きたてのパン。

 湯気を立てるスープ。

 次から次へと視線を動かし――。

「…………じゅる」

 アルスの口元から、よだれが垂れた。

「ちょっ、アルス!?」

 アルスは料理を凝視ぎょうししていた。

 バーミリオンの瞳ひとみはキラキラと輝き、完全に料理へ釘付けになっている。

「肉……パン……あっちのも美味そうだな……」

「アルス、よだれ!」

「はっ!?」

 クロロに指摘され、アルスはようやく我に返った。

 慌てて口元を拭う。

「わ、悪い!」

「子供じゃないんだから……」

 クロエが呆れた顔をする。

「仕方ねえだろ! こんだけ美味そうなもん目の前に並べられたら!」

「だからって、そこまで夢中になる人がいる!?」

「いる! ここに!」

「開き直るな!」

「はははっ!」

 クロロは思わず吹き出した。

「笑うなクロロ!」

「だって……アルス、さっきまで真面目な顔してたのに……!」

「うるせえ!」

 顔を赤くするアルス。

 そんな三人を見ていたメメリも、口元に手を添えて笑っている。

「ふふっ。アルス様、本当にお腹が空いていたんですね」

「……まあな」

 アルスは恥ずかしそうに頭をかいた。

 するとエメも楽しそうに微笑む。

「それだけ喜んでいただけたのでしたら、料理を用意した者たちも嬉しいでしょう」

「ほ、本当か?」

「もちろんです」

 その言葉を聞いた途端、アルスの表情が再び明るくなる。

「じゃあ遠慮なく食わせてもらうぜ!」

「切り替え早っ!」

 アルスはさっそく料理へ手を伸ばす。

 その姿を見てクロエはため息をついた。

「まったく……伝説でんせつの十二星具じゅうにせいぐが聞いて呆れるわね」

「腹が減るのと十二星具なのは関係ねえだろ!」

「はいはい」

「その返事やめろ!」

 再び始まりそうになる二人を見ながら、クロロは苦笑する。

 こうして――。

 賑にぎやかな声とともに、ウィルハード家での夕食が始まった。

 ◇

 それからしばらくして――。

 ウィルハード家の食堂には、すっかり満足したクロロたちの姿があった。

「はぁぁ……食ったぁ……」

 クロロは椅子の背もたれに身体を預け、お腹をさする。

 森の中を歩き回って空っぽだった腹は、今では完全に満たされていた。

「どれも美味しかったな……」

「ええ。こんなに豪華ごうかな食事をいただけるなんて思わなかったわ」

 クロエも満足そうに息をつく。

 そして――。

「…………」

 アルスはというと。

「もう……食えねえ……」

 椅子にもたれかかりながら、膨れた腹をさすっていた。

「アルス、明らかに食べすぎだろ」

「だってよぉ……どれも美味かったんだから仕方ねえだろ……」

「途中から何回おかわりしてたのよ」

 クロエが呆れた目を向ける。

「覚えてねえ」

「覚えてないくらい食べたの!?」

「まだ入ると思ったんだけどなぁ……」

「十分すぎるほど入ってたわよ!」

「ははは……」

 クロロが苦笑する。

 テーブルの上を見ると、先ほどまで大量に並んでいた料理の多くが綺麗になくなっている。

 特にアルスの前に置かれた皿の数は、明らかに他の二人より多かった。

 そんな三人の様子を見て、エメは嬉しそうに微笑んでいた。

「皆様のお口に合ったようで何よりです」

「めちゃくちゃ美味しかったです。ごちそうさまでした!」

「ごちそうさまでした」

「ごちそうさん! 最高だったぜ!」

 三人からの言葉を聞き、エメは穏やかに笑う。

「ふふっ。それはよかったです」

 その時だった。

 食堂の扉が静かに開く。

「奥様」

 一人のメイドが入ってきた。

 メイドはエメのもとまで歩み寄ると、丁寧に一礼する。

「お風呂の準備が整いました」

「あら、もうそんな時間なのですね」

 エメが答える。

「はい。いつでもお入りいただけます」

「ありがとうございます」

 ――その瞬間。

「……お風呂?」

 クロエがぴくりと反応した。

 そして次の瞬間には――。

「……!」

 その瞳が、キラキラと輝き始めた。

「お風呂……!」

 先ほどまで落ち着いて椅子に座っていたクロエが、わずかに身を乗り出す。

 騎士長きしちょうとして普段は凛々(りり)しく振る舞っている彼女からは想像できないほど、分かりやすく嬉しそうな表情だった。

「やった……!」

 小さく漏れたその声を、クロロは聞き逃さなかった。

「クロエ、お風呂好きだったもんな」

「っ!」

 クロエはハッとしてクロロを見る。

 自分が目を輝かせていたことに気づいたのか、慌てていつもの表情へ戻ろうとする。

「べ、別に普通よ」

「いや、今めちゃくちゃ目キラキラしてたぞ」

「してない!」

「してたって」

「してません!」

 顔を少し赤くしながら否定するクロエ。

 しかし――。

(お風呂……!)

 心の中では全く隠せていなかった。

(やっと入れる……! 今日は森の中をずっと歩き回って汗もかいたし……大きなお屋敷なんだから、きっとお風呂も広いわよね……!)

 期待は膨らむばかりだった。

(早く入りたい……!)

 そんな妹の様子を見て、クロロは思わず笑う。

「昔から変わらないな」

「兄さん!」

「はははっ!」

「笑わないで!」

 そのやり取りを見ていたメメリも、口元に手を添える。

「ふふっ。クロエ様、本当にお風呂がお好きなんですね」

「メ、メメリまで……!」

 恥ずかしそうにするクロエを見て、エメも楽しそうに微笑んだ。

 そして窓の外へ視線を向ける。

 外はすでにすっかり暗くなっている。

 森に囲まれたウィルハード家の屋敷にも、本格的な夜が訪れていた。

「ちょうどよかったですね」

 エメはクロロたちへ顔を向ける。

「皆様、今日は長い間森を歩いてお疲れでしょう?」

「まあ……かなり歩きましたね」

「道に迷ってね」

 クロエが付け加える。

「だからそれ毎回言わなくていいだろ!」

「事実でしょう?」

「ぐっ……」

 言い返せないクロロ。

 エメは二人のやり取りに小さく笑ってから続けた。

「せっかくですから、お食事のあとはお風呂でゆっくり疲れを癒いやしてください」

「風呂かぁ……!」

 クロロも嬉しそうに声を上げる。

 森の中を歩き続け、汗もかいている。

 食事で腹を満たしたあとに、温かい湯へ浸かれる。

 想像しただけで身体から力が抜けそうだった。

「ぜひ!」

 クロエが即答した。

「……クロエ、返事早くない?」

「う、うるさいわね! いいでしょ別に!」

「やっぱ楽しみなんじゃん」

「兄さん!」

 一方のアルスは、まだ椅子の背もたれに身体を預けたままだ。

「風呂……」

 ぽんぽんと自分の腹を叩く。

「その前に、ちょっと腹を休ませてえ……」

「だから食べすぎなのよ」

「美味かったんだからしょうがねえだろ」

「限度ってものがあるでしょうが」

 また始まりそうな二人を横目に、クロロは苦笑する。

 そんな中――。

 エメの隣に立っていたメメリは、いつもの柔らかな笑顔で三人を見つめていた。

「皆様、お風呂できっと疲れが取れますよ」

「そうだな」

 クロロは大きく伸びをする。

「…………♪」

 クロエもどこか上機嫌そうだった。

 本人は隠しているつもりなのだろう。

 しかし、その瞳にはまだ期待の輝きが残っている。

 美味しい料理で腹を満たし。

 次は温かい風呂で、森を歩き回った疲れを落とす。

 ウィルハード家で迎える夜は――。

 今のところ、とても穏やかなものだった。

 ◇

「やっぱ楽しみなんじゃん」

「兄さん!」

 クロエの頬がさらに赤くなる。

「いいじゃん。別に恥ずかしがることじゃないだろ?」

「べ、別に恥ずかしがってないわよ!」

「じゃあなんでそんな顔赤いんだよ」

「これは……!」

 クロエは言葉に詰まった。

 横ではアルスがニヤニヤしている。

「なんだクロエ。そんなに風呂が楽しみだったのか?」

「あなたまでからかわないで!」

「いいじゃねえか。目ぇキラキラさせて可愛かったぞ?」

「~~~~っ!」

 クロエの顔が一気に真っ赤になる。

 エメとメメリは微笑ましそうに見守り、ビークルはいつも通り静かに控えている。

「もう……!」

 恥ずかしさが限界に達したクロエは、勢いよくクロロを指さした。

「そんなに言うなら、兄さんが先に入ればいいでしょ!」

「え?」

 クロロがきょとんとする。

「…………あ」

 言ってからクロエは気づいた。

(しまった……!)

 せっかく待ちに待ったお風呂。

 本当なら今すぐにでも入りたかったのに――。

 勢い余って、自分からクロロへ先を譲ってしまった。

「俺が先でいいの?」

「…………」

(よくない!)

 心の中では即答していた。

 だが。

 ここで「やっぱり私が先に入る」などと言えば、さっきまで楽しみにしていたことを完全に認めることになる。

「……いいわよ」

 クロエはぷいっと顔を背けた。

「兄さんが先に入りなさいよ」

「そっか」

 クロロはあっさり頷いた。

「それなら、お言葉に甘えて先に入らせてもらおうかな」

「…………」

(ああぁぁぁ……! 本当に行っちゃう!)

 クロエは心の中で頭を抱える。

 そんなクロエの気持ちなど知る由よしもなく、クロロは椅子から立ち上がった。

「じゃあ、一回部屋に戻って着替え取ってくるよ」

「クロロ様」

 メメリが声をかける。

「お風呂の場所は分かりますか?」

「……分かりません」

「だと思ったぜ」

 アルスが笑う。

「屋敷の中でも迷子になったりしてな」

「さすがにそれはない!」

「兄さんならありそう」

「クロエまで!?」

 エメがくすくすと笑った。

「お風呂の場所は、メイドに案内させますからご安心ください」

「ありがとうございます」

 クロロは食堂を出ると、まず自分に用意された客室へ戻った。

「えーっと……」

 荷物を開き、中から着替えを取り出す。

 旅を始めてから三日。

 森を歩き回ったこともあり、服にも身体にも汗や汚れがついている。

「やっとさっぱりできるな」

 着替えを抱え、再び部屋を出る。

 廊下では、先ほどのメイドが待っていた。

「クロロ様、お風呂までご案内いたします」

「お願いします」

 メイドの後ろについて、クロロは屋敷の廊下を進んでいく。

 夜のウィルハード家は、昼間とは少し雰囲気が違っていた。

 窓の外には暗い森。

 静かな廊下には灯りが等間隔とうかんかくに並び、クロロたちの足音だけが響く。

「本当に広い屋敷だな……」

 一人だったら本当に迷っていたかもしれない。

 そんなことを考えながら歩いていくと――。

 やがてメイドが一つの扉の前で立ち止まった。

「クロロ様、こちらがお風呂でございます」

「ここか……!」

「ごゆっくりお入りください」

「ありがとうございます」

 メイドが一礼してその場を離れていく。

 クロロは着替えを抱えたまま、目の前の扉を見る。

「よし」

 食事で腹もいっぱい。

 少しベッドで休むこともできた。

 あとは温かい湯に浸かれば、今日一日の疲れもかなり取れるだろう。

「風呂、風呂っと」

 上機嫌に呟きながら――。

 クロロは浴室よくしつへと入っていった。

 ◇

 クロロは脱衣所だついじょへ入ると、持ってきた着替えを籠かごの中へ置いた。

「ふぅ……」

 準備を済ませ、軽く身体を伸ばす。

 一日中森の中を歩き回ったせいで、やはり身体のあちこちに疲れが溜まっている。

「早く湯に浸かりたいな……」

 そう呟きながら、クロロは浴室へ続く扉を開いた。

 ガラッ――。

「…………え?」

 中へ足を踏み入れた瞬間。

 クロロは、その場で立ち止まった。

「すっげぇ……」

 思わず、そんな言葉が漏れる。

 広々とした浴室よくしつ。

 湯気の向こうには大きな浴槽よくそうがあり、たっぷりと張られた湯の表面が静かに揺れている。

 だが、クロロが驚いたのは浴槽の大きさではなかった。

「壁が……透明?」

 浴室を囲む壁のうち、半分ほどが透明になっていた。

 さらに――。

「天井まで……!」

 天井も半分ほどが透明になっている。

 その向こうに広がっていたのは――。

 満天まんてんの夜空。

 そして、夜空に浮かぶ大きな月だった。

 月から降り注ぐ柔らかな光が、透明な天井を通して浴室の中へ差し込んでいる。

「…………」

 クロロは言葉を失いながら、透明な壁の向こうへ目を向ける。

 そこには――。

 広大こうだいな花畑が広がっていた。

「うわぁ……」

 色とりどりの花々が、月明かりに照らされている。

 夜風が吹くたびに無数の花がゆっくりと揺れ、まるで花畑全体に波が広がっていくようだった。

 その上には星空。

 そして月。

 浴室から眺める景色とは思えないほど幻想的げんそうてきだった。

「こんな風呂……初めて見た」

 クロロは透明な壁の近くまで歩いていく。

 壁一枚隔てた先に花畑があるため、まるで夜の花畑の中に浴室が作られているように感じられる。

 ふと、前世ぜんせの記憶が蘇よみがえった。

 日本にいた頃にも、景色を楽しめる温泉や露天風呂ろてんぶろの話を聞いたことはある。

 けれど――。

「これは……別格だな」

 クロロは天井を見上げた。

 透明な天井の向こうで、星々が瞬またたいている。

 月明かり。

 星空。

 風に揺れる花畑。

 そして浴室に立ち込める、温かな湯気。

「エメさんの家……すごすぎるだろ」

 思わず苦笑してしまう。

 料理だけでも十分豪華だったというのに、風呂までこれほどとは思わなかった。

 クロロは身体を洗い、今日一日の汗や汚れを落としていく。

 そして――。

「よし……!」

 大きな浴槽へ足を入れる。

 ちゃぷん――。

「っ……!」

 ゆっくりと肩まで身体を沈めた瞬間。

「はぁぁぁぁぁ……!」

 クロロの口から、深いため息が漏れた。

「最高……」

 温かな湯が疲れ切った身体を包み込む。

 歩き続けて重くなっていた足も。

 凝り固まっていた肩も。

 じんわりとほぐれていく。

 クロロは浴槽の縁ふちへ背中を預けた。

「…………」

 目の前には、月夜に照らされた花畑。

 頭上には、星の輝く夜空。

 湯の表面にも月明かりが反射し、ゆらゆらと幻想的な光を作り出している。

「綺麗だな……」

 クロロはしばらくの間――。

 旅の目的も。

 悪星王あくせいおうのことも。

 残る十一の十二星具じゅうにせいぐのことも忘れ。

 ただ静かに湯へ浸かりながら、月明かりに照らされた花畑を眺めていた。

 ◇

 その頃――。

 クロロが月夜の花畑を眺めながら、のんびりと湯船に浸かっている一方。

 クロエは自分たちの客室で、落ち着かない様子を見せていた。

「…………」

「さっきからそわそわしすぎじゃねえか?」

 アルスが呆れたように言う。

「そわそわなんてしてないわよ」

「してるだろ」

「してない!」

「はいはい」

「その返事やめなさい!」

 クロエはぷいっと顔を背けた。

 本当なら自分も早く風呂へ入りたかった。

 先ほど勢いでクロロへ先を譲ったことを、少しだけ後悔しているのだ。

「兄さん、まだかな……」

「そんなに入りてえなら、最初から譲らなきゃよかっただろ」

「うるさいわね!」

「自分で言ったんじゃねえか」

「分かってるわよ!」

 アルスは肩をすくめた。

「まあ、そのうち上がってくるだろ」

「……そうね」

 クロエはそう答えながらも、やはりどこか落ち着かない。

 そしてしばらくして――。

 コンコン。

 部屋の扉がノックされた。

「失礼いたします」

「はい」

 クロエが返事をすると、ウィルハード家のメイドが扉を開けた。

「クロエ様、アルス様。先ほどクロロ様がお風呂から上がられましたので、お二人もいつでもご入浴にゅうよくいただけます」

「――!」

 その瞬間。

 クロエの瞳が輝いた。

「兄さん、もう上がったの!?」

「はい。先ほどお風呂を出られました」

「そう……!」

 クロエは勢いよく立ち上がる。

(やっと入れる……!)

 風呂好きのクロエにとっては待ちに待った時間だった。

「ご案内いたしましょうか?」

「場所はもう分かってるから大丈夫よ。ありがとう」

「かしこまりました。それでは、ごゆっくりお過ごしくださいませ」

 メイドは一礼すると部屋を出ていった。

 扉が閉まる。

「よし!」

 クロエはすぐに着替えを用意し始める。

 その様子を見たアルスが笑った。

「さっきまでとはえらい違いだな」

「何がよ」

「そんなに風呂入りたかったのか?」

「いいでしょ別に!」

「ああ。せっかくだし、あたしも入るか」

 アルスも立ち上がる。

 こうして二人は着替えを持ち、客室を出た。

 そして――。

 しばらくして。

「わぁ……!」

 浴室へ入ったクロエは、思わず声を漏らしていた。

 半分が透明になった壁。

 その向こうに広がる、月明かりに照らされた花畑。

 透明な天井から見える夜空には、無数の星々が輝いている。

「すごい……!」

 先ほどまでの澄ました態度はどこへやら。

 クロエは完全に目を輝かせていた。

「こりゃすげえな」

 隣のアルスも、さすがに感心したように夜空を見上げる。

 二人は身体を洗い終えると、広々とした湯船へ浸かった。

「はぁぁぁぁ……」

 クロエの口から、幸せそうな吐息が漏れる。

「気持ちいい……」

 肩まで湯に浸かり、全身の力を抜く。

 三日間の旅。

 森の中を歩き続け。

 道に迷い。

 屋敷へ辿り着くまで、ずっと身体を動かしていた。

 その疲れが温かな湯に溶けていくようだった。

「お前、本当に風呂好きなんだな」

 少し離れたところで湯に浸かるアルスが笑う。

「悪い?」

「悪いとは言ってねえよ」

「だったらいいでしょ」

 クロエは透明な壁の向こうへ視線を向ける。

「それに……こんなお風呂、初めて」

 月明かりを受けて揺れる花々。

 頭上に広がる星空。

 幻想的げんそうてきな景色を眺めながら入る風呂は格別かくべつだった。

「兄さんも、さっきこの景色を見てたのね……」

「またクロロかよ」

「な、何よ!」

「風呂入ってる時くらい兄貴のこと忘れられねえのか?」

「兄さんのことを考えて何が悪いのよ!」

「別に悪くねえけどさ」

 アルスは肩まで湯に沈みながら、呆れたように息を吐く。

「ほんっと仲良し兄妹だな」

「べ、別に普通よ!」

「はいはい」

「だからその返事やめなさいって言ってるでしょ!」

 静かだった浴室に、再び二人の声が響く。

 その後もしばらく、二人はいつものように軽口を叩き合っていた。

 だが――。

 二人は気づいていなかった。

 ゆら……。

 湯船の中。

 湯気と揺れる水面に隠れながら――何かが動いていた。

 細長いそれは、湯船の底を這はうようにゆっくりと進んでいく。

 まるで――。

 植物のツルのようなもの。

 ゆらり。

 ゆらり。

 音も立てず。

 それは少しずつクロエのほうへ近づいていく。

「…………」

 クロエは何も知らず、透明な天井越しに星空を眺めていた。

「せっかくのお風呂なんだから、もう静かに入りましょ」

「あたしは最初からそのつもりだったっつーの」

「誰のせいでこうなったと思ってるのよ」

「お前だろ」

「アルス!」

「ほら、また怒った」

 その時――。

 湯船の中の何かが、クロエのすぐそばまでやって来た。

 そして。

 そろっ――。

「――っ!?」

 何かがクロエに触れた。

「きゃっ!」

 クロエは小さく飛び上がる。

 ばしゃっ!

「なんだ!?」

「ちょっとアルス!」

 クロエは驚いた顔でアルスを睨んだ。

「今、何かしなかった!?」

「はぁ!?」

 アルスは目を丸くする。

「してねえよ!」

「本当に?」

「だから知らねえって! あたしはここから動いてねえだろ!」

「じゃあ今の何よ!」

「知るかよ!」

「…………」

 クロエはアルスを見る。

 確かに――。

 アルスとの間には距離がある。

「……じゃあ」

 クロエの怒っていた表情が、徐々に変わる。

「何が……?」

「…………」

 アルスも黙った。

 二人の視線が――。

 ゆっくりと湯船へ落ちる。

 ゆら……。

 湯が小さく揺れた。

「……?」

 クロエは眉をひそめ、自分の足元を覗き込んだ。

 月明かりがわずかに差し込み――。

 そこに。

「…………え?」

 何かがいる。

 細長い。

 植物のツルにも見える、緑色の異様いようなもの。

 それが湯船の底をうねうねと這っていた。

 しかも――。

「な……に、これ……?」

 その先端が、ゆっくりとクロエのほうへ向く。

 ぱかっ――。

 先端が開いた。

「――――っ!?」

 そこにあったのは。

 口。

 ツルの先端とは到底とうてい思えない口が開き、その内側には――鋭するどい歯がびっしりと並んでいた。

 ゆらり。

 その異様な生物が、再びクロエへ向かって動く。

 クロエの顔から一気に血の気が引いた。

「…………」

 一秒。

 二秒。

 そして――。

「きゃああああああああああああっ!!」

 屋敷中に響き渡るほどの大絶叫だいぜっきょうが、浴室から放たれた。

「うおっ!?」

 アルスが思わず耳を塞ぐ。

「な、なんなのよこれぇぇぇぇっ!!」

 クロエは大慌てで湯船から距離を取る。

 ばしゃあっ!

 大量のお湯が跳ね上がった。

 そして――。

 その叫び声は浴室だけには収まらず。

 静かな夜のウィルハード邸ていを駆け抜け――。

 中庭にいたクロロとメメリの耳にまで、はっきりと届いたのだった。

 ◇

 ――少し前。

 十分に風呂を満喫まんきつしたクロロは、着替えを済ませて浴室から出てきた。

「はぁ~……さっぱりした」

 森を歩き回って身体についていた汗や汚れはすっかり洗い流され、疲れていた身体も温かな湯のおかげでかなり軽くなっている。

 少し火照った顔。

 濡れたショートヘア。

 クロロはタオルで髪を拭きながら、夜の廊下を歩いていた。

「いやぁ……いい風呂だったな」

 思い出すのは、透明な壁と天井の向こうに広がっていた景色。

 月明かりに照らされた花畑。

 頭上いっぱいに広がる星空。

 静かに揺れる湯面ゆもへ映った月。

「まさか屋敷の中に、あんな風呂があるとは思わなかった」

 思わず笑みがこぼれる。

 食事は美味しい。

 用意してもらった部屋のベッドはふかふか。

 そして風呂からは、あれほど美しい景色を見ることができる。

「これだけしてもらって、本当にいいのかな……」

 森で道に迷っていた自分たちを連れてきてくれたメメリ。

 突然やって来た自分たちを客人として迎えてくれたエメ。

 クロロは改めて二人への感謝を感じていた。

「明日、ちゃんともう一回お礼言わないとな」

 そう呟きながら、クロロは自分に用意された客室を目指す。

「それにしても……」

 クロロは肩を回す。

「やっぱ風呂って最高だな」

 旅に出てからというもの、ここまでゆっくり身体を休められる機会はなかった。

 今ならベッドへ飛び込めば、そのまま朝まで眠ってしまいそうだ。

「部屋戻ったら、もう寝ようかな……」

 そんなことを考えながら歩いていると――。

 ふと。

「…………?」

 クロロは足を止めた。

 夜も深くなり始めたウィルハード家の廊下。

 先ほどまでメイドたちが忙しそうに行き来していた屋敷も、少しずつ静けさに包まれ始めている。

「……静かだな」

 窓の外へ目を向ける。

 暗い森の向こうには、月が浮かんでいる。

「クロエたちも、もう部屋に戻ってるかな」

「ふぁぁ……」

 クロロは大きくあくびをする。

「眠くなってきた……」

 そして再び歩き出す。

 さっぱりとした身体で。

 何の警戒もなく。

 クロロは、自分の部屋へと戻る廊下を歩いていくのだった。

「ふぁぁ……」

 大きなあくびをしながら、クロロは自分の部屋へ向かって廊下を歩いていた。

 風呂上がりで身体はさっぱりし、ほどよい眠気も感じている。

「部屋に戻ったら、そのまま寝ちゃいそうだな……」

 そんなことを呟きながら廊下を進んでいた、その時だった。

「……ん?」

 クロロはふと足を止めた。

 廊下の途中。

 大きな窓の向こうに、開けた空間が見える。

「こんなところあったんだ」

 近づいて外を覗いてみる。

 そこに広がっていたのは――。

 屋敷に囲まれるように造られた、大きな中庭なかにわだった。

 綺麗に手入れされた草木。

 石造り(いしづくり)の小道。

 夜風に揺れる花々。

 中央付近にはいくつかのベンチも置かれている。

 頭上から降り注ぐ月明かりが庭全体を淡く照らし、昼間とはまた違った幻想的げんそうてきな雰囲気を作り出していた。

「中庭まであるのか……」

 クロロは感心しながら眺める。

「風呂もすごかったけど……やっぱりすごい家だな、ここ」

 宝石ほうせきの採掘さいくつによって財ざいを築いた家だとメメリから聞いてはいたが、屋敷を歩くたびにその大きさを実感させられる。

「…………ん?」

 その時。

 中庭に置かれた一つのベンチに、誰かが座っていることに気づいた。

 月明かりの下。

 一人の少女が静かに夜空を眺めている。

「誰だろ……」

 クロロは目を凝らす。

 そしてすぐに、その頭にあるものが見えた。

 小さな――羊の角。

「……メメリ?」

 間違いない。

 そこに座っていたのはメメリだった。

 だが――。

「…………あれ?」

 クロロは少し驚く。

 いつも見ていたリーフグリーンのロングメイド服ではない。

 今のメメリは仕事を終えたのだろう。

 メイド服から私服へ着替えていた。

 ミントグリーンの髪。

 同じ色の瞳。

 頭から生えた小さな羊の角。

 見慣れてきた特徴は同じなのに、メイド服を着ていないだけでずいぶん印象が違って見える。

「仕事、終わったのかな」

 クロロはしばらくその姿を眺めた。

 昼間のメメリは、いつも忙しそうに屋敷の中を動き回っていた。

 客人である自分たちを案内し。

 エメのそばに控え。

 他のメイドたちと一緒に仕事をこなしていた。

 だが今は――。

 誰かに仕えるメイドではなく。

 ただ一人の少女として、静かにベンチへ腰掛けている。

「…………」

 クロロの頭に、エメから聞いた話が蘇る。

 かつて、この屋敷の前で倒れていた少女。

 自分がどこから来たのか。

 なぜここにいたのか。

 家族はいるのか。

 何一つ覚えていなかった。

 それでも自分の名前だけは覚えていた。

 そして、もう一つ。

 ――『星の導きに従った』

「星の導き……」

 クロロは小さく呟いた。

 自分自身もまた、白く輝く鳥に導かれたことでアルスと出会った。

 だからこそ。

 その言葉がどうしても引っかかる。

「…………」

 もう一度、中庭を見る。

 メメリはクロロに気づいていないようだった。

 月明かりの下で、静かに空を見上げている。

 仕事中に見せていた笑顔とは違う。

 どこか物思いにふけっているような――。

 そんな横顔だった。

「……ちょっと話してみようかな」

 せっかく出会ったのだ。

 それに、森で助けてもらったお礼も改めて言いたい。

 クロロは部屋へ戻るのをやめ、中庭へ続く扉へ向かった。

 ガチャ――。

 静かに扉を開ける。

 夜の涼しい風が、風呂上がりのクロロの頬を撫なでた。

 石造りの小道を歩き、メメリが座っているベンチへ近づいていく。

 そして――。

「メメリ」

「……?」

 呼びかけられたメメリが、ゆっくりと振り返った。

 ミントグリーンの瞳がクロロを捉とらえる。

「あ……」

 クロロだと分かると、その表情が柔らかくなる。

「クロロ様」

「どうされたんですか?」

「いや、風呂から上がって部屋に戻る途中だったんだけどさ」

 クロロは中庭を見回す。

「ここに中庭があるのに気づいて。すごいなって見てたら、メメリがいたから」

「そうだったんですね」

 メメリが微笑む。

 クロロは改めて、今のメメリの姿を見る。

 昼間からずっと着ていたリーフグリーンのロングメイド服ではなく、今は私服姿。

 やはり普段とはずいぶん印象が違って見えた。

「その服ってことは……メメリ、もう仕事終わったの?」

「はい」

 メメリは頷いた。

「今日のお仕事は、もう全部終わりました」

「やっぱりそうなんだ」

「お仕事が終わったので、お部屋で着替えてから少しだけここに来たんです」

「へえ」

 クロロは夜の中庭へ目を向ける。

「メメリって森を散歩するのも好きだって言ってたし、こういうところでのんびりするのも好きなの?」

「はい。好きですよ」

 メメリは嬉しそうに答えた。

「お仕事が終わったあと、こうして中庭でゆっくりすることがあるんです」

「そうなんだ」

「夜は静かですし、お花も綺麗ですから」

 メメリが庭に咲いている花々へ目を向ける。

 月明かりを浴びた花が、夜風に吹かれて小さく揺れていた。

「それに――」

 メメリは空を見上げた。

「ここから見るお星様、メメリは好きなんです」

「星……」

 その言葉に、クロロはわずかに反応した。

 先ほどまで頭の片隅に残っていた言葉が、また浮かんでくる。

 ――星の導き。

 しかし今はそれを口にはせず、クロロも同じように空を見上げた。

「確かに綺麗だな」

「ですよね」

 メメリはにこっと笑った。

 少しの間、二人で夜空を眺める。

 やがてメメリがクロロへ視線を戻した。

「クロロ様は、お風呂はいかがでしたか?」

「ああ、最高だった!」

 クロロの表情が一気に明るくなる。

「壁と天井が透明になっててさ。月に照らされた花畑が見えるなんて思わなかったよ」

「ふふっ。気に入っていただけたんですね」

「めちゃくちゃ気に入った。今日ずっと森を歩いてた疲れが一気に取れた感じ」

「それならよかったです」

 嬉しそうに笑うメメリ。

「…………」

 クロロはそんなメメリを見つめた。

 森で道に迷っていた自分たちを助けてくれて。

 屋敷まで案内してくれて。

 屋敷でも何かと気を遣ってくれた少女。

 そして――。

 エメから聞いた、メメリの過去。

 クロロには、メメリに聞いてみたいことがあった。

「なあ、メメリ」

「はい?」

 メメリが小さく首を傾げる。

 クロロは少し迷ってから、メメリが座っているベンチの空いた場所を指さした。

「隣、座ってもいい?」

「……メメリの隣ですか?」

「うん。邪魔じゃなければだけど」

 するとメメリは、すぐに柔らかな笑顔を浮かべた。

「もちろんいいですよ」

 そう答えると、メメリは少し横へ身体をずらし、クロロが座れる場所を空ける。

「どうぞ、クロロ様」

「ありがとう」

 クロロはメメリの隣へ腰を下ろした。

「よっと」

 二人が並んでベンチに座る。

「…………」

「…………」

 夜の中庭に、静かな時間が流れた。

 聞こえてくるのは、風に揺れる草花の音。

 時折吹き抜ける涼しい夜風が、風呂上がりでまだ少し火照っているクロロの身体に心地いい。

「気持ちいいな……」

「はい」

 メメリも嬉しそうに頷いた。

 二人は並んだまま、庭の向こうへ視線を向ける。

 月明かりに照らされた花々。

 そのさらに上には、無数の星が輝いている。

「ここ、いい場所だな」

「メメリもそう思います」

「仕事終わりにここで休みたくなるの、なんか分かる気がするよ」

「ふふっ」

 メメリは楽しそうに笑った。

「クロロ様にも気に入ってもらえて嬉しいです」

「うん。さっきの風呂もそうだけど、この屋敷って綺麗な場所がいっぱいあるんだな」

「メメリ、このお屋敷が大好きですから」

 その言葉には迷いがなかった。

 メメリは屋敷を見上げながら、穏やかに微笑んでいる。

 クロロはその横顔を見る。

 昼間、森で出会った時。

 メイドとして働いていた時。

 そして今、仕事を終えて私服姿で隣に座っている時。

 どれも同じメメリなのに――今はどこか、いつもより自然な表情をしているように見えた。

「…………」

「クロロ様?」

 視線に気づいたメメリが振り向く。

「あ、いや」

 クロロは少し慌てて前を向いた。

「なんでもない」

「そうですか?」

「うん」

 再び静かな時間が訪れる。

 しばらく二人で静かな中庭を眺めていたクロロだったが――。

「……なあ、メメリ」

「はい、クロロ様?」

 メメリが隣に座るクロロへ顔を向ける。

 クロロは少しだけ言いづらそうにしながら、口を開いた。

「実はさ……さっき、エメさんから話を聞いたんだ」

「奥様から、ですか?」

「ああ」

 クロロは頷く。

「エメさんの昔のこととか……メメリと初めて会った時のこと」

 その言葉を聞いて、メメリのミントグリーンの瞳が少しだけ大きくなる。

「……奥様が、昔のことを?」

「うん」

 クロロの声が自然と静かになる。

「旦那さんと娘さんのことも……それから、メメリがこの屋敷の前で倒れてたことも」

「…………」

 メメリは黙ってクロロの話を聞いていた。

「屋敷の人たちに助けてもらって、目を覚ましたあとも、自分がどこから来たのか分からなかったって」

 クロロはそこで一度言葉を止める。

「覚えてたのは、自分の名前と――」

 メメリの横顔を見る。

「『星の導きに従った』ってことだけだったって」

「…………はい」

 メメリは静かに頷いた。

 その表情から笑顔が消えたわけではない。

 けれど先ほどまでよりも、どこか遠くを見るような目をしていた。

「奥様……そこまでクロロ様たちにお話しされたんですね」

「ああ。でも、悪い意味じゃないと思う」

 クロロはすぐに付け加えた。

「エメさん、途中で『話しすぎてしまいました』って謝ってたし。それに……メメリのことを話してる時、すごく優しい顔してた」

「…………」

「本当に大切に思ってるんだなって、聞いてた俺にも分かったよ」

 すると――。

 メメリは少し俯いた。

 そして、小さく微笑んだ。

「……奥様は、とてもお優しい方です」

 その声には、昼間メイドとしてエメに接していた時とは少し違う響きがあった。

 主人へ向ける敬意けいいだけではない。

 もっと深い――大切な誰かへ向けるような温かさ。

「行く場所も、帰る場所も分からなかったメメリを……奥様はこのお屋敷に置いてくださいました」

 メメリは自分の膝の上で、そっと両手を重ねる。

「お仕事だって、最初からメメリにさせたわけではありません。メメリが勝手に他のメイドさんたちのお仕事を見て……勝手にお手伝いを始めたんです」

「それも聞いた」

 クロロが笑う。

「最初は失敗しながら、掃除とか洗濯とか覚えていったんだって?」

「……そこまでですか?」

 メメリが少し恥ずかしそうな顔になる。

「エメさん、嬉しそうに話してたぞ」

「もう……奥様ったら」

 頬をわずかに赤くしながらも、メメリはどこか嬉しそうだった。

 だが――。

 クロロはそんなメメリを見つめながら、ふと思う。

 自分の名前しか分からない。

 自分がどこから来たのかも分からない。

 家族がいるのかさえ分からない。

 そして唯一残されていた――。

『星の導きに従った』という記憶。

「…………」

 クロロにとって、その言葉はどうしても無視できなかった。

 なぜなら自分もまた――。

 星の導きとも呼べるような出来事によって、アルスと出会ったのだから。

「…………」

 メメリはしばらく黙ったまま、自分の膝の上に置いた両手を見つめていた。

 先ほどまで浮かべていた穏やかな笑顔が、ほんの少しだけ曇っている。

「……でも」

「ん?」

 クロロがメメリを見る。

 メメリは何かを言おうとして――一度、口を閉じた。

「…………」

「メメリ?」

「……メメリ、時々思うんです」

 ようやく口を開いたメメリの声は、どこか迷いを含んでいた。

「奥様には……本当に、たくさんのことをしていただきました」

「うん」

「何も分からなかったメメリを助けてくださって……お風呂に入れてくださって、お洋服まで用意してくださって……」

 メメリは一つ一つ思い返すように話していく。

「帰る場所がないと分かった時も、このお屋敷に住んでいいって言ってくださいました」

「…………」

「他のメイドさんたちも優しくしてくれて……ビークルさんも、お仕事をいろいろ教えてくれました」

 メメリの手が、きゅっと握られる。

「メメリは、このお屋敷から本当にたくさんのものをいただいているんです」

 だからこそ――。

「それなのに……」

 メメリは俯いた。

「メメリにできるお返しって……メイドとして一生懸命お仕事をすることくらいしかなくて」

「メメリ……」

「掃除をして、お洗濯をして、お食事のお手伝いをして……奥様のお世話をして……」

 もちろん、それが嫌なわけではない。

 むしろメメリは、この屋敷で働くことが好きだった。

 誰かの役に立てることが嬉しかった。

 エメが笑ってくれることも。

 屋敷のみんなから頼ってもらえることも。

 心から嬉しい。

 けれど――。

「こんなに良くしていただいたのに……これだけで、本当にお返しできているのかなって」

 メメリの表情に小さな不安が浮かぶ。

 クロロは何も挟まず、その言葉を聞いていた。

「それに……」

 メメリはさらに言いづらそうに声を小さくした。

「さっき、クロロ様も聞いたって言ってましたよね」

「……?」

「メメリが……奥様の亡くなられた娘様に似ているって」

「ああ……」

 クロロの表情が少し真剣になる。

 メメリは自分のミントグリーンの髪を、そっと指先で触った。

「もちろん、髪の色も、目の色も違います。それにメメリには、こんな角もあります」

 頭にある小さな羊の角へ触れる。

「でも……お顔とか、雰囲気とかが似ているって」

「エメさんも、そう言ってた」

「…………」

 メメリは再び俯く。

「メメリ……それを考えると、時々分からなくなるんです」

「分からなくなる?」

「はい」

 月明かりの下。

 メメリは少し寂しそうな表情を浮かべた。

「メメリがこのお屋敷にいることって……本当に良いことなのかなって」

「……どうして?」

「だって……」

 メメリは胸元へ手を添える。

「奥様は、大切な娘様を亡くされているんですよね」

「…………」

「その娘様に似ているメメリが、ずっと奥様のそばにいる」

 メメリの声が少しずつ弱くなっていく。

「それって……もしかしたら、良くないことなんじゃないかなって」

「…………」

「メメリを見るたびに……奥様は娘様のことを思い出してしまうんじゃないかって」

 クロロは黙ってメメリを見つめた。

「奥様はいつも優しいです。メメリのことも大切にしてくださいます」

 メメリの手がぎゅっと服を握る。

「だから余計に……心配になるんです」

「…………」

「本当は、メメリがそばにいることで……奥様を苦しませてしまっているんじゃないかって」

 夜風が二人の間を通り抜ける。

 庭の花々が、さらさらと揺れた。

「メメリには昔の記憶もありません」

 自分が何者なのか。

 どこから来たのか。

 家族がいたのか。

 なぜこの場所へ辿り着いたのか。

 何一つ分からない。

「そんな何も分からないメメリが……亡くなられた娘様に似ているからって、このお屋敷でこんなに良くしていただいて……」

 メメリは小さく呟いた。

「……本当に、ここにいていいのかなって」

 その言葉とともに、メメリは顔を伏せた。

「奥様には感謝しています。大好きです。このお屋敷も、みなさんも……メメリにとって、とても大切です」

 だからこそ。

「時々……怖くなるんです」

「…………」

 クロロは何も言わなかった。

 ただ――。

 隣に座るメメリの言葉を、最後まで静かに聞いていた。

「……本当に、ここにいていいのかなって」

 メメリは俯いたまま、小さくそう呟いた。

「…………」

 クロロは隣でその言葉を聞いていた。

 そして――。

「そんなことないだろ」

「……え?」

 メメリがゆっくり顔を上げる。

 クロロはまっすぐメメリを見ていた。

「メメリがそんなふうに考える必要なんてないと思う」

「ですが……」

「だってさ」

 クロロは少し考えながら言葉を続ける。

「もしエメさんが、本当にメメリと一緒にいることで嫌な思いをしてるなら……あんなにメメリのことを大事にしたりしないだろ?」

「…………」

 メメリのミントグリーンの瞳が、わずかに揺れる。

「今日だってそうだったじゃん」

 クロロは昼間のエメの姿を思い出す。

 メメリとの出会いを話してくれた時。

 メメリが失敗しながらも一生懸命メイドの仕事を覚えていったことを話していた時。

 そして、今では立派なメイドになったのだと話していた時。

「エメさん、メメリの話をしてる時、すごく楽しそうだったぞ」

「奥様が……?」

「ああ」

 クロロは頷いた。

「そりゃ、昔のことを思い出して辛くなる時だってあるかもしれない。亡くなった旦那さんや娘さんが大切だったことは、これからも変わらないと思う」

「…………」

「でも、それとメメリがここにいていいかどうかは、別なんじゃないかな」

 メメリは何も言わず、クロロを見つめる。

「エメさんが今、あんなに楽しそうに過ごせてる」

 クロロは笑った。

「それが何よりの証拠だろ?」

「……証拠……」

「うん」

 クロロは屋敷のほうへ目を向ける。

「俺たちと話してる時も笑ってたし、メメリの話をしてる時なんて特に嬉しそうだった」

 そして再びメメリを見る。

「だからさ。メメリがそばにいることで、エメさんが苦しんでるだけなんてことは絶対ないと思う」

「…………」

「それにエメさん、言ってたぞ」

 クロロはエメから聞いた言葉を思い返す。

「自分がメメリを助けたと思ってたけど……本当は自分のほうがメメリに救われたのかもしれないって」

「……!」

 メメリが目を見開いた。

「奥様が……そんなことを……?」

「ああ」

「…………」

 メメリは言葉を失った。

 クロロはそんな彼女に、さらに続ける。

「あとさ、メイドの仕事でしか恩返しできないって言ってたけど……それも違うんじゃないか?」

「え……?」

「エメさんは、メメリに何か返してほしくて助けたわけじゃないと思う」

「…………」

「メメリがこの屋敷で一緒に暮らして、仕事して、笑ってる」

 クロロは少し照れくさそうに笑った。

「それだけでも、エメさんにとっては十分嬉しいんじゃないかな」

「クロロ様……」

「まあ、俺が勝手にそう思ってるだけだけどさ」

 クロロは頭をかく。

「でも少なくとも今日エメさんと話してて、俺にはそう見えたよ」

「…………」

 メメリはしばらく何も言わなかった。

 ただ膝の上で握っていた両手を見つめている。

 やがて――。

 その手から、ゆっくりと力が抜けた。

「……メメリ」

「ん?」

「ずっと……考えていたんです」

 メメリは静かに口を開く。

「もっと奥様のために何かしなきゃって。助けていただいた分、もっと頑張らなきゃって……」

「うん」

「でも……」

 メメリは顔を上げた。

 先ほどまで不安に揺れていた瞳が、ほんの少しだけ明るくなっている。

「メメリが笑っているだけでも……奥様が喜んでくださるのなら……」

「きっと喜ぶと思うぞ」

 クロロは即答した。

「……ふふっ」

 メメリの口元に、小さな笑みが浮かぶ。

「クロロ様は、不思議な方ですね」

「え? なんで?」

「さっきまでずっと悩んでいたのに……少しだけ、心が軽くなりました」

「そっか」

 クロロも笑う。

「なら、よかった」

「はい」

 メメリは胸元へそっと手を添えた。

 そして屋敷を見上げる。

 そこには――。

 先ほどまでの不安に沈んだものではない。

 この場所を大切に思う、一人の少女の穏やかな笑顔があった。

「ありがとうございます、クロロ様」

「俺は思ったこと言っただけだよ」

「それでもです」

 メメリはクロロへ向き直ると――。

「ありがとうございます」

 もう一度。

 今度は先ほどよりも明るい笑顔で、そう告げた。

「…………」

 そんなメメリを見ていたクロロは、ふと中庭へ視線を向ける。

 月明かりを浴びながら、色とりどりの花が夜風に揺れている。

 そして、もう一度メメリを見る。

「……なんかさ」

「はい?」

「メメリって、あの花畑みたいだな」

「……花畑、ですか?」

 突然そんなことを言われ、メメリは不思議そうに首を傾げた。

「ああ」

 クロロは中庭に広がる花々を指さした。

「ほら。あの花畑って、見てるだけでなんか落ち着くだろ?」

「はい。とても綺麗です」

「うん」

 クロロは笑いながら頷く。

「メメリも同じだよ」

「……え?」

 メメリが目をぱちくりさせる。

 クロロは特に恥ずかしがる様子もなく、そのまま続けた。

「メメリってさ、まるで見てるだけでみんなを癒してくれる、綺麗な花畑みたいだなって」

「…………!」

 メメリの瞳が大きく見開かれた。

「ク、クロロ様……?」

「だから、エメさんがメメリを見てるだけで笑顔になる理由が……俺も少し分かった気がする」

 クロロは先ほどエメと話した時のことを思い返す。

 メメリについて語るエメは、本当に楽しそうだった。

 失敗しながら仕事を覚えたこと。

 今では立派なメイドとして働いていること。

 そして――自分を救ってくれたのは、もしかしたらメメリのほうだったのかもしれないと語ったこと。

「きっとエメさんにとって、メメリがそばにいてくれるだけで嬉しいんだよ」

「…………」

「だから、無理に『もっと恩返ししなきゃ』って考えなくてもいいんじゃないかな」

 クロロは優しく笑う。

「メメリは今のままでも、ちゃんとエメさんを笑顔にしてるんだからさ」

「…………」

 しかし。

 なぜかメメリから返事がない。

「……メメリ?」

 クロロが顔を覗き込む。

 すると――。

「――っ」

 メメリは慌てるように顔を逸らした。

 その頬は、ほんのり赤く染まっている。

「どうした?」

「な、なんでもありません……!」

「そう?」

「はい……!」

 メメリは両手を膝の上に置きながら、少しだけ身体を縮こまらせる。

(綺麗な花畑みたい……)

 頭の中で、たった今クロロに言われた言葉が繰り返されていた。

 今まで仕事を褒めてもらったことは何度もある。

「よく頑張りましたね」

「助かりました」

「立派なメイドになりましたね」

 そんな言葉をもらうたびに嬉しかった。

 けれど――。

 今の言葉は、それらとは少し違った。

 自分が何かをしたからではない。

 ただ自分がそこにいるだけで、誰かを笑顔にできる。

 そんなふうに言ってもらったのは――。

「…………」

 メメリは胸元に、そっと手を当てた。

 なぜだろう。

 少しだけ胸の奥が温かい。

「……クロロ様」

「ん?」

 メメリはまだ少し赤い顔のまま、クロロへ振り向く。

 そして――。

「メメリ……花畑になったのは初めてです」

「ぶっ!」

 あまりにも真面目な顔で言われ、クロロは思わず吹き出した。

「はははっ! いや、本当に花畑になったわけじゃないから!」

「分かっています!」

 メメリも思わず笑ってしまう。

「クロロ様がそう言ったんじゃないですか!」

「ごめんごめん」

「もう……!」

 ぷくっと頬を膨らませるメメリ。

 だが、すぐにその表情は柔らかな笑顔へ戻った。

「……でも」

 メメリは月明かりに照らされた花々を見つめる。

「嬉しいです」

「…………」

「そんなふうに言っていただけたの……初めてですから」

 そしてクロロへ振り向き――。

「ありがとうございます、クロロ様」

 にこりと笑った。

 その笑顔を見たクロロは――。

(……やっぱり)

 もう一度、目の前の花畑とメメリを見比べる。

(エメさんが笑顔になるの、なんとなく分かるな)

 月と星が輝く静かな中庭。

 その夜――。

 クロロの隣には、花畑にも負けないほど柔らかな笑顔を浮かべるメメリが座っていた。

 月明かりに照らされた中庭。

 クロロとメメリの間には、先ほどまでの重い雰囲気はもうなかった。

「ありがとうございます、クロロ様」

「いやいや。俺は思ったこと言っただけだから」

「それでも、メメリは嬉しかったです」

 メメリはそう言って、柔らかく微笑む。

「…………」

 だが――。

 その直後だった。

 メメリの表情が、ふっと変わった。

「……クロロ様」

「ん?」

 先ほどまで浮かんでいた笑顔が消え、ミントグリーンの瞳が真剣なものへと変わっていく。

 その変化に気づき、クロロもメメリへ顔を向けた。

「どうした?」

「…………」

 メメリはすぐには答えなかった。

 膝の上に置いていた両手を、きゅっと握る。

 何かを迷っている。

 言うべきなのか。

 それとも、言わないほうがいいのか。

 そんなふうに悩んでいるように見えた。

「メメリ?」

 クロロがもう一度呼びかける。

 するとメメリは意を決したように顔を上げた。

「……クロロ様」

「うん」

「実は――」

 その時だった。

「きゃああああああああああああっ!!」

「――っ!?」

 突然――。

 屋敷の中から、甲高い叫び声が響き渡った。

 静かだった中庭の空気が、一瞬にして張り詰める。

「な、なんだ!?」

 クロロは勢いよくベンチから立ち上がった。

「今の声……!」

 聞き間違えるはずがない。

 クロロが毎日のように聞いてきた声。

「クロエ!?」

「クロエ様!?」

 メメリも驚いて立ち上がる。

 クロロは声が聞こえてきた方向へ顔を向けた。

「あっちは……!」

 先ほど自分が入っていた――。

「風呂場のほうだ!」

 クロロの表情が一気に険しくなる。

 さっきまで感じていた眠気も、風呂上がりの心地よさも、一瞬で吹き飛んだ。

「クロエ!」

 クロロは中庭から屋敷の中へ向かって走り出す。

「クロロ様、メメリも行きます!」

 メメリもすぐにその後を追った。

 二人の足音が、夜の屋敷に響く。

 そして――。

 誰もいなくなった中庭。

 月明かりだけが、つい先ほどまで二人が座っていたベンチを静かに照らしていた。

 メメリがクロロへ何を打ち明けようとしていたのか。

 その言葉は――。

 クロエの突然の叫びによって、最後まで語られることはなかった。

 ◇

「クロエ!」

「クロエ様!」

 二人は中庭を飛び出し、屋敷の中へ駆け込む。

「こっちだ!」

 つい先ほどまで自分が使っていた場所だ。

 風呂場までの道は、もう覚えている。

 クロロは廊下を全速力ぜんそくりょくで駆け抜け、その後ろをメメリが追いかける。

「クロロ様、お待ちください!」

「クロエ! 無事か!」

 返事はない。

 その代わり、風呂場のほうから激しく湯が跳ねる音と、何かを叫ぶクロエとアルスの声が聞こえてくる。

「やっぱり何かあったんだ!」

 角を曲がる。

 そして――。

「クロエ!」

 クロロは風呂場の扉へ手を伸ばした。

「――クロロ様!」

 その瞬間、メメリが慌てて声を上げる。

「待ってください!」

「え!?」

 クロロの手が一瞬だけ止まった。

 メメリは少し困ったような顔で扉を見る。

「今はクロエ様とアルス様がご入浴にゅうよく中ですから……!」

「…………」

 言われてクロロも気づく。

 確かに今、この扉の向こうではクロエとアルスが風呂に入っている。

 普通なら、絶対に勝手に開けてはいけない。

 だが――。

「きゃっ! ちょっと、こっち来ないでよ!」

「クロエ! そいつから離れろ!」

 中から再び二人の声が響いた。

「――!」

 クロロの表情が変わる。

「ごめん、メメリ!」

「えっ?」

「今はそんなこと気にしてる場合じゃない!」

 クロロは迷わなかった。

 妹のあんな叫び声を聞いて。

 中で何かが起きていると分かっているのに。

 入浴中だからという理由で、扉の前に立ち止まってなどいられない。

「クロエ!!」

 ガチャッ!

 勢いよく扉を開ける。

「大丈夫か――!?」

 クロロはそのまま風呂場へ飛び込んだ。

「クロロ様!?」

 メメリも慌てて後を追う。

 そして――。

 クロロの目に飛び込んできたのは。

 先ほどまで自分がゆっくり浸かっていた、月明かりに照らされた美しい浴室。

 その中で大騒ぎしているクロエとアルス。

 そして――。

「……なんだ、あれ?」

 湯の中を。

 ゆらり――。

 ゆらり――。

 まるで生きた植物のような緑色のツルが、何本もうごめいている異様いような光景だった。

「……なんだ、あれ!?」

 クロロが目を見開く。

 湯船の中をうごめいているのは、一本だけではなかった。

 緑色をした植物のツルのような触手しょくしゅ。

 その先端には鋭い歯がびっしりと並んだ不気味な口があり、それらが明らかな敵意てきいを持ってクロエとアルスへ襲いかかっていた。

「クロエ! 危ない!」

「分かってるわよ!」

 シュルルルッ!

 一本のツルが水面を突き破り、クロエへ飛びかかる。

「くっ!」

 クロエは咄嗟とっさに身体を横へ動かした。

 バシャァン!

 ツルが外れ、激しく水しぶきが舞う。

「こいつら……!」

 一方、アルスは右手を前へ突き出した。

 その手元に魔力まりょくが集まり――。

 光とともに、一挺いっちょうのスナイパーライフルが形作られる。

 星具せいぐとしての本来の姿――【サジット・スナイプ】ではない。

 人型ひとがたのアルスが魔力によって作り出した、通常のスナイパーライフルだ。

「いい加減にしやがれ!」

 アルスが銃口じゅうこうを向ける。

 ダンッ!

 魔力の弾丸が放たれ、襲いかかってきたツルの一本を撃ち抜いた。

「ギィィッ!」

 不気味な鳴き声のような音を上げながら、ツルが大きくのけ反る。

「まだ来るぞ!」

「分かってる!」

 しかし――。

 クロエにはアルスのように魔力で武器を作り出すことはできない。

 入浴中だったため、短剣たんけんも手元にはなかった。

「こんな時に武器が……!」

 クロエは襲ってくるツルをかわすことしかできない。

「クロエ!」

 クロロが助けに向かおうとする。

「兄さん、来ちゃ駄目!」

「でも!」

「今こっちに来たら兄さんまで狙われる!」

 その瞬間。

 シュルッ!

「っ!」

 再びツルがクロエへ迫る。

 クロエは湯船の縁へ手をつき、どうにか身体をかわした。

 鋭い歯の並んだ口が目の前で――。

 ガチンッ!

 噛み合わされる。

「ひっ……!」

 もし避けるのが少しでも遅れていたら。

 そう考えただけで背筋が冷たくなる。

「ちっ!」

 ダンッ!

 アルスがすぐさま撃ち、ツルをクロエから遠ざける。

「クロエ! あたしの近くにいろ!」

「言われなくても――!」

 そこで。

 クロエの視界に、浴室へ飛び込んできたメメリの姿が入った。

「……メメリ!」

「はい!?」

「メメリ! お願い!」

 クロエが叫ぶ。

「メメリの近くに、私たちが着替えを置いてる場所があるでしょ!」

「着替え……?」

 メメリが振り返る。

 脱衣所だついじょ。

 クロエとアルスが入浴前に服や荷物を置いた場所だ。

「そこに私の短剣たんけんがあるの!」

「短剣……!」

「そう!」

 クロエは襲ってくるツルから目を離さないまま叫ぶ。

「私の着替えと一緒に置いてあるはずよ!」

「分かりました!」

 メメリはすぐさま脱衣所へ向かう。

「見つけたら――!」

 クロエが片手を伸ばす。

「こっちに投げて!」

「えっ!?」

 メメリが一瞬驚く。

「投げるんですか!?」

「大丈夫! 受け取るから!」

 その間にも――。

 シュルルルルッ!

「クロエ!」

「っ!」

 二本のツルが同時にクロエへ襲いかかる。

 ダンッ! ダンッ!

 アルスの魔力弾まりょくだんがその進路を阻はばむ。

「早くしろ、メメリ!」

「はい!」

 メメリは急いでクロエの荷物が置かれている場所へ駆け寄った。

「短剣……短剣……!」

 そして――。

「……ありました!」

 メメリの目が、クロエの着替えとともに置かれていた短剣を捉える。

「クロエ様!」

 メメリはそれを手に取ると、湯船で身構えるクロエへ振り向いた。

「投げます!」

「お願い!」

 クロエが手を伸ばす。

 その背後では――。

 鋭い歯を剥むき出しにした緑のツルが、再び水面を突き破ろうとしていた。

「クロエ様、投げます!」

「お願い!」

 メメリは短剣を握ると、クロエへ向かって投げた。

 ヒュンッ!

 短剣が宙ちゅうを舞う。

 クロエは飛んできたそれを目で追い――。

 パシッ!

「――よし」

 しっかりと柄つかを掴み取った。

 その瞬間。

 先ほどまで逃げることしかできなかったクロエの表情が変わった。

「…………」

 短剣を構える。

 月明かりが刃やいばに反射して鋭く輝く。

 クロエの目から、先ほどまでの動揺どうようは完全に消えていた。

「散々好き勝手してくれたわね……」

「おっ」

 アルスがその表情を見て、にやりと笑う。

 クロエは短剣の切っ先を、湯船の中でうごめくツルへ向けた。

「ここからは――私も反撃させてもらうわよ!」

 シュルルルルッ!

 まるでその言葉に反応したかのように、一本のツルが水面を突き破った。

 先端の口が大きく開く。

 鋭い歯を剥き出しにして、クロエへ襲いかかった。

 だが――。

「遅い!」

 クロエが一歩踏み込む。

 そして。

 ザシュッ!

 短剣が一閃いっせん。

 緑色のツルが真っ二つに切断せつだんされた。

「ギィィィッ!」

 切り落とされた先端が湯船へ落ちる。

 バシャッ!

「やった!」

 メメリが声を上げる。

「さすがだな、クロエ!」

「当然よ!」

 クロエは短剣を構え直す。

 しかし――。

「……え?」

 クロロが異変いへんに気づいた。

「クロエ! それ!」

「何?」

 切断されたツルの根元。

 その断面だんめんが――。

 うねっ。

「……!」

 クロエが目を見開く。

 切ったはずの場所から、新たな緑色の組織そしきが伸び始めていた。

 ぐにゅっ――。

 伸びる。

 絡み合う。

 そして瞬く間に形を作り――。

 ぱかっ!

 再び先端に、鋭い歯が並んだ口が形成けいせいされた。

「再生さいせいした!?」

 クロエが驚く。

「なんだこいつ!」

 アルスも眉をひそめる。

「切っても元に戻りやがるのかよ!」

「気持ち悪いわね……!」

 再生したツルが再び襲いかかる。

 だが――。

「だから何よ!」

 クロエは退かなかった。

「再生するなら――何度でも切るだけよ!」

 ザシュッ!

 再び短剣が走る。

 一本。

 さらにもう一本。

 クロエは次々と迫るツルを斬きり払っていく。

 騎士育成学校きしいくせいがっこうを首席しゅせきで卒業し、国の騎士長きしちょうにまでなったクロエ。

 武器さえ手に戻れば――その動きは先ほどまでとはまるで違う。

「そっち行ったわよ、アルス!」

「任せろ!」

 アルスも魔力で形成したスナイパーライフルを構える。

 ダンッ!

 ダンッ!

 ダンッ!

 魔力の弾丸が次々と放たれた。

 クロエが切り払う。

 アルスが撃ち抜く。

「ギィッ!」

「ギギィィッ!」

 何度再生しようとも――。

 二人の攻撃は止まらない。

「はぁっ!」

 ザシュッ!

「そこだ!」

 ダンッ!

 次々と攻撃を叩き込まれ、ツルたちは二人へ近づくことすらできなくなっていく。

 クロロとメメリは、その戦いを見つめていた。

「す、すごい……」

 メメリが思わず呟く。

「ああ……」

 クロロも目を見張る。

 やがて――。

「ギ……」

 ツルたちの動きが止まった。

「……?」

 クロエが短剣を構えたまま睨む。

 緑色のツルたちは、まるで目の前の二人を警戒けいかいするように身体を揺らしていた。

 そして。

 ずるっ――。

「……あ?」

 一本のツルが後退する。

 続いてもう一本。

 さらにもう一本。

「こいつら……」

 アルスが銃口を向けたまま目を細める。

「逃げる気か?」

 どうやら――。

 理解したらしい。

 何度再生して襲いかかっても。

 クロエとアルスには敵わない。

 このまま戦い続けても勝てない、と。

「ギィィ……!」

 次の瞬間。

 ザバァッ!

 ツルたちは一斉に湯船から飛び出した。

「待ちなさい!」

 クロエが追おうとする。

 だが緑のツルは床を這い、壁を伝い――驚くほどの速さで浴室の外へ向かって逃げていく。

「逃がすか!」

 アルスがライフルを構える。

 ダンッ!

 魔力弾が放たれる。

 しかしツルは寸前で身をくねらせ、攻撃をかわした。

 そして――。

 シュルルルルルッ!

 緑色の影は、そのまま浴室の外へ消えていった。

「…………」

 静寂せいじゃく。

 先ほどまでの激しい戦いが嘘だったかのように、浴室が静まり返る。

「……逃げた?」

 クロエは短剣を構えたまま、ツルが消えていった方向を睨んだ。

「ああ」

 アルスも警戒を解かない。

「あたしたちには勝てねえって分かったみたいだな」

「…………」

 クロエはゆっくり短剣を下ろす。

「一体……何だったのよ、あれ」

 その問いに――。

 誰も答えることはできなかった。

 ただ一つ分かるのは。

 この屋敷の中に――。

 あの奇妙な緑の生物が、まだ存在しているということだけだった。

「分からねえ。けど……」

 アルスも魔力で作り出したスナイパーライフルを構えたまま、鋭い視線を浴室の外へ向ける。

「あいつら、まだこの屋敷のどこかにいるかもしれねえぞ」

「…………」

 クロロも警戒するように廊下の奥を見る。

 ひとまず襲撃しゅうげきは収まった。

 だが、あの奇妙な生物を倒したわけではない。

 逃げられただけだ。

 そんな中――。

「クロロ様、クロエ様、アルス様……お怪我はありませんか?」

 メメリが心配そうに三人を見る。

「ああ、俺は大丈夫」

 クロロが答える。

「私も平気よ」

 クロエも短剣を下ろしながら頷いた。

「ちょっと驚いただけ」

「お前の『ちょっと』は屋敷中に響くんだな」

「うるさい!」

「まあ、あたしも問題ねえよ」

 アルスが魔力を解くと、手にしていたスナイパーライフルが光の粒となって消えていく。

「よかった……」

 メメリがほっと胸を撫で下ろした。

 その時――。

 バタバタバタッ!

 廊下の向こうから、慌ただしい足音が聞こえてきた。

「……?」

 クロロたちが一斉に振り返る。

「こちらです、奥様!」

 一人のメイドが、急いでこちらへ向かってくる。

 その両手が押しているのは――車いす。

 そしてそこに座っていたのは。

「エメさん!」

「奥様!」

 エメだった。

「皆さん!」

 いつもの穏やかな表情とは違う。

 エメは明らかに心配そうな顔をしていた。

 メイドが車いすを押し、クロロたちのそばまでやって来る。

「先ほど、とても大きな叫び声が聞こえました。それに何かが壊れるような音まで……」

 エメはクロロ。

 クロエ。

 アルス。

 そしてメメリ。

 一人一人の顔を確認する。

「皆さん、大丈夫ですか? お怪我はありませんか?」

「大丈夫です、エメさん」

 クロロが答えた。

「俺とメメリは怪我してません」

「メメリも大丈夫です、奥様」

「クロエさんとアルスさんは?」

 エメが二人を見る。

「私は平気です」

 クロエが頷く。

「怪我もしてません」

「あたしも問題ねえよ」

 アルスも答える。

 それを聞いた瞬間――。

「……よかった」

 エメは胸元へ手を当て、大きく安堵あんどの息を吐いた。

「叫び声が聞こえた時は……本当に驚きました」

「すみません……」

 クロエが少し気まずそうにする。

「叫んだの、私です」

「クロエさんが?」

「はい……」

「何があったんです?」

 エメの表情が再び真剣なものへ変わる。

 クロエとアルスは互いに顔を見合わせた。

「それが……」

 クロエは短剣を握り直す。

「お風呂に入っていたら、突然……変なものに襲われたんです」

「変なもの……?」

「植物のツルみたいな奴だ」

 アルスが説明を引き継ぐ。

「緑色で、先っぽに口がついてた。しかもその口には鋭い歯がびっしり生えてやがった」

「……!」

 エメの目がわずかに見開かれる。

「植物の……ツル?」

「はい」

 クロエが頷く。

「湯船の中に潜んでいました。最初は一本だけだと思ったんですけど……何本も出てきて、明らかに私たちを襲ってきたんです」

「切っても再生しやがった」

 アルスが付け加える。

「何度攻撃しても元に戻る。結局あたしたちに敵わねえって分かったのか、途中で逃げていったけどな」

「逃げた……」

 エメの顔から、安堵の色が消える。

 クロロが静かに続けた。

「つまり……まだ倒したわけじゃありません」

「…………」

「あの変なツルは――」

 クロロは、緑の影が消えていった廊下へ目を向けた。

「まだ、この屋敷のどこかにいるかもしれません」

 その言葉を聞いた瞬間。

 その場にいた者たちの間に――再び緊張きんちょうが走った。

 ◇

 ひとまず全員が無事であることを確認すると、クロエとアルスは急いで身支度みじたくを整えた。

 戦闘せんとうの最中は目の前の敵に集中していたため、それどころではなかったのだ。

 その後――。

 場所は変わり、ウィルハード邸の談話室だんわしつ。

 先ほど浴室で起きた騒動そうどうを受け、クロロたちは再びこの部屋へ集まっていた。

「はぁ……とんでもない目に遭ったな」

 ソファに座るクロロが、少し疲れたように息を吐く。

「クロロ様、本当にお怪我はありませんか?」

「ああ。俺は戦ってないから大丈夫だよ」

「よかったです」

 メメリは安堵する。

 一方――。

「奥様、本当にお怪我はございませんか?」

「ええ。わたくしは大丈夫ですよ、ビークル」

 少し離れた場所では、ビークルがエメの車いすのそばに立っていた。

 騒ぎを聞いて事情を知ったビークルは、明らかに心配そうな様子だった。

「ですが、屋敷内にそのような正体不明しょうたいふめいのものが侵入しんにゅうしていたとは……」

「そうですね……」

「しかも、まだ屋敷内に潜ひそんでいる可能性があるのでしょう?」

「ええ。そのようです」

 ビークルの表情が険しくなる。

「奥様の身に何かあってからでは遅すぎます」

「ビークル」

 エメは落ち着いた声で彼を見る。

「わたくしだけではありません。このお屋敷には、あなたもメメリも、他のメイドたちもいます」

「……奥様」

「皆さんが無事であることが一番です」

「……承知しょうちしております」

 そう答えながらも、ビークルはエメのすぐそばから離れようとはしなかった。

 そして――。

「…………」

 アルスは一人、椅子に腰掛けていた。

 腕を組み。

 眉間みけんにわずかに皺しわを寄せ。

 先ほどの戦いを頭の中で何度も思い返している。

「緑色のツル……先端に口……切断しても再生……」

 小さく呟く。

 普段の男勝りで騒がしいアルスとは違う。

 その表情は真剣そのものだった。

「…………」

 何かが引っかかっている。

 そんな様子で、アルスは黙り込んでいた。

 やがて。

 アルスの目が、すっと細くなる。

「……なあ」

 その一言で、談話室の空気が少し変わる。

 クロロがアルスを見る。

「ん?」

 クロエもわずかに顔を上げた。

 エメとビークル。

 そしてメメリもアルスへ視線を向ける。

 アルスは腕を組んだまま――。

 先ほどまでとは違う、真剣な表情を浮かべていた。

「さっきの奴なんだけどよ」

「どうした、アルス?」

「ずっと考えてたんだ。あの緑色のツル……どっかで知ってる特徴に似てる気がするってな」

「心当たりがあるの?」

 クロエが尋ねる。

「ああ」

 アルスは頷く。

「確証かくしょうがあるわけじゃねえ。特徴からそう思っただけだけどな」

「では……何なのでしょうか?」

 エメが尋ねる。

 アルスは先ほどの戦いを思い返す。

 植物のような緑色の身体。

 ツルの先端についた、鋭い歯を持つ口。

 そして――。

「クロエが切った時、すぐに再生しただろ?」

「ええ」

 クロエは頷いた。

「あれだけはっきり切ったのに、切り口からまた生えてきたわ」

「あの再生力も含めて考えると……たぶん間違いねえと思う」

 アルスの表情が険しくなる。

「アルス」

 クロロが尋ねた。

「あれ、一体何なんだ?」

「……悪星獣あくせいじゅうだ」

「――!」

 クロロとクロエの表情が変わる。

「悪星獣……」

 エメもその言葉を繰り返した。

 クロロたちにとって、悪星獣という言葉は決して軽いものではない。

 大都市ボーンスターを襲った三体のバットウルフ。

 あれもまた――悪星王あくせいおうによって生み出された悪星獣だった。

「じゃあ……」

 クロロの表情から先ほどまでの間の抜けた雰囲気が消える。

「さっきの奴も、バットウルフと同じ……?」

「種類は全然違うけどな」

 アルスは頷いた。

「もしあたしの予想が当たってるなら――あのツルの正体は」

 一度言葉を切る。

 そして。

「【デットリーフ】」

 アルスは、その名を口にした。

「デット……リーフ?」

 クロエが眉をひそめる。

「ああ」

 アルスは真剣な表情のまま続ける。

「植物型しょくぶつがたの悪星獣――【デットリーフ】だ」

「植物型……」

 クロロが呟く。

「だからあんなツルみたいな姿だったのか」

「たぶんな」

 アルスは椅子から立ち上がる。

「緑色のツルみてえな身体。先端についた、獲物えものに噛みつくための口。それに――異常いじょうな再生力」

 クロエは短剣で切断した時の光景を思い返す。

「確かに……全部あいつに当てはまってるわね」

「ああ。だからあたしは、デットリーフじゃねえかと思ってる」

「…………」

 エメの表情が曇る。

「悪星獣が……このお屋敷の中に……」

 その声を聞いたビークルが、すぐにエメの車いすへ寄り添った。

「奥様」

「ええ……」

 メメリも不安そうにエメを見る。

「奥様……」

「大丈夫ですよ、メメリ」

 エメはそう答えるものの、その表情には不安が残っていた。

 クロロは考える。

「でも……」

「なんだ?」

「アルスの予想どおり、あれがデットリーフっていう悪星獣だったとして……」

 クロロは先ほどツルが逃げていった光景を思い返す。

「なんでそんな奴が、この屋敷の風呂場にいたんだ?」

「…………」

 誰も答えられなかった。

 森の中ならまだ分かる。

 植物型の生物なのだから、森に潜んでいたとしても不思議ではない。

 だが――。

 あれは屋敷の中。

 それも、クロエとアルスが使っていた湯船の中から現れた。

「それに……」

 クロエも真剣な表情になる。

「あいつ、逃げたわよね」

「ああ」

 アルスが頷く。

「倒したわけじゃねえ」

 つまり――。

 クロロが静かに口にする。

「デットリーフはまだ、この屋敷のどこかにいる可能性がある……」

 その言葉に、談話室の空気が重くなった。

 先ほどまでの騒がしい雰囲気は、もうどこにもない。

 ◇

「悪星獣が、どうしてこの屋敷に……」

「森から入り込んだのでしょうか……?」

「だとしても、どうやって風呂場まで来たんだ?」

 クロロたちがそれぞれ疑問を口にする。

 エメもビークルも、突然屋敷に現れた悪星獣の存在に困惑こんわくしていた。

 そんな中――。

「…………」

 アルスだけは黙ったままだった。

 腕を組み、何かを考えるように床を見つめている。

「アルス?」

 クロロが呼びかける。

「さっきからどうしたんだ?」

「……いや」

 アルスはゆっくり顔を上げた。

「ちょっと引っかかってんだよ」

「引っかかってる?」

「ああ」

 アルスは全員を見回した。

「さっき、あいつはデットリーフだって言っただろ?」

「ええ」

 クロエが頷く。

「植物型の悪星獣なんでしょ?」

「ああ。そこはたぶん間違ってねえと思う」

「じゃあ何が気になるんだ?」

 クロロが尋ねると――。

 アルスは眉間に皺を寄せた。

「……あたし、昔デットリーフと戦ったことがあるんだ」

「昔?」

「ああ。まだあたしが封印ふういんされるより前の話だけどな」

「!」

 クロロが身を乗り出す。

「じゃあ、実物を知ってるのか?」

「まあな」

 アルスは頷いた。

「だからこそ……さっきの奴が妙みょうなんだよ」

「妙……?」

 メメリが首を傾げる。

 アルスは少し考えてから説明を始めた。

「そもそも、昔あたしが戦ったデットリーフってのは――あんなツルみてえな姿じゃなかった」

「え?」

 クロエが眉をひそめる。

「じゃあ、どんな姿だったの?」

「もっと単純だ」

 アルスは両手を使いながら、その姿を説明する。

「見た目は植物そのもの。木みてえな身体をしてて、そこにいくつもの木の実をつける悪星獣だった」

「木の実……?」

「ああ。ただし――普通の木の実じゃねえ」

 アルスの目が鋭くなる。

「その木の実一つ一つに、口が生えてんだ」

「口……」

 クロロは先ほど見た、鋭い歯の並んだ口を思い出す。

「じゃあ、さっきのツルの先にあった口と同じような?」

「そうだ」

 アルスは頷く。

「口の生えた木の実をつける。それが、あたしの知ってるデットリーフだ」

「…………」

 部屋の中が静かになる。

 クロエは先ほどの戦闘を思い返した。

 湯船の中を這っていた緑色のツル。

 その先端にあった、鋭い歯を持つ口。

「待って」

 クロエが気づく。

「だったら……私たちを襲ってきたあれは何なの?」

「そこなんだよ」

 アルスがクロエを見る。

「口の特徴は似てる。植物型ってところもな。だからデットリーフだと思った」

 だが――。

「あたしが昔戦ったデットリーフには、あんな長いツルなんかなかった」

「……!」

「ましてや、切ったところからあんな速さで再生するなんてこともな」

 クロロの表情が険しくなる。

「じゃあ……昔と今で姿が変わってる?」

「その可能性はある」

 アルスは答える。

「けど、それだけじゃねえ」

「まだあるの?」

「ああ」

 アルスは椅子の背にもたれながら、昔の記憶を辿る。

「昔のデットリーフはな――そもそも、戦うことが主な役目の悪星獣じゃなかったんだ」

「戦うためじゃない?」

 クロロが聞き返す。

「ああ」

 アルスは頷いた。

「デットリーフの本来の役割は――人間から生まれる『負ふの感情かんじょう』を溜めておくことだった」

「負の感情……」

 その言葉を聞き、クロロの表情が少し険しくなる。

 憎にくしみ。

 怒り。

 悲しみ。

 嫉妬しっと。

 恐怖きょうふ。

 絶望ぜつぼう。

 かつて悪星王あくせいおうギロウ・メイスが生まれる原因にもなった、人間たちの負の感情。

「デットリーフは、そういう人間の負の感情を集めて、自分についてる木の実の中へ溜め込むんだ」

 アルスは説明を続ける。

「さっき言った、口の生えた木の実だ」

「じゃあ、その木の実の中には……」

 クロエも真剣な表情になっていた。

「ああ。人間から集めた負の感情が詰まってる」

「でも……」

 メメリが不思議そうに尋ねる。

「どうして、そんなものを溜めておくんですか?」

「他の悪星獣に食わせるためだ」

「……食べさせる?」

 メメリが目を丸くする。

 アルスは頷いた。

「悪星獣にとって、人間の負の感情は力になる」

 クロロもそこで理解する。

「つまり……デットリーフが負の感情を集めておいて、それを他の悪星獣に食べさせる?」

「そういうことだ」

 アルスは指を鳴らした。

「分かりやすく言えば――エネルギーチャージだな」

「エネルギーチャージ……」

「戦いで力を消耗しょうもうした悪星獣なんかがデットリーフの木の実を食う。そうすると、中に溜め込まれてた負の感情を取り込んで力を補充ほじゅうできる」

「なるほど……」

 クロロは顎あごに手を当てる。

 アルスはさらに続けた。

「だから昔のデットリーフは、悪星獣の中じゃかなり特殊とくしゅな存在だった」

「特殊?」

「ああ」

 アルスは片手を上げる。

「自分で積極的せっきょくてきに人間を襲って戦う奴っていうより――」

 少し考えてから、最も分かりやすい言葉を選んだ。

「ただの『タンク』みてえなもんだったんだよ」

「タンク……」

「人間から集めた負の感情を木の実に一時的いちじてきに保管ほかんして、必要になったら他の悪星獣へ渡す」

 アルスは腕を組む。

「それが、あたしの知ってるデットリーフだ」

「…………」

 談話室が静かになる。

 クロロは先ほど浴室で見たものを思い出した。

 湯船の中を這い回り。

 鋭い歯のついた口を開き。

 明確な敵意を持ってクロエとアルスを襲った緑色のツル。

 クロエに切断されても、瞬く間に再生した。

「……待てよ」

 クロロが眉をひそめる。

「それって……やっぱりおかしくないか?」

「ああ」

 アルスがすぐに答えた。

「だからあたしも引っかかってんだ」

 クロエも腕を組む。

「昔のデットリーフが、負の感情を溜めておくだけの木だったのなら……」

「なんで今の奴は、あたしたちを襲ってきたのか」

 アルスが続ける。

「それに姿も違う」

 木のような姿ではなく――ツル。

 負の感情を溜める木の実ではなく――鋭い歯の生えた口。

 そして異常な再生能力さいせいのうりょく。

「五百年以上の間に何があったのかは分からねえ」

 アルスの目つきが鋭くなる。

「けど、少なくとも――」

 全員を見回す。

「今夜あたしたちを襲ったデットリーフは、昔あたしが知ってた奴とは明らかに違う」

「…………」

 ビークルがエメの車いすのそばで険しい表情を浮かべる。

「では……今この屋敷に潜んでいるものは、以前より危険になっている可能性があると?」

「そう考えたほうがいいだろうな」

「……そんな」

 メメリが不安そうに屋敷の外へ目を向ける。

 その時。

 クロロは、ふとあることに気づいた。

「でも……」

「なんだ、クロロ?」

「あいつがデットリーフで……負の感情を溜めるための悪星獣なら――」

 クロロはアルスを見る。

「どうして今、この屋敷にいるんだ?」

「…………」

 誰も答えない。

 だがその疑問は、先ほどよりもずっと重い意味を持っていた。

 デットリーフはただ人間を襲うための悪星獣ではない。

 人間の負の感情を蓄たくわえ――。

 それを他の悪星獣へ与えるために存在していた。

 ならば。

 なぜ――。

 そんな悪星獣が、このウィルハード邸に現れたのか。

「…………」

 アルスは険しい表情のまま、静かに目を細める。

 その答えはまだ――。

 誰にも分からなかった。

 ◇

「…………」

 談話室には重い空気が漂っていた。

 デットリーフ。

 アルスが五百年以上前に戦ったことのある、植物型の悪星獣。

 しかし、かつてのそれは人間の負の感情を木の実へ蓄え、他の悪星獣へ与えるための存在だった。

 それがなぜ今になって姿を変え、クロエとアルスを襲ったのか。

 そして――なぜウィルハード邸にいるのか。

「結局……今のところは何も分からないってことか」

 クロロが呟いた。

「ああ」

 アルスも難しい顔で頷く。

「情報が足りなさすぎる。あたしの知ってる昔のデットリーフと違いすぎるからな」

「それに、逃げた先も分からないわ」

 クロエも腕を組む。

「屋敷の中にいるのか、それとももう外へ逃げたのか……」

「…………」

 誰も答えを出せない。

 そんな中、エメがクロロたちの顔を順番に見た。

「……皆さん」

「エメさん?」

「今日は、もう休みませんか?」

「え?」

 クロロが少し驚く。

 エメは心配そうな表情を浮かべていた。

「もちろん、先ほどのものがまだお屋敷の中にいる可能性は心配です。ですが……」

 クロロ。

 クロエ。

 アルス。

 メメリ。

 ビークル。

 そして集まっている屋敷の使用人しようにんたちを見る。

「皆さん、とても疲れています」

「…………」

 言われてみれば、その通りだった。

 クロロたちは三日間旅を続け、森の中で道に迷った末にこの屋敷へ辿り着いた。

 ようやく食事と風呂で身体を休められると思った矢先やさきに、今度はデットリーフの襲撃。

 クロエとアルスに至っては実際に戦闘までしている。

 そして屋敷の者たちも、突然の騒動によって落ち着いて休めるような状況ではなくなっていた。

「確かに……」

 クロロが大きく息を吐く。

「俺もさっきまで、もう寝ようと思ってたくらい眠かったんだよな……」

「メメリも少し眠いです……」

 メメリも小さく目元をこする。

「だが、奥様」

 ビークルが心配そうに口を挟む。

「正体不明の悪星獣が潜んでいる可能性がある中、それぞれの部屋で眠るというのは……」

「ええ。わたくしも、それは危険だと思います」

 エメは頷いた。

 そして少し考えてから――。

「でしたら今夜は、皆で一つの部屋に集まって休みましょう」

「みんなで?」

 クロロが聞き返す。

「はい」

 エメは屋敷の奥へ視線を向ける。

「このお屋敷には、一番広いお部屋があります。全員で集まっても、休めるだけの広さはありますから」

「なるほど」

 アルスが頷いた。

「バラバラになるよりはマシだな」

「そうね」

 クロエも賛成する。

「もしあのツルがまた襲ってきても、一か所に集まっていればすぐに対応たいおうできるわ」

「それに」

 アルスがクロエを見る。

「あたしとクロエがいれば、さっきみてえに襲ってきても迎え撃てる」

「ええ」

 今度はクロエも素直に頷いた。

 ビークルも少し考えた後、エメへ頭を下げる。

「承知いたしました。では、すぐに準備を整えさせます」

「お願いします」

 それから屋敷のメイドたちによって、急いで準備が始められた。

 ――そして、しばらく後。

 クロロたちが案内されたのは、ウィルハード邸で最も広い部屋だった。

「広っ……!」

 中へ入ったクロロが思わず声を上げる。

 大勢が集まっても窮屈きゅうくつさを感じないほどの広さ。

 そこには人数分の寝具しんぐが運び込まれ、屋敷にいる者たちが一緒に休めるよう準備されていた。

 今夜だけは――。

 主人も。

 執事も。

 メイドたちも。

 そして客人であるクロロたちも。

 全員が同じ場所で夜を過ごす。

「これなら、何かあってもすぐ分かるな」

 クロロが周囲を見回す。

「ああ」

 アルスは答えながらも、完全に警戒を解いたわけではなかった。

「ただし、何か変な音がしたらすぐ起きろよ」

「分かってるわ」

 クロエも短剣を手の届く場所へ置く。

 ビークルはエメの車いすを、すぐそばへ寄せていた。

 メメリや他のメイドたちも、それぞれ寝る準備を整えていく。

「…………」

 こうして。

 正体不明のデットリーフへの警戒を残しながらも――。

 疲れ切っていた一同は、今夜だけは全員で一つの部屋に集まり、身体を休めることになった。

 だが。

 誰もまだ知らない。

 この夜の異変は――。

 浴室で起きたあの襲撃だけでは、終わっていなかった。

 ◇

 屋敷で最も広い部屋へ集まった一同。

 メイドたちによって人数分の寝具が用意され、それぞれがようやく身体を休める準備を始めていた。

「ふぁぁ……」

 クロロは大きなあくびをする。

「さすがに今日は疲れたな……」

 森で道に迷い、屋敷へ辿り着き。

 食事をして、風呂へ入り。

 ようやく休めると思ったところで、今度はデットリーフと思われる悪星獣まで現れた。

 身体だけではなく、精神的にも疲れ切っている。

「今日はもう何も起きないでほしいな……」

「…………」

 そんなクロロの言葉を聞きながら、アルスは部屋の中を見回していた。

 エメ。

 ビークル。

 メメリ。

 他のメイドたち。

 そしてクロロとクロエ。

 全員が同じ場所にいる。

 確かに、別々の部屋で休むよりは安全だろう。

 だが――。

「……いや」

 アルスが口を開いた。

「全員で寝るのはまずいな」

「え?」

 クロロが振り向く。

「どういうこと?」

「そのままの意味だ」

 アルスは腕を組む。

「あのデットリーフがまだ屋敷の中にいるかもしれねえんだぞ?」

「……あ」

「全員が同時に寝ちまったら、襲われた時に気づくのが遅れる」

 その言葉に、クロエもすぐ真剣な表情になる。

「確かにそうね」

 アルスは頷いた。

「だから――交代で見張りをしようぜ」

「交代で?」

「ああ」

 アルスは部屋の出入口へ目を向ける。

「誰か一人は必ず起きておく。変な音がしたり、あのツルが現れたりしたら、すぐに全員を起こすんだ」

「なるほど……」

 クロロも納得する。

「それなら他のみんなは安心して眠れるな」

「そういうことだ」

 するとビークルが一歩前へ出た。

「でしたら、私も見張りを――」

 しかしアルスは首を横に振った。

「いや。屋敷の奴らは休んどけ」

「ですが……」

「もしデットリーフが出てきた時、普通の奴じゃまともに相手できねえ可能性が高い」

 アルスは自分を指さし、続いてクロエを見る。

「あたしなら戦える。クロエも武器がありゃ問題ねえ」

「当然よ」

 クロエは手元に置いた短剣へ視線を向ける。

「今度は最初から武器を持ってるもの」

「それにクロロもいる」

「俺も?」

「あたしが星具状態せいぐじょうたいになりゃ、お前も戦えるだろ」

「ああ、そっか」

 アルスが契約者けいやくしゃであるクロロの手に渡れば、真しんの星具【サジット・スナイプ】として戦うことができる。

「なら、俺たち三人で交代するか?」

 クロロが提案する。

「それがいいだろうな」

「私も異論いろんはないわ」

 クロエも頷いた。

 そのやり取りを聞いていたエメは、申し訳なさそうな表情を浮かべる。

「ですが……皆さんは旅の途中で、ただでさえお疲れなのに……」

「大丈夫ですよ」

 クロロは笑って答えた。

「俺たちもあいつに襲われた側ですし。それに、エメさんたちに何かあったら嫌ですから」

「クロロさん……」

「それに交代なら、ちゃんと寝る時間もあるし」

 アルスも肩をすくめる。

「全員寝不足になるよりよっぽどマシだ」

「……ありがとうございます」

 エメは静かに頭を下げた。

 メメリも心配そうに三人を見る。

「クロロ様たち……無理はしないでくださいね」

「ああ」

 クロロが頷く。

「ちゃんと交代で休むから大丈夫だよ」

「…………」

 アルスはもう一度、部屋全体を見回す。

「じゃあ決まりだな」

 そして――。

「今夜はあたしとクロロとクロエで、順番に見張る」

 いつまた現れるか分からないデットリーフ。

 その襲撃に備え――。

 三人は交代で眠り、誰か一人が必ず起きて警戒することになった。

「じゃあ、問題は順番だな」

 アルスは腕を組みながら、クロロとクロエを交互に見る。

「誰から見張る?」

 クロロが尋ねると、アルスは少しだけ考え――すぐに答えを出した。

「最初はクロエだ」

「私?」

「ああ。次があたし。最後がクロロ」

 アルスは指を順番に向ける。

「クロエ、あたし、クロロ。この順番でいくぞ」

「俺が最後か」

 クロロが呟く。

「何か理由があるの?」

 クロエが尋ねると、アルスは肩をすくめた。

「まあな。クロエは風呂で襲われたとはいえ、今はまだ目が冴さえてるだろ?」

「……確かに、眠気はないわね」

 あれだけの騒動があった直後だ。

 身体には疲労ひろうがあるものの、クロエの意識は完全に覚醒かくせいしていた。

「だから最初はお前」

 アルスは続いて自分を指さす。

「次はあたし。悪星獣のことなら、この中じゃあたしが一番知ってる。真ん中の時間はあたしが見張る」

 そして最後にクロロを見る。

「クロロは今から一番長く寝とけ」

「俺だけ?」

「お前、さっきからあくびしてただろ」

「うっ……」

 図星だった。

「とにかく、クロロは最後だ。今のうちにしっかり寝ろ」

「分かったよ」

 クロロも素直に頷いた。

「じゃあクロエ。最初、頼めるか?」

「もちろん」

 クロエは短剣を手に取る。

 先ほどまでの少女らしい表情が、一瞬で騎士長のものへ変わった。

「任せて。何かあったら、すぐに全員を起こすわ」

「頼んだぜ」

 アルスはそう言うと、自分の寝具へ向かう。

 クロロも横になる前に、メメリたちへ視線を向けた。

「じゃあ、みんなも休もう」

「はい。おやすみなさい、クロロ様」

「おやすみ、メメリ」

 エメやビークル、他のメイドたちも次々と身体を休め始める。

 やがて部屋の明かりも最低限まで落とされた。

「ふぁぁ……じゃあクロエ、よろしく……」

「ええ。おやすみ、兄さん」

「おやすみ……」

 クロロは布団へ身体を沈める。

 よほど疲れていたのだろう。

 しばらくすると、その呼吸は規則正しい寝息へと変わっていった。

 アルスも横になり、目を閉じる。

「時間になったら起こせよ、クロエ」

「分かってるわ」

 こうして――。

 最初の見張り役はクロエ。

 次がアルス。

 そして最後がクロロ。

 三人はその順番で、夜の警戒を行うことになった。

「…………」

 クロエは一人、眠ることなく部屋の中を見渡す。

 手には短剣。

 耳を澄ませれば聞こえてくるのは、屋敷の静寂と皆の寝息だけ。

 今のところ――異変はない。

「……大丈夫」

 クロエは小さく呟く。

 そして。

 無意識のうちに、その視線は眠っているクロロへ向かっていた。

「…………」

 すやすやと眠る兄の姿。

 クロエの表情がほんの少しだけ柔らかくなる。

(お兄様は……私が守る)

 短剣を握り直し――。

 クロエの最初の見張りが始まった。

 ◇

 ――それから、しばらくして。

「…………」

 眠っていたメメリの瞼が、ゆっくりと開いた。

「……ん……」

 ぼんやりと天井を見つめる。

 まだ眠気が残っている。

「……あ」

 少しして、メメリは自分が目を覚ました理由に気づいた。

「お手洗い……」

 ただ単純に――お手洗いへ行きたくなったのだ。

「…………」

 メメリは周囲を見渡す。

 部屋の中では、皆が静かな寝息を立てている。

 最初に見張りをしていたクロエも、今は寝具の中で眠っていた。

 どうやらすでに見張りの交代時間を迎えたらしい。

「……起こさないようにしないと」

 メメリはそっと寝具から抜け出す。

 足音を立てないよう慎重しんちょうに歩き、静かに部屋の扉を開けた。

 幸い、お手洗いは今いる大部屋のすぐ隣にある。

 長い廊下を歩く必要もなかった。

「…………」

 静まり返った夜の廊下。

 メメリはすぐ隣のお手洗いへ入り――。

 しばらくして。

「ふぅ……」

 用を済ませたメメリが再び廊下へ出てきた。

 あとは部屋へ戻って、もう一度眠るだけ。

 そう思いながら数歩進み――。

「…………え?」

 メメリの足が止まった。

 皆が眠っている大部屋。

 その扉の前に――。

 一人の人影が立っていた。

 月明かりに照らされた、バーミリオンの髪。

 壁に背を預けるようにしながら、腕を組んでいる。

「アルス様……?」

「よぉ」

 アルスだった。

「起きてたのか」

「あ……はい」

 メメリは少し驚きながら頷く。

「お手洗いに行きたくなってしまって……」

「なるほどな」

 アルスはちらりと隣のお手洗いを見る。

「すぐ隣でよかったな。今は屋敷の中を一人で歩き回らねえほうがいい」

「はい。メメリもそう思います」

 メメリは小さく笑う。

 そして、ふと首を傾げた。

「アルス様は……こちらで何を?」

「見張りだよ」

「見張り……」

「ああ。クロエの番はもう終わった」

 アルスは親指で部屋の中を示す。

「今はあたしの番だ」

「そうだったんですね」

 だからクロエが眠っていたのか。

 メメリは納得したように頷いた。

「お疲れ様です、アルス様」

「別にこれくらいどうってことねえよ」

「ですが、アルス様も今日は戦ってお疲れなのに……」

「クロエの次にちゃんと寝たから平気だ」

 アルスはそう言って軽く肩を回した。

「それより、お前も早く寝たほうがいいぞ。今日は仕事もしてたんだろ?」

「はい。では、メメリも戻って――」

 そう言いながら、メメリが扉へ近づく。

 その時だった。

「…………」

 アルスの視線がメメリへ向けられる。

 いつものような軽い目ではない。

 じっと。

 何かを確かめるような――そんな目。

「……?」

 メメリが足を止める。

「アルス様?」

「…………」

 アルスは答えない。

 第五章で初めて出会った時から。

 ずっと引っかかっていた。

 自分の名。

 ――アルス・サジタリアス。

 その名前を聞いた瞬間に見せた、メメリの反応。

 そしてエメから聞いた話。

 自分がどこから来たのか分からない。

 家族も、帰る場所も覚えていない。

 覚えていたのは――。

 自分の名前。

 そして。

『星ほしの導みちびきに従したがった』

 その言葉だけ。

 偶然ぐうぜんにしては――あまりにも引っかかるものが多すぎた。

 だからアルスは、ずっと決めていた。

 クロロにも。

 クロエにも話さず。

 まずは――自分自身で確かめる、と。

「…………」

 アルスはゆっくりと壁から背を離した。

 メメリの前に立つ。

「メメリ」

「はい?」

 突然、いつもより真剣な声で名前を呼ばれ――。

 メメリは不思議そうにアルスを見上げた。

「あのさ」

「……?」

 静まり返った真夜中の廊下。

 皆が眠っている扉のすぐ前で。

 アルスは――。

 ずっと胸の内に抱えていた疑問を確かめるように、メメリを見つめていた。

「メメリ」

「はい?」

「お前さ」

 アルスの目が鋭くなる。

「本当は、自分がどこから来たのか分かってるんじゃねえのか?」

「…………」

 一瞬。

 本当に一瞬だけ――。

 メメリの表情が止まった。

 だが、すぐにいつもの柔らかな笑顔へ戻る。

「……アルス様?」

「…………」

「突然、何をおっしゃっているんですか?」

 メメリは困ったように首を傾げる。

「メメリは本当に覚えていませんよ?」

「…………」

「奥様からも聞いたと思いますけど、メメリが覚えているのは自分の名前と……『星の導きに従った』ということだけです」

「そうか」

「はい」

「どこから来たのかも?」

「分かりません」

「自分が何者なのかも?」

「……分かりません」

 メメリは少し寂しそうに微笑んだ。

「だから、メメリ自身も知りたいくらいなんです。自分がどこから来て、どうしてあのお屋敷の前で倒れていたのか――」

「もういい」

「……え?」

 アルスの一言が。

 メメリの言葉を止めた。

「無理して誤魔化ごまかさなくていい」

「アルス様……?」

「最初は、あたしも引っかかっただけだった」

 アルスは静かに話し始める。

「お前と森で初めて会った時」

 メメリの瞳が、わずかに揺れる。

「クロロがあたしの名前を言ったよな」

 ――アルス・サジタリアス。

「その名前を聞いた瞬間、お前は明らかに反応した」

「それは……」

「でも、その時点じゃ何も分からなかった」

 アルスは続ける。

「そもそも、あたしたち十二星具じゅうにせいぐは互いの人型ひとがたの姿を知らねえからな」

「…………」

「だから見た目だけじゃ、お前が何者なのかなんて分からなかった」

 アルスの声が少しずつ確信かくしんを帯びていく。

「けど、エメからお前の話を聞いて変わった」

 屋敷の前で倒れていたこと。

 自分がどこから来たのか分からないと言ったこと。

 帰る場所も。

 家族も。

 過去も。

 何も分からないと言ったこと。

 それなのに――。

「『星の導きに従った』」

 アルスがその言葉を口にした瞬間。

 メメリの笑顔が消えた。

「…………」

「それを聞いて、ほとんど確信した」

「……何を、ですか?」

 まだメメリは誤魔化そうとする。

 しかし――。

 アルスはもう迷わなかった。

「あたしには分かってる」

「…………」

「お前が誰なのか」

 夜の廊下に、静寂が落ちる。

 そしてアルスは――。

 その名を口にした。

「――メメリ・エアリーズ」

「…………!」

 メメリの目が大きく見開かれた。

 完全に。

 その表情が止まった。

「…………」

 アルスは何も言わない。

 ただ、メメリを見つめている。

「…………」

 メメリもアルスを見つめ返す。

 数秒。

 長い沈黙ちんもくが続いた。

 やがて――。

「……そう、ですか」

 メメリが小さく呟いた。

 その声は先ほどまでとは違っていた。

 困ったように誤魔化す声ではない。

 何かを諦あきらめたような――。

 それでいて、どこか安心したような声だった。

「そこまで……分かってしまったんですね」

「やっぱりな」

 アルスが目を細める。

 メメリは一度、皆が眠る部屋の扉を見る。

 そして――。

 小さく息を吐いた。

「……アルス様には、もう隠せませんね」

「ってことは」

「あの話は――嘘です」

「…………」

 メメリは自分の胸元へ手を置いた。

「メメリは……何も忘れていません」

 アルスの表情がさらに真剣になる。

「やっぱり記憶喪失きおくそうしつじゃなかったのか」

「はい」

 メメリは静かに頷く。

「自分がどこから来たのかも」

「…………」

「自分が何者なのかも」

「…………」

「どうして『星の導き』に従ったのかも」

 すべて。

「メメリは――ちゃんと覚えています」

 アルスは黙ってその言葉を聞いていた。

 やはり。

 自分の予想は間違っていなかった。

 目の前にいる少女。

 リーフグリーンのメイド服を着て屋敷で働き。

 エメを慕したい。

 自分をただの「メメリ」だと名乗っていた少女。

 その本当の名は――。

【メメリ・エアリーズ】。

「…………」

 メメリはアルスを見つめる。

 そして。

 ふっと――。

 その表情が柔らかくなった。

 先ほどまでの誤魔化すための笑顔ではない。

 秘密を隠す必要がなくなった者の、穏やかな笑顔。

 メメリは姿勢しせいを正した。

「それでは……改めまして」

「ん?」

 小さな羊の角を月明かりに照らしながら。

 メメリはアルスへ丁寧に頭を下げた。

「――お久しぶりです、アルス様」

「…………!」

 その言葉に。

 今度はアルスのほうが、少しだけ目を見開いた。

 五百年以上もの時を越えて。

 互いの人型の姿すら知らなかった二人が――。

 今。

 静まり返ったウィルハード邸の廊下で。

 初めて互いの正体を知った上で、向かい合っていた。

 月明かりの差し込む静かな廊下。

 アルスは目の前に立つメメリを、じっと見つめていた。

 メメリ・エアリーズ。

 その名を告げられた少女は、もう否定しなかった。

 自分は何も忘れてなどいない。

 自分が何者なのかも。

 どこから来たのかも。

 そして――なぜここにいるのかも。

 すべてを覚えている。

 だが、その事実を知ったのは――まだアルスただ一人。

 扉一枚を隔へだてた向こうでは、クロロたちが何も知らず眠っている。

 そして屋敷のどこかには――。

 未いまだ正体のすべてが掴つかめない、緑の影が潜んでいるかもしれない。

 なぜデットリーフは姿を変えていたのか。

 なぜこの屋敷に現れたのか。

 そして――。

 メメリ・エアリーズは、なぜ自らの過去を隠し、この屋敷でメイドとして暮らしているのか。

 数々の謎なぞを残したまま。

 ウィルハード邸の長い夜は――まだ終わらない。

風呂場を襲った謎の緑のツタ――そして、屋敷に残る新たな疑念。

深夜の廊下で、アルスはついにメメリが隠していた“本当の正体”へと辿り着く――。

次回、第七章「羊なメイドが隠した秘密」。長い時を越えた二人の再会が始まる。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます!

今回はウィルハード邸での夕食やお風呂など、少し賑やかな時間から一転して、謎の触手が襲いかかる展開となりました。

アルスとクロエのやり取りや、クロロとメメリの中庭での会話など、気になった場面や好きだった場面があれば、ぜひ感想で教えていただけると嬉しいです!

そして、屋敷に現れた謎の植物はいったい何なのか……。

ここから少しずつ、屋敷に隠されたものが見えてきます。

一言だけでも感想をいただけると、とても励みになります!

次回もよろしくお願いします!

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