01. 円居屋
まだ5月の下旬だというのに、昼間はいきなり夏が来てしまったのかと思うような暑さだった。
それでも夕方にもなると、春の名残を惜しむように、心地よい風が吹いてくる。
(よぉーし、今日は残業しないで帰ってこれたもんね)
自宅の最寄り駅で電車を降りた須東ほのかは、足取りも軽く、改札を抜けた。
オフィスカジュアルに身を包んだ彼女は、鎖骨辺りまであるダークブラウンの髪を揺らし、歩みを早めた。
夕映えの残る西の空を眺めながら、ペデストリアンデッキの人混みを抜け、階段を降りる。
(今夜は何を食べようかなぁ……あー、今日みたいな日は、ビール飲みたい。じゃあ、やっぱり揚げ物かな)
そんなことを考えていると、自分の舌と喉と胃袋が、ひと足早く活動を開始しているのがわかる。
就職して一人暮らしを始めた直後の頃は、自炊をがんばってみたりもしていたが、食材を無駄にするばかりで、かえって高くついてしまっていた。
しかし、今の彼女には、味もコスパも抜群の、秘密のご飯基地があるのだ。
残業であまりに遅くなる日以外は、そこで確実に美味しい夕食にありつける。
加えて今日は、上司から特別なプロジェクトの担当者に任命されたばかり。気持ちとしては、ささやかにでも、お祝いしたいところだ。
商店街を抜け、住宅街手前で路地裏に入る。
知らなければ通り過ぎてしまいそうな路地裏の、これまた知らなければ通り過ぎてしまいそうな店。
『円居屋』は、そんな場所だった。
色褪せたのれんをくぐり、慣れた様子でほのかはガラガラと引き戸を開けた。
「こんばんはー!」
「おっ、ほのかちゃん。いらっしゃい!」
威勢の良い声で迎えたのは、作務衣姿の店主・荒井成一だ。
恰幅の良い体を屈めて、カウンターの中から顔を出している。
年季の入った店内には、カウンター席が5つと、4人掛けのテーブルが2つ。奥には小さな座敷が1つ。
ほのかの来店に気づいた幾人かの客が、笑顔で彼女に手を振った。客層はバラバラだが、どの顔も常連ばかり。
円居屋は狭いながらも温かい雰囲気に満ちており、ほのかにとっては仕事帰りに立ち寄る憩いの場となっていた。
入口近くの、カウンター席の端がちょうど空いている。その隣でひとり飲んでいる男性客に軽く会釈し、ほのかは席についた。
「荒井さん、生中ください!」
「あいよっ。食事はどうする?」
「どうしようかな……んー、よしっ、唐揚げ定食で!」
「はい、了解ー」
その時。
「あ、すみません。僕も同じ物を……」
声の主は、隣の席の男性だった。
常連客だらけのこの店で、初めて見る顔。
歳は、ほのかと同じか、少し上くらいだろう。
カジュアルだが、これと言って目立つところのない落ち着いた格好をした、すっきりとした印象の青年だった。
「便乗しちゃって、ごめんなさい」
恥ずかしそうに会釈する彼に、ほのかは笑顔で返した。
「いえいえ。全然構いませんよ! このお店、初めてですか?」
気さくなほのかに、青年は少しホッとしたようだった。
「初めてなんです。最近、近所に越してきたばかりで、良いごはん屋さんがないか探してて……そしたら、ここを見つけたんで、入ってみました」
「大正解でしたね。ここは隠れた名店ですよ。私、大好きなんです」
「おっ、ほのかちゃん、嬉しいこと言ってくれるねぇ。はい、生中お待ち!」
得意げに太鼓判を押すほのかの前に、荒井がニコニコと生ビールのジョッキを置いた。
「ありがとうございます! じゃあ……乾杯しましょっか」
「えっ、あ、はい……!」
ほのかがジョッキを持ち上げて促すと、青年も慌てて自分のグラスを持った。
「かんぱーい!」
ふたりのビールが軽く鳴り合った。
冷たいビールに口をつける。喉を通り抜ける爽快感と心地よい苦みが、1日の疲れを流し去っていくようだ。
「ぷっはー。最高ですね、こういう、暑くなってきたときのビールって。明日もがんばるぞって活力が湧いてきます! いや、明日はお休みで、遊びに行くんですけどね!」
屈託のないほのかの笑顔に、青年も思わず表情が緩む。
「いい飲みっぷりですね。……あ、俺、海堂といいます」
「海堂さんですね。須東ほのかです。よろしくお願いします」
「ほのかちゃんはね、ほぼ毎日うちに食べに来てくれるんだ。はい、唐揚げ定食、お待ち!」
自己紹介を交わすふたりの前に、荒井が定食のお盆を置いた。
ジジジ、と微かな音を立てる揚げたての唐揚げから、食欲をそそるニンニクの香りが立ち上っている。シャキッとしたキャベツの千切りが山盛りで添えられ、ほかほかと湯気を上げる炊きたての白米と、味噌汁が並んでいた。
「おいしそう! いただきます」
箸を取り、さっそく一口。
カリッとした衣の中から、ジューシーな肉汁が溢れ出した。
「あぁ、幸せ……」
ほのかがうっとりと目を細めた。
それを見て微笑ましげに笑いながら、海堂も唐揚げを口に運んだ。
「本当だ。美味い。確かに正解だった」
「でしょう? 荒井さんの唐揚げは、本当に絶品で!」
ほのかが熱心に語りだす。
「あとは、生姜焼き定食も美味しいですよ。お肉が柔らかくて、生姜が利いていて、ピリッと辛い中にほんのり甘い味付けで……」
「へえ、いいな。次はそれにしてみようかな」
「ぜひ! 私のおすすめです!」
推しメニューを力いっぱいプッシュするほのかに、海堂がポツリと言った。
「……食事が美味いって、当たり前のようだけど、自分のコンディションを知るバロメーターみたいなところあるなって思ってて。いい店に出会えてよかった」
その感覚は、ほのかにも覚えがあった。
仕事に追われて遅くまで残業した日は、まっすぐ自宅に帰って簡単に夕食を取る。
そんな日の食事はどこか味気なく、自分が疲れていることを自覚させられるのだ。
「わかります! やっぱり、楽しく食べたほうが美味しいですしね。だから毎日、ここに来ちゃうんです」
「なるほど。お客さんみんな、顔なじみみたいだし、雰囲気も良いし。これは通いたくなるな」
「ですよね? 海堂さんもぜひ、通いましょう!」
ほのかの前のめりな勧誘を受け、海堂は楽しそうに笑った。そのやり取りを荒井も嬉しそうに見守っていた。
ここ円居屋に集う常連たちは皆、誰も他人の肩書を深く詮索しない。
ほのかと海堂もまた、自分や相手が何者であるかよりも、ただ美味しいものを食べて語り合う、今この時間を楽しんでいた。




